蝶屋敷の朝。
縁側に座る獪岳の前へ、しのぶが湯呑みを置いた。
「どうぞ」
「ああ」
「今日は少し濃いめに淹れてみました」
「……分かるのか?」
「もちろんです」
しのぶは隣に腰を下ろす。
「恋人の好みくらい、覚えておきたいですから」
「……」
獪岳の手が止まった。
「何ですか?」
「いや……」
「顔、赤いですよ?」
「赤くない」
「ふふ」
しのぶが楽しそうに笑う。
「恋人、という言葉に慣れていないんですね」
「……昨日まで、そういう関係じゃなかったからな」
「そうですね」
しのぶは嬉しそうに頷く。
「でも、今日からは恋人です」
「……ああ」
獪岳は湯呑みを口に運ぶ。
「うまい」
「ありがとうございます」
二人の間に、穏やかな時間が流れる。
以前と同じ蝶屋敷。
同じ縁側。
同じお茶。
それなのに――。
何もかもが違って見えた。
「獪岳さん」
「何だ?」
「恋人になったら、何をするんでしょう?」
「……俺に聞くな」
「ふふ。獪岳さんも分からないんですね」
「経験がない」
「私もです」
「……」
二人とも黙る。
そして。
同時に笑った。
「では」
しのぶが少し考える。
「一緒にお茶を飲む」
「ああ」
「一緒に食事をする」
「ああ」
「任務から帰ったら、お互いに『おかえりなさい』と言う」
「……それもいいな」
「ですよね」
しのぶは嬉しそうに笑う。
「そして――」
「まだあるのか?」
「はい」
しのぶは少し照れながら。
「手を繋ぐ」
獪岳は彼女を見る。
「……」
しのぶがそっと手を差し出す。
「嫌ですか?」
「いや」
獪岳はその手を取った。
「嫌じゃない」
指が重なる。
「……温かいですね」
「お前の手もな」
「ふふ」
しのぶはそのまま手を握る。
「こうしていると……」
「何だ?」
「本当に恋人になったんだなって思います」
「……そうだな」
そこへ。
「姉さん」
「!」
二人が振り返る。
カナヲが立っていた。
そして。
繋がれた二人の手を見る。
「……」
しばらく沈黙。
「……お義兄ちゃん」
「まだ早い」
獪岳が即答した。
「ふふ」
しのぶが笑う。
「カナヲ、朝から何を言っているんですか」
「でも、恋人になったんですよね?」
「……はい」
しのぶは少し恥ずかしそうに頷く。
カナヲは嬉しそうに微笑んだ。
「よかったです」
「ありがとう、カナヲ」
「はい」
カナヲは二人を見て。
「姉さん、昨日より嬉しそうです」
「……そうですか?」
「はい」
獪岳がしのぶを見る。
「俺もそう思う」
「もう……」
しのぶは頬を赤くする。
「二人とも、そんなに見ないでください」
カナヲが微笑む。
「姉さん」
「はい?」
「その笑顔、好きです」
「……」
しのぶの目が少し潤む。
「ありがとう」
カナヲは屋敷の中へ戻っていく。
二人きりになった縁側。
しのぶは獪岳を見る。
「……嬉しいですね」
「ああ」
「こうして、私のことを見てくれる人がいる」
「……」
「帰りを待ってくれる人がいる」
「俺は必ず帰る」
「はい」
「お前もな」
「もちろんです」
しのぶは手を握り直す。
「二人で生きて帰りましょう」
「ああ」
その言葉は。
二人にとって、恋人としての最初の約束になった。
しかし。
鬼殺隊の任務は、そんな二人の幸せを待ってはくれない。
「獪岳さん」
「ん?」
「次の任務は、いつですか?」
「今夜だ」
「……そうですか」
しのぶの笑顔が少しだけ曇る。
獪岳はそれに気づく。
「心配か?」
「はい」
「俺もだ」
「え?」
「お前が任務に行く時は、俺も心配する」
しのぶは少し驚いて。
そして笑った。
「……嬉しいです」
「そうか」
「心配してくれる人がいるって、こんなに嬉しいんですね」
「ああ」
獪岳は立ち上がる。
「じゃあ、行ってくる」
「はい」
しのぶも立ち上がる。
「気をつけてくださいね」
「ああ」
「必ず帰ってきてください」
「約束する」
獪岳が歩き出す。
その背中に。
「獪岳さん」
「ん?」
しのぶが小さく手を振った。
「いってらっしゃい」
獪岳は振り返る。
「……ああ」
そして。
「行ってくる、しのぶ」
その呼び方に。
しのぶの瞳が大きくなる。
今まで。
「胡蝶」と呼ばれていた。
初めてだった。
「しのぶ」と。
名前で呼ばれたのは。
「……はい」
しのぶは満面の笑みを浮かべる。
「いってらっしゃい、獪岳さん」
その笑顔は。
もう仮面ではない。
愛する人を送り出す、一人の女性の笑顔だった。
獪岳はその笑顔を胸に刻み。
夜の任務へ向かっていく。
――恋人になった二人。
それは幸せであると同時に。
互いの命を心配する日々の始まりでもあった。
それでも。
二人は約束した。
必ず、生きて帰る。
愛する人のもとへ。
「ただいま」と言うために。