夜。
蝶屋敷は、いつもより静かだった。
負傷した隊士たちはすでに眠りにつき、アオイたちも奥の部屋へ下がっている。
庭から聞こえるのは、虫の声だけ。
「……今日は静かですね」
縁側に座り、しのぶが呟く。
「そうだな」
隣には獪岳。
珍しく、二人きりだった。
「皆さん、お休みになったんでしょうか?」
「ああ」
「アオイさんも?」
「さっき見回りをしていた」
「なるほど」
しのぶは湯呑みに口をつける。
「……それにしても」
「何だ?」
「本当に来たんですね」
獪岳は眉を寄せる。
「何がだ?」
「『薬がなくても茶を飲みに来る』っていう約束です」
「……」
「あれ、冗談だったのかと思っていました」
「俺は約束を破らない」
「ふふ」
しのぶは嬉しそうに笑った。
「では、今日は薬ではなくお茶ですね」
「ああ」
二人の間に、静かな時間が流れる。
獪岳は湯呑みを持ちながら、庭を眺めていた。
月明かり。
揺れる竹。
そして、静かな虫の音。
「……落ち着くな」
「蝶屋敷がですか?」
「ああ」
「意外ですね」
「何が?」
「獪岳さんは、こういう静かな場所が苦手そうだと思っていました」
「俺を何だと思ってる」
「雷みたいな人」
「……」
「いつも速くて、強くて、止まらない」
しのぶは微笑む。
「そんな印象です」
「雷だって、静かな時はある」
「ふふ。確かに」
しのぶは月を見る。
「雷の音が聞こえない夜もありますからね」
「……」
獪岳はふと、しのぶの横顔を見る。
今日も笑っている。
いつもの笑顔。
だが――。
「胡蝶」
「はい?」
「今日は、無理してないか?」
しのぶの手が止まる。
「……また、それですか?」
「ああ」
「私、そんなに無理して笑っていますか?」
「分からない」
「では、どうして?」
「目が笑ってない時がある」
しのぶは黙った。
「……よく見ていますね」
「柱だからな」
「それだけ?」
「……」
獪岳は答えない。
しのぶは小さく笑った。
「ふふ。そういうことにしておきましょう」
しばらく沈黙。
やがて、しのぶが口を開く。
「獪岳さんは、怖くないんですか?」
「何が?」
「柱になったこと」
「……」
獪岳は少し考える。
「怖いさ」
しのぶが目を見開く。
「意外ですね」
「俺だって人間だ」
「そうでした」
「柱になったからって、鬼が怖くなくなるわけじゃない」
「……」
「ただ」
獪岳は月を見上げる。
「怖くても、行かなきゃならない」
「……そうですね」
「だから行く」
しのぶは静かに頷いた。
「私も同じです」
「……」
「怖いですよ」
しのぶは笑った。
「鬼は嫌いですし」
「そうだろうな」
「でも、守りたい人がいるから」
「……」
「姉が残してくれたものもありますから」
その言葉に。
獪岳は何も聞かなかった。
ただ。
「そうか」
とだけ答えた。
しのぶは少し驚いた。
「聞かないんですね」
「聞いてほしいなら、話せばいい」
「……」
「話したくないなら、無理に聞かない」
しのぶは目を伏せた。
「本当に……変な人ですね」
「よく言われる」
「でも――」
しのぶは微笑む。
「ありがとうございます」
「何が?」
「聞かないでいてくれたこと」
「……そうか」
また、静寂。
今度は先ほどよりも穏やかなものだった。
やがて。
「獪岳さん」
「ん?」
「手」
「何だ?」
「少し見せてもらえますか?」
獪岳は自分の手を見る。
「怪我はないぞ」
「分かっています」
しのぶは微笑む。
「ただ、少し気になっただけです」
「……?」
獪岳は手を差し出す。
しのぶがそっと手を取る。
「……」
獪岳の手には、鍛錬による傷がいくつも残っていた。
「随分、鍛錬していますね」
「ああ」
「これでは、刀を握るのも痛いでしょう?」
「慣れてる」
「慣れればいいというものではありませんよ」
「……」
しのぶは薬を塗る。
「少し染みます」
「これくらい――」
「我慢してください」
「……はい」
珍しく素直な返事。
しのぶは思わず笑った。
「ふふ」
「何だ」
「いえ」
「笑うな」
「すみません」
「絶対思ってないだろ」
「ええ」
「……」
二人の距離が近い。
しのぶは傷を手当てしながら、ふと思った。
――大きな手。
強い人の手。
でも。
「……優しい手ですね」
「何?」
「いえ、何でもありません」
「?」
しのぶは薬を塗り終える。
「はい。終わりました」
「ありがとう」
「どういたしまして」
獪岳は手を見る。
「……」
そして。
「胡蝶」
「はい?」
「お前の手も――」
獪岳がしのぶの手を見る。
「傷が多いな」
しのぶは一瞬だけ黙った。
「……仕事柄、仕方ありませんよ」
「そうか」
獪岳はそれ以上何も言わない。
だが。
「無理するな」
また同じ言葉。
しのぶは少しだけ笑う。
「獪岳さんもですよ」
「俺はいい」
「駄目です」
「……」
「お互い様です」
「……分かった」
月が高く昇る。
いつの間にか、二人の距離は肩が触れそうなほど近くなっていた。
「……静かですね」
しのぶが呟く。
「ああ」
「こうしていると、時間が止まったみたいです」
「……」
「鬼のことも、任務のことも忘れてしまいそう」
「それも悪くない」
獪岳が答える。
しのぶは少し驚いた。
そして。
「……そうですね」
二人は月を見上げた。
言葉はない。
けれど。
それで十分だった。
やがて獪岳が立ち上がる。
「そろそろ戻る」
「はい」
「茶、ありがとう」
「こちらこそ、来てくださってありがとうございます」
獪岳は歩き出す。
だが、門のところで足を止めた。
「……胡蝶」
「はい?」
「また来る」
しのぶの笑顔が柔らかくなる。
「はい。待っています」
獪岳は今度こそ歩き出した。
その背中を見送りながら。
しのぶは胸元に手を当てる。
「……不思議な人」
いつもの笑顔。
けれど今の笑顔には。
ほんの少しだけ――。
仮面ではない、本当の嬉しさが混じっていた。
そして獪岳も。
帰路につきながら、ふと思う。
「……蝶屋敷、か」
また来たい。
そう思ってしまった自分に。
少しだけ驚きながら。
「……悪くない」
月夜の道を、静かに歩いていった。