もしも薙切薊の性格がマイルドだったら 作:作者さん
『THE BLUE』の開催を明日に控えた夜。
才波城一郎は、重い静寂と暗闇に包まれた極星寮の自室の中にいた。
照明を点ける気力すら湧かない暗闇の中で、今日一日で自分に投げかけられた言葉たちが、耳奥でぼんやりと反響していた。
『今日は早く休むんだよ、城一郎。明日は大一番なんだからね』
呆れ混じりの小言を言いながらも、温かく自分の背中を叩いてくれた、寮母・ふみ緒の言葉。
『明日も期待しています、才波先輩! あなたの創る新たな美食を、この目に焼き付けさせてください!』
無邪気な崇拝と熱を瞳に宿し、眩しいほどの笑顔でそうと言い切った、一年生の中村薊の言葉。
『……城一郎。お前、明日の料理は……いや、なんでもない。とにかくベストを尽くそう。おやすみ』
何かを痛切に言いたげにしながらも、結局は言葉を呑み込んで寂しげに去っていった、親友である堂島銀の表情。
それらの言葉や顔を思い出しているはずなのに、城一郎の焦点はどこにも結ばれていなかった。どれほど周囲の温もりや情熱を注ぎ込まれようと、今の彼の視界には何も届いていなかった。
ただ目の前にあるのは、猛吹雪が狂ったように吹き荒れる、果てしない過酷な頂。
次の到達点はどこだ。次の美味はどこにある。次の……! 次の……! 次の……!!
頭の中で無機質な命令のように反響する問いに突き動かされ、ただひたすらに前へ前へと泥を啜りながら歩み続ける己の姿。
自分が、どれほど多くの期待を背負わされているのかは痛いほど分かっていた。
極星寮の仲間たちだけではない。遠月学園の生徒や講師たちだけではない。外部から群がる料理界の大人たちまでもが、才波城一郎という男が次はどんな料理を叩きつけてくるのか、次はどんなまだ見ぬ『美食』の境界を見せてくれるのかと、唾を呑んで期待している。
その期待に応え続けなければならない。自分は『天才』であり、彼らの前を走る者なのだから。
――何のために?
暗闇の中で、ぽつりと不気味な問いが脳裏を掠めた。
城一郎は重い身体を引きずるようにして立ち上がり、洗面所へと向かった。
蛇口をひねり、冷水で顔を洗う。そして、水滴の垂れる顔を上げ、鏡の中の自分を見つめた。
そこに映っていたのは、周囲から神格化され、称賛を浴びる『天才』の華々しい姿などではなかった。
無数の期待という刃に削られ、肉は削げ落ち、骨が露出し、酷く薄汚れてボロボロになった、今にも崩れ落ちそうな男の虚ろな影だった。
「俺は、何のために料理をしているんだっけ……」
カサついた唇から、掠れた呟きがぼそりと漏れ出た。
だが、すぐに頭を振ってその思考を打ち消す。弱音を吐いている余裕などないのだ。
明日は『THE BLUE』なのだから。世界中の美食家や料理人が注視するあの絶対的な舞台で、金賞を勝ち取るための最高の料理を完成させなければならない。
だったら、こんな暗闇で立ち止まって寝ている場合じゃない。次の、まだ見ぬ美味を――誰も到達したことのない一皿を、今すぐ考案しなければ。
焦燥感に突き動かされるように、城一郎はふらりと自室を出て、寮の食堂へと足を進めた。自室の冷蔵庫の中身だけでは食材が足りなかった。
静まり返った夜の廊下を歩く中、前方の角の向こうから温かな光が漏れていることに気づく。
こんな夜更けだというのに、食堂の明かりがまだ点いていた。
「……まだやってるのか、中村。明日のBLUEはお前には関係ないんだぞ」
扉の向こうから聞こえてきたのは、堂島銀の呆れたような、だがどこか宥めるような声だった。
「それはそうですけど! なんだか眠れなくなっちゃって……。才波先輩があの最高の舞台に立って、新しい料理を創り出すんだと考えたら、もう居ても立ってもいられないですよ!」
返ってきたのは、弾んだトーンの、無邪気な熱を帯びた中村薊の声だった。
城一郎は、思わず足を止めた。
……なぜだろうか。今の自分のみすぼらしく、過酷な重圧に押し潰されそうな姿を、彼らにだけは見せたくなかった。
(中村の言う通りだ……。BLUEのための料理を考えなきゃいけないのに、俺は……)
頭ではそう理解しているのに、どうしても食堂のドアノブに手をかけることができない。暗がりの中で息を潜め、城一郎はただそこに立ち尽くした。
「きっと先輩なら、BLUEでも一番になって金賞をとってくるような料理を作るに決まっています!」
屈託のない、心からの信頼を込めて語る薊の言葉が、扉の隙間から廊下へと響いてくる。
その声を聞いた瞬間、城一郎の両肩に、ずしりと冷たく重い『重し』が乗しかかった。
誰もが当然のように、疑う余地すらなく口にする「天才・才波城一郎の圧倒的勝利」。
周囲から向けられる過剰な期待と全能の幻想が、逃げ場のないプレッシャーとなって、じわじわと彼の心を締め上げていく。
(そうだ……。だから、俺は……)
逃れられない呪縛のような重圧に飲み込まれそうになり、城一郎が苦痛に目を固く閉じた――その時だった。
「……そしてそのあと、BLUEで勝利した先輩を食戟で負かすんです。これはもう、実質僕がBLUEで勝利したも同然じゃないですか!」
「お前……真面目な顔して何とんでもないこと言ってんだ」
悪びれもせず、どこか誇らしげに言い放った薊の声と、頭を抱える銀の呆れ声。
「――っ」
ずっしりと押し潰されそうになっていた城一郎の思考が、そのあまりにも突拍子もない言葉によって、ピタリと中断された。
「まだ才波先輩には言っていないのですが……先輩方が卒業される前に、どうしてもやっておきたいことがあるんです」
食堂の中から聞こえてくる言葉に、いつになく鋭い響きが混ざっていた。
「……十傑の第一席の座を、譲られるのではなく……自らの手で奪いたいんですよ」
ふっ、と不敵に笑う薊の気配。
扉越しにも伝わってくるその青臭くもギラギラとした野心に、銀が低く鼻を鳴らした。
「……一応、今の第一席は俺なのだがな」
「……あ。あれ、そうでしたっけ?」
銀の静かな指摘に、薊は一瞬だけぽかんと間抜けな顔を浮かべた。
「すみません、あまりにも才波先輩が頂点に君臨しているイメージが強すぎて、すっかり失念していました」
「おい」
「ですが……堂島先輩だって、本当は『才波先輩の方が自分より上だ』と思っていらっしゃるんじゃないですか?」
無邪気で、しかし鋭く核心を突く薊の問いかけに、銀は苦々しげに息を吐いた。自分でもどこかで認めざるを得ない事実――それを否定することはしなかったが、不機嫌そうに眉をひそめる。
「……否定はせんが、そう言葉にされるとあまり面白くはないな」
銀は腕を組み、目の前の一年生へ鋭い眼光を向けた。
「――と言うよりも中村、お前は城一郎に勝てるつもりなのか?」
「いいえ?」
あっけらかんとした薊の返答に、銀は少し意外そうに目を細めた。
薊は胸に手を当て、その瞳に狂気的なまでの熱を宿して語り始める。
「でも才波先輩は、僕の憧れで、最も尊敬する先輩なんです。――だから、あの人の創る皿の先へと行きたいんじゃないですか。あの人を追い越した先に、一体どんな光景があるのかを知りたいんです」
青臭くも、どこまでも澄んだ貪欲な情熱。
扉越しにも伝わってくるその眩しいほどの言葉に、銀の胸中にも長年燻っていた熱い闘争心が再燃する。
「……フン、本当ならあの不真面目な男が一席に座っているのが筋なんだ。それをあいつが蹴り飛ばし続けるから、俺がこうして座を預かる羽目になっている……」
あいつに正々堂々と『勝って』、第一席の座を力ずくで押し付けてやるのも悪くない。
「中村、城一郎には俺が勝っておいてやるから、お前にはその出涸らしで十分だろう?」
「堂島先輩が、才波先輩を引き立てる『良い出汁』になりそうですけどね」
互いに一歩も引く気のない、刃を交えるような言葉の応酬。二人の間に渦巻くのは、純粋で、どこまでも貪欲な料理人としての意地と熱気だった。
――扉の外で、城一郎はただ呆然と立ち尽くしていた。
そのギラギラとした眩しいほどの闘争心が、今の城一郎には痛いほど眩しく、そして遠かった。
普段の自分であれば、「おいおい、なに楽しそうな事話してんだよ」と笑いながら扉を開け、二人の輪の中に飛び込んでいけたはずだ。軽口を叩き合い、その熱に混ざることができたはずだった。
だが、今の自分にはそれができない。
無数の期待という刃に削られ、中身が空洞になって崩れかけているこの惨めな姿を、あの熱気の中にいる二人にだけは、絶対に見せたくなかったのだ。
城一郎は息を殺したまま、ゆっくりと後退りをした。
二人に気づかれないよう静かに足音を殺し、逃げるように自室の暗闇へと戻っていく。
バタン、と静かにドアを閉め、崩れ落ちるようにベッドへ倒れ込んだ。
(俺の……俺が、料理をする意味は……)
暗闇の中で思考の泥沼へと沈み込んでいく。
――脳裏に広がったのは、あの狂暴な猛吹雪が吹き荒れる極寒の雪山だった。
視界を真っ白に染める嵐の中、自分は雪原の上に惨めに倒れ伏していた。
激痛が全身を走り、へし折れた脚からは痛々しく骨が肉を突き破り、純白の雪を赤く染めている。
呼吸はどこまでも小さく、浅くなり、体温が刻一刻と奪われていく。
『――もういいだろう』
吹雪の音に混ざって、自分自身の諦めきった声が耳元で囁く。
『もう頑張る必要なんてない。ここで目を閉じてしまえば……誰も期待なんてしてこない。楽になれるぞ』
そうだ。もう限界だ。足は折れ、次の一歩を踏み出す力なんて残っていない。
まぶたが重く落ちていき、意識が薄れかけた――その時だった。
ザッ、ザッ、と雪を踏みしめる足音が、すぐ隣で響いた。
倒れる自分のすぐ脇を通り過ぎていったのは、堂島銀だった。
銀は雪の上に血を流して倒れる城一郎を一瞥したが、足を止めることも、救いの手を差し伸べることもしなかった。
ただ、『寝ているのなら、俺は先に行くぞ』と言わんばかりの冷酷で強い背中を見せ、吹雪の先へとズカズカと歩みを進めていく。
さらに反対側の隣から、泥を這うような重い足音が近づいてきた。
そこにいたのは、中村薊だった。
ナメクジのようにのろまで、遅い歩み。呼吸は途切れ途切れで、全身傷だらけになりながら、今にも倒れそうな死に体で歩いている。
だが、倒れている城一郎と視線が交差したその瞬間――薊は薄い唇を歪め、フッと鼻で嘲笑った。
『不甲斐ないですね。僕は先に行きますね』と無言で煽るように。
「――――ッ!!」
ピクリと、城一郎の指先が跳ねた。
置き去りにされる屈辱。先を行かれる強烈な焦燥。
凍りついていた血が、一瞬で沸騰するように熱を帯びる。
城一郎は鷲掴みにした雪を力任せに握りしめ、震える膝を立てた。
肉を突き破り出た骨を、着ている服の破れ端で強引に力任せに縛り上げ、脚を固定する。激痛に激しく歯の根を鳴らしながらも、無理やりに身体を起こし立ち上がった。
猛吹雪の先、己を置き去りにして進む二人の背中を、血走った眼光で強く強く睨みつける。
ふざけんな。
不真面目だと? 出涸らしだと?
誰が……誰が、お前らごときに先を行かせてやるかよ……!
「……ふざけんな。俺も……行くぞ」
俺の――料理をする意味は。
嵐の中の雪原を、あと一歩だけ前へと踏み出した。
――
――そして。
「『THE BLUE』金賞! 圧倒的な独創性と美食の極致を見せつけたのは……才波城一郎だーッ!!」
割れんばかりの大歓声とフラッシュの嵐が、授賞式の壇上を包み込んでいた。
世界最高の料理人に贈られる栄誉あるトロフィーを手にしながら、城一郎は壇上に立っていた。
普段の彼であれば、最高の評価を得たとしてもどこか冷めた、淡々とした平然たる表情を浮かべていたはずだった。だが今の城一郎は、どこかのほほんとした、肩の力が抜けきったような顔で観声を浴びている。
「才波さん! 素晴らしい皿でしたね!」
「次の予定は決まっていますか!?」
「次は一体、どんな皿を我々に見せてくれるんだ!?」
押し寄せる取材陣とマイクの群れ。矢継ぎ早に投げかけられる期待の言葉。
城一郎はふっと息を漏らすと、目の前に突き出されたレポーターのマイクを「あ、これ借りるな」と軽く手で受け取った。
そして、会場中に響き渡るスピーカーに向かって、あまりにもあっけらかんと言い放った。
「えー……燃え尽きたんで料理やめるわ。ちょっと自分探しの旅に行ってくる」
「―――――は?」
一瞬で、世界中の美食が集う会場が静まり返った。
レポーターがフリーズし、審査員たちが耳を疑い、観客席が混乱に包まれる。
「じゃーな」
騒然となり始めた会場の空気を一切気に留めることなく、城一郎は借りたマイクをレポーターの手にぽんと返し、ポケットに両手を突っ込んで観衆の間を飄々と抜け、そのまま去っていってしまった。
当然、その世界中へ生中継されていた映像を見ていた遠月学園内も、まるで蜂の巣を突いたような大パニックに陥っていた。
『え、えええええーっ!? 才波先輩が料理をやめるの!?』
『どういうことだ!? BLUEで優勝した直後に引退宣言なんて聞いたことがないぞ!!』
廊下でも教室でも、生徒たちが腰を抜かし、テレビ画面を指さして騒ぎ立てていた。
それからしばらくして。
「やーやー、英雄様のお帰りだぞ~」
極星寮の重い木製の扉が開き、城一郎がいつもの能天気な声を上げながら姿を現した。
「才波先輩!!」
「ちょっと才波さん、一体どういうことなんですか!?」
「テレビ見ましたよ! 料理をやめるって……自分探しの旅って何ですか!?」
待ち構えていた後輩や寮生たちが一斉に群がり、悲鳴に近い戸惑いと心配の声を上げる。
城一郎は頭の後ろで手を組み、ひらひらと手を振ってみせた。
「まー待て待て、お前らよく考えてみろって」
詰め寄る寮生たちを、いつものひょうひょうとした調子で宥め始める。
「今回のBLUEのために、俺がどんだけアイディアひねり出したと思ってんだ? もう絞った菜種みたいにカッスカスだわ。もう搾りかすすら出てこねぇよ」
ケラケラと笑いながら、城一郎は己の額を指で突いた。
「だからさ、新しい刺激をインプットしたいワケ。ずっとここに居たら固まっちゃうだろ?」
「あ……なんだ、そういうことか!」
「びっくりさせないでくださいよ~! 『料理をやめる』って言ったから、本当に包丁を置いちゃうのかと思いました!」
「なーんだ、新しい料理のための修行旅ってことですね!」
城一郎の言葉に納得した寮生たちは、胸を撫で下ろし、安堵の笑みを浮かべた。
だが――
その能天気に胸を撫で下ろす寮生たちの後ろで。
中村薊、堂島銀、そして寮母のふみ緒の三人だけは。
城一郎のそのヘラヘラとした笑顔の奥にある『何か』を鋭く見抜き、一切の笑みを消した、深く重い視線を彼に向けていた。
極星寮を揺らした祝賀会の狂騒がようやく収まり、深く静かな夜が寮全体を包み込んでいた。
部屋の灯りを薄暗く落とした自室で、城一郎はベッドの縁に腰かけ、ぼんやりと自分の手のひらを見つめていた。昼間の歓声も、後輩たちの屈託のない笑顔も、今の彼の心にはどこか遠い世界の出来事のように感じられる
その時、静寂を破ってドアをトントンと叩く音が響いた。
「俺だ、少しいいか。中村と、ふみ緒さんもいる」
扉越しに届いたのは、堂島銀の低く落ち着いた声だった。
「おー、なんだよ急に。鍵は開いてるぞ、まぁ入れって」
城一郎はいつもの飄々としたトーンに瞬時に切り替えると、立ち上がって部屋の明かりを点けた。
ドアが開き、銀、薊、そしてふみ緒の三人が静かに室内へと入ってくる。後輩たちの浮かれた空気とは全く異なる、ピンと張り詰めたような重い気配を纏っていたが、城一郎はそれに気づかないフリをして肩をすくめた。
「ったく、夜更けにゾロゾロと何の御用だ? あいにく米のジュースも美味いツマミも残っちゃいないぞ。……まぁ、夜だし白湯でいいよな」
城一郎は手際よくケトルでお湯を沸かすと、マグカップに湯気を立てるお湯を注ぎ、三人の前に並べていった。その一連の動作には一切の揺らぎがなく、どこからどう見てもいつも通りの呑気な才波城一郎そのものに見えた。
銀と薊は無言のまま湯呑みを見つめ、ふみ緒もまた、目の前に置かれたカップから立ち上る白い湯気をじっと見つめている。
やがて、部屋に満ちる重苦しい沈黙を切り裂くように、ふみ緒が深く息を吐き、城一郎の顔を真っ直ぐに見据えた。
意を決したその瞳には、慈愛と、それを上回る痛切な懸念が宿っていた。
「……城一郎。みんなの前ではああ言っていたが……料理をやめるってのは、本当かい?」
直球の問いかけが、部屋の空気を一瞬で凍りつかせた。
銀の鋭い眼光が、薊の密やかな熱を孕んだ視線が、一斉に城一郎へと注がれる。
城一郎は一瞬だけ手元を止め、すぐにいつものへらへらとした笑みを浮かべると、頭の後ろで手を組んだ。
「なんだよー、ふみ緒さんまでそんな改まってさ。さっき下でも言ったろ? 脳ミソがカッスカスになっちまったから、ちょっとインプットの旅に出るだけだって」
おどけるように笑い、茶化してみせる城一郎。
しかし――「そんなわけないだろ」「料理をやめるなんて嘘だ」という明確な否定の言葉は、ついに彼の口から出ることはなかった。
その茶化しの裏にある「否」の欠如こそが、何よりも雄弁に、彼の削り取られた本心を物語っていた。
静まり返った自室の中に、冷ややかな空気が満ちていた。
三人の視線に射抜かれた城一郎は、頭の後ろで組んでいた手をゆっくりと下ろすと、深いため息を一つ吐き出し、力なく降参するように肩を落とした。
おどけたような表情は消え去り、その顔には酷く疲弊した、どこか遠くを見つめるような影が落ちていた。
「……まぁ、そうだ。ふみ緒さんの言う通りだよ。しばらくは料理から離れようと思っている」
「どうしてですか!?」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、抑えきれない感情を破裂させたのは薊だった。
拳を白くなるほど強く握りしめ、胸を激しく上下させながら、必死の面持ちで城一郎へ詰め寄る。
「今日のBLUEだって……今日のBLUEだって、才波先輩はあんなにも素晴らしい料理を作り上げたじゃないですか! 世界中の誰もが圧倒されるような、完璧な美食を叩きつけたじゃないですか! なのに、どうしてそんなことを……っ!」
悔しさと混乱、そして何より憧れの存在が壊れていってしまう恐怖に、薊の声は激しく震えていた。
しかし、城一郎は憤る薊を宥めることも、言い返すこともなかった。
ただ重い沈黙だけが部屋を支配する。壁のカチコチという時計の針の音だけが響く中、城一郎はゆっくりと口を開き、ぽつりと呟いた。
「……なぁ。今日俺が作った料理って……なんだった?」
「――え?」
あまりにも唐突で、根底を揺るがすような問いかけに、その場にいた全員が息を呑んだ。
銀も、ふみ緒も、そして熱弁を振るっていた薊すらも、金縛りに遭ったかのように言葉を詰まらせた。
「BLUEで勝つための料理……。俺はずっと、そいつを探していたはずなんだ」
城一郎は自分の手元を、何もない空間を見つめたまま、掠れた声で言葉を紡ぐ。
「なのにさ……いざ厨房に立ったあの時の俺は、そんなことなんも考えてなかったんだよ」
「そ、それなら城一郎……お前、何を考えて……」
震える声を絞り出したのは銀だった。
城一郎は自嘲気味に口元を歪めると、頭をボリボリと掻いた。
「あー……なんかな。……腑抜けてお前らに馬鹿にされんのもしゃくだなってさ。そう考えながら、ただ無我夢中で手を動かして作ってたら……運良くラッキーパンチがヒットしちまったみたいだ」
それは、絶対的な『天才』の言葉とは思えないほど、儚く脆弱な告白だった。
「多分……また おんなじ舞台があったらさ。99回やって、99回落とされるだろうぜ。たまたま、100回のうちの奇跡的な『1回目』が今日当たっただけだ」
静かに紡がれた城一郎の言葉に、部屋の中の三人は言葉を失っていた。
今日、世界最高の舞台『THE BLUE』で城一郎が披露した一皿は、間違いなく審査員たちを平伏させ、世界中の料理人を絶望させるほどの圧倒的な完成度だった。その包丁捌きにも、火入れの技術にも、素材の組み合わせにも、何一つとして狂いは見当たらなかった。
だからこそ、目の前の三人にすら見抜けなかったのだ。城一郎がどれほどボロボロの状態で厨房に立ち、どれほど危うい奇跡の上にその「勝利」を成り立たせていたのかを。
「……まぁ、そんな投げやりな状態で作った一皿でも勝てちまうから、世間様は俺のことを『天才』なんて持ち上げるんだろうけどな」
城一郎はへらりと唇の端を上げ、いつものようにどこか他人事のように茶化してみせた。だが、その自嘲の言葉は誰の心も軽くはしなかった。
「でさ……それで勝っちまった瞬間に、心底思っちゃったんだよ。――俺は、一体何のために料理をしてるんだってな」
城一郎はマグカップに残ったぬるい白湯を一口飲み、どこか遠くを見るような目で力なく苦笑した。
「……いやーー、違えな。本当は今日思ったんじゃない。……ずっと、昔からそう思ってたのかもな。自分が何のために包丁を握ってんのか、とっくに分からなくなってたんだ」
乾いた笑い声を漏らしながら、弱音を吐き出す城一郎。
その痛々しいほどの苦笑いを視界に収めた瞬間、堂島銀の胸の奥を、目に見えない刃が深く刺し貫いた。
(……ああ、そうだったのか……)
銀の拳が、爪が掌に食い込むほど強く握りしめられる。
目の前にいる男は、神格化された全能の神でも、圧倒的な怪物でもなかった。
無数の期待という名の刃に削られ、重圧に押し潰され、それでも必死に虚勢を張り続けていた――自分たちと何も変わらない、ただの「一人の少年」だったのだ。
それなのに、自分たちはどうだったか。
「才波城一郎」という圧倒的な才能に甘え、崇拝し、ライバルと呼びながらも、彼が踏破していく過酷な猛吹雪の雪山へと彼を一人で立たせ、追いやり続けてしまった。
誰も到達できない高みへと進む背中を眺め、「城一郎なら大丈夫だ」「あいつは天才だから」と無意識のうちに孤立させ、過酷な嵐の先へ行かせてしまっていたのだ。
そして今――その果てしない雪山の中で、城一郎の足はついに折れ、完全に止まってしまったのだと。
銀は、痛烈すぎるその事実に、ただただ唇を噛み締めることしかできなかった。
「……でも、料理をする理由なんて、なんだってあるじゃないですか!」
張り詰めた静寂を叩き割るように、薊が声を荒らげた。
普段の彼であれば決して見せない、子供のように顔をくしゃくしゃにした泣き顔だった。限界まで見開かれた瞳からは大粒の涙がとめどなく溢れ出し、ボロボロと畳の上にこぼれ落ちていく。
「自分が好きな味を追求したっていいじゃないですか! 僕らにあっと言わせるために作ったっていい! 『料理が面白いから』……! ただそれだけで、僕たちは料理をするんじゃないんですか!?」
胸を掻きむしるような、悲痛な叫び。
尊敬し、崇拝し、この世界の誰よりも輝いていると信じて疑わなかった絶対的な先輩。その背中が、自分の手の届かない暗闇の向こうへとすうっと消え去ってしまう――そんな強烈な焦燥感と喪失の恐怖が、薊の心をぐちゃぐちゃに掻き乱していた。
だが、涙ながらの必死の訴えを聞いても、城一郎は困ったように、そしてどこか酷く寂しげに唇を歪めて苦笑を浮かべるだけだった。
「……たしかにな。お前の言う通りだ。多分……そこを理由にしてさ、気ぃ抜けた料理を作ることは、今の俺にもできる」
ポツリと、独り言のように城一郎は呟く。
「だけど……それじゃダメなんだよ」
「どうしてですかっ!」
なぜダメなのか。どうして料理を楽しんじゃいけないのか。食ってかかる薊に対し、城一郎はそれ以上言葉を重ねて理由を語ろうとはしなかった。
ただ静かに手元のケトルを引き寄せると、空になっていた自分のマグカップへ、トクトクと白湯を注ぎ入れた。
ゆらゆらと立ち上る白い湯気をじっと見つめ、マグカップを両手で包み込む。そしてゆっくりと口をつけ、一口。
その確かな熱を、空っぽになって冷え切った自分自身の芯へと沁み込ませるように、じっくりと喉の奥へと通した。
ふうっ、と小さく息を吐き出すと、城一郎は少しだけ肩の力を抜き、暗い顔をして佇んでいた堂島銀へと視線を向けた。
「なぁー、銀。一個頼みたいことがあるんだ」
「……言ってくれ。お前の頼みなら――」
城一郎が抱え込んでいた果てしない絶望と苦悩に触れ、どこまでも重く、悲壮感を漂わせた声で応える銀。親友がどんな途方もない願いを口にしようとも、全てを受け止める覚悟を決めたような顔だった。
だが、その深刻すぎる態度を見た城一郎は、「違う違う」と呆れたように手をひらひらと振ってみせた。
「なんだよその顔は。そんなかしこまるなっての」
いつものように軽口を叩き、銀をからかうような調子を取り戻した城一郎。彼はマグカップをテーブルにコトンと置くと、少しだけ意地悪に唇の端を吊り上げた。
「俺が卒業する少し前くらいか……それくらいの時期に、俺と食戟をしてくれよ。――『第一席』、その座を賭けてな」
「……っ!?」
唐突に突きつけられた言葉に、銀は息を呑んだ。
先ほどまで「料理から離れる」「自分が何のために包丁を握っているのか分からない」と虚ろな目で語っていた男が、突然口にした『第一席を賭けた食戟』という言葉。あまりにも文脈が繋がらず、銀は目を丸くして固まった。
「城一郎……? お前、一体何を……」
あっけにとられた様子で呆然と返す銀に対し、城一郎は「どうしたもなにもあるかよ」とニヤリと笑い、涙目で固まっている薊へと視線を送った。
「お前、銀にも俺にも勝って、一席の座を奪ってくらしいなぁ? ……この泣き虫が、陰で大したこと言ってくれるじゃねぇか」
「――っ!?」
食堂の前で立ち聞きされていた。
その事実を突きつけられ、薊の顔が一瞬にして気恥ずかしさで真っ赤に染まる。だがそれ以上に、ついさっきまでボロボロの背中を見せていた城一郎が、なぜ今になって自分をからかうようにそんなことを言い出すのか、どう受け止めればいいのか分からず、混乱の極致に立たされていた。
そんな後輩と親友の様子を見つめながら、城一郎は浮かべていたニヤニヤ顔をスッと消し、静かだがどこか凄みのある、料理人としての鋭い眼光を二人へ向けた。
「……だけどな。今のこんな俺じゃあ、お前の覚悟に向き合ってやれねぇ」
静寂の部屋に、城一郎の低い声が響く。
「なんのために料理を作ってんのかも分からねぇような、ダセぇマネ……俺がしたくねぇんだよ」
それは、周囲からの期待に押し潰された『天才』としての言葉ではなく、意地と誇りを持った一人の料理人・才波城一郎としての偽りない本音だった。
「だから探すんだよ。お前のその覚悟に見合うだけの『答え』を」
城一郎はゆっくりと立ち上がり、薊と銀を真っ直ぐに見据えた。
その瞳の中には、猛吹雪の雪原でうずくまっていた虚無感はもうない。未だ傷だらけで満身創痍ではあるものの、確かに自らの足で立ち上がり、前を見据える確かな熱が宿っていた。
「俺が、食戟に賭けてもいいと思えるほどの『何か』をな」
……にやりと笑う城一郎の顔には、かつて極星寮でバカ騒ぎしながら料理を競い合っていた頃の、少年のような悪たれな輝きが確かに戻っていた。
「なぁ、中村」
銀とのやり取りを終えた城一郎は、次にまだ涙目で呆然と立ち尽くしていた薊へと視線を向けた。
「先輩にここまで言わせてんだぞ。……不出来な皿なんて出したら、分かってんだろうな?」
口元にニヤリと挑発的な笑みを浮かべ、片目を細めて脅すように言う城一郎。
自分の憧れであり、全能の神のように崇めていた先輩。その人が、ただの虚勢でも冷めた諦めでもなく、自分という後輩のギラギラとした覚悟と向き合うために、もう一度全力を尽くそうとしてくれている。
その事実が胸に深く突き刺さり、薊は言葉を失って固まっていた。しかし、溢れ出そうになる涙を制服の袖で乱暴にぐっとぬぐうと、力強く顔を上げた。
「……必ず用意します。先輩の覚悟に見合う皿を。――僕が貴方を超えたと、胸を張って言えるような一皿を!」
その瞳には、一瞬の迷いも揺らぎもなかった。ただ真っ直ぐに、己のすべてをぶつける覚悟を込めて城一郎を見つめ返す。
「……それでこそだ」
頼もしさを増した眼差しを受け止め、城一郎は満足そうに口元を緩めたのだった。
◇
――そして、時は流れ。遠月学園の『卒業式』当日。
本来であれば格式高く、厳かな静寂の中で執り行われるはずの式典は、まるで巨大なフェスティバルのような異様な熱気に包み込まれていた。
それもそのはずである。
『THE BLUE』を制覇した世界最高の若手シェフであり、遠月の頂点に君臨し続けた男・才波城一郎。旅に出ていた彼が学園に戻り、卒業という最後の節目において、彼を追う下級生との「第一席の座」を賭けた超大型食戟が執り行われることになったからだ。
遠月学園の上層部もこの千載一遇の機会を逃すまいと、学園の総力を挙げて一大イベントとして大々的にプロモーションを敢行。広大な敷地内には生徒たちが腕を振るう出店や豪華な屋台が隙間なく立ち並び、全国から駆けつけた美食家やメディア、一般の観客で溢れかえり、完全に「祭り」の様相を呈していた。
「な、なんかすごいところに来ちまったなぁ……」
喧騒の真ん中で、幸平珠子は手の中にある一枚の招待状をぎゅっと握りしめ、目を丸くしていた。
今日は城一郎の卒業式だと聞いてやってきたはずだった。それなのに、目の前に広がっているのは卒業式とは思えない賑やかな出店と、美味そうな匂いを漂わせる屋台の群れ、そして熱狂する人々の波だ。
(卒業式って……もっとこう、体育館みたいなところで校長先生の話を聞くようなもんじゃないの……?)
あまりのスケールの違いに気圧され、困惑しながらも、言われた通りに受付らしき豪華な案内所へと足を運んだ。
「あのー、すみません。招待状をもらってきたんですけど……」
おずおずと差し出された招待状を手取った受付の生徒は、そこに押された特殊な刻印と金箔の紋様を見た瞬間、目を見開いた。
「えっ……!? し、失礼ですが、どちらでこれを手に入れられたのですか!?」
「え? あ、えっと……城一郎からもらったんだけど……」
「さ、才波先輩から直々に!?」
珠子の口から出た名前に、受付の生徒は息を呑み、慌てて名簿と手元の端末を照合した。
「ゆ、幸平珠子様ですね! 失礼いたしました! こちらへどうぞ、最優先で特等席へご案内いたします!」
「えっ、あ、はい……?」
深々と頭を下げられ、 VIP扱いで豪華な観覧エリアへと案内されていく珠子は、ただただ呆然とするばかりだった。
(な、なんか生徒会役員みたいなすごい立場の人とは聞いてたけど……ホントに一体何者なんだろう、城一郎って……)
ざわめく会場の熱気を感じながら、珠子は自分に通された特等席のふかふかのシートに腰を下ろし、これから始まる「何か」に胸を騒がせるのだった。
特等席に案内され、ふかふかのシートに腰を下ろした珠子。ふと隣の席に目をやると、そこには目を引くほど可憐で、豪奢な着物を纏った小さな女の子が座っていた。
艶やかな髪を整え、幼くも気品に満ちた顔立ちをした少女――薙切真凪である。
彼女の後ろには漆黒のスーツを着た厳めしいSPたちが数人控えており、少女自身もどこか冷ややかで、世界中の全てを見透かすような大人びた眼差しをステージへ向けていた。
(うわぁ……すごい高級そうな着物。あんな小さな子まで見に来てるんだ……)
珠子は気後れしつつも、持ち前の気さくさで「こんにちは」と軽く会釈をしてみた。
少女は一瞬だけ意外そうに目を見開くと、ゆっくりと珠子へ視線を向けた。その瞳には、年齢にそぐわない冷徹な影が宿っている。
「……誰じゃ? この席がどのような立場の者へ用意された場所か、理解しておるのか」
鈴を転がすような鈴やかな声でありながら、どこか刃物のような鋭さを孕んだ真凪の問いかけ。だが、珠子はまったく動じた様子もなく、頭を掻きながら笑った。
「え? うーん、よく分かってないんだけど……城一郎から『式に来てくれ』って招待状をもらったから来たんだ。ちゃんとした席に通されてびっくりしちゃって」
「才波……城一郎から?」
その名を聞いた瞬間、真凪の冷やかな瞳にわずかな波紋が広がった。
「あの男の知人? ……まぁ、そういうこともあるか」
真凪はふんと鼻を鳴らすと、それ以上は追及せず、再びステージへと視線を戻した。
「まさか、あの才波城一郎が本当に戻ってくるとはな……」
「BLUEを制した直後に姿を消した『修羅』だぞ。彼がどんな一皿を創り出すのか、世界中の料理人が注視している」
「対する挑戦者の中村薊も、下級生ながら十傑の一角を崩した怪物だ。この一戦、歴史に残るぞ……!」
周囲の美食家たちから飛び交う会話のスケールの大きさに、珠子は思わず身を縮めた。
(修羅……? 食物界の怪物……? まったく意味がわからないんだけど……)
彼女が知る城一郎といえば、どこか抜け目なく、飄々としていて、時折ふざけたアイデアで変な料理を作っては楽しそうに笑う、一人の魅力的な青年でしかない。そんな彼が、世界中から熱狂と畏怖を注がれる「絶対的な天才」として語られている現実が、どうしても結びつかなかった。
その時――ドオン! とお腹の底に響くような大太鼓の音とともに、会場内の照明が落とされた。
『――大変お待たせいたしました! これより、遠月学園第三十六期・特別卒業記念食戟を執り行います!!』
スポットライトが巨大なメインステージを一筋に照らし出し、実況のアナウンスが会場全体を激震させる。観客席から地鳴りのような歓声が巻き起こった。
『賭けられるのは、遠月十傑・第一席の称号! 挑戦者は、過酷な学内選抜を勝ち抜き、その圧倒的な美学で頂点へと駆け上がってきた一年生――中村薊!!』
歓声と拍手に包まれながら、調理台の左側へと歩み出てきたのは、黒のコックコートを完璧に着こなした中村薊だった。
かつて極星寮の自室で涙を流していた弱さは微塵もない。その眼光は研ぎ澄まされた刃のように鋭く、己の尊敬する先輩を超えるために磨き抜いてきた「美学」の威光を全身から放っていた。
『そして……! 世界最高峰の美食の祭典『THE BLUE』を制し、自分探しの旅からついに帰還した、遠月最強の料理人――才波城一郎ッ!!』
地鳴りのような叫び声がアリーナを揺らす。
反対側の暗がりから、ゆったりとした足取りで一人の男がステージへと姿を現した。
「――っ!」
特等席で身を乗り出した珠子は、息を呑んだ。
そこにいたのは、確かに自分の知っている城一郎だった。
だが、今の彼が纏っている雰囲気は、珠子が日常で目にしている姿とはあまりにもかけ離れていた。
二人の出会いは、ほんの少し前のことだ。
自分探しの旅の途中、あてもなく流れ着いた町で、人目を避けるために入った小さな大衆食堂、そこで手伝いをしていた珠子に出会ったのだ。
今から宿を探しに行くという城一郎に、「行く当てがないなら、うちに来なよ!」と半ば強引に連れ帰り、それをきっかけに、彼は珠子の実家である下町の大衆食堂『食事処 ゆきひら』に下宿するようになったのだ。
ゆきひらでの城一郎は、いつだってどこか抜けていて、飄々としていた。
『料理の勉強のために、ちょっと遠くの学校に通ってる普通の生徒なんだ』
そう言ってケラケラと笑いながら、エプロン姿で店の手伝いをし、時折思いついたように妙な創作料理を作っては「まずい!」と二人で顔をしかめ合っていた。どこにでもいる、少し料理が上手で憎めない、一人の気さくな青年――それが珠子の知る「城一郎」という人間だったのだ。
だが、今ステージの上でスポットライトを浴びている男は違った。
『世界最高峰の美食の祭典を制した』
『遠月最強の料理人』
『修羅』
世界中から集まった美食家やシェフたちが、息を呑んでその立ち姿を見つめている。何千、何万という観客の地鳴りのような大歓声を全身に浴びながら、悠然と調理台へ歩み寄る姿には、絶対的な天才だけが持つ圧倒的な孤高の威厳が満ち満ちていた。
(……なにが『普通の料理学校の生徒』だよ……!)
あまりのスケールの違いと、あまりにも大きすぎる「隠し事」に、珠子は特等席で思わず頭を抱えた。
(ただの学生どころか、世界を制したすごい料理人じゃないの……! どんだけとんでもない奴を家に連れ込んじゃってたわけ、あたしは……!?)
心の底から呆れ果て、開いた口が塞がらない珠子。
だが、そんな彼女の視線に気づいたのか、ステージ上の城一郎はチラリと特等席へ目を向けた。
呆れ返っている珠子の姿を見つけると、城一郎は「バレちゃったか」とでも言いたげに口元をニヤリと綻ばせ、片手をひらひらと軽く振ってみせたのだった。
静まり返ったステージの中央。調理台を挟んで向かい合う二人の間に、張り詰めた空気が漂う。
「腕は鈍ってねぇんだろうな、中村」
「……先輩こそ」
城一郎の好戦的な挑発に、薊は研ぎ澄まされた眼光で真っ直ぐに応じた。
「僕が勝負するに値するだけの『理由』は……ちゃんと探せたんですか?」
その問いかけに、城一郎は「おー、そうだな」と首の後ろをボリボリと掻いた。そして、アリーナ全体に響き渡るマイクの音も気にせず、あっけらかんとした口調で言い放った。
「実は今、下宿させてもらってる定食屋があってな。俺はそこのお転婆な娘に、すっかり舎弟扱いされててよー。毎日毎日、あちこち振り回されてばっかりなんだわ」
「……は?」
突然始まった生活感あふれる世間話に、薊だけでなく、会場中の美食家や観客たちがポカンと口を開ける。
だが、特等席に座る珠子だけは別だった。
(え……!? ちょ、ちょっと、何こんな何人もいるところで堂々と私の話してんの……!?)
自分のことをあけすけに、しかもとんでもない規模の観衆の前で語られていることに気づき、珠子の顔はみるみるうちに朱に染まっていく。
「んで、だ」
城一郎はニヤリと笑い、言葉を続けた。
「この食戟に俺が賭けるもんなんだが……あれだ。こいつにお前に勝ったら、あいつに『ずっと一緒にいてくれ』って伝えるつもりだ」
「――――」
一瞬の空白。
直後、アリーナを揺るがすような大歓声とどよめきが爆発した。
「なっ……ええええええええええ!? プ、プロポーズ!?」
「あの『修羅』の才波が、女のために料理を!?」
「定食屋の娘だと!?」
周囲がパニックに陥る中、当事者である珠子は頭から湯気が出そうなほど顔を真っ赤にして、「な、な、な、な……っ!?」と声にならない悲鳴を上げ、両手で顔を覆って身悶えしていた。
張り詰めた食戟の空気を一撃で破壊するような城一郎の宣言に、薊は一瞬あっけにとられ、目を丸くして固まっていた。だが、やがて「ふっ……ふふっ」と肩を揺らし、呆れたように苦笑を漏らした。
「なるほど……。そういうことでしたか」
薊はすっと表情を引き締めると、彼もまた胸に手を当て、マイク越しに堂々と言い放ったのだ。
「実は僕にも、鼻を明かしてやりたい人がいるんです。僕が何を作ろうと、決して『美味しい』とは言ってくれない、ひどく手強い人でしてね」
「ほう?」
「せめてその一言を言わせてから、僕も先輩と同じことをしようと思っていましたが――」
薊の視線が、チラリと特等席に向けられる。
「BLUEを制覇した貴方に勝てた皿なら……あの人も文句はないと思いませんか?」
「……っ!!?」
今度は、珠子の隣に座っていた真凪がビクッと肩を跳ねさせた。
先ほどまでの冷徹で大人びた態度はどこへやら。真凪は信じられない言葉を聞いたかのように目を見開き、みるみるうちに耳まで真っ赤に染め上げると、ぷるぷると小刻みに震え始めたのだ。
「言うじゃねぇか」
「ええ。譲る気は一切ありませんよ」
互いの大切な相手に、己の料理のすべてを捧げる――。
極限まで高められた料理人としての矜持と、絶対に負けられない意地がぶつかり合い、調理台越しに視線を交える城一郎と薊は、たまらなく楽しげに、そして不敵に笑い合った。
何のために料理をするのか――その答えを見失い、暗闇の中を彷徨っていた日々はもう終わった。
今の二人の手にある包丁は、重圧と期待に応えるためのものではない。ただ一人の愛する女のために振るわれる、最高に自由で幸福な刃だ。
のちに次代の料理界を牽引する巨大な系譜を生み出すことになる二人の怪物の、すべてを懸けた壮絶な大勝負が、今、始まろうとしていた。
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