朝。
鬼殺隊本部に、一人の男が立っていた。
漆黒の隊服。
その上から羽織る、雷を思わせる意匠の羽織。
腰には日輪刀。
そして――。
「……」
獪岳は静かに空を見上げていた。
昨日までとは、何も変わっていない。
同じ空。
同じ朝。
同じ刀。
それでも。
一つだけ、大きく変わったものがある。
「……鳴柱」
昨日。
自分は柱に任命された。
その事実が、まだどこか現実味を持っていない。
「獪岳」
「……!」
振り返る。
そこにいたのは、数人の隊士だった。
「鳴柱様、おはようございます!」
「おはようございます!」
一斉に頭を下げる。
獪岳は僅かに眉を寄せた。
「……やめろ」
「え?」
「その『様』ってのはやめろ」
隊士たちは顔を見合わせる。
「ですが、獪岳様は柱に――」
「柱だからって、俺が偉いわけじゃない」
獪岳は淡々と言った。
「俺は鬼を斬る」
「お前たちは鬼を斬る」
「それだけだ」
隊士の一人が、少し驚いたように目を見開く。
「……はい!」
「それでいい」
獪岳は歩き始める。
しかし――。
「鳴柱様!」
「何だ」
「これから、どんな柱を目指すんですか?」
獪岳は足を止めた。
そして、少しだけ考える。
「……強い柱だ」
「強い……?」
「ああ」
振り返る。
「鬼より強い」
その瞳には、迷いがなかった。
「誰かが死ぬ前に駆けつけられるくらい速く」
「誰にも斬れない鬼を斬れるくらい強く」
「そして――」
一瞬。
獪岳の表情が柔らかくなる。
「仲間を守れる柱になる」
隊士たちは静かに頷いた。
「……はい!」
その日の午後。
獪岳のもとへ、初めて柱としての任務が届いた。
「北の山で、鬼による被害が続いております」
鎹鴉が告げる。
「被害者は十数名」
「……多いな」
「さらに、現地へ向かった隊士との連絡が途絶えました」
獪岳の目が鋭くなる。
「隊士が?」
「カァ!」
「場所は?」
「北ノ山! 北ノ山!」
獪岳は立ち上がる。
「分かった」
羽織を翻す。
「俺が行く」
その場にいた隊士が慌てて声をかける。
「鳴柱様、応援を――」
「必要ない」
「ですが……」
獪岳は振り返る。
「俺一人で十分だ」
「……!」
「それに――」
刀の柄に手を置く。
「連絡が途絶えた隊士を、迎えに行く」
その言葉に。
周囲の隊士たちは息を呑んだ。
柱。
それは鬼殺隊最強の剣士。
だが。
同時に――。
仲間を守る者。
獪岳は、その意味を理解していた。
「行くぞ」
「はい!」
獪岳は屋敷を飛び出した。
その速度は、昨日までとは明らかに違った。
「――速い!」
隊士たちが思わず声を上げる。
獪岳は山道を駆け抜ける。
枝を避け。
岩を蹴り。
木々の間を縫う。
そして。
「……いた」
山中。
倒れた木の陰。
そこに、負傷した隊士が数人倒れていた。
「おい!」
獪岳が駆け寄る。
「大丈夫か!」
「……か、柱……」
「喋るな」
獪岳は傷を確認する。
重傷。
だが――。
「死んでない」
その事実に、獪岳は僅かに安堵した。
「よく持ちこたえた」
「……すみません」
「謝るな」
獪岳は立ち上がる。
「後は俺がやる」
その瞬間。
「グルルル……」
森の奥から、低い唸り声。
獪岳は刀を抜いた。
「来たか」
闇の中から。
巨大な鬼が姿を現した。
「柱……!」
鬼が笑う。
「喰い殺してやる!」
獪岳は静かに構える。
「……」
以前なら。
強い鬼を前にすれば、心の奥で焦りが生まれていた。
だが今は違う。
「お前が――」
獪岳の足元に力が集まる。
「俺の最初の相手か」
次の瞬間。
「雷の呼吸――」
鬼の目が見開かれる。
「壱ノ型・極」
轟ッ!!
「霹靂一閃!!」
視界から獪岳が消える。
「な――」
ズバァン!!
鬼の首が宙を舞う。
「……!」
鬼の身体が崩れ落ちる。
あまりにも速い。
あまりにも鮮やかな一撃。
それを見ていた隊士たちは、言葉を失った。
「これが……」
「鳴柱……」
獪岳は刀を振り、血を払う。
そして。
「……帰るぞ」
「はい!」
その背中を見つめながら。
隊士の一人が呟いた。
「凄い……」
別の隊士が答える。
「違う」
「え?」
「凄いだけじゃない」
その隊士は、獪岳の背中を見る。
「俺たちを助けに来てくれた」
「……」
「それが――柱なんだ」
獪岳には、その会話が聞こえていた。
だが、振り返らなかった。
ただ。
「……悪くないな」
小さく呟く。
鳴柱。
その名を背負うことは、思っていた以上に重い。
だが――。
「この重さなら、背負ってやる」
獪岳は歩く。
誰かを守るために。
誰かを生かすために。
そして――。
自分自身の過去を越えるために。
やがて鬼殺隊本部へ戻ると、慈悟郎が待っていた。
「初めての柱任務はどうじゃった?」
「……普通だ」
「ほう?」
「鬼を斬って、隊士を助けた」
「それだけか?」
「それだけだ」
獪岳は少し考えてから、口元を緩めた。
「でも――」
「うむ?」
「悪くなかった」
慈悟郎は笑った。
「そうか」
「爺さん」
「何じゃ?」
獪岳は空を見る。
「俺、ちゃんと柱になれたかな」
慈悟郎は少しも迷わず答えた。
「ああ」
そして。
「立派な鳴柱じゃよ」
獪岳は黙っていた。
やがて。
「……そうか」
小さく笑う。
その瞬間。
遠くで雷が鳴った。
轟ォォォン……。
獪岳はその音を聞きながら、刀の柄を握る。
「鳴柱・獪岳」
その名は、もう夢ではない。
鬼殺隊の仲間を守るために立つ、一人の柱の名だ。
そして――。
霹靂の獪岳の物語は。
「ここからだ」
新たな時代へ向かって、さらに大きく動き始める。