「……また来たんですか?」
蝶屋敷の廊下。
胡蝶しのぶは、目の前に立つ男を見上げていた。
「任務帰りだ」
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「ああ」
「では、どうしてここへ?」
「……」
獪岳は少し黙った。
「薬を受け取りに来ただけだ」
「薬なら隊の医療部でも貰えますよ?」
「……そうだったか」
「ふふ」
しのぶが笑う。
「もしかして、私に会いに来てくださったんですか?」
「違う」
即答。
「まあ、残念」
しのぶは楽しそうに笑った。
「冗談ですよ」
「……お前は、いつもそうだな」
「何がです?」
「笑ってる」
「はい」
「何を言われても」
「そうですね」
「何を考えてるか分からない」
しのぶは少しだけ目を細めた。
「それは褒め言葉でしょうか?」
「分からん」
「では、褒め言葉ということにしておきましょう」
「……勝手にしろ」
獪岳は廊下の端に腰を下ろした。
しのぶは向かい側に座る。
以前よりも。
二人の距離は近くなっていた。
最初は、柱と蟲柱。
ただそれだけだった。
だが。
任務で顔を合わせる機会が増え。
蝶屋敷で言葉を交わすことも増えた。
いつしか――。
「獪岳さん」
「何だ?」
「最近、よく蝶屋敷に来ますね」
「……」
「薬を受け取りに来た、という理由以外で」
「……」
「やっぱり、私に会いに来てくれているんですか?」
「違う」
「即答ですね」
「本当に違う」
「ふふ」
しのぶは笑う。
「では、そういうことにしておきます」
「……」
獪岳はため息をついた。
だが。
立ち去ろうとはしなかった。
しのぶもまた、それ以上追及しない。
二人の間に、静かな時間が流れる。
やがて。
「獪岳さん」
「ん?」
「柱になってから、変わりましたね」
「俺が?」
「はい」
「どこが?」
「以前より、表情が柔らかくなりました」
「……そうか?」
「ええ」
しのぶは獪岳を見る。
「昔はもっと、近寄りがたい雰囲気があったそうですよ」
「今もそうだろ」
「いいえ」
しのぶは首を横に振った。
「今は、少しだけ違います」
「……」
「隊士たちを助けた話も聞きました」
「普通のことだ」
「普通ではありませんよ」
しのぶは静かに言う。
「柱が、自分より弱い隊士を助けるために危険を冒す」
「……」
「それを何度も続けている」
「仲間だからな」
その言葉に。
しのぶは一瞬、黙った。
「……仲間」
「そうだ」
獪岳は窓の外を見る。
「俺が柱になった理由の一つだ」
「一つ?」
「ああ」
「他には?」
「強くなりたかった」
「昔から?」
「昔からだ」
「では、今は?」
獪岳は少し考えた。
「……昔とは違う」
「どう違うんです?」
「昔は、自分が強いと証明したかった」
しのぶは黙って聞いている。
「今は――」
獪岳は自分の手を見る。
「強くなければ守れないものがあると分かった」
「……」
「だから強くなる」
その答えを聞いたしのぶの表情から、僅かに笑みが消える。
「そうですか」
「何だ?」
「いえ」
しのぶは再び笑った。
「獪岳さんらしいと思っただけです」
「そうか」
「はい」
また沈黙。
けれど。
今度の沈黙は、気まずくなかった。
むしろ。
互いに隣にいることが自然になっていた。
「……胡蝶」
「はい?」
「お前は?」
「私?」
「何のために強くなった」
しのぶの笑顔が止まる。
「……」
その問いは。
彼女が胸の奥にしまっていたものに触れた。
「私は――」
言葉が出ない。
姉。
家族。
鬼への怒り。
そして。
笑顔。
それら全てを胸の奥に抱えたまま。
しのぶは微笑んだ。
「人を守るためですよ」
「……そうか」
獪岳はそれ以上聞かなかった。
しのぶは少し驚いた。
「聞かないんですか?」
「話したくないなら聞かない」
「……」
「無理に話す必要もないだろ」
その言葉に。
しのぶは静かに目を伏せる。
「……優しいんですね」
「またそれか」
「本当にそう思ったんです」
「俺は普通にしてるだけだ」
「その『普通』が優しいんですよ」
獪岳は返事をしなかった。
ただ。
「……お前も」
「はい?」
「無理するなよ」
しのぶの瞳が僅かに揺れる。
「……どうして?」
「分からん」
「またですか?」
「ああ」
獪岳は立ち上がった。
「ただ、そう思った」
「……」
しのぶはその背中を見つめる。
「獪岳さん」
「何だ?」
「次の任務から帰ってきたら――」
少しだけ迷って。
「また、ここへ来てください」
獪岳は振り返る。
「……分かった」
「薬がなくても?」
「……」
獪岳は少し考えた。
「その時は――」
「はい」
「茶でも飲みに来る」
しのぶの顔に、ぱっと笑顔が咲いた。
「約束ですよ」
「ああ」
獪岳は屋敷を出ていく。
その背中が見えなくなってから。
しのぶは胸元に手を当てた。
「……変な人」
でも。
不思議と嫌ではなかった。
むしろ――。
「少しだけ、安心しますね」
自分の笑顔の奥にあるものを。
無理に聞き出そうとせず。
ただ、気づいてくれる人。
そんな相手は、今までいなかった。
一方。
屋敷を離れた獪岳もまた、ふと足を止める。
「……胡蝶しのぶ」
名前を呟く。
笑顔の女。
だが。
あの笑顔の奥には、何かがある。
「……まあ、そのうち分かるか」
獪岳は歩き出す。
二人の距離は。
まだ遠い。
けれど。
確実に――。
少しずつ、近づいていた。