蝶屋敷。
午後の柔らかな陽射しが、縁側を照らしていた。
「……鳴柱・獪岳さん、ですか」
胡蝶しのぶは、手元の薬草を整理しながら呟いた。
鬼殺隊に新たな柱が誕生した。
雷の呼吸を使う剣士。
それだけなら、特別珍しい話ではない。
だが――。
「雷の呼吸・改……」
しのぶの表情から、いつもの笑顔が僅かに消える。
壱ノ型・極。
迅雷・連牙。
迅雷・閃々。
雷龍。
帝釈天。
九頭龍の雷。
短期間で、これほどの技を生み出した剣士。
しかも、柱に就任してからも鍛錬を続けているという。
「随分と、真面目な方なんですね」
「カァ!」
鎹鴉が鳴く。
『本日、鳴柱・獪岳! 蝶屋敷へ!』
「……今日ですか?」
『今日! 負傷隊士の診察!』
「ふふ」
しのぶは微笑んだ。
「それなら、直接お会いできますね」
――その数刻後。
「失礼する」
蝶屋敷の門をくぐった獪岳は、静かに辺りを見渡した。
「鳴柱様!」
アオイが慌てて駆け寄ってくる。
「本日は負傷した隊士の診察と聞いております」
「ああ」
「こちらへどうぞ」
「分かった」
獪岳は案内されるまま屋敷へ入る。
すると。
「こんにちは、獪岳さん」
柔らかな声が響いた。
「……」
獪岳が顔を上げる。
そこには、笑顔の少女が立っていた。
蝶の髪飾り。
紫色の瞳。
そして、穏やかな笑み。
「初めまして。胡蝶しのぶです」
「獪岳だ」
「ええ。存じていますよ」
しのぶは微笑む。
「最近、鬼殺隊で大変な話題になっていますから」
「……噂か」
「はい」
「くだらないものが多いだろ」
「ふふ。そうですね」
しのぶは楽しそうに笑った。
「山を斬ったとか、雷を操るとか」
「……」
獪岳の眉が寄る。
「斬ってない」
「そうでしょうね」
「雷も操れない」
「でしょうね」
「……」
「でも」
しのぶの笑顔が少し深くなる。
「とても強い剣士だという話は、本当なのでしょう?」
「……」
獪岳は答えなかった。
ただ。
「必要だから強くなっただけだ」
そう言った。
しのぶは、その言葉を聞いて少しだけ目を細める。
「必要だから?」
「ああ」
「柱になるために?」
「それもある」
「では、柱になった今は?」
獪岳は少し考えた。
「……守るためだ」
「守る?」
「ああ」
その答えに。
しのぶの笑顔が僅かに止まった。
「仲間を守る」
獪岳は淡々と言う。
「俺の後ろにいる奴らが、鬼に殺されないようにする」
「……そうですか」
しのぶは再び笑った。
「素敵ですね」
「そういう言い方はやめろ」
「どうしてです?」
「柄じゃない」
「ふふ」
しのぶは楽しそうに笑った。
「獪岳さんって、意外と照れ屋さんなんですね」
「違う」
「そうですか?」
「違う」
「では、そういうことにしておきましょう」
「……」
獪岳は小さくため息をついた。
その時。
「鳴柱様!」
負傷した隊士が布団の上から声を上げた。
「お疲れ様です!」
「無理に起きるな」
獪岳は隊士の傍へ歩み寄る。
「傷を見せろ」
「はい!」
獪岳は傷の状態を確認する。
「……深いな」
「申し訳ありません」
「何を謝ってる」
「任務で鬼を仕留められず……」
「生きて帰った」
獪岳は即座に言った。
「なら十分だ」
「……!」
隊士が目を見開く。
「柱は鬼を斬る」
獪岳は続ける。
「だが、お前たちが生きて帰ることも同じくらい重要だ」
「鳴柱様……」
「次はもっと強くなれ」
「はい!」
そのやり取りを、しのぶは黙って見つめていた。
――なるほど。
「……」
しのぶは笑顔のまま、獪岳を見る。
鬼を倒す。
強くなる。
柱になる。
そのためだけの男だと思っていた。
だが。
「この人は……」
しのぶの瞳が僅かに揺れる。
「思っていたより、ずっと優しい人なのかもしれませんね」
「何か言ったか?」
「いいえ」
しのぶはいつもの笑顔に戻る。
「何でもありませんよ」
獪岳は怪訝そうに彼女を見る。
「……胡蝶」
「はい?」
「お前は、いつも笑ってるな」
「そうでしょうか?」
「ああ」
獪岳はしのぶをじっと見る。
「何を考えてるか分からない」
「まあ」
しのぶは口元に手を添える。
「女性に対して、随分と失礼ですね」
「悪かった」
「ふふ。素直ですね」
「……」
「でも、そうですね」
しのぶは一瞬だけ視線を落とした。
「笑っていたほうが、周りの人も安心するでしょう?」
「……」
「怖い顔をしているより、ずっといいですから」
その言葉。
獪岳は何も返さなかった。
ただ、しのぶの笑顔を見つめる。
綺麗な笑顔だった。
優しく。
柔らかく。
誰に対しても変わらない笑顔。
けれど――。
「……お前も」
「はい?」
「無理して笑ってないか?」
しのぶの動きが止まった。
「……」
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ。
その笑顔が消えた。
「……どうして、そう思うんです?」
「何となくだ」
獪岳はそれ以上聞かなかった。
「俺には、そう見える」
しのぶは黙る。
そして。
「……ふふ」
再び笑った。
「変な人ですね、獪岳さんは」
「よく言われる」
「では、覚えておきます」
「何を?」
「獪岳さんは、人の顔をよく見ている人だということを」
「……」
獪岳は目を逸らした。
「別に」
「はいはい」
しのぶは微笑む。
その笑顔の奥で。
――この人は、私の笑顔を見抜いた。
そんな驚きが、静かに広がっていた。
そして獪岳もまた。
――この女の笑顔には、何かある。
そう感じていた。
互いに。
まだ何も知らない。
互いに。
相手の胸の内を知ることもない。
それでも。
二人の間には、初めて小さな接点が生まれた。
「獪岳さん」
「何だ?」
「柱になったばかりで大変でしょう?」
「ああ」
「これからも、怪我をしたらここへ来てくださいね」
「……分かった」
「絶対ですよ?」
「分かったって」
しのぶは笑った。
「では、約束です」
「……ああ」
獪岳は立ち上がる。
そして、屋敷を出る前に一度だけ振り返った。
そこには。
いつもの笑顔を浮かべる胡蝶しのぶがいた。
「……」
獪岳は何も言わずに去っていく。
その背中を見送りながら。
しのぶは小さく呟いた。
「……不思議な人ですね」
鳴柱・獪岳。
強く。
鋭く。
雷のような男。
けれど、その内側には――。
仲間を守ろうとする優しさがある。
そして。
胡蝶しのぶ。
笑顔を絶やさない蟲柱。
けれど、その笑顔の奥には――。
まだ誰にも見せていない感情がある。
二人はまだ知らない。
この出会いが。
やがて互いの心に、深く関わっていくことを。
「……また会えるといいですね、獪岳さん」
しのぶはそう呟き。
いつもの笑顔を浮かべた。
まるで――。
その笑顔が、自分自身を守る仮面であるかのように。