東の空が、燃えていた。
漆黒だった夜空の端から、ゆっくりと朝の光が広がっていく。
長い夜が終わろうとしていた。
だが、その夜明けを誰よりも憎む存在が、最後の悪あがきを始めていた。
「ぐ……おおおおおおおおおッ!!」
地面を這う黒い肉塊が、激しく蠢く。
先ほどまで鬼舞辻無惨を覆っていた巨大な肉体は、竈門炭治郎が繋ぎ合わせた日ノ呼吸・拾参ノ型によって大きく切り裂かれ、さらに夜明けの太陽によって焼かれていた。
普通の鬼なら、とっくに灰となって消えている。
それでも無惨は死ななかった。
いや。
死ぬことを拒絶していた。
「私は……まだ死なん……!」
焼け落ちた肉が蠢き、無数の触手へと変わっていく。
「私は千年以上、この世界に君臨してきた……。人間ごときに……太陽ごときに……この私が滅ぼされてたまるものかァッ!!」
その咆哮と同時に、無惨の肉塊から無数の腕が伸びた。
炭治郎は刀を構え直そうとした。
しかし――。
「ぐっ……!」
膝が崩れた。
もう、身体が言うことを聞かなかった。
痣が浮かび上がった身体は限界を遥かに超え、呼吸をするだけでも胸が焼けるように痛む。
「炭治郎!」
義勇が駆け寄る。
だが、義勇自身もまた満身創痍だった。
実弥も行冥も、獪岳も善逸も同じだ。
誰もが血を流し、誰もが立っていることさえ奇跡に近い。
それでも彼らは刀を下ろさなかった。
「まだ……終わってない……!」
炭治郎が震える手で刀を握り直す。
「みんなが繋いでくれたんだ……。ここで、諦めるわけには……!」
その時だった。
「――よもや、よもやだ!」
戦場に、朗々とした声が響き渡った。
「これほどまでに素晴らしい戦いを繰り広げておきながら、最後の最後で膝をつくとは!」
炭治郎の瞳が大きく見開かれる。
「……え?」
聞き間違えるはずがない。
あの声を。
あの力強く、真っ直ぐな声を。
「竈門少年!」
次の瞬間。
ドォォォォンッ!!
爆炎が大地を駆け抜けた。
無惨と炭治郎たちの間に、巨大な炎の壁が立ち上がる。
迫っていた無惨の触手が、その炎に触れた瞬間――。
ジュウウウウッ!!
肉が焼け、黒煙を噴き上げながら弾き飛ばされた。
そして炎の向こうから、一人の男が歩いてくる。
赤と黄色が入り混じった髪。
燃えるような瞳。
堂々たる体躯。
そして、翻る炎のような羽織。
「……煉 獄……さん……?」
炭治郎の声が震えた。
目の前に立っていたのは――。
かつて無限列車で命を燃やし、仲間たちを守り抜いた男。
炎柱。
煉 獄杏寿郎。
「久しいな、竈門少年!」
杏寿郎は振り返り、いつもの豪快な笑顔を浮かべた。
「よくぞここまで戦い抜いた!」
「煉 獄……さん……!」
炭治郎の瞳から、堪えていた涙が一気に溢れ出した。
「どうして……どうして、ここに……!」
「理由など後でいい!」
杏寿郎は胸を張った。
「今は、目の前の鬼を倒すことだけを考えよう!」
「……っ!」
炭治郎は涙を拭った。
幻ではない。
夢でもない。
確かにそこにいる。
死を越えて、再び戦場へ戻ってきた炎柱。
その姿を見た実弥が、驚愕に目を見開く。
「おいおい……冗談じゃねぇぞ」
行冥も数珠を握り締める。
「南無阿弥陀仏……。まさか、このようなことが……」
義勇はただ静かに杏寿郎を見つめていた。
そして、獪岳は鼻で笑った。
「ハッ……最後の最後で、とんでもねぇ助っ人が来やがったな」
その隣で善逸は涙を浮かべながら叫ぶ。
「煉 獄さん……!」
杏寿郎は全員を見渡した。
「皆、よく戦った!」
その一言に、不思議なほど力が戻ってくる。
「ここまで繋いできたものを、決して無駄にはしない!」
杏寿郎が日輪刀を抜いた。
刀身が朝日に照らされ、まるで本物の炎そのもののように輝く。
対する無惨は、怒りに顔を歪めた。
「貴様……!」
杏寿郎の姿を見た無惨の瞳に、明確な恐怖が宿った。
「あり得ぬ……! 貴様は死んだはずだ!」
「そうだ!」
杏寿郎は即答した。
「俺は一度、命を終えた!」
そして一歩、踏み出す。
「だが、竈門少年たちがここまで繋いだ想いがある!」
さらに一歩。
「仲間たちが命を懸けて守った未来がある!」
さらに一歩。
炎が杏寿郎の周囲を渦巻き始める。
「ならば俺がここに立つ理由は、一つしかない!」
杏寿郎は刀を大きく構えた。
「鬼舞辻無惨!」
無惨が無数の触手を広げる。
「貴様の夜は――ここで終わりだ!!」
「黙れェェェェェッ!!」
無惨が咆哮する。
数十本、数百本もの肉の刃が一斉に杏寿郎へ襲いかかった。
しかし。
杏寿郎は退かなかった。
「炎の呼吸――!」
地面を踏み砕く。
ドンッ!!
「弐ノ型――昇り炎天!!」
炎を纏った斬撃が、迫り来る触手を次々と斬り落とす。
続けて身体を捻る。
「肆ノ型――盛炎のうねり!!」
巨大な炎の渦が巻き起こり、無惨の肉塊を大きく吹き飛ばした。
「ぐおおおおおおッ!!」
無惨の身体が焼ける。
それでも再生しようとする。
だが、その再生速度は明らかに落ちていた。
太陽が昇っている。
そして、炭治郎の斬撃によって無惨の身体には致命的な傷が刻まれている。
そこへ杏寿郎の炎が重なった。
「まだだ!」
杏寿郎が叫ぶ。
「竈門少年!」
「はい!」
炭治郎が立ち上がる。
「俺と呼吸を合わせろ!」
「分かりました!」
その瞬間、杏寿郎の炎と炭治郎の日の呼吸が重なった。
炎と太陽。
二つの熱が無惨を包囲する。
「馬鹿な……!」
無惨が後退する。
初めてだった。
千年以上生きてきた鬼舞辻無惨が、明確に後ずさった。
「私が……人間ごときに……!」
杏寿郎の瞳が燃える。
「人間だからこそだ!」
刀を振り上げる。
「炎の呼吸――奥義!!」
全身の力を一点へ。
大地を踏み抜き、炎が一直線に駆け抜ける。
「煉 獄!!」
轟ッ!!
巨大な炎の奔流が、夜明けの太陽と共に無惨へ突進した。
無惨の触手が迎え撃つ。
しかし、炎は止まらない。
触手を焼き、肉壁を切り裂き、再生する端から炭へと変えていく。
「ぐああああああああッ!!」
無惨の絶叫が、朝焼けの空に響き渡った。
炭治郎はその光景を見つめながら、刀を握り締める。
杏寿郎は振り返らない。
ただ、燃え盛る炎の向こうで叫んだ。
「竈門少年!」
「はい!」
「最後まで戦え!」
その言葉に、炭治郎は力強く頷いた。
「はい!」
東の空から、さらに強い光が差し込む。
夜が終わる。
鬼舞辻無惨が最も恐れた朝が、完全に始まろうとしていた。
炎柱・煉 獄杏寿郎の帰還。
それは鬼殺隊にとって、新たな希望の炎となった。
そして――。
鬼舞辻無惨を完全に滅ぼすための最後の攻撃が、今まさに始まろうとしていた。