夕暮れの道場。
修行を終えた善逸は、畳の上に大の字になって倒れていた。
「……もう……無理……」
「大袈裟だ」
木刀を片付けながら、獪岳が言う。
「今日は昨日より十回多く素振りしただけだ」
「その『だけ』がきついんだよぉ……!」
「鬼は十回待ってくれるのか?」
「鬼の話を出すなぁ!」
善逸が飛び起きる。
「怖いだろ!」
「だったら強くなれ」
「兄貴は本当に容赦ない!」
「それが嫌なら辞めろ」
「……嫌だ」
善逸は俯いた。
「……辞めたくない」
獪岳の手が止まる。
「そうか」
「うん」
善逸は小さく笑った。
「兄貴と一緒にいたいから」
「…………」
「師匠も好きだし、修行も……まあ、嫌だけど」
「嫌なのかよ」
「でも、兄貴がいるなら頑張れる」
獪岳は何も言わなかった。
「……馬鹿」
小さく呟く。
「え?」
「何でもねぇ」
◇
その日の夜。
夕食の席。
桑島、獪岳、善逸の三人が並んでいた。
「いただきます!」
善逸が勢いよく箸を伸ばす。
「こら」
獪岳が箸で止めた。
「師匠がまだ食べてねぇだろ」
「……あ」
善逸が桑島を見る。
「すみません!」
「構わん構わん」
桑島は笑った。
「食べ盛りなのじゃから、腹が減るのも当然じゃ」
「ありがとうございます!」
善逸が嬉しそうに食べ始める。
獪岳は呆れた顔をしながら、その様子を見ていた。
「……よく食うな」
「だって修行したらお腹減るもん!」
「なら残すなよ」
「残さない!」
「本当だろうな」
「本当!」
桑島はそんな二人を見ながら、静かに微笑んでいた。
まるで。
本当の兄弟を見るように。
◇
その数日後。
事件が起きた。
善逸が道場からいなくなった。
「…………」
獪岳は山道を睨んでいた。
「師匠」
「うむ」
「善逸は?」
「まだ戻っておらん」
「…………」
獪岳は拳を握る。
「探してきます」
「獪岳」
「何です?」
「無茶はするな」
「分かっています」
獪岳は走り出した。
「善逸!」
山中に声が響く。
「どこだ!」
返事はない。
「善逸!」
さらに奥へ進む。
すると。
「……ひっ……」
かすかな声が聞こえた。
獪岳は振り返る。
「善逸!」
木の陰。
そこに善逸がいた。
膝を抱えて震えている。
「……兄貴」
「何してる!」
獪岳が駆け寄る。
「……鬼がいると思って……」
「だから逃げたのか?」
「うん……」
「一人で?」
「……ごめん」
獪岳は深く息を吐いた。
「……怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「うん」
獪岳は善逸の腕や足を確認する。
傷はない。
それを確認して。
ようやく安堵した。
「……よかった」
「兄貴?」
獪岳は善逸の頭を掴んだ。
「心配させるな!」
「ご、ごめん!」
「師匠も心配してる!」
「……うん」
「勝手にいなくなるな!」
「……うん」
善逸の目に涙が浮かぶ。
「……ごめんなさい」
獪岳はそこで黙った。
怒りより。
心配の方が大きかった。
「……帰るぞ」
「うん」
獪岳が背を向ける。
「ほら」
「……?」
「乗れ」
「え?」
「歩けないんだろ」
「……いいの?」
「早くしろ」
善逸は恐る恐る獪岳の背中に乗った。
「……重くない?」
「軽い」
「本当?」
「ああ」
善逸は獪岳の背中に顔を埋める。
「……兄貴」
「何だ」
「ありがとう」
「…………」
「迎えに来てくれて」
「当然だ」
「どうして?」
獪岳は少しだけ歩みを止めた。
そして。
静かに答えた。
「俺が兄貴だからだ」
「…………」
善逸の目が大きくなる。
「兄貴……」
「弟弟子を放っておけるか」
「…………」
「お前がどれだけ泣いても」
「うん」
「どれだけ怖がっても」
「うん」
「どれだけ逃げても」
「…………」
「俺は迎えに行く」
善逸の目から。
涙が零れた。
「……兄貴ぃ」
「泣くな」
「だって……!」
「泣くなら背中で泣け」
「……うん」
善逸は獪岳の背中にしがみついた。
「……大好き」
「聞こえねぇ」
「兄貴、大好き!」
「声がでけぇ!」
山の中に。
二人の声が響いた。
◇
寺に戻ると。
桑島が玄関で待っていた。
「ただいま……」
善逸が小さく言う。
桑島は二人を見る。
「帰ったか」
「……はい」
獪岳が頭を下げる。
「申し訳ありません。俺がもっと早く気づくべきでした」
「獪岳」
「はい」
「お前の責任ではない」
「…………」
「善逸も」
「はい……」
「怖かったのじゃろう」
「……はい」
「ならば次は、怖くても誰かに伝えるのじゃ」
善逸は頷いた。
「はい」
桑島は二人を見つめる。
「お前たちは兄弟弟子じゃ」
「…………」
「互いに支え合え」
「はい」
「はい!」
二人の声が重なった。
◇
その夜。
善逸は布団の中で眠れずにいた。
昼間のことを思い出す。
「俺が兄貴だからだ」
獪岳の言葉。
胸の奥が温かくなる。
「……兄貴」
隣の部屋から。
獪岳の声が聞こえた。
「まだ起きてるのか?」
「うん」
「早く寝ろ」
「兄貴」
「何だ」
「……明日も修行、一緒?」
「当たり前だろ」
「……そっか」
善逸は笑う。
「じゃあ、おやすみ」
「ああ」
「兄貴」
「今度は何だ」
「……ありがとう」
少しの沈黙。
「……おやすみ、善逸」
「うん」
その声を聞いて。
善逸はようやく目を閉じた。
◇
翌朝。
「兄貴ぃぃぃ!」
「何だ!」
「今日の朝飯、俺が作る!」
「やめろ!」
「なんで!?」
「前に飯を焦がしただろ!」
「今日は大丈夫!」
「信用できねぇ!」
「兄貴ぃ!」
道場に。
いつもの声が響く。
桑島は笑っていた。
「賑やかになったものじゃ」
そして獪岳も。
口では文句を言いながら。
その表情は穏やかだった。
前世の記憶を持って。
この世界に転生した。
獪岳は知っている。
この弟弟子には。
原作で待っている過酷な未来がある。
だが。
「…………」
獪岳は善逸を見る。
絶対に。
同じ未来にはしない。
善逸が泣いても。
逃げても。
怯えても。
最後には必ず。
自分が手を伸ばす。
「俺が兄貴だ」
その言葉に。
もう一つの意味を込めて。
――弟弟子を守る。
それが。
獪岳がこの世界で選んだ生き方だった。
【大正コソコソ噂話】
善逸が初めて本格的に獪岳へ懐いたきっかけは、「俺が兄貴だからだ」という言葉だったらしい。
以来。
善逸は事あるごとに、
「兄貴!」
と呼ぶようになった。
朝。
「兄貴、おはよう!」
昼。
「兄貴、お腹空いた!」
修行中。
「兄貴、助けて!」
夜。
「兄貴、おやすみ!」
あまりにも呼ぶので、ある日獪岳が、
「一日何回『兄貴』って言えば気が済むんだ!」
と怒ったところ。
善逸は真顔で、
「数えてない!」
と答えた。
なお。
桑島が後で数えたところ。
その日は実に――三十七回。
獪岳は、
「……もう好きにしろ」
と諦めたそうだ。
しかし。
善逸が本当に困った時だけは。
何度呼ばれても。
必ず、
「どうした、善逸」
と返事をする。
それが獪岳だった。
――大正コソコソ噂話・終。