夜の蝶屋敷。
満月が庭を照らし、藤棚の影が静かに揺れていた。
縁側には、いつもの二人。
「……」
「……」
今日は、珍しくしのぶが口数少なかった。
獪岳も同じだった。
二人とも湯呑みを手にしているが、ほとんど口をつけていない。
「……獪岳さん」
「何だ?」
「今日は静かですね」
「ああ」
「何か考え事ですか?」
「……そうだな」
しのぶは首を傾げる。
「珍しいですね」
「そうか?」
「はい。獪岳さんは、思ったことをそのまま言う人だと思っていました」
「……」
獪岳は湯呑みを置いた。
「胡蝶」
「はい?」
「少し、聞いてほしい」
「……分かりました」
しのぶも姿勢を正す。
「何でしょう?」
獪岳はしばらく黙っていた。
鬼との戦いなら、何度も経験している。
上弦と対峙することだって怖くない。
だが――。
今から口にする言葉だけは。
刀を握る時よりも緊張していた。
「俺は……」
獪岳が口を開く。
「お前といる時間が好きだ」
「……」
しのぶの目が大きくなる。
「蝶屋敷に来るのも」
「……」
「お前と茶を飲むのも」
「……」
「くだらない話をするのも」
しのぶの頬が少しずつ赤くなる。
「……」
「全部、好きだ」
しのぶは黙っていた。
獪岳は続ける。
「最初は、ただ気になるだけだった」
「……」
「お前がいつも笑っていることが」
「……」
「その笑顔の奥に何か隠していることが」
しのぶの瞳が揺れる。
「でも」
獪岳はまっすぐ彼女を見る。
「お前が初めて泣いた時」
「……」
「俺は、もう放っておけないと思った」
しのぶの胸が大きく鳴る。
「……獪岳さん」
「お前が笑っているなら嬉しい」
「……」
「泣いているなら、そばにいたい」
「……」
「怒っているなら、その話を聞きたい」
獪岳は拳を握る。
「そして――」
一度、深く息を吸った。
「これからも、お前のそばにいたい」
しのぶは息を呑む。
「……」
「だから」
獪岳の声は、いつものように低く、真っ直ぐだった。
「俺は、お前が好きだ」
静寂。
庭の虫の声だけが聞こえる。
しのぶは俯いた。
「……」
頬が真っ赤になっている。
「……」
「胡蝶」
「……少し」
しのぶが顔を上げる。
「待ってください」
「ああ」
「今……頭の中が、真っ白です」
「……そうか」
「だって……」
しのぶは胸元を押さえる。
「獪岳さんが……」
「……」
「私に、そんなことを言ってくれるなんて……」
目に涙が浮かぶ。
「……嬉しくて」
「……」
「どうしたらいいのか分かりません」
獪岳は静かに待った。
急かさない。
答えを求めない。
ただ、しのぶが言葉を選ぶ時間を待つ。
やがて。
「……私も」
「……」
しのぶが小さく息を吸う。
「獪岳さんと一緒にいる時間が、大好きです」
「……!」
「初めは、少し怖い人だと思っていました」
「そうだろうな」
「でも」
しのぶは微笑む。
「本当は、とても優しい人だと知りました」
「……」
「私が泣いても」
「……」
「怒っても」
「……」
「弱音を吐いても」
しのぶは目を細める。
「受け止めてくれました」
「……」
「そんな人を、嫌いになれるわけありません」
獪岳は黙っている。
「私も――」
しのぶの声が少し震える。
「獪岳さんが好きです」
「……」
その言葉を聞いた瞬間。
獪岳の表情が僅かに緩んだ。
「……そうか」
「はい」
「よかった」
「ふふ」
しのぶが笑う。
「随分、嬉しそうですね」
「当たり前だ」
「そうですか」
「ああ」
しのぶは少しだけ照れながら。
「では……」
「ん?」
「これからは」
しのぶは獪岳を見る。
「柱同士ではなく」
「……」
「一人の女性と、一人の男性として」
「……」
「一緒にいてもいいですか?」
獪岳は答えた。
「ああ」
そして。
「俺も、そうしたい」
しのぶは嬉しそうに笑った。
「……ありがとうございます」
「何で礼を言う?」
「嬉しいからです」
二人は並んで月を見上げる。
しばらくして。
「獪岳さん」
「何だ?」
「手を……」
しのぶがそっと手を差し出す。
獪岳は一瞬戸惑った。
「……いいのか?」
「はい」
獪岳は、その手を取った。
温かい。
小さな手。
しのぶの指が、そっと絡む。
「……」
「……」
二人とも、少し照れた。
それでも。
手を離さなかった。
「獪岳さん」
「ん?」
「私、今――」
しのぶは笑う。
「とても幸せです」
「……俺もだ」
月明かりの下。
二人は静かに手を繋いでいた。
その日。
鳴柱・獪岳は――。
初めて、自分の想いを言葉にした。
そして。
胡蝶しのぶもまた。
その想いを受け入れた。
「笑顔の仮面」を脱いだ少女と。
雷のように真っ直ぐな男。
二人の関係は。
この夜から――。
「柱同士」から「恋人」へと変わった。