その夜。
寺には、いつもと違う静けさが漂っていた。
「…………」
縁側に座った獪岳は、じっと闇を見つめていた。
風がない。
虫の声も少ない。
まるで山そのものが息を潜めているようだった。
「……来る」
根拠はない。
だが、前世の記憶が告げている。
原作で、この寺の悲劇が起こった夜。
鬼が来る。
「獪岳」
背後から悲鳴嶼の声がした。
「まだ起きているのか」
「ああ」
「眠らないのか」
「……今日は寝ません」
悲鳴嶼は何も言わなかった。
ただ、獪岳の隣に腰を下ろす。
「怖いのか?」
「……少し」
正直に答えた。
「鬼が来ると思うと、怖いです」
「そうか」
「でも」
獪岳は暗闇を見る。
「怖いからって、逃げるわけにはいかない」
悲鳴嶼は静かに手を合わせた。
「南無阿弥陀仏」
その時だった。
――カサッ。
「!」
獪岳の耳が動く。
草むら。
何かいる。
――ズズ……。
土を踏む音。
ゆっくり。
ゆっくりと。
こちらへ近づいてくる。
獪岳は立ち上がった。
「悲鳴嶼さん」
「分かっている」
悲鳴嶼も立つ。
「何かいるな」
「……はい」
獪岳は拳を握った。
心臓が激しく鳴っている。
怖い。
当然だ。
今の自分はまだ子供。
鬼と戦えるほどの力などない。
それでも。
「子供たちは?」
「全員、部屋に集めてある」
「……よし」
作戦通り。
昨日のうちに、悲鳴嶼と相談しておいた。
夜になったら子供たちは一か所に集める。
戸締まりを徹底。
絶対に外へ出さない。
そして――。
「誰かが呼びに来ても、絶対に扉を開けない」
「分かっている」
悲鳴嶼が頷く。
その瞬間。
――ドン。
寺の門が揺れた。
「……!」
子供たちのいる部屋から、小さな悲鳴が聞こえる。
獪岳は振り返る。
「大丈夫だ!」
大声で叫ぶ。
「俺たちがいる!」
子供たちを安心させるため。
だが。
――ドン。
もう一度。
門が揺れた。
そして。
「こんばんはぁ……」
声がした。
人間の声。
だが。
明らかにおかしい。
獪岳の背筋に悪寒が走った。
「……来た」
門の向こうから。
男が姿を現す。
月明かりに照らされた顔。
青白い肌。
異様に伸びた爪。
そして。
口元には――血。
「ヒヒ……」
男が笑った。
「こんな山奥に、子供がたくさんいるとはなぁ」
獪岳は息を呑んだ。
間違いない。
鬼だ。
「……お前」
鬼が獪岳を見る。
「なんだぁ? 小僧」
獪岳は震える拳を握った。
「ここから出ていけ」
「は?」
「お前は、ここに入れさせない」
鬼は一瞬ぽかんとした。
そして。
「ギャハハハハ!」
大笑いする。
「小僧が何言ってやがる!」
鬼が踏み込む。
一瞬だった。
「――!」
獪岳の身体が吹き飛ぶ。
「獪岳!」
悲鳴嶼が叫ぶ。
獪岳は地面を転がった。
「ぐっ……!」
背中が痛い。
息が詰まる。
「……速ぇ」
原作を知っている。
鬼が人間より遥かに強いことも。
だが。
実際に殴られてみると、想像以上だった。
「殺される……」
その恐怖が身体を支配する。
だが。
「……ふざけんな」
獪岳は立ち上がった。
「俺は……」
足が震える。
「こんなところで死ぬわけにはいかねぇ!」
鬼が襲いかかる。
その前に。
――ドンッ!
巨大な拳が鬼を吹き飛ばした。
「……なっ!?」
悲鳴嶼だった。
「獪岳に手を出すな」
鬼が地面を転がる。
悲鳴嶼は静かに構えた。
「この子供たちは、私が守る」
獪岳の胸が熱くなる。
「悲鳴嶼さん……」
鬼が立ち上がる。
「人間の分際で……!」
牙を剥き出しにする。
「俺を舐めるなぁ!」
飛びかかる。
悲鳴嶼が迎え撃つ。
「――南無阿弥陀仏」
拳が激突する。
――ドゴォン!
寺の境内に衝撃音が響いた。
獪岳はその光景を見ながら。
「……すげぇ」
これが。
後に岩柱となる男。
悲鳴嶼行冥。
「……俺も」
強くなりたい。
「俺も、こんなふうに守れるようになりたい」
その瞬間。
鬼が悲鳴嶼の脇をすり抜ける。
「子供を喰わせろォ!」
「――!」
獪岳が立ちはだかった。
「行かせるか!」
鬼の爪が迫る。
怖い。
死ぬ。
それでも。
獪岳は動かなかった。
――ガッ!
腕を掴まれる。
「ぐあっ!」
鬼の力で、身体が持ち上がる。
「獪岳!」
悲鳴嶼が叫ぶ。
「離せ!」
獪岳は必死に暴れる。
「俺は……!」
拳を振るう。
「俺は……こいつらを守るって決めたんだ!」
鬼の腕に拳が当たる。
当然、効かない。
だが。
その一瞬。
鬼の動きが止まった。
「……何?」
悲鳴嶼が踏み込む。
――ドンッ!
鬼の腕を叩き落とす。
「獪岳!」
「……っ!」
地面に落ちる。
悲鳴嶼が鬼との間に立つ。
「もう十分だ」
「でも……!」
「お前は、よくやった」
その言葉に。
獪岳は歯を食いしばった。
自分は何もできなかった。
ただ立っていただけ。
「……くそ」
悔しい。
「もっと強くならねぇと……」
鬼は悲鳴嶼に追い詰められ、逃げようとする。
だが。
獪岳は叫んだ。
「悲鳴嶼さん!」
「何だ!」
「逃がさないで!」
悲鳴嶼が頷く。
「承知した」
その後。
鬼は寺から追い払われた。
完全に倒すことはできなかった。
だが――。
子供たちは全員無事。
誰一人として死んでいない。
「…………」
夜が明ける。
獪岳は境内に立っていた。
傷だらけだった。
だが。
生きている。
そして。
子供たちも。
「……勝った」
小さく呟く。
悲鳴嶼が隣に立つ。
「勝ったのではない」
「え?」
「守ったのだ」
「…………」
「それで十分だ」
獪岳は黙った。
そして。
「……はい」
初めて。
胸を張った。
原作では。
この場所で全てが崩れた。
だが。
今回は違う。
「未来は……変えられる」
獪岳は朝焼けを見つめる。
「俺は、この世界を変えられる」
そして。
その決意は。
後に「鳴柱」と呼ばれる男の原点となった。
【大正コソコソ噂話】
この事件の翌朝。
寺の子供たちは獪岳の傷を見て大騒ぎした。
「獪岳兄ちゃん、痛い?」
「平気だ」
「本当に?」
「平気だって」
「じゃあ笑って!」
「……何でだよ」
「怖かったから!」
「…………」
獪岳は少し黙ってから。
「……仕方ねぇな」
ほんの少しだけ笑った。
子供たちは大喜び。
なお、陰でそれを見ていた悲鳴嶼は、静かに涙を流していたという。
「……南無阿弥陀仏」
――大正コソコソ噂話・終。