冷めてすっかり酸っぱくなったコーヒーを一口含みながら、私はあの騒動を思い出していた。
コーヒーを淹れたのにすっかり忘れて、酸っぱくなってしまったものを口に含む、そんな遅い朝の時間。
口に広がる苦さと、ぬるさ、日が少し高くなった日差し……。
あの日と全く同じような味わいだ……。
だから、ふと思い出してしまうのだ。
認知症の小春おばあちゃんが怒鳴り込んできたあの日のことや、それからのこと……。
ーーー
認知症という病の厄介なところは、本人が
自分はボケてしまった
と自覚できるような親切な形で現れない点にある。
むしろ性質が悪いのは、本人にとって
『脳が見せている幻覚や誤解』=『何ひとつ疑いようのない唯一の現実』
になってしまっていることだ。
例えば、
『大切な財布を盗まれた。家の中に隠されたのを見つけた』
『鍵をかけているのに夜中に知らない人が入ってきて、部屋の隅に立っている』
『隣の部屋の人が、自分を追い出すために監視している』
そんな妄想を、彼女たちは大真面目に、心からの恐怖や怒りとともに訴えてくる。
本人にとっては、それが妄想ではなく現実なのだ。
だから、
『そんなわけないでしょう』
と否定されれば、
『私を信じてくれない』
となる。逆に、
『それは大変でしたね』
と親身になって話を聞けば、今度は
『あの人は私の味方だ』
と妙に依存され、激しく執着されることになる。
あの日、私の部屋に押しかけてきた小春さんを思い出す。騒音源のテレビを必死に探して、見つからなくて、しゃがみ込んだまま動かなくなった、あの後ろ姿を。
本当は彼女が探していたのは、テレビだとかの騒音源なんかじゃなかったのかもしれない。
『あなたは、おかしくなんかない』
と、そう言ってくれる自分の味方を、探していたのかもしれない。
ーーー
私は小春おばあちゃんが部屋に押しかけて、学校に遅刻した日、◯◯市福祉課へ連絡した。
「もしもし、◯◯市の福祉課さんですか? となりの高齢者が困っていると話していて、こちらに連絡してないかな、と思って連絡したんですけど……」
電話は途中で保健師さんに代わった。
『その方の、お名前と住所、ご年齢、もし分かれば生年月日とか分かったりしますか?』
と聞かれて、わかるだけの真田小春さんの個人情報を伝えた。
すると、タイピングする音が続いて止まり、あー、と唸る声が一瞬聞こえた。
おそらく、名前や年齢、住所などを打ち込んだ瞬間、システムか何かに、この人の記録が既にあったのだろう。
『えーと、こちらの真田小春さんがどのようなことで困っていたのですか?』
「騒音で困っている、と。私の部屋からテレビが大音量で流れているというんですが……」
『ですが?』
「私の部屋、テレビないんですよね。どこからか足音が聞こえてうるさいとも言ってましたが、どこからなっているかわからないと言うんですよね。足音なら、普通上の階からだと思うんですけど、それを考えられるような状態ではありませんでした」
『真田小春さん自身は、上の階の人だと決めつけるようなことを言っていましたか?』
「いいえ。ちなみに私からも上の人ではないか、という話はしてません。それを言うと押しかけるのが目に見えたので……」
『賢明な判断です。あと変わったことはありませんでしたか?』
「ずっと、同じ話を繰り返していましたね。それで、おそらく脳疾患か……認知症かもしれないと思って連絡しました」
『そうなんですね。情報提供ありがとうございます』
電話の向こうの保健師さんは、最後まで淡々と、それでいて私が不安を抱かないようにと気を配ってくれているのが分かる、優しい口調で聞き取りを続けてくれた。
それでも止まらないタイピングの音の速さに、この人の仕事への真面目さが滲んでいる気がした。
ーーー
小春おばあちゃんが何度も誘ってきた、自宅での食事を、私はその全てを断っていた。
遠慮もあったが、自分を守るためでもあった。
例えば、認知症の高齢者ができないことが増えて、手助けするために家の中に入る……これは実は危険なのだ。
親切心で、相手の部屋に入って
『通帳が見つからない』
『薬がない』
『大事な貴金属がない』
という、いつもの妄想が始まった時、どうなるか。
『あの時、家に入ってきたあの人が盗んだんじゃないかしら?』
善意で手を差し伸べた人間が、真っ先に疑いの矛先を向けられることになる。
そして、判断力が鈍った脳が弾き出した答えが、
『最後に部屋へ入ってきたあの人が盗んだ』
という結論になる。
だから、私は小春おばあちゃんが、
「今日、ご飯食べて行かないかい?」
と、嬉しそうに目を輝かせて尋ねてきた誘いを全て断ったのだ。
そうしなければ、被害妄想の餌食になり、変な噂を流されたり、押しかけてくる被害に遭うのだから。
ーーー
次に思い出すのは、上の階、小春おばあちゃんの直上に住む女性――塚田さんとの、たった一度の接触、正確には二度か。
共用廊下に落ちたネームプレートを拾い上げた時に見えた、
県立総合病院
看護師 塚田真里
という文字。
あの酷いクマは、普段から夜遅くまで仕事がある人か、夜勤のある人のものだ。もしかしたら薬物中毒の可能性も、と一瞬考えたけれど、薬物中毒の人間が、健康的な牛乳をわざわざ買うだろうか。すぐにその考えを打ち消した。
ネームプレートを本人に返し、軽い雑談をしてドアを閉める。
日中は仕事、夜も時々夜勤がある人。家にいる間は、泥のように眠っているだろうその生活パターンで、昼間や夜に部屋の中を気になるほどの足音を立てる余裕なんて、どう考えてもあるはずがなかった。
それを裏付けるように、私は時々、窓を開けるようにしていた。窓を開ければ、外に飛び出した騒がしさなんて、すぐに耳に届く。
例えば、テレビを大音量で聞いているとかね。
それなのに、上の階からも、横の部屋からも、そんな物音は一切聞こえてこなかった。
ただ快適に空気の入れ替えができるだけだった。
ーーー
私はお巡りさんから騒音の事情聴取を受けている際、なんとなく、何回もここに来たんじゃないかなと思った。
「上の人はいつもどおり出てきませんね」
「多分、そうだろうね」
その会話は、おそらく、何度も来ている人たちの会話だ。
そして、もしかしたら管理会社から、詳しい個人情報まで教えてもらえなくても、上に住む塚田さんが夜中は仕事でいないことがあり、日中は仕事でいないくらいのことは教えてもらえたのかもしれない。
私が知らないのは、学校にいる日中の時間に来ていたのではないかな。
私が、隣の小春おばあちゃんが通報先ではないか、と伝えると少し警戒するような、硬い顔になる。表情は変わらない。笑顔なのに硬い。個人情報だからね。
でも、何度も来ているなら、お巡りさんもわかっているはずだ。
『警察が来た時にはいつも音を消すんだ』
そんな不可解なことを毎回のように述べているのが目に浮かぶ。
警察サイドは、騒音源が特定できないし、通報しているおばあちゃんがなんかおかしいこと、矛盾したことを言っていると感じていたのだろう。
私がスマホの操作を教え、録画を試みるよう促した。しかし、現実には騒音がないから、録画は一度も成功しなかっだろう。
だから、小春おばあちゃんは、きっと、駆けつけた警察官にこう説明していたはずだ。
『いつも録音をした瞬間に、音が止むんだ!』
『あいつが勝手に部屋に入って、録画した音だけ消したんだ!』
と。
小春おばあちゃんが録画した、小春おばあちゃんの騒ぐ声しか聞こえない動画を見せられながら……。
だから、お巡りさんの判断を後押しするために私は小声で伝えた。
「小春おばあちゃんの上の階の人、塚田さんて言う看護師さん、夜勤が多いらしいんです。いても、夜勤明けで深い眠りについているかも」
「あー、そうなの? 会ったことあるの?」
「はい」
「俺たちと同じ当直……いや夜勤だったね。夜勤なら一度寝たらなかなか起きられないね」
お巡りさんが時折する相槌が、思いのほか実感のこもったものだった。彼らもまた、不規則な生活をし続けている。よく見れば目の下に深く刻まれたクマがある。
塚田さんの置かれた環境を、私なんかよりも早く理解できるのだろう。
「だから、足音もほぼないと思うんですよ。通報するくらいの大きな物音が鳴っているなら、私の部屋にも音が来るはずなのに、そんな音聞こえないんです。正直、脳の病気とか認知症じゃないかって私は感じているんです。市の福祉課にも連絡して様子を見てほしいと伝えています」
お巡りさんはそう聞いて、笑う。
「君、市役所とか看護師さんとか警察みたいなことを言うね」
「はい、親からもよく大人っぽすぎると言われます」
その返しに、お巡りさんはさらに笑みを深めた。
あの時の笑いには、どこか安堵のようなものが混ざっていた。
この状況を理解してくれている人間が、自分たちの他にいることへの安心だったのかもしれない。
ーーー
後日、市役所の職員さんが来ていた。ドア一枚隔てた廊下越しに、その声が漏れ聞こえてくる。
その声が、私の電話を受けた保健師さんの声に似ていた。
「ずっと寝れてないというなら、一度病院に行きましょう? 少し良くなるかもしれません」
「あいつが足音をやめたら寝れるのよ。なんとかしてちょうだい!」
「相手に言っただけで足音はなくならないかもしれないから、とりあえず病院で見てもらうだけでも……」
「そう言って、私が嘘ついていると思っているんでしょう! 病院に入れて、二度と出れない独房に押し込むんでしょ!」
「そんなことないですよ。そういえば、ご家族の方って……」
「うるさい! うるさい! 私の頭は正常なのよ!」
「少し、別のところで休んでみませんか?」
「どこよ?」
「同じ世代の方々が一緒に暮らせる場所があって、気の合う人もいるかもしれませんよ」
「ここから引っ越せというの!? 私は悪くないのよ! 役立たずの税金泥棒! 出て行って!」
声は、だんだんと甲高く、余裕をなくしていく。
私はドアの前で、しばらく立ち尽くしていた。
彼女を追い詰めているのが、悪意ある誰かではなく、ただの本人の妄想なのだと分かっているからこそ、何もしてやれない自分に、少しだけ胸が痛んだ。
ーーー
……それでも、だ。
あの日、私は最初から小春おばあちゃんは認知症か脳疾患かもと疑っていた。
だって、そもそも、おかしいじゃないか。
中身はおっさんだけど、見た目はどう見ても中学生か高校生の普通の女の子だ。
私から、お話聞きましょうか、とは言ったものの、そんな子に、普通、騒音トラブルの相談なんてするだろうか?
普通はしない。
現に、あの夜訪ねてきたお巡りさんだって、私の足元……玄関の靴の有無をさりげなく確認していた。
親がいるなら親と話したい、そういう意図だったのだろう。
いないと分かると、名刺を渡され、『親御さんに警察が来た理由を伝えてくださいね』と言われた。
子供は、最初から信用されていない。それが、社会通念上の普通なのだ。
ましてや、初めて会う相手なら、なおさら。
だから……。
最初から、小春おばあちゃんはおかしかったんだよなぁ……。
これはフィクションです。
実際に存在する公共機関がこのように動く場合もありますが、ケースバイケースで動けない場合もあります。
また、自身の認知症や精神疾患を疑えない高齢者は世の中に確実に存在していて、本人に悪意がなくても、認知機能の低下や妄想などを原因として、軽い暴行や万引きなどの軽微な犯罪から、自覚のない交通死亡事故、放火や殺人などの重大犯罪を犯してしまう場合もあります。
だからこそ、本人が『自分はおかしくない』と考えている段階であっても、周囲が異変に気づき、早めに医療や行政につなげることがとても重要です。