東の空が、ゆっくりと白み始めていた。
漆黒だった夜空の端が薄紫へと変わり、そのさらに向こう側から、淡い紅色の光が滲み出している。
――夜明けが近い。
鬼殺隊の誰もが、それを感じ取っていた。
だが、それは同時に鬼舞辻無惨にとって、死の時刻が迫っていることを意味していた。
「……太陽が……」
無惨が東の空を睨みつける。
その赤い瞳には、これまで見せたことのないほどの焦燥が浮かんでいた。
「あと少し……!」
グググググ……。
無惨の肉体が、不気味な音を立てて膨張する。
筋肉が異常なほど盛り上がり、皮膚が裂け、その隙間から無数の肉塊と触手が噴き出した。
「太陽など……私には必要ない……!」
ドォォォォォンッ!!
地面が爆発した。
無惨を中心として大量の肉の鞭が放射状に伸び、地面を抉りながら鬼殺隊へと襲いかかっていく。
「来るぞォッ!!」
実弥が叫ぶ。
義勇が刀を振るい、迫り来る触手を斬り落とす。
行冥の鉄球が唸りを上げ、巨大な肉塊を粉砕する。
炭治郎もまた、必死に走りながら仲間を守ろうと刀を振るった。
しかし――。
数が多すぎる。
斬っても、斬っても、次から次へと新たな触手が生えてくる。
「くっ……!」
炭治郎の頬を触手が掠める。
「炭治郎!」
義勇が間一髪でそれを斬り払った。
「ありがとうございます、義勇さん!」
「礼は後だ。今は目の前だけを見ろ!」
「はい!」
その時だった。
さらに巨大な触手が、二人の頭上から振り下ろされる。
「――ッ!」
炭治郎が刀を構える。
だが。
その一撃が届くより早く――。
バリィィィィィッ!!
黒紫の雷光が大地を駆け抜けた。
巨大な触手が、一瞬にして焼き切れる。
「……!」
炭治郎が振り返る。
そこに立っていたのは、全身を血に染めた男だった。
黒銀の日輪刀を握り締め、肩で荒く息をしている。
鳴柱――獪岳。
「ハッ……!」
獪岳が口元から血を吐き捨てる。
「太陽が昇るまで……あと少しだってのに、まだこんな化け物が暴れ回りやがるか……!」
その声には疲労が滲んでいた。
無限城での戦い。
上弦の陸との死闘。
鳴女との戦い。
そして、無惨との連戦。
獪岳の肉体は、とっくに限界を超えていた。
腕は震えている。
脚には力が入りにくい。
肺は焼けるように痛む。
それでも――。
彼は刀を握っていた。
「アニキ……!」
背後から善逸が駆け寄る。
こちらも傷だらけだった。
顔には泥と血が付着し、呼吸も乱れている。
「もう無理だよ……! アニキの身体、限界じゃないか!」
「あァ?」
獪岳が睨みつける。
「何言ってやがる、クソガキ」
「だって……!」
善逸の声が震える。
「これ以上やったら、本当にアニキが……!」
その言葉を聞いた獪岳は、一瞬だけ黙った。
そして――。
「……善逸」
「え?」
「俺はな」
獪岳は東の空を見上げた。
そこには、確実に迫っている朝の光があった。
「ずっと、強くなりたかった」
善逸は黙って聞いていた。
「弱いと思われたくなかった。誰かに見下されたくなかった。負けるのが怖かった」
黒銀の日輪刀を握る手に力が入る。
「だから、誰よりも強くなろうとした」
かつての獪岳なら、そこまでだった。
自分が生き残るため。
自分が認められるため。
自分だけが上へ行くため。
他人など、どうなっても構わない。
それが、かつての獪岳だった。
しかし――。
「……でもな」
獪岳は隣に立つ善逸を見る。
「今は違う」
「アニキ……」
「俺が強くなった意味は、俺一人が生き残るためじゃねえ」
黒紫の雷が、静かに彼の身体を包み始める。
「守るためだ」
善逸の目が大きく見開かれた。
「仲間を守る。じいさんが残した雷の呼吸を守る。そして――」
獪岳が無惨を睨みつける。
「お前を、ここで死なせねえ」
「……!」
善逸の瞳から、一筋の涙が零れた。
「アニキ……」
「泣くな、馬鹿」
「泣いてない……!」
「嘘つけ」
「泣いてないって……!」
ほんの僅かな時間。
死闘の中に、不思議な静けさが生まれた。
だが――。
「くだらん……!」
無惨の怒声が響き渡った。
「人間同士で馴れ合う時間など、私には与えぬ!」
ドゴォォォォンッ!!
無惨の肉体から、今までとは比較にならない数の触手が噴き出した。
「全員、死ねェェェッ!!」
地面が震える。
空気が裂ける。
逃げ場を塞ぐように、巨大な肉の刃が四方八方から迫ってきた。
「……来やがったな」
獪岳が刀を構える。
「アニキ!」
「善逸」
「うん!」
「俺に合わせろ」
「……分かった!」
二人が同時に呼吸を整える。
――雷の呼吸。
かつて同じ師の下で学びながら、互いに相容れなかった二人。
壱ノ型しか使えなかった善逸。
壱ノ型だけが使えなかった獪岳。
それぞれが欠けていた。
だからこそ。
二人で一人分の雷だった。
「雷の呼吸――」
獪岳の黒紫の雷が激しく膨れ上がる。
「肆ノ型・遠雷!」
ズガァァァンッ!!
遠距離から放たれた黒雷の斬撃が、迫り来る触手を次々と焼き切る。
しかし、無惨は止まらない。
「無駄だァッ!!」
新たな触手が黒雷を突き破る。
「善逸!」
「任せて!」
善逸が踏み込んだ。
黄金の雷が一瞬で彼の身体を包み込む。
「雷の呼吸――」
その姿が消える。
「壱ノ型・霹靂一閃!!」
――ズガァァァァンッ!!
黄金の閃光が無惨の触手を横薙ぎに切り裂いた。
しかし、それでも止まらない。
無惨は肉体を瞬時に再生させながら、二人を睨みつける。
「たかが人間が……!」
「たかが人間で結構だ!」
獪岳が叫ぶ。
「俺たちは鬼じゃねえ!」
刀身に黒紫の雷が集束する。
「人間だからこそ――!」
善逸もまた、その隣に並ぶ。
「朝を待てるんだ!」
二人が同時に地面を蹴った。
「「行くぞォォォッ!!」」
――バリィィィィィンッ!!
黒紫と黄金。
二色の雷が交差する。
獪岳が触手を斬り払い。
善逸がその隙間を駆け抜ける。
善逸が道を切り開き。
獪岳が無惨へと肉薄する。
「雷の呼吸――肆ノ型!」
「雷の呼吸――壱ノ型!」
「遠雷!!」
「霹靂一閃!!」
黒紫の雷と黄金の雷が、無惨の肉体へ同時に叩き込まれた。
――ドォォォォォンッ!!
「ぐおおおおおおおッ!?」
無惨の身体が大きく吹き飛ぶ。
触手の一部が焼き切れ、肉体が大きく裂けた。
「今だァッ!!」
実弥が飛び込む。
「風の呼吸――!」
義勇も続く。
「水の呼吸――!」
行冥が鉄球を振り上げる。
「南無阿弥陀仏……!」
炭治郎も刀を構える。
「みんなで繋ぐんだ!」
鬼殺隊の猛攻が一斉に無惨へ集中する。
その中心で、獪岳と善逸はさらに踏み込んだ。
「まだだ……!」
獪岳の全身から、黒紫の雷が爆発的に迸る。
バチバチバチバチッ!!
「まだ終わっちゃいねえ……!」
血管が浮き上がる。
筋肉が悲鳴を上げる。
肺が裂けそうになる。
それでも――。
「俺は鳴柱だァッ!!」
獪岳が吼えた。
「雷の呼吸――異形……!」
善逸がその隣で叫ぶ。
「アニキ!」
「合わせろォッ!!」
「うん!!」
二人が同時に刀を振り抜いた。
「「火雷神――ッ!!」」
――ドッッッッ!!!!
黄金と黒紫の雷光が一つになる。
巨大な雷柱となって無惨を貫き、肉の壁を焼き払い、地面を一直線に抉っていく。
「ぐ……おおおおおおッ!!」
無惨が咆哮する。
その肉体の一部が大きく吹き飛んだ。
だが――。
無惨は死なない。
再生する。
それでも。
ほんの僅かに。
無惨の動きが止まった。
「……!」
東の空。
そこから、一条の光が差し込んだ。
夜明けの光だった。
「朝が……!」
炭治郎が叫ぶ。
「来るぞォォォッ!!」
実弥が咆哮する。
獪岳は刀を握ったまま、その光を見つめていた。
「……へっ」
そして――。
身体から、一気に力が抜ける。
「アニキッ!」
善逸が慌てて駆け寄った。
獪岳の身体が前へ崩れ落ちる。
善逸は必死にその身体を抱き留めた。
「アニキ! アニキッ!」
「……騒ぐな、クソガキ」
「でも……!」
「まだ戦え……る……」
「嘘だよ……!」
善逸の声が震える。
獪岳はそんな弟弟子を見て、僅かに笑った。
「……俺は……ちゃんと……やれたか?」
「……うん」
善逸は涙を流しながら頷く。
「やれたよ……! アニキは、ちゃんとみんなを守った……!」
「……そうか」
獪岳の表情が、ほんの僅かに緩んだ。
「なら……十分だ」
東の空が、さらに明るくなる。
赤い光が地平線から広がっていく。
善逸は獪岳の身体をしっかりと支えたまま、その光を見上げた。
「アニキ……見て」
「あァ……?」
「朝だよ」
獪岳はゆっくりと顔を上げる。
そこには、長い夜の終わりを告げる光があった。
「……綺麗だな」
その声は、これまでの獪岳からは想像もできないほど穏やかだった。
しかし。
戦いは、まだ終わっていない。
無惨は立っている。
鬼殺隊もまた、刀を握っている。
そして――。
太陽は、ついに地平線から姿を現そうとしていた。
鳴柱・獪岳が放った最後の雷。
その一撃は、無惨を倒すための決定打ではなかった。
だが確かに――。
夜明けへ続く道を、仲間たちのために切り開いた。
「……行け、善逸」
獪岳が小さく呟く。
「最後まで……雷を響かせろ」
「……うん!」
善逸は涙を拭った。
そして立ち上がる。
「任せてよ、アニキ」
黄金の雷が、再びその身体を包む。
東の空から差し込む朝日に向かって――。
雷の兄弟弟子の戦いは、最後の局面へと突入していった。