夜明け前。
寺の境内には、薄い霧が降りていた。
獪岳は一人、木刀を握っていた。
「……一、二……!」
素振りを繰り返す。
腕が痛い。
肩も重い。
それでも止めない。
「……三十七……三十八……!」
――もっと強く。
――もっと速く。
――もっと。
「獪岳」
「……!」
背後から聞き慣れた声。
振り返ると、悲鳴嶼行冥が立っていた。
「朝早くから鍛錬か」
「はい」
「昨日も遅くまでしていたな」
「……覚えてたんですか」
「見ていれば分かる」
悲鳴嶼は数珠を握りながら、獪岳の隣まで歩いてきた。
「少し休みなさい」
「まだできます」
「無理をする必要はない」
「でも……」
獪岳は木刀を握り締める。
「強くならないと」
「何故だ?」
「……守れないから」
悲鳴嶼が黙る。
獪岳は俯いた。
「この前の鬼……俺、何もできなかった」
「お前は立ち向かった」
「でも、最後に守ったのは悲鳴嶼さんです」
「それでいい」
「よくない!」
思わず声が大きくなる。
「俺が守るって決めたのに!」
悲鳴嶼は静かに獪岳を見つめた。
「獪岳」
「……はい」
「守るとは、一人ですべてを背負うことではない」
「…………」
「誰かを守る時には、誰かに守られることもある」
獪岳は黙っていた。
「お前が子供たちを守る」
「……はい」
「私がお前たちを守る」
「…………」
「そして、いつかお前が強くなったなら」
悲鳴嶼は微笑む。
「今度はお前が、誰かを守ればいい」
その言葉が、獪岳の胸に響いた。
「……じゃあ」
「うむ」
「俺が強くなったら」
獪岳は悲鳴嶼を見上げる。
「悲鳴嶼さんも守ります」
「…………」
「この寺も」
「…………」
「ここにいるみんなも」
悲鳴嶼は目を伏せた。
「……ありがとう」
獪岳は少し照れながら、顔を逸らした。
「別に……礼を言われることじゃないです」
「そうか」
「俺が勝手に決めただけです」
「ならば」
悲鳴嶼は手を差し出した。
「約束しよう」
「約束?」
「お互いに、命を粗末にしない」
「…………」
「私は、お前たちを守る」
「はい」
「そしてお前は、自分自身も守る」
「……俺自身も?」
「そうだ」
悲鳴嶼の声は穏やかだった。
「誰かを守りたいという気持ちが強すぎる者は、自分の命を軽く扱ってしまう」
獪岳の心臓が跳ねた。
まるで。
未来の自分を見透かされたようだった。
原作を知っている。
自分は最後。
善逸との戦いで死ぬ。
そして、その前には鬼になっている。
もし未来を変えなければ。
自分はきっと。
「……分かりました」
獪岳は悲鳴嶼の手を握った。
「約束します」
「うむ」
「俺は……死にません」
「それだけではない」
「え?」
「生きるのだ」
悲鳴嶼の言葉に。
獪岳は目を見開いた。
「……生きる」
「ああ」
「誰かを守って」
「そうだ」
「俺自身も守って」
「そうだ」
「……分かりました」
獪岳は強く頷いた。
「生きます」
その言葉を。
自分自身の胸に刻み込む。
――生きる。
それは、前世では当たり前だった。
だが今の獪岳にとって。
それは、戦う理由の一つになった。
「……悲鳴嶼さん」
「何だ?」
「もう一つ、約束していいですか?」
「もちろんだ」
獪岳は空を見上げた。
「俺がいつか、鬼殺隊に入ったら」
「ああ」
「柱になります」
悲鳴嶼は微笑む。
「そうか」
「鳴柱になって」
「うむ」
「この世で一番、強い雷使いになります」
「それは頼もしいな」
「そして」
獪岳は拳を握る。
「鬼から、できるだけ多くの人を守ります」
「……素晴らしい」
「だから」
獪岳は少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「その時は、俺のことを褒めてください」
悲鳴嶼の目から。
一筋の涙が流れた。
「…………」
獪岳が驚く。
「えっ……」
「すまない」
悲鳴嶼は涙を拭う。
「嬉しいのだ」
「何が……?」
「お前が、未来の話をしていることが」
「…………」
「以前のお前は、自分がどう生きるかではなく、どう負けないかばかりを考えていた」
獪岳は黙った。
確かに。
そうだった。
「だが今は違う」
悲鳴嶼が優しく言う。
「誰かを守る未来を考えている」
「……はい」
「それが、私は嬉しい」
獪岳は顔を逸らした。
「……泣くなよ」
「泣いているのは私だ」
「そういう意味じゃねぇよ……」
二人の間に。
小さな笑いが生まれた。
――それから数日。
獪岳は修行を続けた。
しかし以前とは違う。
無茶をしなくなった。
休む時は休む。
食べる時は食べる。
そして、子供たちと過ごす時間も増えた。
「獪岳兄ちゃん!」
「何だ!」
「遊ぼう!」
「今修行中だ!」
「五分だけ!」
「……五分だぞ」
結局。
五分が一時間になった。
「獪岳兄ちゃん、負け!」
「うるせぇ!」
子供たちの笑い声が響く。
それを遠くから見ていた悲鳴嶼は、静かに微笑んでいた。
――この少年は変わり始めている。
原作とは違う道へ。
そして、その変化を誰よりも早く感じ取っていたのは。
悲鳴嶼行冥だった。
「南無阿弥陀仏……」
祈りながら。
彼は願う。
この子供たちが。
今度こそ。
幸せに生きられるように。
そして――。
獪岳自身も。
「どうか、この子の未来に光がありますように」
その願いは。
やがて獪岳自身の胸にも届く。
その日の夕方。
獪岳は寺の門の前で立ち止まった。
「……約束したからな」
悲鳴嶼と。
そして、自分自身と。
「絶対に死なねぇ」
獪岳は拳を握った。
「鬼にもならねぇ」
そして。
「――生きて、柱になる」
朝焼けのような決意が。
少年の瞳に宿っていた。
【大正コソコソ噂話】
悲鳴嶼と獪岳の「約束の日」以来、獪岳は無茶をしようとすると、必ず悲鳴嶼から、
「獪岳」
と名前を呼ばれるようになった。
その一言だけで、
「……分かりました。休みます」
と素直に引き下がる。
寺の子供たちはこれを見て、
「悲鳴嶼さん、獪岳兄ちゃんのお父さんみたい!」
と言った。
「違ぇよ!」
と獪岳は即座に否定。
しかし悲鳴嶼は、
「……そうかもしれぬな」
と穏やかに答えた。
「悲鳴嶼さんまで何言ってんですか!」
寺中に獪岳の叫び声が響いたという。
――大正コソコソ噂話・終。