昼下がりの蝶屋敷。
縁側では、獪岳が一人で茶を飲んでいた。
「……」
静かな庭を眺めながら、湯呑みを傾ける。
最近、蝶屋敷へ来ることが増えた。
理由は――。
「獪岳さん」
「……ん?」
背後から、しのぶの声。
「お茶のおかわりはいかがですか?」
「ああ。頼む」
「はい」
しのぶが湯呑みを受け取る。
そのやり取りも、今ではすっかり自然になっていた。
「……」
そんな二人を、少し離れた場所から見ている少女がいた。
栗花落カナヲ。
カナヲは二人を眺めながら、静かに考えていた。
――やっぱり。
姉さんは、獪岳さんといる時が一番自然だ。
笑顔も。
声も。
雰囲気も。
いつもの姉とは少し違う。
そして。
自分も――。
獪岳という男を嫌いではなかった。
むしろ。
「……優しい人」
以前、獪岳が負傷した隊士を気遣っているところを見た。
口調は厳しい。
表情も険しい。
だが。
誰よりも仲間のことを考えている。
カナヲは、そんな彼を見ていた。
「……」
そして。
一つの決意をする。
「……言おう」
カナヲは立ち上がった。
「獪岳さん」
「ん?」
カナヲが正面に立つ。
「どうした?」
「少し、話があります」
「俺に?」
「はい」
しのぶも振り返る。
「カナヲ?」
「姉さんは、少し待っていてください」
「……?」
しのぶは不思議そうに首を傾げた。
カナヲは獪岳を見る。
「獪岳さん」
「ああ」
「私からお願いがあります」
「何だ?」
カナヲは真剣な表情で言った。
「お義兄ちゃんになってほしいです」
「…………」
時間が止まった。
「…………は?」
獪岳の目が点になる。
しのぶも固まった。
「カ、カナヲ!?」
「はい」
「い、今……何て?」
「お義兄ちゃんになってほしい、と」
「な、何を言ってるんですか!?」
しのぶの顔が一気に赤くなる。
「どうして私まで恥ずかしくならなきゃいけないんですか!」
「姉さんが獪岳さんのことを大切にしているからです」
「……!」
しのぶの顔がさらに赤くなる。
「そ、そういう意味では――」
「違うんですか?」
「……」
しのぶは言葉に詰まる。
獪岳は二人を交互に見る。
「待て」
「はい」
「話が全く分からない」
「簡単です」
カナヲは真剣だった。
「姉さんと仲良くしている」
「……ああ」
「姉さんを泣かせない」
「……ああ」
「姉さんを笑顔にしてくれる」
「……」
「だから」
カナヲはまっすぐ獪岳を見る。
「お義兄ちゃんになってほしいです」
獪岳は額を押さえた。
「……気が早すぎるだろ」
「そうですか?」
「ああ」
「でも、姉さんは獪岳さんといる時、嬉しそうです」
「……」
獪岳はしのぶを見る。
しのぶは真っ赤になったまま、俯いている。
「……」
「姉さん」
「……はい」
「否定しないんですか?」
「……今は、何を言えばいいのか分かりません」
「そうですか」
カナヲは頷く。
「では、私は本気でお願いしています」
「……カナヲ」
獪岳が口を開く。
「俺は――」
言葉を探す。
「しのぶを幸せにできるかなんて、分からない」
しのぶが顔を上げる。
「獪岳さん……」
「俺は柱だ」
「……」
「鬼と戦う以上、いつ死ぬか分からない」
「……」
「だから、軽々しく『守る』なんて言えない」
カナヲは静かに聞いている。
「だが」
獪岳はしのぶを見る。
「俺は、こいつが無理して笑っているのを見たくない」
しのぶの目が揺れる。
「泣きたいなら泣けばいい」
「……」
「怒りたいなら怒ればいい」
「……」
「笑いたい時だけ笑えばいい」
獪岳は静かに言った。
「俺は、それでいいと思ってる」
しのぶは目を伏せる。
「……本当に、ずるい人ですね」
「何が?」
「そんなことを言われたら……」
しのぶは小さく笑った。
「もっと好きになってしまうじゃないですか」
「…………」
今度は獪岳が固まった。
「しのぶさん」
カナヲが小さく笑う。
「今、顔が赤いですよ」
「カナヲ!」
「ふふ」
珍しく、カナヲが楽しそうに笑った。
獪岳は咳払いをする。
「……とにかく」
「はい」
「お義兄ちゃんになるかどうかは、まだ早い」
「分かりました」
カナヲは素直に頷く。
だが。
「でも」
「何だ?」
「いつか、なってくださいね」
「……」
獪岳は答えに困った。
しのぶも困ったように笑う。
そして。
「……カナヲ」
「はい?」
「そういうことは、もう少し大人になってから言いましょうね」
「分かりました」
「本当に分かっていますか?」
「はい」
カナヲは頷く。
それから、獪岳を見て。
「でも」
「……まだあるのか」
「はい」
「何だ?」
「私は、獪岳さんのことを嫌いじゃありません」
「……そうか」
「むしろ、好きです」
「……」
「だから――」
カナヲは微笑む。
「いつか、本当にお義兄ちゃんになってくれたら嬉しいです」
獪岳はしばらく黙っていた。
やがて。
「……分かった」
「!」
「その時が来たら、考える」
カナヲの顔が嬉しそうに輝く。
「約束です」
「ああ」
「絶対ですよ?」
「分かった」
「ふふ」
カナヲが去っていく。
その背中を見送った獪岳は、深いため息をついた。
「……とんでもないことを言う奴だな」
「すみません……」
しのぶが申し訳なさそうに頭を下げる。
「私からも謝ります」
「お前が謝ることじゃない」
「でも……」
獪岳はしのぶを見る。
「……」
「……何ですか?」
「さっきの」
「はい?」
「好きっていうのは……」
しのぶの顔が再び赤くなる。
「……聞いていたんですか?」
「聞こえただけだ」
「……忘れてください」
「無理だ」
「もう……」
しのぶは困ったように笑う。
獪岳も、少しだけ笑った。
「……まあ」
「はい?」
「悪い気はしない」
「……!」
しのぶの瞳が大きくなる。
「それは……」
「ああ」
獪岳は立ち上がる。
「俺も、お前といる時間は嫌いじゃない」
「……」
しのぶは胸元に手を当てる。
「それだけで十分です」
「そうか」
「はい」
二人の間に、穏やかな空気が流れる。
その少し離れた場所。
カナヲは柱の陰から、こっそり二人を見ていた。
「……」
そして。
小さく頷く。
「やっぱり」
姉さんは幸せそうだ。
だったら――。
「いつか、本当に」
カナヲは小さく笑った。
「お義兄ちゃんになってもらおう」
その日。
蝶屋敷では、新たな目標が一つ生まれた。
鳴柱・獪岳。
そして蟲柱・胡蝶しのぶ。
二人の距離は――。
確実に、恋へと近づき始めていた。