翌朝。
蝶屋敷には、いつもと変わらない朝が訪れていた。
鳥の声。
庭を掃く音。
薬草を整理する音。
何も変わらない。
――ただ一つ。
「……」
胡蝶しのぶは、自室の前で頬に手を当てていた。
昨夜のことを思い出す。
『俺は、お前が好きだ』
『私も――獪岳さんが好きです』
「……」
思い出すだけで、胸が熱くなる。
「……告白されてしまいましたね」
しのぶは小さく呟く。
そして。
「私も、告白してしまいました」
頬がさらに赤くなる。
今まで、鬼殺隊の柱として戦うことだけを考えてきた。
鬼への怒り。
姉の仇。
守るべき人々。
それ以外のことなど、考える余裕はなかった。
けれど。
獪岳と出会ってから。
少しずつ変わった。
笑っていない自分を見つけてくれた。
泣いている自分を受け止めてくれた。
弱音を吐いてもいいと言ってくれた。
そして――。
「好きだ」と。
真正面から伝えてくれた。
「……」
しのぶは胸元に手を当てる。
「こんな気持ち……初めてです」
その時。
「姉さん」
「!」
カナヲが廊下に立っていた。
「おはようございます」
「お、おはようございます、カナヲ」
「……」
カナヲは、しのぶをじっと見る。
「姉さん」
「何でしょう?」
「昨日、何かありましたか?」
「……」
しのぶの頬が赤くなる。
「どうしてそう思うんです?」
「顔が違います」
「……」
「いつもより、嬉しそうです」
しのぶは少し黙って。
「……カナヲには敵いませんね」
「何かあったんですね」
「はい」
しのぶは微笑む。
「昨日、獪岳さんとお話をしました」
「……告白ですか?」
「……!」
しのぶが固まる。
「な、なぜ分かるんです?」
「何となく」
「……」
しのぶは観念したように息を吐く。
「はい」
「獪岳さんが?」
「はい」
「何て言ったんですか?」
「……」
しのぶは思い出す。
『俺は、お前が好きだ』
胸がまた高鳴る。
「……好きだと」
「姉さんは?」
「私も……好きだと答えました」
カナヲの表情がぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
「はい」
「よかったです」
「……」
しのぶはカナヲを見る。
「嬉しいんですか?」
「はい」
「どうして?」
「姉さんが幸せそうだから」
その言葉に。
しのぶの目が優しく細くなる。
「……ありがとう」
「はい」
カナヲは少し考える。
「じゃあ」
「はい?」
「お義兄ちゃん、決まりですね」
「カナヲ!」
しのぶの顔が真っ赤になる。
「まだです!」
「でも、二人とも好きなんですよね?」
「それは……そうですが」
「なら、ほとんど決まりです」
「……」
しのぶは言い返せない。
「ふふ」
カナヲは楽しそうに笑った。
その日の昼。
蝶屋敷の門から、聞き慣れた声が響く。
「……しのぶ」
「!」
しのぶが振り返る。
そこには獪岳が立っていた。
「おはようございます」
「ああ」
「今日は早いですね」
「任務の前に寄った」
「そうですか」
しのぶは自然に微笑む。
「お茶、飲みますか?」
「ああ」
二人で縁側に座る。
昨日までと同じ場所。
けれど。
昨日までとは、何かが違う。
「……」
「……」
互いに意識してしまう。
獪岳が口を開く。
「昨日のこと」
「……はい」
「本当に、いいのか?」
しのぶは彼を見る。
「何がです?」
「俺と付き合うこと」
しのぶは少し考える。
そして。
「はい」
迷いなく答えた。
「私は、獪岳さんが好きです」
「……」
「昨日の答えは、嘘ではありません」
獪岳は静かに頷く。
「そうか」
「はい」
「……よかった」
「ふふ」
しのぶは笑う。
「そんなに心配していたんですか?」
「ああ」
「意外です」
「俺だって心配くらいする」
「そうですね」
しのぶは湯呑みを置く。
「獪岳さん」
「何だ?」
「私、少し怖いんです」
「……何が?」
「幸せになること」
獪岳は黙る。
「大切なものが増えたら」
しのぶは自分の手を見る。
「失うのが怖くなるから」
「……」
「姉さんを失った時、私は何もできませんでした」
「……」
「だから、また大切な人ができたら……」
声が少し震える。
「その人まで失ってしまうんじゃないかって」
獪岳はしのぶの手に、自分の手を重ねた。
「……!」
「俺は死なない」
「……」
「簡単に死ぬつもりはない」
「獪岳さん……」
「柱になったからには、生きて帰る」
「……はい」
「お前を悲しませるつもりもない」
しのぶは少し笑う。
「約束ですか?」
「ああ」
「では、私も」
「何だ?」
「勝手に死なないでください」
「ああ」
「無茶もしないでください」
「……努力する」
「そこは『はい』でしょう?」
「……はい」
しのぶは思わず笑った。
「ふふ」
「何だ?」
「嬉しいんです」
「そうか」
「私、今まで……」
しのぶは空を見上げる。
「こんなふうに誰かの無事を願うことが、怖いだけじゃないんだって初めて知りました」
「……」
「心配するのも」
「……」
「帰りを待つのも」
しのぶは獪岳を見る。
「幸せなんですね」
獪岳は頷いた。
「ああ」
しのぶは笑う。
「では」
「ん?」
「今日から、ちゃんと恋人ですね」
「……そうだな」
二人の手は、いつの間にか重なっていた。
「獪岳さん」
「何だ?」
「改めて言わせてください」
しのぶはまっすぐ彼を見る。
「私は、あなたが好きです」
獪岳は少しだけ目を細める。
「俺もだ」
「……ふふ」
その笑顔には、もう仮面はなかった。
誰かのために作った笑顔でもない。
悲しみを隠すための笑顔でもない。
ただ。
愛する人と一緒にいられることが嬉しい。
その気持ちから自然に生まれた笑顔。
「……綺麗だな」
「え?」
「その笑顔」
しのぶは少し驚いて。
そして。
「ありがとうございます」
柔らかく笑った。
こうして。
胡蝶しのぶは、自分自身の心に答えを出した。
鬼への憎しみだけを抱えて生きるのではなく。
失うことを恐れて、愛することから逃げるのでもなく。
大切な人と共に、生きる。
その相手は――。
鳴柱・獪岳。
二人はまだ、鬼殺隊の柱。
いつ命を落とすかも分からない。
それでも。
「生きて帰ってきてくださいね」
「ああ」
「待っていますから」
「分かった」
その約束を胸に。
二人は新しい一歩を踏み出した。
「胡蝶しのぶの答え」は――。
「獪岳と共に生きる」。
それだった。