朝の蝶屋敷。
庭には朝露が残り、鳥の声が静かに響いていた。
「……」
栗花落カナヲは、庭の掃除をしていた。
いつもと変わらない朝。
いつもと変わらない蝶屋敷。
――ただ一つを除いて。
「……あれ?」
カナヲは、縁側に置かれた湯呑みを見つけた。
二つ。
「……?」
一つは、しのぶがいつも使っているもの。
もう一つは――。
「これ……」
昨日の夜、ここにあったものだ。
カナヲは少しだけ首を傾げた。
その時。
「カナヲ」
「……!」
背後から声。
振り返ると、しのぶが立っていた。
「おはようございます」
「……おはようございます、姉さん」
「朝から掃除ですか?」
「はい」
しのぶはいつもの笑顔。
ただ――。
カナヲは、その笑顔をじっと見る。
「……?」
「どうしました?」
「姉さん」
「はい?」
「昨日……泣きましたか?」
しのぶの笑顔が僅かに止まる。
「……どうして?」
「目が少し赤いです」
「ふふ」
しのぶは目元に触れる。
「よく見ていますね」
「……」
「少しだけ、眠れなかったんです」
「そうですか」
カナヲはそれ以上聞かなかった。
だが。
一つだけ気になることがあった。
――昨日の夜。
屋敷の門から帰っていった男。
「……」
黒い羽織。
腰の日輪刀。
雷を思わせる雰囲気。
「鳴柱……」
獪岳。
カナヲは、彼の背中を思い出す。
そして。
縁側に残された二つの湯呑み。
「……」
まさか。
そう思った瞬間。
「カナヲ?」
「はい」
「どうしました?」
「いえ……何でもありません」
しのぶは微笑む。
「そうですか」
カナヲは掃除を続ける。
だが。
頭の中では、昨日のことを考えていた。
――夜遅くまで、しのぶと獪岳が二人きり。
――朝、しのぶの目が赤い。
――縁側には二つの湯呑み。
そして。
最近、獪岳が蝶屋敷へ来る回数が増えている。
「……」
カナヲの手が止まる。
「……もしかして」
小さく呟いた。
「姉さんと……獪岳さん」
「何か言いました?」
「……何でもありません」
カナヲは再び掃除を始めた。
その日の昼。
「こんにちは」
「……!」
門から声がする。
カナヲが振り返る。
そこにいたのは。
「獪岳さん」
「カナヲか」
獪岳だった。
「しのぶは?」
「姉さんなら、薬室にいます」
「そうか」
「……」
カナヲは獪岳を見る。
獪岳はいつも通り。
無愛想。
だが。
以前とは少し違う。
「獪岳さん」
「何だ?」
「最近、よく来ますね」
「……」
「蝶屋敷に」
「そうだな」
「どうしてですか?」
「茶を飲みに来てる」
「……」
カナヲはじっと獪岳を見る。
「それだけですか?」
「……」
「?」
獪岳は僅かに目を逸らした。
「それだけだ」
「そうですか」
カナヲは頷く。
だが。
その時。
「獪岳さん?」
しのぶが薬室から出てきた。
獪岳の姿を見た瞬間。
「まあ」
しのぶの顔が、ぱっと明るくなる。
「来てくださったんですね」
「ああ」
「今日は怪我は?」
「ない」
「では、お茶を用意しますね」
「頼む」
二人の会話。
それを見て。
カナヲは確信した。
「……」
姉さん。
獪岳さんが来ると――。
いつもより少しだけ嬉しそう。
いつもの笑顔とは違う。
もっと自然な笑顔。
カナヲは静かに二人を見つめる。
「……なるほど」
「カナヲ?」
「はい」
「どうしました?」
「何でもありません」
カナヲは微笑んだ。
その日の夕方。
カナヲは一人で庭にいた。
「……姉さん」
しのぶが隣に座る。
「どうしました?」
「獪岳さんのこと」
「……!」
しのぶの肩が僅かに揺れた。
「何でしょう?」
「姉さん」
カナヲはまっすぐ見る。
「獪岳さんのこと、好きですか?」
「…………」
しのぶが固まった。
「カ、カナヲ?」
「はい」
「どうして、そんなことを?」
「分かります」
「……何がです?」
「姉さんが、獪岳さんを見る時の顔」
「……」
しのぶは頬を僅かに赤くする。
「そんな顔……していましたか?」
「はい」
「……困りましたね」
しのぶは苦笑する。
「カナヲには敵いませんね」
「じゃあ……」
カナヲは少しだけ期待するように尋ねる。
「好きなんですか?」
しのぶはしばらく黙っていた。
そして。
「……まだ、分かりません」
「……」
「ただ」
しのぶは月を見上げる。
「獪岳さんの前では、無理に笑わなくてもいい気がするんです」
カナヲは黙って聞いている。
「泣いても」
「……」
「怒っても」
「……」
「弱音を吐いても」
しのぶは少しだけ笑う。
「そのままでいいと言ってくれる人ですから」
「……」
カナヲは理解した。
姉さんが獪岳を特別に思っている理由。
それは――。
「安心するんですね」
「……はい」
しのぶは小さく頷いた。
カナヲは微笑む。
「なら、いいと思います」
「え?」
「姉さんが笑ってるから」
「……」
「今の姉さんの笑顔は、前より自然です」
しのぶの目が少し潤む。
「カナヲ……」
「はい」
「ありがとう」
その夜。
獪岳が帰った後。
カナヲはしのぶの隣に座る。
「姉さん」
「何ですか?」
「次に獪岳さんが来たら――」
「はい?」
「ちゃんと笑ってください」
「……」
「無理してじゃなくて」
しのぶは目を丸くする。
そして。
「……ふふ」
優しく笑った。
「はい」
カナヲはその笑顔を見て、確信する。
二人はまだ恋人ではない。
けれど。
二人の間には、確かに特別なものがある。
そしてカナヲは。
それを誰よりも静かに見守ることにした。
「……姉さんが幸せなら、それでいい」
小さな呟きは。
夜の蝶屋敷に静かに溶けていった。