夜が明けた。
寺は、何事もなかったかのように静まり返っている。
「…………」
獪岳は縁側に座り、膝を抱えていた。
結局、昨夜は何も起こらなかった。
鬼の姿もない。
異変もない。
子供たちは全員無事。
「……まだだ」
だが、獪岳は安心していなかった。
原作の記憶と照らし合わせる。
「問題は、これからだ」
寺の悲劇は、一夜で終わるものではない。
そして――。
「金だ」
獪岳は嫌そうに顔をしかめた。
原作の獪岳が寺の金を盗んだこと。
それが悲劇の直接的な引き金になった。
「……絶対に盗まねぇ」
拳を握る。
「一銭たりとも盗まねぇぞ」
前世の自分なら、そもそも盗む理由などない。
だが、今の身体は獪岳。
原作の獪岳が抱えていた感情も、時折、自分の中に流れ込んでくる。
「金が欲しい」
「認められたい」
「俺だけが損をするのは嫌だ」
そんな感情。
完全に他人のものとは思えない。
それが一番厄介だった。
「……これが獪岳の感情か」
胸の奥がざわつく。
誰かに負けるのが嫌。
馬鹿にされるのが嫌。
自分より才能のある奴を見ると、腹が立つ。
「……分かる」
認めたくはない。
だが、分かる。
「だからこそ、俺が制御する」
獪岳は立ち上がった。
その時。
「獪岳」
「!」
悲鳴嶼行冥が近づいてきた。
「昨夜は眠れなかったのか」
「……少し」
「鬼のことを考えていたのだな」
「はい」
悲鳴嶼は静かに頷く。
「ありがとう」
「何がです?」
「皆を守ろうとしてくれたことだ」
「……別に」
獪岳は顔を逸らした。
「俺が勝手にやっただけです」
「そうか」
悲鳴嶼はそれ以上追及しなかった。
だが、しばらくして。
「獪岳」
「はい?」
「寺の金について、何か困っていることはないか?」
「…………」
心臓が跳ねた。
金。
その言葉だけで、原作の未来が頭をよぎる。
盗む。
鬼を寺へ招く。
子供たちが殺される。
「……ないです」
即答した。
「本当に?」
「はい」
獪岳は拳を握る。
「俺は、寺の金を盗みません」
悲鳴嶼が少し驚いた顔をする。
「何故、突然そのようなことを?」
「……決めたんです」
「何を?」
獪岳は真っ直ぐに悲鳴嶼を見る。
「俺は、この寺にいる限り……ここのものには手を出さない」
「…………」
「食い物も、金も、何も盗まない」
「獪岳……」
「俺は、ここにいるみんなを裏切らない」
言い切った。
自分自身に対する宣言でもあった。
「絶対に」
悲鳴嶼はしばらく黙っていた。
そして。
「……南無阿弥陀仏」
静かに手を合わせる。
「立派になったな」
「……え?」
「以前のお前なら、そのようなことを自分から言い出すことはなかった」
「…………」
獪岳は少しだけ目を見開いた。
原作の獪岳とは違う。
今の自分は、すでに少しずつ未来を変えている。
「……ありがとうございます」
その時だった。
「獪岳兄ちゃん!」
子供たちの声が聞こえた。
振り返る。
数人の子供たちが走ってくる。
「一緒に遊ぼう!」
「俺は忙しい」
「何してるの?」
「考え事だ」
「じゃあ一緒に考える!」
「意味分かんねぇよ」
子供たちは笑う。
獪岳は呆れながらも。
「……仕方ねぇな」
腰を下ろした。
「少しだけだぞ」
「やった!」
その光景を。
悲鳴嶼は静かに見守っていた。
――数日後。
獪岳は、寺の中を改めて調べていた。
「食料……十分」
「薪……問題なし」
「薬……少ない」
「金……」
寺の金を確認する。
「……これだけか」
思ったより少ない。
これでは、寺の生活も楽ではない。
「だったら」
獪岳は考えた。
「俺が稼げばいい」
盗む必要なんてない。
働けばいい。
薪を集める。
水を汲む。
山菜を採る。
畑を手伝う。
できることはいくらでもある。
「……よし」
獪岳は立ち上がった。
「金を盗む未来そのものを消してやる」
その日から、獪岳の生活は変わった。
朝。
薪を拾う。
昼。
寺の掃除。
夕方。
子供たちの面倒を見る。
そして夜。
「…………」
一人で剣を振る真似をする。
まだ刀はない。
それでも。
「雷の呼吸……」
口にするだけで、胸が熱くなる。
「いつか、俺は鬼殺隊に入る」
未来を知っている。
ならば。
桑島慈悟郎に弟子入りする。
雷の呼吸を極める。
鳴柱になる。
「……そして」
しのぶを救う。
善逸を守る。
悲鳴嶼を守る。
カナエを――。
「…………」
そこで、獪岳の表情が曇った。
カナエ。
原作では、彼女は童磨に殺される。
「……あれも変える」
まだ時間はある。
だから。
「全部変える」
少年は空を見上げた。
青空だった。
原作を知っているからこそ。
未来は怖い。
しかし。
「未来を知ってるなら、利用してやる」
獪岳は笑った。
「俺は、原作通りの獪岳じゃねぇ」
その時。
寺の奥から声がした。
「獪岳ー!」
「何だ!」
「お腹すいた!」
「さっき食っただろ!」
「また食べたい!」
「……ったく」
獪岳は頭を掻いた。
「今行く!」
走り出す。
その背中を見ながら。
悲鳴嶼は、静かに微笑んでいた。
――この日から。
寺の子供たちは少しずつ知っていく。
口の悪い兄が。
実は誰よりも自分たちのことを考えていることを。
そして獪岳自身も。
少しずつ理解していく。
守るということが。
ただ鬼を斬ることだけではないのだと。
【大正コソコソ噂話】
この頃の獪岳は、とにかく「金を盗まない」という決意だけは異常に強い。
寺の子供が、
「獪岳兄ちゃん、お金落ちてるよ!」
と言っただけで、
「触るな! 悲鳴嶼さんに届けろ!」
と即座に反応する。
ちなみに拾ったのはただの木の実だった。
「…………」
「獪岳兄ちゃん?」
「……紛らわしいんだよ!」
寺中に獪岳の怒鳴り声が響いたという。
――大正コソコソ噂話・終。