面倒臭い元カップル 作:一般指揮官
東の空が白み始めた。もう夜明けが近い。
「──吸ってええ?」
「──あぁ。俺もちょうど吸いたかった」
助手席へ腰掛ける彼女──
とはいえ、彼女も全くの無遠慮──カンサイの現住所であるアパートの住人達の中でも
運転席でステアリングを握る、このセダンの持ち主へ喫煙の可否を問うぐらいの気遣いは持っていた。とはいえクルマの持ち主──カンサイの
彼女が尋ねて間もなく、助手席と運転席のパワーウィンドウが元カレの指先で操作され、左右の窓が僅かに開いた。
それを認めるよりも先に彼女は纏った服──コーディネートへ無意識に気を遣ったそれのポケットから愛煙のピアニッシモを取り出す。
形の良い唇へ抜き取った一本を銜え、続けて自身のライターを握る。彼女の細い指先が弾き上げた上蓋がキーンと高音かつ澄んだ音を車内に響かせた。
その隣ではステアリングを片手で握りつつ、空いた逆の手でソフトパックを軽く振り、銜えて抜き取ったハイライトへオイルライターの火を点ける男の姿がある。
それを横目で捉えながらカンサイも銜えた煙草へ自身のライターを使って火を点けた。
先端が炙られ、紫煙を口腔と気管の奥へ吸い込みつつ彼女はライターの蓋を閉じる。
このライターは──運転席に腰掛ける元カレから贈られた代物だ。カンサイが20歳を迎えた誕生日に彼がプレゼントをしたものである。
贈る側も、贈られる側も大学生からすると非常に高価。ステータス性が高いライターであり、一生物ともなりうる──とは当時の彼女がネットを検索して知った情報だった。
苦学生だった筈の彼が良くこれほどのライターを誕生日プレゼントとして用意できたものだ──と、カンサイは改めて手の内にあるライターを見下ろし、やがてポケットへピアニッシモのボックス共々、仕舞い込む。
二人が腰掛ける座席の間に設けられたドリンクホルダーへ差し込まれたタンブラー型の灰皿の蓋を開けたカンサイは続けて細い指先で摘んだ紙巻き煙草をトンと軽く叩いて溜まった灰を落とす。
再び煙草を銜え直しつつ、チラリと横目を元カレへ向けた。
顔立ちは──まぁ、整っていると彼女は思う。この御時世で言うところのイケメンではないが、男前である点は否定しない。
元カレと元カノ──その最初の出会いは彼女が大学へ入学して間もなくだ。
新歓の飲み会、当時、未成年のカンサイへ絡み、無理矢理アルコールを飲ませようとしていた学生を彼が強い口調で制止したのが出会いだった。彼女が1年の時、元カレは3年の時である。
──親無子のくせに……
酔っていた学生が制止された直後、苛立ち紛れに言い放った言葉がそれ。
その時の元カレはどんな表情をしていたか──それを彼女は良く覚えていない。しかし吐き捨てられた差別的な表現はカンサイの記憶へ染み付いていた。
後日──というよりも、かなり時間が経った時か。より正確に言えば、彼女と彼が交際を始めて数カ月が経つか否かの時期に新歓での一幕で吐き捨てられた言葉の真意を尋ねると元カレはあっさりと肯定した。
両親はいない。それどころか親戚も知らない。幼少期から児童養護施設で育った、と彼はあっさりと答えていた。
彼女も──大学へ進学するぐらいだ。それなりに世間のことは知識として持っている。世の中にはそういう人間もいる、ことぐらいは承知している。
僅かながらの驚きがなかったと言えば嘘になるが、元カレがアルバイトを複数掛け持ちして生活費を稼いでいる実態に納得も出来てしまった。
そこに彼女への誕生日プレゼントとして高額なライターだ。文字通りの身銭を切って贈られるのである。カンサイですら嬉しさよりも先に申し訳なさが勝った。返そうする手を彼が制し、そのライターは彼女の物であることを強調しながら人の
──俺を俺として見てくれた人だから
そんなことを言われては彼女も受け取る他なかった。
元カレの大学の学費は奨学金で賄われていたが、要するに借金だ。返済する義務がある。
3年の頃から卒業後の進路については考えていたようだが、収入が安定している点から公務員が選択された。
元カレの身体能力は高かった。陸上競技の部活動やサークルに身を置く獣人と比較しても人間離れしている、と言える程には。
特定のそれらで活動こそしていなかったが、身体能力の高さから助っ人として呼ばれることも少なくなかったようにカンサイは記憶している。
彼は卒業後の進路を、陸上自衛隊に定めた。大学を卒業していれば、一般幹部候補生を採用する受験資格を得られる。将来的な幹部となれば収入は安定し、奨学金の返済だけでなく、貯蓄にも回せるだろう。
大学卒業見込みの状態で採用試験に挑み、彼は合格を果たした。
大学卒業、そして陸上自衛隊への入隊、幹部候補生学校への入校──連絡が取れ難くなったのはそこからだ。
元気にしているか、とメッセージを送信するが、返信が来るのは早くて翌日、遅ければ数日後。返信の文面も素っ気ない──のは大学の頃からだったが、輪をかけるようになった。
まぁ、それでも連絡はなんとか取り合っていたし、電話も時折は出来ていた。後者については1ヶ月の内で合計30分未満だったかもしれないが。
いずれにせよ教育期間中、この二人は少しずつ疎遠になった。喧嘩別れ等をした訳ではなく、互いのことを嫌悪するようになった訳でもない。単純に物理的な距離が開き過ぎたのだ。メッセージや電話での連絡すら取れ難くなれば尚更、疎遠となってしまう。
更に決定的になったのは、彼が幹部候補生学校を卒業して部隊へ配置となった後だ。
電話口で珍しく彼は──中隊の
センニンってなに?髭でも生やしてるん?──彼女の頭上へ不可視の疑問符が浮かんだのは想像に難くない。
彼の声音からしてソリが合わない──のではなく、顔も拝みたくない、という感情が透けて見えたのは、この時もカンサイが彼のカノジョだったからだろう。
ちょうど暫くすれば枠が空くのでなんとか教育課程へ捩じ込んでもらう──と語っていた元カレは、何をトチ狂っているのか
ヤニカスも極まるとマゾヒストの類に芽生えるのかもしれない。
その後も
珍しく元カレの方から夜中に電話が掛かってきた。
海外派遣の要員に選抜された──という旨の内容である。
とうとう国内ではなく海外へ──また物理的な距離が開いてしまう。
会いたい──という率直な言葉を飲み込み、彼女は、気ぃつけてな、とだけ返した。
それから半年以上──9ヶ月程は全くと言って良い程に連絡が途絶えた。
やっと連絡がつくようになったのは昨年のことだ。
久しぶりの電話は、近況報告じみたもの。
自衛隊を退職し、現在は警備会社の社員となっている──そんな内容であった。
久々の会話がそれである。良く激怒しなかったものだ、とカンサイは自画自賛したものだ。
とはいえ彼にも事情はあったのだろう──彼女は寛大な心で連絡が途絶えていた件については許した。別に本心から許した訳ではないのだが。
何故か彼女と連絡は取れなかったが、御中元や御歳暮はカンサイが住むアパート、そして関西の実家へ届いていた件についても敢えて触れなかった。
長期間に渡って関係が断絶した間柄だ。純粋な意味でのカレシやカノジョとは言い難い。
精々が元カレ、元カノ──そんなところに落ち着くだろう。
「──着いたぞ」
「──……あ、あぁ。おおきに」
カンサイの手元にあったピアニッシモはフィルターの寸前まで燃え尽きていた。灰がシートを汚していることにすら彼女は気付かなかったばかりか、元カレが声を掛けるまで現住所のアパートの前へ到着しているとも知らなかった。
数口しか吸えなかった紙巻き煙草の吸い殻を灰皿へ捨て、彼女は汚してしまったシートを取り出したハンカチで拭こうとするが──その手は元カレの大きく節榑立つ手が止める。
「気にしなくて良いから。それより、遅くまで付き合わせて悪かった」
「……ええよ。ウチも……久しぶりで楽しかったし」
元カレと夕方に待ち合わせし、買い物へ付き合って貰ったのだ。後部座席にはショッパーがいくつか鎮座している。
シートベルトを外し、身を乗り出したカンサイが後部座席からショッパーの持ち手を握って助手席の扉を開ける。
路上へ降り立った彼女はハザードランプを点滅させるセダンの車体を回り込む格好で運転席へ移動し、コンコンと窓を叩いた。
窓が開き、黒髪を短く刈り上げた元カレの顔が現れる。
その顔を認めたカンサイは開いた口を──直ぐに閉じ、ややあって再び整った形の唇を開いた。
「──気ぃ付けて」
「──あぁ。おやすみ……おやすみって時間でもないか」
もう夜明けである。適当な言葉が見付からないのだろう。結局、じゃあ、と彼は告げる。
ほな、と彼女も応じ、セダンから離れた。
ハザードランプが消え、ゆっくりと車体が進み始める。
その姿を見送ってからカンサイはアパートの一階に借りた自身の部屋に向かい、鍵を開けて玄関へ入った。
玄関で腰を降ろし、靴を脱ぎながら独りごちる。
「──なんで、一緒にコーヒーでも飲まへん?……って言わんかったんやろ」
ウチのアホ、と自らの不甲斐なさと臆病さを罵った。