夕暮れの蝶屋敷。
西日が庭を橙色に染め、藤の花が風に揺れている。
「……」
獪岳は縁側に座っていた。
今日は任務帰りだった。
特に怪我はない。
だが――。
「獪岳さん、お疲れ様です」
しのぶが湯呑みを二つ持ってやって来る。
「……ああ」
「今日は少し疲れているようですね」
「そう見えるか?」
「はい」
「柱だからな。任務が続けば疲れる」
「ふふ。柱でも疲れるんですね」
「当たり前だ」
「そうでした」
しのぶは隣に腰を下ろした。
「お茶です」
「ありがとう」
湯呑みを受け取る。
二人で静かに茶を飲む。
「……」
穏やかな時間。
最近では、これが当たり前になりつつあった。
獪岳が蝶屋敷へ来る。
しのぶがお茶を淹れる。
二人で話す。
時には何も話さない。
それだけなのに。
二人にとっては、不思議と心が落ち着く時間だった。
「獪岳さん」
「何だ?」
「この前、カナヲが変なことを言っていましたね」
「……お義兄ちゃんか」
「はい……」
しのぶの顔が少し赤くなる。
「本当に、あの子には困ったものです」
「そうか?」
「そうですよ」
「俺は嫌じゃなかったが」
「……」
しのぶの動きが止まる。
「え?」
「別に」
「今、何と?」
「聞き間違いだ」
「聞き間違いじゃありません」
しのぶは笑う。
「もう一度言ってください」
「断る」
「ふふ」
その笑顔を見て。
獪岳は、ふと目を細めた。
「……」
「どうしました?」
「いや」
「何か気になります?」
「ああ」
「何でしょう?」
獪岳はしのぶの顔を見る。
「今の笑い方」
「……?」
「前と違う」
しのぶは目を瞬かせる。
「そうですか?」
「ああ」
「どこが?」
「分からん」
「またですか?」
「ただ」
獪岳は少しだけ言葉を選ぶ。
「今のは、自然に見える」
しのぶが黙る。
「……」
やがて。
「そうかもしれません」
小さく呟いた。
「最近、笑うのが少し楽になったんです」
「そうか」
「以前は、笑わなきゃと思っていました」
「……」
「でも今は」
しのぶは獪岳を見る。
「笑いたいから笑うことも増えました」
「それでいい」
「はい」
しのぶは微笑んだ。
その時。
「しのぶー!」
屋敷の奥から声がする。
アオイだった。
「患者さんが呼んでます!」
「分かりました!」
しのぶは立ち上がる。
「少し行ってきますね」
「ああ」
しのぶが屋敷へ入っていく。
しばらくして。
「……」
獪岳は一人で庭を眺めていた。
すると。
庭の向こうから、小さな子供が走ってくる。
蝶屋敷で治療を受けている隊士の弟だった。
「お兄ちゃん!」
「……?」
「お姉ちゃん!」
子供はしのぶを探している。
「胡蝶なら奥だ」
「ありがとう!」
子供は走っていく。
その直後。
「危ないですよ!」
しのぶの声。
子供が庭の段差に躓いた。
「わっ!」
「!」
獪岳が立ち上がる。
だが。
子供を抱き上げたのは、しのぶだった。
「大丈夫ですか?」
「うん……」
「怪我はありませんね」
「うん!」
「よかった」
しのぶは子供の頭を撫でる。
「偉いですよ」
「えへへ」
子供が笑う。
「しのぶお姉ちゃん、大好き!」
「まあ」
しのぶは笑った。
「私も大好きですよ」
その笑顔を見て。
獪岳は、思わず目を奪われた。
――違う。
今まで見てきた笑顔とは。
明らかに違う。
作っていない。
誰かを安心させるためでもない。
義務でもない。
ただ。
嬉しくて。
愛しくて。
自然に零れた笑顔。
「……」
獪岳は初めて見た。
胡蝶しのぶの――。
本当の笑顔。
子供が去っていく。
「……」
しのぶはその背中を見送る。
そして。
振り返る。
「獪岳さん?」
「……」
「どうしました?」
「いや」
「?」
獪岳は少し迷った。
だが。
「……今の」
「はい?」
「いい笑顔だった」
しのぶの目が丸くなる。
「……」
そして。
頬が少し赤くなる。
「見ていたんですか?」
「ああ」
「……恥ずかしいですね」
「何でだ?」
「だって……」
しのぶは俯く。
「そんなにじっと見られると思っていませんでしたから」
「……」
「どうでした?」
「何が?」
「……笑顔」
獪岳は少し考える。
そして。
「一番好きだ」
「……!」
しのぶの顔が一気に赤くなる。
「か、獪岳さん……」
「……」
「それは……」
「何だ?」
「反則ですよ」
「何が?」
「そんなこと、真顔で言うなんて……」
獪岳は少し首を傾げる。
「本当のことを言っただけだ」
「……もう」
しのぶは両手で顔を覆った。
「本当に、ずるい人ですね」
「またそれか」
「だって……」
指の隙間から獪岳を見る。
「嬉しいんですから」
獪岳は黙った。
だが。
ほんの僅かに口元が緩んだ。
「……そうか」
「はい」
しのぶは手を下ろす。
そして。
今度は獪岳に向かって笑った。
「では」
「ん?」
「もう一度、見せてあげます」
「何を?」
「本当の笑顔」
しのぶは目を細める。
柔らかく。
優しく。
そして何より自然に。
「……」
獪岳はその笑顔を見つめる。
「どうですか?」
「……ああ」
「気に入りました?」
「かなり」
「ふふ」
しのぶは嬉しそうに笑った。
その笑顔には、もう仮面はなかった。
怒りも。
悲しみも。
寂しさも。
全て抱えたまま。
それでも笑う。
誰かのためではなく。
自分が笑いたいから。
「獪岳さん」
「何だ?」
「これからも――」
しのぶは少しだけ照れながら言う。
「私が笑いたい時は、一緒にいてくださいね」
「……ああ」
即答だった。
「約束だ」
「……はい」
しのぶの笑顔がさらに輝く。
その姿を見ながら。
獪岳は思った。
――この笑顔だけは。
絶対に守りたい。
柱としてではない。
鬼殺隊士としてでもない。
ただ一人の男として。
その思いはまだ。
獪岳自身にも、名前をつけられなかった。
けれど。
その日。
胡蝶しのぶは初めて。
誰かのためではなく、自分自身のために笑っていた。
そしてその笑顔を――。
一番近くで見ていたのは、鳴柱・獪岳だった。