【老父の凶行】
「待ってて、おとうを連れてくるよ。勇太も挨拶しておくれ」
そう弾むような声を残し、なつめは庵の奥へと小走りで飛び出していった。
だが、勇太の表情は険しかった。川の向こうの山肌を見上げれば、気配はすでに変わり始めている。高僧が山を降りてくるのはもう時間の問題だ。一刻も早くこの地を去らなければならない。
(とりあえず、父親に事情を説明するか……)
法師がなつめを探すのを諦めてどこかへ去るまでの間、とりあえず一ヶ月ほどこの地を離れ、ほとぼりが冷めた頃に改めてなつめの処遇を相談しに戻ればいい。そうすれば、あの高僧の手にかかってなつめが消される最悪の事態だけは避けられるはずだ。
そう考えた矢先、草むらからガサリと音を立てて一人の男が現れた。そこに立っていたのは、彼女の父親だった。
「なつめから全て話を聞きました。……なつめは山で待っておるので、一緒に来てくださらんか」
静まり返った声には、妙な圧があった。
実は父親は、先ほどの勇太となつめの会話を、物陰からそっと盗み聞きしていたのだ。
――この若い男が、自分の手からなつめを連れ去ってしまうのではないか。自分を置いて、二人だけでどこかへ逃げてしまうのではないか。
老いた父親の胸のうちは、娘への歪んだ執着と、愛しい我が子を奪われるかもしれないという焦燥と恐怖で、黒く塗りつぶされようとしていた。
なつめの父親は、言葉少なに前を歩き、どんどん山奥へと入っていく。
(こんな山奥に、なつめを待たせているのか……?)
妙な胸騒ぎを覚え、不審に思いつつも勇太は黙って男の後をついていった。
早く追いついてなつめの姿を確かめたい。こんな所で高僧と出くわしたら、取り返しのつかない事になってしまう。勇太の意識はどうしても前方の気配や、なつめの姿を探すことにばかり向けられていた。――父への警戒心が、わずかに緩んでいたその瞬間だった。
突如、背後から鈍い痛みが、勇太の肩口を強烈に襲った。
「ぐっ……!」
熱い液体が飛び散り、何が起きたのか理解できぬまま、勇太の体は地面へと崩れ落ちる。激しく土埃を巻き上げて這いつくばった視線の先で、重い息を吐きながら冷たい眼差しを向けていたのは、あの老いた父親だった。
その手には、血に濡れた大きな鉈が握りしめられていた。
「なっ……!?」
言葉を失い、見上げる勇太に向かって、父親は歪んだ表情のまま掠れた声を絞り出した。
「なつめを取らんでくれ……。なつめは、たった一人のわしの娘だ。誰にもやらん……!」
勇太が抱いていた「なつめを連れ出して救いたい」という切実な願いとは裏腹に、父親の胸に巣食っていたのは、娘を失う恐怖と、自分から引き離されることへの狂おしいまでの執着だった。
愛ゆえの狂気は、老いぼれたはずの男の腕に、容赦のない凶器を振るわせるだけの力を与えていたのだった。
【死を受け入れる覚悟】
その頃、庵に戻ったなつめは、どこを探しても父親の姿がないことに首をかしげていた。
(そういえば……おとう、「山で新しいお姫様をお作りする」って言ってたっけ。きっと、山にいるに違いない)
父親は、しばしば子どもを早くに亡くした親から依頼を受けては、見よう見まねで覚えた『反魂の術』で子どもを蘇生させていた。しかし、いくらやってもみんな短期間で再び骨に戻ってしまうのだった。術の媒体に人魚の肝を使ったなつめだけが長生きしていたのだった。
そして、山は魂が集まりやすいからと、父親は反魂の秘術を行う際はいつも山で行っていた。父親の後を追うように、なつめはトコトコと山道へ足を踏み出した。
鬱蒼とした山頂へと向かうその途中、突然、草木の隙間から一人の老僧が姿を現した。それは、七日間の過酷な断食と瞑想を終えたばかりの高僧だった。
「なつめ……。お前の苦しみを断ち切る。迷わず成仏せい……」
高僧は静かに数珠を構え、覚悟に満ちた眼差しでなつめを見据えた。
その厳粛な気配に晒された瞬間、なつめの脳裏に昨日の光景が鮮やかに蘇る。
なつめは父親と山頂で、地元の長者の娘の白骨を、人体の正しい位置になるように並べていく。父親は、あの時と同じ反魂の術で、また新しく姫様を蘇らせようとしていたのだ。
ふと、昨日の問いかけが胸をかすめる。
『ねえ、おとう……。なつめも、こんな風に生まれたの?』
しかし、あの時の父親は、その問いかけに答えようとはしなかった。ただ、答えをはぐらかすように、こう言っただけだった。
『おとうはね……命を作ってるんだ。いいことをしてるんだよ。どんな姿でもいい。……生きているのが一番なんだよ、なつめ』
本当に、ただ息をしてさえいれば、それですべてが良いと言えるのだろうか。なつめの心を支配していたのは、明日への不安、終わらない焦燥、そしていつか一人ぼっちになってしまうのではないかという底知れぬ恐怖だった。
このまま姫様が復活したところで、姫様は本当に幸せになれるのだろうか。いや、きっと自分と同じ葛藤に苦しむハズだ。
目の前で対峙する高僧の圧倒的な気配を感じながら、なつめの胸の内で勇太の言葉を思い出していた。
『なあ、なつめ。……俺と一緒に来るか?』
行きたい…、行きたいよ勇太。でも、なつめはもう、現世に留まっていてはいけないんだ。それに、生き肝を喰らう情けない姿を、大好きな勇太には見られたくない……。
「……分かったよ、お坊さん」
なつめは静かに俯いた頭を上げ、まっすぐに高僧を見据えた。
「その代わり、一つだけお願いがあるんだ」
「願いだと?……何だ。申してみよ」
「最後に一目だけ、おとうに会わせて。このままなつめがいなくなったら、おとうがきっと悲しむ」
淡々と、しかし嘘偽りのないその言葉。
高僧の胸が激しく揺さぶられた。ただの生肝を貪るだけの化け物、不浄な生きた屍にすぎないと思っていた。だが、この少女には確かに心があった。父を案じ、別れを惜しむ、紛れもない親子の絆があったのだ。
「……分かった。その望み、聞き届けよう」
なつめをこの世から解き放ち、成仏させるという高僧の決意が揺らぐことはなかった。しかし、せめて最期のいくばくかの時を、父親の元へ彼女を連れていき、一目会わせることを受け入れたのだった。
「ありがとう。それじゃこっちだ、ついてきて」
なつめは軽快な足取りで、山頂へと続く獣道をスタスタと歩き出した。
高僧も修行を重ねてきただけあって健脚ではあったが、すでに高齢であるうえ、七日間の過酷な断食の直後だ。どうしてもその足取りは重く、息を荒げながら後を追うのがやっとだった。
だが、なつめは高僧から隙を突いて逃げ出すような素振りは見せなかった。それどころか、時折立ち止まり、後ろを振り返っては「お坊さん、大丈夫かい?」と心配そうに声をかけ、法師を先導していく。
そうして険しい山道を登りきり、ついに一行が山頂の開けた広場に足を踏み入れた時――。
なつめと高僧は、あまりの光景に息を呑み、その場に立ち尽くした。
そこには、大木に両手を括り付けられて身動きが取れなくなっている勇太の姿があった。上着には大きく血が滲んでいる。
そして、その勇太のすぐ傍らには、狂気を孕んだ眼差しをした老いた父親が、血に濡れた短刀を握りしめて立っていたのだった。
【山頂の惨劇】
「おとう、何してるんだ。止めろ!」
なつめは悲鳴のような声を上げながら、父親へとすがりついた。だが、狂気に囚われた父親は、その小さな体を力任せに振り払った。
「お退き、なつめ。そいつの生き肝を取るんだよ」
もはやなつめの言葉すら、老いた父親の耳には一切届いていなかった。
「止めて、止めてよ、おとう!」
「姫様に永遠の命を与えて差し上げるんだ、お前のように! 人魚の肉を食って不老不死になった者の生き肝を使えば、今度こそきっと……」
その傍らには、すでに反魂の術が施され、冷たい白骨のうえに生々しい肉体がうっすらと顕現し始めていた。異様な気配を放つその肉の塊は、ぞっとするような生気をまといつつある。
「おお、だいぶ固まってきてしまったな。早く肝を移さねば……!」
うわごとのように呟きながら、父はなつめを無視して、大木に縛り付けられた勇太へと短刀を向け、再びにじり寄っていく。
――このままでは、勇太が殺されてしまう。
その瞬間、なつめのなかで何かが決定的に吹っ切れた。
「……っ!」
なつめは転がるように駆け寄ると、儀式のために並べられていた姫の白骨を、力任せに蹴り上げた。さらにバラバラになった骨を両手で掴み上げると、ありったけの力で辺り一面に撒き散らす。
「な、なつめ……! お前なんという事を……」
バラバラになった骨は、うっすらと纏っていた肉体が露のように消え去り、元の白骨に戻っていく。なつめはその場に膝をつき、大粒の涙を止めどなくこぼしながら、震える声で叫んだ。
「起こしちゃ駄目だ。可哀想だ……! 起こしちゃいけない!」
「なつめ……」
愛娘の狂乱したような泣き叫ぶ姿に、父は愕然としたまま、その場に立ち尽くす。
その様子を見守っていた法師は、誰に言うともなくポツリと呟いた。
「わ、わしには、なつめを滅することなどできん。この子は、自我のある一人の人間ではないか……」
その時法師の脳裏に、寺に伝わる、人魚に関するある伝承が閃く。そして、その閃きがなつめを救うことに繋がるのだった。
続く