夜は、まだ明けていなかった。
寺の境内には、鬼が残した爪痕がいくつも刻まれている。
折れた木。
抉れた土。
倒れた石灯籠。
そして――。
「…………」
獪岳は、その中心に立っていた。
木刀を握ったまま、じっと暗闇を睨んでいる。
「……逃げたか」
鬼は消えた。
悲鳴嶼の猛攻を受け、山の奥へ逃げていった。
完全に倒したわけではない。
だからこそ。
「戻ってくる可能性はある」
獪岳は警戒を解かなかった。
背後から足音がする。
「獪岳」
「悲鳴嶼さん」
振り返る。
悲鳴嶼は傷を負っていた。
しかし、それ以上に心配だったのは――。
「お前の腕だ」
「……これくらい」
獪岳の右腕には、鬼の爪による裂傷があった。
血が滲んでいる。
「怪我をしているではないか」
「大したことねぇです」
「見せなさい」
「いや、本当に――」
「獪岳」
「…………はい」
逆らえなかった。
縁側に座らされ、傷を見せる。
悲鳴嶼が布を巻いていく。
「痛むか?」
「……ちょっと」
「我慢しなさい」
「それ、俺がいつも子供たちに言ってるやつですよ」
「ならば分かるだろう」
「……はい」
少しだけ笑った。
だが。
笑っている場合ではない。
獪岳の表情が再び険しくなる。
「悲鳴嶼さん」
「何だ」
「さっきの鬼……」
「ああ」
「あいつ、まだ生きてますよね」
「恐らくは」
「……なら、また来るかもしれない」
悲鳴嶼は静かに頷く。
「可能性はある」
獪岳は唇を噛んだ。
「俺たちには、まだ鬼殺隊みたいな力がない」
「そうだな」
「だったら……」
獪岳は境内を見渡した。
「もっと守りを固める」
「うむ」
「門を強くする。夜間は見張りを置く。子供たちは絶対に一人にしない」
「良い考えだ」
「それと――」
獪岳は考え込む。
「逃げ道も作る」
悲鳴嶼が少し驚く。
「逃げ道?」
「ああ」
「戦うだけじゃ守れない」
獪岳は真剣だった。
「俺たちが負けることだってある。だから、逃げる道を用意しておく」
「…………」
「全員が生き残れるなら、逃げたっていい」
その言葉を聞いた悲鳴嶼は。
「……立派だ」
と呟いた。
「え?」
「強さとは、戦うことだけではない」
「…………」
「生き残るために逃げることもまた、強さだ」
獪岳は小さく頷いた。
「……覚えておきます」
その時。
寺の中から声がした。
「獪岳兄ちゃん!」
「!」
獪岳が振り返る。
「大丈夫!?」
子供たちが次々に顔を出している。
「怪我したの?」
「痛い?」
「鬼、もういない?」
「獪岳兄ちゃんが死んだらどうするの?」
「死なねぇよ!」
獪岳が怒鳴る。
子供たちは安心したように笑った。
「本当?」
「本当だ」
「絶対?」
「絶対だ」
「約束?」
「……約束だ」
獪岳は胸を張った。
「俺は死なねぇ」
子供たちが笑う。
「じゃあ、もう大丈夫だね!」
「……ああ」
獪岳は微笑んだ。
「もう大丈夫だ」
だが。
その言葉とは裏腹に。
心の中では、ずっと考えていた。
――原作では。
この後。
悲鳴嶼は罪人として捕らえられる。
子供たちは殺される。
そして獪岳は。
寺を去る。
「……そんな未来にはしねぇ」
絶対に。
「獪岳」
悲鳴嶼が呼ぶ。
「はい」
「先ほどのことだが」
「?」
「お前は、あの鬼に向かって『俺が守る』と言っていたな」
「……言いました」
「何故だ?」
獪岳は少し考えた。
「……分かりません」
本当は分かっている。
前世の自分が見た原作。
その結末を知っているから。
だが。
「でも」
獪岳は子供たちを見る。
「こいつらが泣いてるのが嫌だった」
「…………」
「だから守りたいと思った」
悲鳴嶼は目を閉じた。
「それでいい」
「……はい」
二人はしばらく無言で境内を見つめていた。
やがて。
「獪岳」
「はい」
「お前は今日、初めて鬼と向き合った」
「…………」
「怖かっただろう」
「……怖かったです」
「それでも立った」
「……はい」
「それだけで十分だ」
獪岳は拳を握る。
「でも、もっと強くなります」
「ああ」
「今度は……」
獪岳は遠くの山を睨む。
「逃げられないくらい強くなる」
「その意気だ」
悲鳴嶼は頷いた。
そして。
「だが、忘れてはいけない」
「何を?」
「お前一人で戦うのではない」
「…………」
「私もいる」
「……はい」
「寺の子供たちもいる」
「はい」
「いつか、お前が鬼殺隊に入れば仲間もできる」
「……はい」
「だから」
悲鳴嶼は優しく言った。
「一人で背負わなくていい」
獪岳の胸が熱くなった。
「……ありがとうございます」
「うむ」
――その後。
寺の子供たちは、鬼が来たことを知った。
怖がる者もいた。
泣く者もいた。
だが。
誰一人として寺を出ようとはしなかった。
なぜなら。
「獪岳兄ちゃんがいるから」
「悲鳴嶼さんがいるから」
そう言ったからだ。
獪岳は、その言葉を聞いて。
「……馬鹿」
と呟いた。
「俺だけじゃ守れねぇっての」
けれど。
その口元には。
小さな笑みが浮かんでいた。
――東の空が白み始める。
夜が終わる。
鬼の気配は消えた。
寺は守られた。
誰も死ななかった。
「……終わった」
獪岳は空を見上げた。
「第一関門……突破だ」
まだ、未来は変わり始めたばかり。
だが。
確かに変わった。
本来なら悲劇の始まりだった夜。
それが今は――。
「みんなが生きてる」
それだけで。
獪岳にとっては、大きな勝利だった。
「……よし」
獪岳は拳を握る。
「次は、もっと強くなる」
雷の呼吸を極める。
鬼殺隊に入る。
柱になる。
そして――。
原作で失われた命を、一つでも多く救う。
「俺の未来は、俺が決める」
朝日が昇る。
その光の中で。
獪岳は静かに笑った。
【大正コソコソ噂話】
鬼が寺を襲った翌朝。
子供たちは、昨夜の恐怖を忘れるために獪岳の周りに集まった。
「獪岳兄ちゃん!」
「何だ」
「鬼を倒したの?」
「追い払っただけだ」
「すごい!」
「でも、悲鳴嶼さんが一番すごかった!」
「じゃあ獪岳兄ちゃんは?」
「俺?」
子供たちは顔を見合わせる。
そして――。
「怖かったけど逃げなかった!」
「……!」
「だから、すごい!」
獪岳は何も言えなくなった。
やがて。
「……そうかよ」
頭を掻きながら。
「じゃあ、もっと頑張らねぇとな」
その日の夜。
獪岳はいつもより少しだけ深く眠ったという。
そして悲鳴嶼は、眠る獪岳の姿を見ながら。
「南無阿弥陀仏……」
静かに祈っていた。
――大正コソコソ噂話・終。