だが終界では、インフィナイトへ合体した瞬間、黄金座標をクアドラに奪われてしまう。
未来の自分たちにすべての動きを読まれる中、二機は分かれたまま、都市そのものとなった敵へ挑む。
そしてクアドラの奥には、未来を止めた心臓とは別に、もう一つの鼓動が残されていた。
第11話「二つ目の心臓」、始まります。
「世界を止めたのは、冷たい心ではない。
もう誰も失いたくないと願いすぎた、優しい心だった。
だから、それを動かせるのもまた――誰かを諦めない心だけだ」
◇
終界接続まで、三十六時間十八分二秒。
第四観測機クアドラの掌から、黒金の光が放たれた。
熱はない。
物質も壊さない。
ただ、触れたものから次の行動だけを奪う。
終端固定光〈ターミナル・ロック〉。
「受け止めるな!」
蒼羽レンの声と同時に、蒼界機アズールが青い円環を斜めへ投げた。
円環は光を防がない。
黒金の奔流へ触れた瞬間、その場で回転ごと停止した。
レンは止まった円環を足場にして、アズールを上空へ跳ばす。
反対側では、紅界機フレアが赤い尾を引いて光の側面を走っていた。
「言われなくても!」
緋月アカリが加速を一段上げる。
フレアはクアドラの指の間を抜け、その手首へ拳を叩き込んだ。
「フレア・バースト!」
爆炎が黒金の装甲を高層塔ほどの範囲でへこませる。
だが、クアドラは揺れない。
アズールとフレアが人なら、目の前の敵は都市だった。
背後で四枚の巨大な歯車が回る。
そこから終界全域へ、無数の金色線が伸びていた。
停止した車へ。
抱き合う直前で止まった家族へ。
一億八千四百万人の身体へ。
クアドラは敵であると同時に、この世界で最も大きな生命維持装置でもある。
壊せば勝てる。
壊した瞬間、救うべき人々が死ぬ。
クアドラの左眼が青く光った。
右眼が赤く光る。
未来のレンとアカリの声が、終界の空へ重なった。
『次にアズールは、右肩の継ぎ目を固定する』
『フレアは、その固定点を踏んで首へ回る』
現在のレンの指が止まった。
アカリも進路を変える。
だが変更より早く、クアドラの首から黒金の刃が伸びた。
フレアの左肩をかすめる。
赤金の装甲が薄く削られ、破片は落ちることさえ許されず空中へ縫い留められた。
『変更後は左へ十二度』
未来のアカリが告げる。
『私も、そこで同じ方へ逃げた』
「昔の私を知ってるからって」
フレアが推進を逆噴射した。
予測された左ではなく、真下へ落ちる。
「今の私まで決めないで!」
だが落下先には、終端固定光が待っていた。
アズールの円環がフレアの腰へはまる。
「アイオン・ロック!」
青い固定が落下方向を横へ折った。
二機が同じ空ですれ違う。
もう声の遅れはない。
同じ重力。
同じ風。
同じ一秒。
七年間、二人が欲しかった戦場だった。
それなのに未来の二人は、現在の二人より先に次の一秒を知っている。
◇
境界艇ノア・スキフは、倒れた金色の塔を盾にして低空を走っていた。
操縦席のカイン・ヴァイスが、紫色の通信線を何度も開く。
後部席では、人型端末ニルが受信波形へ指を重ねていた。
『未来の俺。聞こえるか』
返るのは雑音だけ。
クアドラの内部で見つけた帰路人格カインは、通信が切れる直前に言った。
クアドラには、心臓が二つある。
一つは、未来を固定する心臓。
もう一つは――。
そこで途切れた。
カインは通信出力を上げる。
「同じところで話を切る癖まで似なくていい」
計器から火花が散った。
ニルが即座に出力を絞る。
『選択反応を検出しました』
「生きているか」
『弱くなっています』
「なら、返事をさせる」
『そのために機体を壊す必要はありません』
「帰ったらゲンゴが直す」
『今の発言も記録します』
「消せ」
『記録しました』
「ニル」
『はい』
「あとで消せ」
『検討します』
カインは小型艇を塔の陰から飛び出させた。
クアドラの胸部へ向けて一気に上昇する。
巨大な左眼が、その動きを捉えた。
『小型艇を停止させる』
未来のレンの声。
アズールがクアドラの視界へ割り込んだ。
「見ているのは、こっちだ」
青い円環が左眼を覆う。
クアドラが振り払うより早く、フレアが反対側から右眼を殴った。
「今のうち!」
ノア・スキフが二つの眼の間を抜ける。
胸部の黄金歯車へ近づいた瞬間、紫色の通信が戻った。
『聞こえている』
年を重ねたカインの声だった。
現在のカインは間を置かない。
「続きを話せ」
『挨拶は』
「時間がない」
『そこも変わらないな』
「未来では、挨拶が長くなるのか」
『少しだけ後悔が増える』
現在のカインの目が細くなる。
未来の声は、すぐ本題へ戻った。
『クアドラの胸部を見ろ』
紫色の立体図が現れる。
上側に、青と赤の棺をつなぐ黄金歯車。
下側に、黒い装甲で封じられた白い球体。
『上は終端心炉〈ターミナル・ハート〉。未来のレンとアカリの選択を基準に、一つの未来だけを残す』
『下にあるのが、ノア心炉〈ノア・ハート〉だ』
「ノア」
ニルが、その名を繰り返す。
未来のカインが答えた。
『クアドラへ改造される前のノア・ギア。その心臓だけが残っている』
『命令は一つだ。乗せた全員を、生きた時間へ帰す』
現在のカインが白い球体を見る。
「なぜ、そんなものを残した」
『壊せなかった』
『終界の生命維持網は、もともとノア心炉から広がっている。切れば一億八千四百万人が死ぬ』
『だからクアドラは、心臓を殺さず、眠らせた』
ニルの左右で色の違う瞳が、同時に光る。
『再起動すれば、零座標避難計画を実行できますか』
『できる』
『ただし、四連観測環を止めろ』
クアドラの背後で回る四枚の黒金歯車が、紫色の図に浮かび上がる。
青、赤、零、終界。
四方向を同時に監視し、ノア心炉が予測外の帰路を選ぶことを封じている。
「壊せばいいのか」
『壊すな』
未来の声が強くなる。
『あれも生命維持の出力路だ。回転だけを同時に止めろ』
「同時とは」
『停止差、〇・三秒以内』
現在のカインは、空で戦う二機を見た。
アズールは一機。
フレアも一機。
四枚の歯車は、都市一つぶんの距離へ散らばっている。
「無茶を言う」
『俺たちの仕事だ』
カインは小さく笑った。
「それは認める」
◇
クアドラの右腕が、終界の空を横切った。
五本の指から固定光が広がり、アズールとフレアを黒金の格子へ閉じ込める。
レンは光の間隔を読む。
「三秒後、中央に隙間」
アカリは目の前を見る。
「ないよ!」
「今はない」
「先に三秒後って言って!」
「言った」
「順番の話!」
フレアが中央へ加速する。
未来のレンが、その動きを先に告げた。
『三秒後、中央へ移動する』
クアドラの親指が進路を塞ぐ。
開くはずだった隙間が消えた。
右も左も固定光。
フレアが減速するより早く、アズールが円環を投げた。
狙いは格子ではない。
フレア自身。
「動くな!」
「今度は逆でしょ!」
青い円環が赤い機体を空中へ固定する。
次の瞬間、クアドラの巨大な手が格子ごと前へ振られた。
空間が押し流される。
固定されたフレアだけが、その場へ取り残された。
黒金の光が上下を通り過ぎる。
アズールは手首の外へ弾き飛ばされた。
二機は別方向へ飛ぶ。
だが、どちらも固定光には触れていない。
アカリが息を吐いた。
「先に説明して」
「説明したら、向こうにも聞こえる」
「じゃあ次は目で言って」
レンは、離れた赤い機体を見る。
「今、見えてる」
アカリは一拍だけ黙った。
「そういう返事は、戦いが終わってからにして」
「何がだ」
「分からないなら、そのままでいい!」
未来のレンとアカリが沈黙する。
記録にない連携。
意図を伝えず、相手が信じることまで含めて選んだ動き。
クアドラの予測値が初めて揺れた。
『予測誤差、〇・〇〇二パーセント』
レンが言う。
「増えた」
「まだ小さい!」
「零じゃない」
二人は、クアドラの背後で回る四枚の歯車を見る。
カインから作戦情報が届いた。
『四枚を〇・三秒以内に止める』
『破壊はするな』
『止めた後、俺とニルが二つ目の心臓へ入る』
アズールの円環だけなら最大三枚。
フレアの打撃だけなら同時に二枚。
普通に役割を分ければ、未来の二人に読まれる。
レンは青い操縦環を開いた。
「交差機能転送を使う」
「俺が加速を借りる」
アカリが答える。
「じゃあ私は、固定を借りる」
未来のアカリが即座に反応した。
『その交換も記録にある』
四枚の歯車から光索が伸びる。
アズールが加速を使う未来。
フレアが円環を使う未来。
その両方へ、クアドラの攻撃が先回りした。
レンが言う。
「転送する」
アカリが続ける。
「でも、借りない」
青と赤の位相線が二機の間に伸びた。
機能は移らない。
代わりに、互いが動こうとする直前の感覚だけが流れ込む。
アズールの操縦席へ、アカリが加速を選ぶ時の息遣い。
フレアの操縦席へ、レンが固定点を見つけた時の静けさ。
交差感覚共有〈クロス・センス〉。
未来の記録にないのは、新しい技だからではない。
二人が同じ場所で出会い、目の前にいる相手を信じた後でなければ、生まれなかったからだ。
「行く」
レンが声にする前に、アカリは動いていた。
フレアが第一観測環へ突進する。
クアドラの光索が赤い進路へ集中した。
その瞬間、アカリの中へレンの見つけた固定点が届く。
フレアは拳を引いたまま、歯車の中心を通過した。
殴らない。
赤い足で、回転軸へ触れる。
同時にアズールが円環を放つ。
フレアの足先を通じ、第一観測環を内側から固定した。
一枚目、停止。
アズールは第二観測環へ向かう。
未来のレンが読む。
『右へ加速する』
だが、アズールは加速しない。
レンの中へ、アカリの前進感覚だけが届く。
青い機体は通常推進のまま、最短ではない左へ回った。
光索が、誰もいない右側を貫く。
アズールが第二観測環の軸を掴んだ。
「アイオン・ロック!」
二枚目、停止。
停止差、〇・一秒。
第三と第四の観測環が、互いから遠ざかる。
距離そのものを広げ、二機では届かない位置へ逃げていく。
フレアが青い固定感覚を受け取った。
アカリは第三観測環ではなく、何もない空間へ拳を突き出す。
「ここ!」
アズールの円環が、その拳へ重なる。
フレアの腕と第三観測環の距離が固定された。
赤い瞬間加速が、固定された距離の内側だけで爆発する。
拳が遠方の回転軸へ届いた。
逆方向へ押し返す。
三枚目、停止。
停止差、〇・二秒。
残る第四観測環を、クアドラの左手が包み込む。
巨大な掌が歯車を二機の視界から隠した。
「届かない!」
アカリが叫ぶ。
その手の甲を、紫色の小型艇が走った。
ノア・スキフ。
カインは残っていた二回目の航路修正推進を、すべて使う。
『機体で届かないなら、俺が行く』
「小型艇で歯車を止める気?」
『止めるのは俺じゃない』
後部席で、ニルが両目を開いた。
青い右目。
赤い左目。
二つの色の間に、白い選択信号が生まれる。
『第四選択固定』
白い光がクアドラの指を抜け、第四観測環の軸へ刺さった。
ニルが自分で選んだ一秒へ、歯車を留める。
四枚目、停止。
停止差、〇・二八秒。
許容値、〇・三秒以内。
四連観測環が、同時に沈黙した。
クアドラの胸部下側で、黒い装甲がゆっくりと開く。
奥にあった白い球体が、百二十七年ぶりの光を受けた。
二つ目の心臓。
ノア心炉。
◇
現在のノア・ギア。
終界航路が閉じてから、通信は一度も戻っていない。
作戦室の中央には、四人の最終座標だけが残っていた。
青。
赤。
紫。
白。
どれも動かない。
白瀬ユナが、紫色の受信記録を何度も巻き戻す。
「雑音に周期があります」
真壁ゲンゴが画面を覗き込んだ。
「通信か」
「信号になる前の信号です」
「専門家は、分からん言葉を別の分からん言葉で直す決まりでもあるのか」
ユナは一秒考えた。
「向こうから扉を叩いています」
「最初からそう言え」
格納庫では、無人のヴァイスが片膝をついていた。
胸部の零座標核が、雑音と同じ間隔で点滅している。
アウレル・ゼロが波形を見つめた。
「ノア・ギア初期型の帰還要求だ」
御堂カナメ艦長が振り向く。
「百二十七年後の本艦が、こちらを呼んでいるのか」
「本艦ではない」
アウレルの指がわずかに震えた。
「改造される前の目的だけが、まだ残っている」
最初期の設計記録が開かれる。
境界研究船ノア・ギア。
乗員三十二名。
非常時帰還規則。
最後の一名が船外にいる限り、帰還航行を終了してはならない。
画面の最下部に、短い起動文が残っていた。
『全員を帰すまで、本艦は航行を終えない』
ゲンゴが息を吐く。
「未来であれだけ立派な化け物になっても、船だった頃の頑固さは残るか」
「起動文だけでは届かない」
アウレルがヴァイスを見る。
「零座標を越える出力が要る」
ユナが必要量を計算する。
「ヴァイスの残存出力では、十一パーセント不足します」
カナメは即答した。
「本艦から回せ」
「生命維持を除けば、全区画の停止が必要です」
蒼界と紅界の通信。
格納庫。
照明。
防衛装置。
すべてを止めても、未来へ届く保証はない。
カナメは命じた。
「全区画、非常停止」
ゲンゴが確認する。
「帰ってくる場所まで暗くなります」
「帰ってくる者がいるなら、灯りは後で点ければいい」
ノア・ギアの照明が、後方区画から順に消える。
蒼界側の青い通路も、紅界側の赤い通路も、同じ闇へ沈んだ。
残った電力がヴァイスへ集まっていく。
アウレルは無人機の胸部へ手を置いた。
拘束環の下にある古い傷が熱を持つ。
「この座標は、私の理論が開いた」
彼は、かつて未来を一つへ固定しようとした手を見る。
「なら今度は、閉じるためではなく、帰すために使う」
ユナが警告する。
「生体負荷が上昇しています」
「構わない」
「アウレル」
カナメの声に、アウレルは顔を上げた。
「死んで責任を終えることは許可していない」
短い沈黙の後、彼は頷く。
「承知しています、艦長」
アウレルが初めて、その呼び方を使った。
ヴァイスの紫色核が開く。
現在のノア・ギアから、零座標へ一本の白線が走った。
カナメは起動文を読み上げる。
「全員を帰すまで、本艦は航行を終えない」
作戦室の全員が、その言葉を聞く。
停止直前の共同回線を通じ、蒼界と紅界の人々にも届く。
青い都市で。
赤い避難区で。
人々が自分たちの予備電力を、境界線へつなぎ始めた。
一つの光は小さい。
何万本も集まると、暗い母艦の中に一本の白い道ができる。
ヴァイスの胸部から、百二十七年後へ帰還呼号〈ノア・コール〉が放たれた。
◇
終界。
一本の白い光が、ノア心炉へ届いた。
距離は零。
時間差は百二十七年。
現在のノア・ギアと未来に残った心臓が、同じ言葉でつながる。
『全員を帰すまで、本艦は航行を終えない』
カナメの声が雑音の向こうから響いた。
レンが顔を上げる。
「艦長」
「聞こえた」
アカリの声も重なる。
通信は一秒で消えた。
それでも十分だった。
帰る場所が、まだ自分たちを探している。
ノア心炉の表面に、白い文字が浮かぶ。
乗員記録。
避難者記録。
終界市民、一億八千四百万人。
未帰還。
航行継続。
白い球体が最初の鼓動を打った。
一度。
終界の地面へ光の波が広がる。
止まった母親の指が、ほんのわずかに子供の背へ近づいた。
二度。
金色の空に、紫色の亀裂が何百本も開く。
三度。
クアドラの内部で警告が鳴り響いた。
『未承認心炉、再起動』
『固定未来との競合を検出』
『終端心炉による排除を開始』
黒金の装甲が、白い心臓を再び閉じようとする。
ニルがノア・スキフの乗降口を開いた。
カインが振り向く。
「何をする」
『心炉へ行きます』
「小型艇で入る」
『入口が狭すぎます』
「なら広げる」
『その間に閉じます』
「一人では行かせない」
ニルはカインを見た。
『また、順序が違います』
「何がだ」
『私は、行かないとは言っていません』
白い球体へ飛び移る。
細い足が、閉じかけた装甲の縁へ着いた。
カインは舌打ちし、ノア・スキフを心炉の真下へ滑り込ませる。
『落ちたら受け止める』
『はい』
『だから戻れ』
『努力します』
「約束しろ」
ニルは一瞬だけ止まった。
『戻ると選びます』
カインはそれ以上、止めなかった。
「なら行け」
ニルが白い光の中へ飛び込む。
◇
ノア心炉の内部には、海があった。
水ではない。
帰れなかった人。
帰りを待っていた人。
その名前が白い光となって、どこまでも流れている。
海の中央に、ミラが立っていた。
ニルと同じ白い髪。
黒い右目。
金色の左目。
百二十七年後、失われたニルの記録から造られた帰還端末。
右手の黒金の刃は、ニルの喉へ向けられていた。
「侵入者を排除します」
声が震えている。
ニルは止まらない。
『あなたは先ほど、私たちの通路を開きました』
「クアドラに対する機能障害です」
『いいえ』
「私は帰還端末です」
『はい』
「終界を現在へ帰すために造られました」
『はい』
「現在の人々を消しても、終界を残します」
『それは、あなたが選びましたか』
刃がニルの喉元で止まった。
黒い右目が命令を繰り返す。
金色の左目から、一滴だけ涙が落ちる。
「私は、選択するために造られていません」
『私も、そうでした』
ニルは刃の向こうへ手を伸ばす。
『私は、あなたではありません』
「知っています」
『あなたも、私ではありません』
「はい」
『なら、同じ答えを選ばなくていい』
ミラの手から黒金の刃が落ちた。
名前の海へ沈み、音もなく消える。
ニルが右手を差し出した。
ミラは、その手を見る。
「選んだ結果、終界の人々が死んだら」
『責任は消えません』
「怖くありませんか」
『怖いです』
ニルは迷わず答えた。
『だから、一人では選びません』
ミラの指が触れる直前で止まる。
「私には、あなたのような思い出がありません」
『私にも、最初からあったわけではありません』
「では、何から始めればいいのですか」
ニルは、先ほど記録したばかりの会話を思い出す。
『役に立たない会話を、一つ保存することから』
「それは必要ですか」
『重要度は不明です』
ミラの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「不明なものを保存するのですか」
『はい。人間は、よくそうします』
「あなたも人間なのですか」
ニルは一秒考えた。
『まだ、選んでいる途中です』
ミラが手を伸ばす。
二人の指が触れた。
青と赤。
黒と金。
現在から来た端末と、未来で生まれた端末。
四つの瞳から伸びた光が、一つの白へ重なる。
双端起動〈ツイン・ターミナル〉。
「私は、ミラです」
『私は、ニルです』
「終界の人々を救います」
『現在の人々も救います』
「どちらかではなく」
『すべてを帰します』
ノア心炉が白く燃え上がった。
◇
その光が、クアドラの胸部を内側から押し開く。
黒金の装甲に白い亀裂が走った。
一億八千四百万人へ伸びていた生命維持線が、金から白へ変わり始める。
未来のアカリが息を呑んだ。
『この光……覚えてる』
未来のレンが答える。
『ノア・ギアの帰還灯だ』
まだ二人がクアドラへ入る前。
戦場から避難者を運んだ夜。
定員を越えた母艦で、最後の一隻を待った時に見た光。
未来のアカリが呟く。
『私たちは、これを残したのに』
『止めた』
未来のレンの声には、怒りではなく疲れがあった。
『帰れない人を増やさないために、誰も出発できない世界を選んだ』
現在のレンは、アズールを白い亀裂のそばへ固定する。
「なら、今から選び直せ」
『選び直して失敗すれば、全員が死ぬ』
「選ばなくても、三十六時間後には心炉が尽きる」
『二十二分より長い』
「止まっているだけの三十六時間だ」
フレアがアズールの隣へ並ぶ。
アカリは、未来の自分へ言った。
「怖いなら、私たちも一緒に怖がる」
「でも、怖いことを終わりの理由にしないで」
未来のアカリが現在の自分を見る。
何かを言いかけた瞬間、クアドラの機械音声が会話を切った。
『選択保存体の判断を不安定と認定』
『終端心炉を自律固定へ移行』
黒金の拘束環が、青と赤の棺を包む。
未来のレンが息を呑んだ。
『操縦権が切られた』
未来のアカリが棺の内側を叩く。
『待って! 私たちはまだ――』
『過去の承認記録を優先』
クアドラは、造った二人の今の意思さえ必要としなくなった。
一度与えられた命令だけを、永遠に守る機械へ戻る。
停止していた四枚の観測環が砕け始めた。
生命維持を支える役割まで捨て、すべての出力が終端心炉へ集まる。
ノア心炉の表示が変わった。
生命維持出力、十三パーセント。
零座標退避準備、開始。
残存時間。
二十二分〇〇秒。
最初の街区を紫色の波が包む。
建物も、人々も、止まった一秒を壊さないまま半透明になっていく。
街区全体を零座標へ一時的に沈め、現在側で新しい時間を与える。
零座標避難計画が動き出した。
しかし、退避できたのは全街区の〇・〇〇一パーセント。
この速度では間に合わない。
レンが計算を開く。
「出力が足りない」
ノア・スキフからカインが答える。
『ノア心炉は起きた。だが終端心炉が八十七パーセントを奪っている』
「止めれば、生命維持も切れる?」
『壊せば切れる』
『向きを変えるしかない』
「どうやって」
紫色の通信から、未来のカインが答えた。
『黄金座標を、終端ではなく帰還へつなぐ』
声が先ほどより薄い。
現在のカインが気づく。
「お前、消えかけているのか」
『帰路人格は、道を渡すための記録だ』
『ノア心炉が起きれば、役目は終わる』
「勝手に終えるな」
『自分に言われると腹が立つな』
ノア・スキフの計器に、紫色の人影が浮かび上がる。
今のカインより年を重ね、少しだけ穏やかな顔をしていた。
『俺はニルを失った』
『その記録からミラが造られる未来も止められなかった』
『あいつを失った後で、帰り道だけを残した』
現在のカインの拳が固くなる。
未来のカインは、若い自分を見る。
『お前は、同じ俺になるな』
「なら、残って見届けろ」
『無茶を言う』
「俺たちの仕事だ」
未来のカインが、わずかに笑った。
『それは認める』
紫色の輪郭が光へ変わる。
零座標の経路。
街区ごとの退避順序。
現在へ新しい時間座標を作る方法。
帰路人格の全記録が、ノア・スキフへ流れ込んだ。
最後に、一つの言葉だけが残る。
『今度は、全員で帰れ』
紫色の人影が消えた。
ニルはノア心炉の中で、その消失を感じる。
『選択反応、終了』
ミラが目を伏せた。
「もう、生命ではないのですか」
ニルは白い名前の海を見た。
新しい光が一つ、帰還路へ混ざっている。
『いいえ』
『選んだ結果を、私たちへ渡しました』
『だから、ここにいます』
◇
クアドラの胸部から、黒金の衝撃が爆発した。
アズールとフレアが左右へ吹き飛ぶ。
白い亀裂が閉じ、ノア心炉は再び装甲の奥へ隠された。
巨大な身体が、都市から兵器へ姿を変え始める。
外側の都市装甲が切り離される。
背中の四連観測環は砕け、その破片が両腕と両脚へ集まった。
都市ほどの巨体が、高層塔ほどの黒金の人型へ圧縮されていく。
それでもアズールとフレアの十倍を超える。
左半身に青い線。
右半身に赤い線。
胸部には、未来を固定する黄金歯車。
終端戦闘体クアドラ・エンド。
切り離された都市装甲は、ノア心炉の細い白線だけで空に保たれていた。
クアドラ・エンドが右手を開く。
黒金の槍が形成された。
刃には、青と赤の未来が交互に映っている。
触れた者から実現しなかった可能性を切り捨て、一つの結末だけを残す槍。
終端選択槍〈ラスト・オルタ〉。
レンがアズールを起こす。
左腕出力、三十八パーセント。
右脚固定器、損傷。
フレアも隣で立ち上がった。
右腕の時間固定、四十一パーセント。
全力加速、残り一回。
クアドラ・エンドが槍を振るう。
一振りで、空が三つに分かれた。
青側へ逃げれば、蒼界だけが残る。
赤側へ逃げれば、紅界だけが残る。
中央にいれば、終界が現在を上書きする。
三つの逃げ道。
どれを選んでも、二つを失う。
「また三択」
アカリが言った。
レンは、分かれた空ではなく槍を見る。
「選ばない」
「じゃあ、どこへ行く?」
「槍の上だ」
アカリが一瞬だけ息を止める。
次の瞬間、笑った。
「それ、私が言いそう」
「先に言ったのは俺だ」
「そういうところだけ記録しておいて」
フレアが最後の全力加速を使う。
赤い機体は、終端選択槍の刃へ正面から向かった。
クアドラ・エンドは未来のアカリの記録から進路を読む。
槍先がフレアの胸部へ動く。
アズールの円環が、槍の側面を固定した。
刃の向きが一度だけ止まる。
フレアは槍を避けない。
赤い両足で柄へ着地した。
黒金の槍の上を走る。
アズールも、青い円環を足場にして続いた。
青でもない。
赤でもない。
終界でもない。
敵が差し出した選択そのものの上を、二機が駆ける。
クアドラ・エンドの胸部が迫る。
拘束された棺の中で、未来のアカリが呟いた。
『あんな動き、したことない』
未来のレンが答える。
『俺たちの記録では、槍を避けた』
『なら』
『予測できない』
アズールが黄金歯車へ青い円環を重ねる。
フレアは右拳を引いた。
時間固定が腕を侵食している。
動かせるのは、一度だけ。
レンが言う。
「壊すな。向きを変える」
「分かってる!」
二機は合体しない。
青い固定と赤い衝撃だけを、一点へ重ねる。
「クロス・ギア――」
「インパクト!」
赤い拳が黄金歯車へ届いた。
青い円環の内側で、衝撃が爆発する。
歯車は砕けない。
回転だけが止まった。
正回転。
停止。
逆回転。
終端心炉の出力が、ノア心炉へ流れ始める。
生命維持出力。
十三パーセント。
二十パーセント。
三十五パーセント。
零座標への退避速度が上がる。
一街区。
十街区。
百街区。
紫色の波が終界都市へ広がった。
だが、黄金歯車は完全には反転しない。
青と赤の棺から、二本の固定索が伸びている。
未来の二人がかつて差し出した承認。
一度決めた未来を変えないという命令が、終端心炉を元の向きへ引き戻していた。
現在のレンが叫ぶ。
「未来の俺!」
棺の中で、未来のレンが目を開く。
「それは、お前たちが選んだ命令だ」
「だから、お前たちにしか外せない!」
未来のアカリが、腕を囲む赤い承認環を見る。
『外せば、二十二分に全員を賭けることになる』
現在のアカリが答えた。
「違う!」
「四人だけで賭けるんじゃない!」
「終界の人も、蒼界の人も、紅界の人も、自分の次を選ぶの!」
未来のアカリの手が承認環へ伸びる。
あと少し。
指先が震えて止まる。
未来のレンは動かない。
彼の目には、八百三十万人が死んだ戦場が映っていた。
選び直すことは、その死をなかったことにすることではない。
それでも、同じ失敗を繰り返す恐怖が身体を止めている。
『承認記録を保護』
クアドラ・エンドが咆哮した。
黄金歯車が再び正回転へ戻る。
逆流した出力がアズールとフレアを弾き飛ばした。
アズールの左腕が砕ける。
フレアの右腕が完全に時間固定される。
二機は黒金の地面へ落ちた。
零座標退避完了まで、四十七分。
生命維持終了まで、二十一分五十九秒。
間に合わない。
◇
ノア心炉の中で、ニルとミラは同じ表示を見ていた。
終端心炉を完全に帰還方向へ向けるには、黄金座標が必要。
アズールとフレアがフェイズ・ドッキングし、インフィナイトになる時だけ生まれる座標。
だが終界で合体すれば、その黄金座標をクアドラ・エンドに奪われる。
ミラが計算結果を読む。
「現在方式の合体成功率、零パーセント」
『零相遮蔽もありません』
ヴァイスは百二十七年の時間差の向こうにいる。
黄金座標を隠せる時間は、一秒もない。
「方法は、もうありません」
ニルは首を横へ振った。
『方法がないのではありません』
「何が違うのですか」
『今までの方法が使えないだけです』
ニルは二つの心臓を表示する。
一つの未来へ固定する終端心炉。
全員を生きた時間へ帰そうとするノア心炉。
今は、互いに逆方向へ回っている。
だから黄金座標は奪われる。
しかし未来のレンとアカリが承認を外し、二つの心臓が同じ帰還方向へ回れば。
黄金座標は、終端ではなく三つの世界をつなぐ道になる。
隠す必要がなくなる。
ミラが顔を上げた。
「合体できる時間は」
『九十秒ではありません』
ニルの左右で色の違う瞳に、同じ白い光が宿る。
『制限そのものが、なくなります』
ただし、そのためには未来の二人が選び直さなければならない。
自分たちが止めた世界を、自分たちの手で動かすと。
◇
クアドラ・エンドが、地面へ落ちた二機へ歩く。
一歩ごとに金色の空が黒くなる。
アズールは左腕を失った。
フレアの右腕は止まった。
それでも、二機は半分になったのではない。
初めから、それぞれが自分の身体で立つ一機だった。
レンはアズールの右拳を地面へつく。
アカリもフレアの左拳で身体を起こす。
傷ついた二機が、もう一度並んで立った。
胸部の棺から、未来のアカリが問いかける。
『本当に、まだ戦うの』
「うん」
現在のアカリは即答した。
『勝てる可能性はない』
「さっきまで、〇・〇〇一パーセントは助かってた」
『それは』
「零じゃなかった」
未来のアカリが言葉を失う。
レンは未来の自分へ向き直った。
「お前が恐れている結果も、存在しなかったことにはしない」
「八百三十万人が死んだことも消さない」
「だから、その人たちの死を理由に、残った全員の時間を止めるな」
未来のレンの青灰色の目が揺れる。
現在のレンは、答えを迫らない。
「正しい答えを出せとは言わない」
「次の一秒だけ、俺たちへ預けろ」
未来のアカリが赤い承認環を握る。
未来のレンは、まだ手を動かせない。
クアドラ・エンドが終端選択槍を振り上げた。
アズールとフレアの計器へ、二つの数字が並ぶ。
零座標退避完了まで、四十七分。
生命維持終了まで、二十一分五十九秒。
その差、二十五分一秒。
現在のノア・ギアから、もう一度だけ白い通信が入った。
雑音の奥にカナメの声がある。
『聞こえるか』
レンが答える。
「聞こえる」
アカリも続ける。
「見えてないけど、聞こえてる!」
ユナの声が重なった。
『ノア心炉の起動を確認しました』
ゲンゴが叫ぶ。
『機体を壊しすぎるな! 帰ってから直す身にもなれ!』
アカリが笑った。
「帰ってから怒られるって」
レンも、わずかに口元を緩める。
「帰る理由が増えた」
アウレルの声が遠く届く。
『終端心炉が現在接続を加速している』
『三十六時間の猶予は消えた』
『完全接続まで、二十一分五十九秒』
二つの時間が重なる。
終界の生命が尽きる時。
現在が上書きされる時。
どちらも、二十一分五十九秒後。
クアドラ・エンドの槍が振り下ろされた。
アズールとフレアが左右へ跳ぶ。
傷ついた二機の間に、一本の白い線が伸びた。
同界接触信号。
レンとアカリがこの世界で初めて手を触れた時に生まれた、クアドラの記録にない光。
白い線が、青と赤のツイン・ギア・コアをつなぐ。
合体要求。
危険度、測定不能。
成功率、零パーセント。
アカリが赤い操縦環へ手を置く。
「レン」
レンも青い操縦環を握った。
「まだだ」
「分かってる」
今ここで合体すれば、クアドラに奪われる。
必要なのは、出力ではない。
止めた心臓を、未来の二人が自分で動かすこと。
未来のアカリは、赤い承認環を見つめた。
百二十七年間、誰も失わないために握り続けた輪。
それを外すことは、過去を否定することではない。
次の一秒にも、誰かを守る方法があると信じることだ。
未来のアカリの指が、赤い承認環を外した。
一本目の固定索が切れる。
終端心炉の回転が揺れた。
未来のレンは、まだ青い承認環を握っている。
クアドラ・エンドが再び槍を構える。
未来のアカリが、隣の棺へ叫んだ。
『レン!』
百二十七年前と同じ名前。
けれど今度は、止まるためではない。
未来のレンが目を閉じる。
八百三十万人の声。
止まった一億八千四百万人の呼吸。
現在の二人が差し出した、次の一秒。
青い承認環に、細い亀裂が入った。
生命維持終了まで、二十一分五十八秒。
完全接続まで、二十一分五十八秒。
九十秒の限界を越えるために必要な、最後の選択。
その答えだけを残し、終界の時計が動き始めた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、アズールとフレアが合体せずに四連観測環へ挑み、クアドラの奥に眠っていた「全員を帰すための心臓」を起こす回でした。
未来を固定する終端心炉も、全員を帰そうとするノア心炉も、始まりは誰かを救いたいという願いです。その二つが正反対へ回ってしまった時、現在の二人が差し出したのは「正解」ではなく、選び直すための一秒でした。
レンとアカリの説明なしの連携、二人のカインの別れ、ニルとミラの選択、未来のアカリが承認環を外す場面など、印象に残った台詞や場面があれば、感想や「ここすき」で教えていただけるとうれしいです。
次回、第12話「選び続ける世界」。
残る承認環は一つ。生命維持と完全接続、二つの時計が同時に尽きる前に、三つの世界すべてを帰す最後の戦いが始まります。
あなたなら、過去の決断を否定せずに、それでも新しい答えを選び直せますか。
第1期は次回完結です。毎日21時に更新予定です。