東の空が、完全な朝を迎えようとしていた。
漆黒だった夜空は薄紫から黄金へと移り変わり、地平線の向こうから差し込む陽光が、戦場を少しずつ照らし始めている。
誰もが思った。
これで終わる。
千年以上にわたり人の命を奪い続けてきた鬼舞辻無惨も、ついに太陽の前では消滅する。
――そう、誰もが思っていた。
「……まだだ」
地面に散らばった無惨の肉塊が、ずるりと蠢いた。
「まだ……終わっていない……!」
炭治郎が息を呑む。
「まさか……!」
義勇が刀を構え直す。
実弥も傷だらけの身体を起こした。
「しつけぇ野郎だ……!」
無惨の残骸が膨張する。
焼け焦げ、毒に侵され、幾度となく斬り刻まれた肉体。
それでも鬼舞辻無惨は、生きようとしていた。
いや。
生きることそのものに執着していた。
「私は死なぬ……!」
赤い瞳が狂気に見開かれる。
「千年以上も生きてきた! この私が……人間ごときに敗北するなど、認められるものかァァァッ!!」
ドゴォォォンッ!!
無惨の肉体から、巨大な肉の壁が一斉に膨れ上がった。
触手。
牙。
刃。
無数の異形が絡み合い、巨大な津波となって鬼殺隊へ押し寄せる。
「全員、下がれッ!!」
悲鳴嶼が叫ぶ。
しかし、あまりにも広い。
逃げ場がない。
負傷した隊士たちは動けない。
炭治郎も刀を杖代わりにして立っているのが精一杯だった。
「くっ……!」
肉の壁が迫る。
その瞬間――。
バリィィィィンッ!!
黒紫の雷が大地を走った。
迫り来る肉の壁が、真正面から吹き飛ばされる。
焼け焦げた肉片が宙を舞う。
そして、その中心に一人の男が立っていた。
黒銀の日輪刀を握り締める、鳴柱・獪岳。
その全身から迸る黒雷は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
バチッ……。
バチバチッ……。
黒紫の雷が身体中を駆け巡る。
その姿は、もはや単なる雷の呼吸の使い手ではない。
まるで古の雷神が人の姿を借り、この地上へ降り立ったかのようだった。
「……ここで終わらせる」
獪岳が低く呟く。
「お前の命も」
黒銀の日輪刀を構える。
「その醜い執念もな」
無惨が獪岳を睨みつける。
「貴様……!」
その声に重なるように、黄金の雷が走った。
バリッ……!
獪岳の隣に、善逸が立つ。
身体は傷だらけ。
息も絶え絶え。
それでも、その眼差しだけは真っ直ぐだった。
「アニキ……」
「来ると思ってたぜ」
「うん」
善逸は刀を握り直す。
「最後まで、一緒にやろう」
獪岳は一瞬だけ善逸を見る。
そして、口元を僅かに吊り上げた。
「ああ」
二人の足元で、雷が渦を巻き始めた。
黒紫。
黄金。
異なる二つの雷が、互いに反発することなく絡み合っていく。
「……何だ、その力は」
無惨の表情から、初めて余裕が消えた。
「貴様ら……人間の分際で……!」
「人間だからこそだ」
獪岳が答える。
「俺たちは、一人で戦ってるんじゃねぇ」
善逸が続ける。
「みんなの想いを背負ってるんだ」
二人が構える。
炭治郎が息を呑む。
実弥が目を見開く。
義勇も、行冥も、その異様な雷の密度を感じ取っていた。
「……あれは」
炭治郎が呟く。
「二人の呼吸が……一つになっている……!」
獪岳と善逸の呼吸が完全に重なった。
吸気。
踏み込み。
筋肉の収縮。
心拍。
すべてが一致する。
次の瞬間――。
ドォォォォンッ!!
二人の足元が爆発した。
「来るぞォォォッ!!」
無惨が肉の壁を全方位へ放つ。
「潰れろォォォォッ!!」
数百、数千にも及ぶ触手が二人へ殺到する。
しかし。
二人は止まらない。
獪岳の黒雷が右側を切り裂く。
善逸の黄金雷が左側を穿つ。
一つ。
二つ。
十。
百。
無数の触手が、二人の進路を阻もうとしては切り裂かれ、焼き尽くされていく。
「馬鹿な……!」
無惨が叫ぶ。
「この私の攻撃を……!」
獪岳の姿が消えた。
「雷の呼吸――」
善逸の姿も消える。
「壱ノ型――」
二人の声が重なる。
「霹靂――」
「その先へ――!」
バリィィィィィンッ!!
空気が爆発した。
音が消える。
視界から二人の姿が消える。
ただ、黒紫と黄金の二筋の光だけが残った。
それは、かつての霹靂一閃を遥かに超えた速度だった。
無惨の目が追いつかない。
「どこだ……!」
右。
左。
前。
後ろ。
雷光が縦横無尽に走る。
そして――。
二人が無惨の正面に現れた。
「これが――」
獪岳が刀を振り上げる。
「俺たちの雷だァッ!!」
善逸も同時に踏み込む。
「アニキ!!」
「ああッ!!」
二人の刀が一点へ集中する。
「「雷の呼吸――終ノ型!!」」
世界が、白く染まった。
「「帝釈天――ッ!!」」
轟ォォォォォォォンッ!!
天を裂く雷鳴。
地面が砕ける。
大気が震える。
黒紫の雷と黄金の天雷が巨大な一本の雷柱となり、無惨の肉体を正面から貫いた。
「――なっ……!?」
無惨の赤い瞳が見開かれる。
刀が肉体を貫いた。
それだけではない。
雷そのものが無惨の内部へ侵入し、細胞の一つ一つを焼き尽くしていく。
「ぐ……あ……!」
無惨の身体が震える。
「何だ……この雷は……!」
獪岳は刀を押し込む。
「ただの雷じゃねぇ」
善逸も刃を重ねる。
「俺たち二人の全部だ!」
黒紫の雷が無惨の再生能力を焼き切る。
黄金の雷がその傷口をさらに広げる。
毒によって弱体化していた細胞が、次々と崩壊していく。
「やめろ……!」
無惨が初めて怯えた。
「やめろォォォォォッ!!」
しかし、二人は止まらない。
「俺は……!」
獪岳の脳裏に、育手の姿が浮かぶ。
「強くなることしか考えてなかった」
善逸も思い出す。
「俺は……逃げることしかできなかった」
二人の声が重なる。
「それでも――」
獪岳が叫ぶ。
「最後に、誰かを守るために剣を振れるなら!」
善逸も叫ぶ。
「俺は、それでいい!!」
二つの雷がさらに激しく燃え上がった。
無惨の肉体が内側から崩壊する。
「ば……馬鹿な……!」
肉体が灰へ変わっていく。
「私が……この私が……!」
朝日が完全に昇った。
黄金の光が戦場を包み込む。
その中心で、黒紫と黄金の雷が最後の一閃を描いた。
「「穿てェェェェェッ!!」」
ズガァァァァァンッ!!
帝釈天。
二人の雷が、鬼舞辻無惨の中心を完全に穿ち抜いた。
巨大な肉体が崩れる。
触手が落ちる。
牙が砕ける。
そして、千年以上にわたって人々を苦しめ続けた鬼の始祖の身体が、朝日の中で灰へと変わっていく。
「嫌だ……!」
無惨が最後に叫ぶ。
「私は……死にたくない……!」
その声さえも、陽光の中へ消えていった。
やがて。
風が吹く。
灰が舞う。
そこには、もう鬼舞辻無惨の姿はなかった。
獪岳と善逸は、互いに肩で息をしながら立っている。
しばらくの沈黙。
善逸が小さく笑った。
「……終わったね、アニキ」
獪岳は朝日を見上げた。
「ああ」
そして、静かに答える。
「今度こそな」
二人の背後から、炭治郎たちが歩み寄る。
誰もすぐには言葉を発せなかった。
ただ、朝日だけが彼らを照らしていた。
長かった夜が、終わった。
そして雷の兄弟弟子が放った最後の一撃――『帝釈天』は、鬼舞辻無惨という千年の悪夢に、完全なる終止符を打ったのである。