鬼が寺を襲った夜から、数日が経った。
寺は、少しずつ日常を取り戻していた。
壊された門は修繕され、抉られた地面も埋め戻された。
子供たちも、最初こそ夜を怖がっていたものの、今では再び笑い声を響かせている。
けれど。
一つだけ。
以前とは明確に違うものがあった。
悲鳴嶼行冥と、獪岳の間にある空気だった。
「獪岳」
「はい」
「今日は山へ薪を取りに行く」
「分かりました」
「子供たちも連れていく」
「じゃあ俺が先に道を見ます」
「ああ。頼む」
以前なら、こんな会話すらなかった。
悲鳴嶼は獪岳を警戒していた。
獪岳もまた、悲鳴嶼に対してどこか距離を置いていた。
理由は――。
原作で起きる悲劇。
そして、その悲劇の後。
悲鳴嶼が獪岳を疑い、寺の金を盗んだと思い込む未来。
だが。
「……もう、変わり始めてる」
獪岳は小さく呟いた。
「何か言ったか?」
「何でもありません」
それでも。
まだ一つだけ。
獪岳の胸に引っかかっているものがあった。
悲鳴嶼の目だ。
優しくなった。
信頼してくれている。
けれど。
完全に何もかもが消えたわけではない。
「……仕方ねぇか」
獪岳は思う。
自分だって、いきなり全てを信じられるわけではない。
まして悲鳴嶼にとっては、自分はただの寺の子供の一人。
しかも、原作では――。
「……いや」
獪岳は首を振った。
もう原作ではない。
ここからは、自分の物語だ。
その日の夕方。
薪を運び終えた頃。
悲鳴嶼が声をかけた。
「獪岳」
「はい?」
「少し、話がある」
「……?」
珍しく真剣な声音だった。
「こちらへ来なさい」
「分かりました」
二人は境内の端へ移動した。
夕日が山の向こうへ沈み始めている。
「……何ですか?」
悲鳴嶼は、しばらく黙っていた。
やがて。
「私は、お前を疑っていた」
獪岳の表情が止まった。
「……え?」
「以前の私は、お前の言葉や態度を素直に受け取れなかった」
悲鳴嶼は数珠を握る。
「お前は口が悪い」
「……それは否定できません」
「負けず嫌いで、他者と衝突することも多かった」
「……はい」
「だから私は、お前が自分のことしか考えていないのではないかと思っていた」
獪岳は黙った。
胸の奥が少し痛む。
「……そう、ですよね」
「だが」
悲鳴嶼は続けた。
「私は間違っていた」
「…………」
「鬼が寺を襲った夜」
悲鳴嶼の声が震えた。
「お前は、真っ先に子供たちのことを考えた」
「…………」
「自分が傷ついても、子供たちの前から退かなかった」
「…………」
「そして今日も」
悲鳴嶼は獪岳を見る。
「誰よりも先に山道を確認し、子供たちが安全に歩けるようにしていた」
獪岳は視線を落とした。
「……当たり前のことをしただけです」
「当たり前ではない」
「…………」
「お前は、誰かを守ろうとしている」
その言葉に。
獪岳の胸が詰まった。
悲鳴嶼は一歩近づく。
「だから私は――」
一度、深く息を吸う。
「お前を疑ったことを、私は悔いている」
「……!」
獪岳の目が見開かれた。
「悲鳴嶼さん……」
「すまなかった」
深く頭を下げる。
獪岳は慌てた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「…………」
「頭、上げてください!」
「だが――」
「俺、そんなことで怒ってません!」
「しかし」
「俺だって!」
獪岳は声を詰まらせる。
「俺だって……悲鳴嶼さんを疑ってました」
「…………」
「俺は、この先で起こることを知ってるから」
言えない。
前世の記憶があることは。
原作のことも。
それでも。
「悲鳴嶼さんが俺を疑う未来があるって知ってた」
悲鳴嶼が息を呑む。
「だから……最初は怖かった」
「…………」
「いつか、俺のことを見捨てるんじゃないかって」
獪岳の拳が震える。
「でも」
顔を上げる。
「もう、いいです」
「……獪岳」
「俺も、あなたを信じます」
悲鳴嶼の目から、涙が落ちた。
「……ありがとう」
「泣かないでくださいよ」
「すまない」
「だから、それ言うの禁止です」
獪岳は苦笑した。
「俺たち、もう仲間でしょう?」
その一言。
悲鳴嶼はしばらく黙っていた。
そして。
「……そうだな」
大きな手が。
獪岳の頭に乗った。
「え」
優しく。
ゆっくりと撫でる。
「これからも、よろしく頼む」
「…………」
獪岳は驚いた。
そして。
「……はい」
小さく答えた。
「こちらこそ」
その時。
寺の方から声が聞こえた。
「獪岳兄ちゃーん!」
「何だ!」
「ご飯できたよー!」
「今行く!」
「悲鳴嶼さんも!」
「うむ」
獪岳が走り出す。
だが。
数歩進んだところで、振り返った。
「悲鳴嶼さん!」
「何だ?」
「今日から!」
獪岳は笑う。
「もっと頼ってください!」
悲鳴嶼は微笑んだ。
「ああ」
「俺も頼りますから!」
「うむ」
「じゃあ行きましょう!」
「待ちなさい。走ると転ぶぞ」
「子供じゃないんですから!」
「まだ子供だ」
「違います!」
二人の声が。
夕暮れの寺に響き渡った。
その夜。
食事の席。
「獪岳兄ちゃん、今日なんか嬉しそう!」
「そうか?」
「うん!」
「別に」
「悲鳴嶼さんも嬉しそう!」
「そうか?」
「うん!」
悲鳴嶼は静かに笑った。
獪岳も。
ほんの少しだけ笑った。
誰も知らない。
この日。
二人の間にあった最後の壁が消えたことを。
そして――。
後に鳴柱となる獪岳にとって。
悲鳴嶼行冥は、単なる恩人ではなくなる。
父のように慕う存在。
そして悲鳴嶼にとって獪岳は。
守るべき弟子でも、寺の子供の一人でもない。
「我が息子」
そう呼べるほどの存在になっていく。
すべての始まりは。
この夕暮れだった。
【大正コソコソ噂話】
この日から、悲鳴嶼と獪岳は以前よりも一緒にいる時間が増えた。
子供たち曰く。
「悲鳴嶼さんと獪岳兄ちゃん、親子みたい!」
「違います!」
獪岳は即座に否定。
しかし別の日。
「獪岳、ちゃんと食べているか?」
「食べてます」
「夜更かししていないか?」
「してません」
「無理な鍛錬は?」
「……してません」
「本当か?」
「…………少しだけ」
「獪岳」
「はい……」
――完全に父親と息子である。
なお、子供たちの間では密かに、
「獪岳兄ちゃんは悲鳴嶼さんの息子!」
という認識が定着した。
獪岳本人だけが最後まで認めなかったという。
――大正コソコソ噂話・終。