蝶屋敷の朝。
「おはようございます、獪岳さん」
いつもの笑顔。
いつもの声。
いつもの胡蝶しのぶ。
「……おはよう」
獪岳は縁側に腰を下ろした。
「今日は早いですね」
「任務まで時間がある」
「なるほど」
しのぶは湯呑みを二つ用意する。
「お茶、いかがですか?」
「ああ」
湯呑みを受け取る。
二人で静かに茶を飲む。
「……」
「……」
いつもなら、これで終わる。
しかし。
今日の獪岳は、しのぶの顔を何度も見ていた。
「……」
「どうしました?」
「いや」
「何か気になります?」
「……お前」
「はい?」
「ちゃんと寝たか?」
しのぶの笑顔が一瞬止まる。
「ええ。もちろん」
「嘘だな」
「……」
「目の下に隈がある」
「まあ」
しのぶは自分の目元に触れる。
「よく見ていますね」
「昨日も遅くまで負傷者の治療をしてただろ」
「知っていたんですか?」
「廊下を通った」
「なるほど」
しのぶは笑う。
「でも、大丈夫ですよ」
「……」
「私は元気ですから」
獪岳は黙って彼女を見る。
「胡蝶」
「はい?」
「その笑顔」
「……」
「無理してるだろ」
空気が止まった。
しのぶの笑顔が、ほんの少しだけ固まる。
「……どうして、そう思うんです?」
「分かる」
「何が?」
「本当に笑ってる時と、違う」
しのぶは何も言わない。
「……」
「俺には、そう見える」
しのぶはしばらく俯いていた。
やがて。
「……獪岳さんは」
「ん?」
「本当に、変な人ですね」
「またそれか」
「ええ」
しのぶは笑う。
しかし――。
今度の笑顔は、いつもより弱かった。
「私は、いつも笑っていなければならないんです」
「どうして?」
「周りを安心させるためです」
「……」
「患者さんも、隊士の皆さんも」
「……」
「私が怖い顔をしていたら、不安になるでしょう?」
「だから笑うのか」
「はい」
しのぶは頷く。
「笑っていれば、大丈夫だと思ってもらえる」
「……」
「だから、私は笑います」
獪岳は黙って聞いていた。
しのぶの声は穏やかだった。
だが。
その奥にあるものは――。
あまりにも重い。
「……姉さんも」
しのぶがぽつりと言う。
「いつも笑っていました」
「……」
「私に笑っていてほしいと言ってくれたんです」
獪岳は何も言わない。
しのぶは笑顔を浮かべたまま続ける。
「だから、私は笑います」
「……そうか」
「はい」
「でも」
獪岳が口を開く。
「無理して笑うな」
「……」
しのぶの目が見開かれる。
「え?」
「笑いたくない時まで笑う必要はない」
「……」
「少なくとも、俺の前では」
その言葉に。
しのぶの笑顔が完全に消えた。
「……」
静かだった。
庭の風が、藤の花を揺らす。
しのぶは俯く。
「……困りましたね」
「何が?」
「そう言われるとは思いませんでした」
「……」
「私は、ずっと笑っていればいいと思っていたんです」
「……」
「笑っていれば、姉さんとの約束を守れると思っていました」
声が僅かに震える。
「でも――」
しのぶは唇を噛む。
「時々、疲れるんです」
獪岳は何も言わず、隣に座った。
「怒りたい時もあります」
「……」
「泣きたい時も」
「……」
「全部投げ出したくなる時だってあります」
「……そうか」
「でも、笑わなきゃって」
しのぶは俯いたまま。
「そう思ってしまうんです」
獪岳はしばらく黙っていた。
そして。
「……泣けばいい」
「え?」
「怒ればいい」
しのぶが顔を上げる。
「俺の前なら」
「……」
「誰にも見せたくないなら、俺だけに見せればいい」
しのぶの瞳が揺れる。
「……どうして」
「何が?」
「どうして、そんなことを言えるんですか?」
獪岳は自分の手を見る。
「俺も、昔は無理してたからだ」
「……」
「強くなきゃいけないと思ってた」
「……」
「弱いところを見せたら、負けだと思ってた」
しのぶは黙って聞いている。
「でも」
獪岳は静かに続ける。
「強い奴だって、疲れる」
「……」
「だから休む」
「……はい」
「泣きたいなら泣く」
「……」
「怒りたいなら怒る」
獪岳はしのぶを見る。
「それでいい」
しのぶの目に、薄く涙が浮かんだ。
「……そんなこと」
「ん?」
「言われたの、初めてです」
「そうか」
「……」
一粒。
涙が頬を伝った。
しのぶは慌てて拭う。
「……すみません」
「謝るな」
「でも――」
「謝ることじゃない」
獪岳は静かに言った。
「泣くのも、お前の自由だ」
しのぶはしばらく黙っていた。
そして。
「……ふふ」
涙を流しながら、少し笑う。
「やっぱり、獪岳さんは変な人です」
「好きに言え」
「でも……」
しのぶは涙を拭う。
「ありがとうございます」
「……ああ」
しばらく二人は黙っていた。
やがて。
しのぶが小さく息を吐く。
「少しだけ、楽になりました」
「ならいい」
「……獪岳さん」
「何だ?」
「もう一つ、お願いしてもいいですか?」
「ああ」
しのぶは少しだけ迷い。
「今日だけ――」
「……」
「笑わなくても、いいでしょうか?」
獪岳は即答した。
「もちろんだ」
しのぶは目を閉じる。
そして。
今度こそ。
笑顔を作らなかった。
そこにいたのは。
蟲柱・胡蝶しのぶではなく。
ただ一人の少女だった。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
二人の間に、静かな時間が流れる。
やがて。
しのぶは涙の跡を残したまま、ほんの少しだけ笑った。
今度の笑顔は――。
誰かのために作ったものではない。
自分自身のための笑顔だった。
「獪岳さん」
「ん?」
「明日からも……ここに来てもらえますか?」
獪岳は少しだけ目を細める。
「任務がなければな」
「ふふ」
「何だ?」
「いえ」
しのぶは穏やかに笑った。
「嬉しいなと思って」
獪岳は何も言わない。
ただ。
「……ああ」
小さく頷いた。
その日。
二人の距離は、また一歩近づいた。
そして、しのぶは初めて思った。
――この人の前なら。
無理して笑わなくてもいいのかもしれない。
「無理して笑うな」
その言葉は。
しのぶの心に、静かに残り続けた。