夜の蝶屋敷。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、庭には淡い月明かりが落ちていた。
縁側には、二つの湯呑み。
そして――獪岳としのぶ。
「……今日は、随分静かですね」
しのぶが呟く。
「ああ」
「皆さん、もう眠ったみたいです」
「そうか」
二人の間に、穏やかな沈黙が流れる。
以前なら、しのぶは何かしら話題を探していた。
笑顔を浮かべ。
冗談を言い。
相手を困らせるような軽口を叩く。
だが、今日は違った。
「……」
しのぶは月を見上げていた。
その横顔に、いつもの笑顔はない。
獪岳は何も言わず、隣に座っていた。
「獪岳さん」
「何だ?」
「この前のこと……覚えていますか?」
「無理して笑うな、って話か?」
「はい」
しのぶは小さく笑う。
「覚えていてくれたんですね」
「忘れる理由がない」
「……そうですか」
しのぶは湯呑みを両手で包む。
「私、あの日から少しだけ変わった気がします」
「どう変わった?」
「笑いたくない時は、無理に笑わなくなりました」
「それでいい」
「でも――」
しのぶの声が、僅かに曇る。
「その分、色々なことを思い出すようになりました」
「……」
「姉さんのこと」
獪岳は黙っている。
「家族のこと」
「……」
「そして、鬼のこと」
しのぶの指が湯呑みを強く握る。
「昔は、怒ってはいけないと思っていました」
「どうして?」
「姉さんが笑っていてほしいと言ったから」
「……」
「だから、怒りも悲しみも全部隠して」
しのぶは目を伏せた。
「笑顔に変えていました」
「……」
「でも、今は……」
言葉が途切れる。
「隠さなくてもいいのかなって」
獪岳は静かに頷く。
「そうだな」
「……」
「隠す必要なんてない」
その瞬間。
しのぶの瞳から、一粒の涙が落ちた。
ぽたり。
「……」
本人も驚いたように目を見開く。
「……あ」
慌てて指で拭う。
「すみません」
「謝るな」
「でも――」
「泣いていいと言っただろ」
「……はい」
また一粒。
そして。
もう一粒。
涙が次々と頬を伝っていく。
しのぶは必死に拭おうとする。
だが、止まらない。
「……困りましたね」
声が震える。
「こんなに……涙が出るなんて」
獪岳は何も言わない。
ただ、隣にいる。
「私……」
しのぶは俯く。
「本当は……ずっと悲しかったんです」
「……」
「姉さんがいなくなって」
「……」
「父さんと母さんもいなくなって」
「……」
「大切な人が、どんどんいなくなって」
声が震える。
「それでも、笑っていなきゃって……」
しのぶは両手で顔を覆った。
「姉さんとの約束だから……」
肩が小さく震える。
獪岳は、ただ見守る。
無理に慰めない。
無理に言葉を挟まない。
ただ。
そこにいる。
やがて。
「……疲れました」
しのぶが呟いた。
「……ああ」
「笑うことも」
「……」
「怒ることも」
「……」
「悲しむことも……全部」
しのぶは顔を上げる。
涙で濡れた紫の瞳。
「私、ずっと頑張ってきたんです」
「分かってる」
「……」
「よく頑張った」
その言葉を聞いた瞬間。
しのぶの瞳から、さらに涙が溢れた。
「……っ」
そして。
「う……」
小さな嗚咽。
「……うぅ……」
初めて。
しのぶは誰かの前で、声を上げて泣いた。
獪岳は黙っていた。
ただ隣にいる。
それだけだった。
しのぶはしばらく泣き続けた。
やがて。
「……すみません」
「だから謝るな」
「でも……」
「泣いたくらいで弱くなるわけじゃない」
「……」
「むしろ、今まで泣かなかったことのほうが無理してたんだ」
しのぶは涙を拭う。
「……獪岳さん」
「ん?」
「どうして……こんなに優しくしてくれるんですか?」
獪岳は少し考える。
「さあな」
「また、それですか?」
「ああ」
「ふふ……」
涙の跡を残したまま、しのぶが笑う。
今度の笑顔は。
いつもの作られたものではなかった。
「……ありがとうございます」
「何度目だ、それ」
「何度でも言います」
「……そうか」
「はい」
しのぶは月を見上げる。
「少し、軽くなった気がします」
「ならよかった」
「……」
そして。
しのぶはそっと獪岳の肩に頭を預けた。
獪岳の身体が僅かに固まる。
「……胡蝶?」
「少しだけ」
「……」
「このままでいさせてください」
獪岳は何も言わなかった。
ただ、逃げなかった。
「……分かった」
しのぶは目を閉じる。
「ありがとうございます……」
静かな夜。
虫の声。
月明かり。
そして。
二人だけの時間。
しのぶは初めて。
誰かの前で、涙を隠さなかった。
獪岳は初めて。
誰かの弱さを、ただ受け止めることができた。
やがて、しのぶの呼吸が穏やかになる。
「……眠ったか」
返事はない。
獪岳は少しだけ笑う。
「……おやすみ、胡蝶」
その声は。
雷のように鋭い男からは想像できないほど、優しかった。
月明かりの下。
しのぶの頬には、涙の跡が残っている。
けれど――。
その表情は、どこか安らかだった。
この夜。
胡蝶しのぶは初めて、獪岳の前で涙を見せた。
そして二人の距離は。
もう、柱同士というだけではないところまで――。
静かに近づいていた。