「兄貴ぃぃぃぃ!!」
朝の山中に、善逸の絶叫が響き渡った。
獪岳は眉間を押さえる。
「……朝っぱらからうるせぇな」
「だってぇ!」
善逸は半泣きで獪岳に駆け寄ってくる。
「師匠が今日の修行、山の中でやるって!」
「それがどうした」
「蛇がいるかもしれない!」
「いるかもしれんな」
「鬼も!?」
「いるかもしれん」
「熊は!?」
「いるかもしれん」
「嫌だぁぁぁ!!」
善逸は獪岳の羽織を掴んだ。
「兄貴、一緒に行ってよ!」
「最初からそのつもりだ」
「……本当?」
「ああ」
「絶対?」
「絶対だ」
「置いていかない?」
「置いていかねぇよ」
善逸はほっと胸を撫で下ろした。
「よかったぁ……」
「ただし」
「?」
「修行からは逃げるな」
「…………」
善逸の顔が固まる。
「それは無理かも」
「なら走れ」
「鬼ぃぃぃ!」
獪岳は善逸の背中を軽く叩いた。
「行くぞ、弟弟子」
「……うん!」
◇
今日の修行は、山中での実戦形式だった。
桑島は二人に木刀を渡す。
「山では道場のように平らな場所ばかりではない」
「はい」
獪岳は周囲を見る。
木々。
斜面。
岩。
濡れた土。
「敵はどこから来るか分からん」
桑島は続ける。
「足場も悪い」
「…………」
「ならば、その状況そのものを利用せよ」
善逸は震えながら頷いた。
「はい……」
「善逸」
「はい!」
「何故震えておる?」
「怖いからです!」
「そうか」
桑島はあっさり頷いた。
「ならば、その恐怖を抱えたまま戦え」
「えっ」
「怖くなくなるまで待っていては、何も守れん」
善逸は黙った。
「…………」
獪岳が横から言う。
「師匠の言う通りだ」
「兄貴は怖くないの?」
「怖いぞ」
「え!?」
善逸が目を丸くする。
「兄貴も怖いの!?」
「ああ」
「嘘だ!」
「嘘じゃねぇ」
獪岳は山の奥を見る。
「怖いから鍛えるんだ」
「…………」
「怖いから、逃げない」
善逸はしばらく獪岳を見つめていた。
「……兄貴、すごいね」
「何言ってる」
獪岳は歩き出す。
「ほら、行くぞ」
「うん!」
◇
修行開始。
獪岳は斜面を駆ける。
善逸も必死についていく。
「はぁ……はぁ……!」
「遅い!」
「兄貴速い!」
「足元を見るな!」
「え?」
「前だけを見るな。周囲を見ろ!」
善逸が慌てて周囲を見る。
その瞬間。
――ガサッ!
「ひぃっ!」
草むらから小さな蛇が飛び出した。
「ぎゃあああああああ!!」
善逸が獪岳に飛びつく。
「兄貴ぃぃぃ!」
「……」
獪岳は無言で蛇を見る。
蛇はそのまま草むらへ消えていった。
「蛇だ」
「分かってるよぉ!」
「別に襲ってこねぇだろ」
「怖いものは怖いの!」
「……そうかよ」
獪岳はため息をつく。
だが。
善逸の頭を軽く叩いた。
「行くぞ」
「うん……」
◇
昼。
二人は山中の広場で休憩していた。
善逸は座り込んでいる。
「疲れた……」
「まだ昼だぞ」
「もう無理……」
「昨日も同じこと言ってたな」
「昨日は昨日、今日は今日!」
「都合のいい奴だな」
「兄貴は厳しすぎるよ!」
善逸が頬を膨らませる。
獪岳は水筒を渡した。
「飲め」
「ありがとう」
「ゆっくり飲め」
「うん」
善逸は水を飲む。
そして。
「……兄貴」
「何だ」
「僕、本当に強くなれるのかな」
突然。
弱々しい声になった。
獪岳は黙る。
「僕ってさ」
善逸は俯く。
「すぐ怖くなるし」
「…………」
「すぐ泣くし」
「…………」
「修行も嫌になるし」
「…………」
「僕なんかが鬼殺隊に入って、本当に役に立つのかな」
獪岳はしばらく何も言わなかった。
そして。
「善逸」
「……うん」
「顔を上げろ」
善逸が顔を上げる。
「泣いていい」
「……え?」
「怖くてもいい」
「…………」
「逃げたくなってもいい」
「…………」
「だが」
獪岳は善逸の目を見る。
「最後の一歩だけは、逃げるな」
「…………」
「それができればいい」
善逸の目に涙が溜まる。
「でも……」
「何だ」
「僕、怖い」
「知ってる」
「死にたくない」
「俺もだ」
「…………」
「だから、生き残れるくらい強くなる」
善逸は黙った。
涙が頬を伝う。
「兄貴……」
「泣くなら好きなだけ泣け」
「……うん」
「ただし」
獪岳は立ち上がる。
「泣き終わったら修行だ」
「やっぱりぃぃぃ!?」
◇
午後。
修行再開。
善逸は泣きながら走った。
「うわぁぁぁん!」
「泣くな!」
「無理ぃ!」
「なら泣きながら走れ!」
「はいぃぃ!」
獪岳は呆れながらも。
少しだけ笑っていた。
やがて。
善逸が足を取られた。
「うわっ!」
――ドサッ!
転倒。
「…………」
善逸は地面に倒れたまま動かない。
「善逸」
「…………」
「立て」
「……もう無理」
「立て」
「足が痛い」
「見せろ」
獪岳がしゃがみ込む。
善逸の足首を見る。
少し擦りむいている。
「大したことねぇ」
「でも痛い」
「知ってる」
獪岳は善逸の手を取った。
「ほら」
「……?」
「掴まれ」
「うん」
獪岳が引っ張る。
善逸が立ち上がる。
「……ありがとう」
「礼はいい」
「兄貴」
「何だ」
「もう一回、走る」
「…………」
獪岳は笑った。
「そうこなくちゃな」
◇
夕方。
修行を終えた二人。
善逸は疲れ果てていた。
だが。
朝とは少し違う。
「今日は……逃げなかった」
「ああ」
「蛇は怖かったけど」
「ああ」
「転んだけど」
「ああ」
「泣いたけど」
「いつものことだ」
「ひどい!」
善逸が叫ぶ。
獪岳は笑った。
「でもな」
「うん」
「最後まで走った」
善逸は嬉しそうに笑った。
「……うん!」
「それでいい」
獪岳は善逸の頭に手を置く。
「よくやった」
「…………!」
善逸は固まる。
「兄貴……」
「何だ」
「もう一回言って」
「嫌だ」
「なんで!?」
「調子に乗るからだ」
「お願い!」
「嫌だ」
「兄貴ぃ!」
「うるせぇ」
二人の声が山に響く。
◇
その夜。
善逸は布団の中で考えていた。
自分は弱い。
怖がりだ。
泣き虫だ。
すぐ逃げたくなる。
それでも。
今日。
一度も最後まで逃げなかった。
「……僕も」
善逸は小さく呟く。
「兄貴みたいになりたい」
だが。
その気持ちは。
いつしか別の形へ変わっていく。
兄と同じではなく。
兄とは違う。
自分だけの雷を。
自分だけの強さを。
善逸はまだ知らない。
やがて自分が。
誰よりも速い雷を生み出すことを。
そして獪岳もまた。
弟弟子が自分とは違う道を進むことを。
まだ知らなかった。
ただ今は。
同じ師のもとで。
同じ雷を学ぶ。
二人の兄弟弟子だった。
【大正コソコソ噂話】
善逸は泣き虫だった。
しかし。
獪岳が善逸の涙を馬鹿にすることはなかったという。
「泣くこと自体は弱さじゃない」
と、獪岳は言っていた。
「泣いた後にどうするかが大事だ」
その言葉を善逸はずっと覚えていた。
ちなみに。
善逸が感動して、
「兄貴ぃぃぃ! 大好き!」
と抱きつこうとしたところ。
獪岳は、
「暑苦しい!」
と逃げた。
しかし。
翌日、善逸が一人で落ち込んでいると。
何も言わず隣に座ってやっていたという。
桑島曰く。
「獪岳は口が悪いが、面倒見は良い」
とのこと。
そして善逸曰く。
「世界一怖くて、世界一優しい自慢の兄貴!」
だったそうだ。
――大正コソコソ噂話・終。