夕暮れ時の蝶屋敷。
「……」
縁側に座る獪岳は、庭を眺めていた。
任務から戻ってきたばかりだった。
「おかえりなさい、獪岳さん」
「……ただいま、しのぶ」
その呼び方にも、少しずつ慣れてきた。
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「ああ」
しのぶは獪岳の腕や肩を確認する。
「……大丈夫そうですね」
「心配しすぎだ」
「恋人ですから」
「……」
獪岳は少しだけ顔を逸らす。
「まだ慣れないな」
「何がです?」
「その呼び方」
「恋人?」
「ああ」
しのぶは楽しそうに笑った。
「では、もっと呼びましょうか?」
「やめろ」
「ふふ」
その時。
廊下から足音が聞こえてくる。
「姉さん!」
カナヲだった。
二人は自然と少し距離を取る。
「獪岳さん、お帰りなさい」
「ああ」
カナヲは二人を見る。
「……」
「どうしました?」
しのぶが尋ねる。
「何でもありません」
カナヲは小さく笑う。
「夕食の準備を手伝ってきます」
「お願いしますね」
カナヲが去っていく。
再び二人きり。
「……」
獪岳が呟く。
「見られてたな」
「何をです?」
「さっき」
「手を繋いでいたことですか?」
「ああ」
しのぶは少し頬を赤くする。
「……人目があると、少し恥ずかしいですね」
「そうか?」
「はい」
「俺は別に」
「獪岳さんは平気なんですね」
「お前が嫌なら控える」
「……」
しのぶは優しく笑う。
「そういうところですよ」
「何が?」
「優しいところです」
「……」
しのぶは少し考える。
「でも」
「ん?」
「人目がないところなら……」
そこで言葉を止める。
「……?」
獪岳が首を傾げる。
しのぶは頬を赤くしながら続けた。
「もう少し、恋人らしくしてもいいかなって」
「……」
獪岳も少し黙る。
「例えば?」
「例えば……」
しのぶはそっと手を差し出した。
「こうして、手を繋ぐとか」
獪岳はその手を取る。
「それならいつでもできる」
「はい」
しのぶは嬉しそうに指を絡める。
「それから……」
「まだあるのか?」
「あります」
しのぶは少しだけ獪岳の肩へ近づく。
「こうして、隣に座るとか」
「……それだけ?」
「それだけでも、十分嬉しいですよ」
獪岳はしのぶを見る。
「……じゃあ」
「はい?」
獪岳は少しだけ距離を縮めた。
肩が触れる。
しのぶの頬が赤くなる。
「……近いですね」
「嫌か?」
「いいえ」
しのぶは小さく首を振る。
「むしろ……嬉しいです」
しばらく、二人は肩を寄せたまま庭を眺めていた。
「……静かですね」
「ああ」
「こうして二人だけでいると、不思議な感じがします」
「何が?」
「今までなら、柱同士として話していたのに」
「今は?」
しのぶは獪岳を見る。
「恋人です」
「……そうだな」
「ふふ」
しのぶは微笑む。
「獪岳さん」
「何だ?」
「もう少しだけ、近くにいてもいいですか?」
「ああ」
しのぶはそっと獪岳の肩に頭を預けた。
「……」
獪岳は少し驚いたが、そのまま動かなかった。
「落ち着きます」
「そうか」
「はい」
「俺もだ」
「……本当ですか?」
「ああ」
しのぶは嬉しそうに目を閉じる。
「こういう時間、好きです」
「俺も好きだ」
「……」
「だから、また作ろう」
「はい」
二人だけの静かな時間。
誰にも見られていないからこそ。
しのぶは、いつもの笑顔を作る必要もなかった。
獪岳もまた、柱として振る舞う必要がなかった。
ただ一人の男と、一人の女性。
「……しのぶ」
「はい?」
「これからも、こうしていよう」
「……はい」
しのぶは顔を上げる。
そして。
「獪岳さん」
「ん?」
「大好きです」
「……」
一瞬だけ驚いた獪岳だったが。
「俺もだ」
そう答えた。
しのぶは嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ながら、獪岳は思った。
人目のない場所で見せる、この笑顔。
それはきっと。
自分だけが知っている、特別な笑顔なのだろう。
「……しのぶ」
「はい?」
「その顔、好きだ」
「……もう」
しのぶは照れながら、再び肩を預けた。
二人の間に言葉はなくても。
繋いだ手が、その気持ちを伝えていた。