旧作【合体ロボ】死んだはずの幼なじみが、隣の世界から俺の名前を呼んだ 作:シラヌイ321
生命維持終了まで、二十一分五十八秒。現在が上書きされるまでも、同じ。
未来のアカリは、自ら赤い承認環を外した。
残るのは、八百三十万人を失った記憶に縛られる未来のレンと、亀裂の入った青い承認環。
【挿絵表示】
二つの数字が、同じ速さで減っていた。
終界の空で、クアドラ・エンドが黒金の槍を振り上げる。
その足元には、傷ついた二機が立っていた。
左腕を失った、蒼界機アズール。
右腕を時間固定された、紅界機フレア。
『左腕喪失、右腕損傷拡大。それでも両脚は継続可能です』
『右腕固定、左腕出力八十一パーセント。なお、操縦者の後退意思は未検出です』
「わざわざ言わなくていい!」
『事実確認です』
アカリが一瞬だけ言葉に詰まり、レンは小さく息を吐いた。
機体が違えば、AIの言い方も違う。
それでも、どちらも後ろへ下がるという選択肢だけは提示しなかった。
二機の間には、細い白線が残っている。
クアドラ・エンドの胸部では、青と赤の棺が黒金の拘束環に包まれていた。
未来のアカリは、もう赤い承認環を持っていない。
残るのは一本。
未来のレンが握る、青い承認環。
表面には、細い亀裂が入っていた。
「正しい答えを出せとは言わない」
現在のレンが呼びかける。
「次の一秒だけ、俺たちへ預けろ」
未来のレンは目を閉じている。
その記憶では、八百三十万人が死んだ。
自分がもっと早く決めていれば。
もっと正しく計算できていれば。
誰にも選ばせず、世界を止めていれば。
何度やり直しても、その結論へ戻ってしまう。
未来のアカリが、隣の棺へ手を伸ばした。
二人の間には、触れられない距離がある。
かつての蒼界と紅界のように。
『レン』
未来のアカリが、もう一度名前を呼ぶ。
『あの時、止める方を選んだのは私も同じ』
未来のレンの指が動いた。
承認環の亀裂が広がる。
クアドラ・エンドが、その迷いを危険と判断した。
『承認記録を強制保護』
黒金の固定膜が、青い棺へ流れ込む。
未来のレンの腕を、承認環ごと凍らせようとした。
現在のレンはアズールを前へ出す。
失った左腕では届かない。
残った右腕で、振り下ろされた槍を受け止めた。
黒金の刃が、青銀の掌へ食い込む。
右腕の装甲が、次々と砕けた。
「レン!」
アカリが叫ぶ。
「止まるな!」
アズールは槍を押し返さない。
刃の位置だけを、青い円環で固定する。
自分の機体を守るのではなく、フレアが動ける一秒を残した。
フレアは動く。
時間固定された右腕を引きずり、赤い機体が槍の下へ飛び込んだ。
左拳が、クアドラ・エンドの胸部へ届く。
未来のレンは、現在の自分を見た。
若い自分なら、もっと壊れない方法を探した。
成功率を計算し、最も安全な固定点を選んだ。
だが目の前のレンは、自分で危険を引き受けている。
無計画だからではない。
アカリが必ず先へ進むと知っているからだ。
未来のレンは、小さく息を吐いた。
『一秒だけだ』
「十分だ」
現在のレンが答える。
未来のアカリが、泣きそうな顔で笑った。
『昔から、一秒の使い方が大げさなのよ』
未来のレンの口元も、ほんの少しだけ動く。
『お前にだけは言われたくない』
最後の固定索が切れる。
クアドラの内部で、二つの心臓が向かい合っていた。
青と赤の固定索を失った終端心炉が、震える。
ノア心炉と同じ方向。
未来を固定するためではない。
全員を帰すための回転。
黄金と白の鼓動が、重なった。
クアドラ・エンドの左半身から、青い固定線が消える。
右半身からも、赤い線が離れた。
それでも、機械は止まらない。
『過去承認を喪失』
『自律終端命令を継続』
造った二人が選び直しても、クアドラ・エンドは古い命令だけを守り続ける。
黒金の槍が、アズールの右手へさらに沈んだ。
フレアが左拳を、槍の側面へ叩き込む。
「もう、その二人は止まりたくないって言ってるでしょ!」
赤い衝撃で軌道がずれた。
アズールとフレアが、同時に後退する。
クアドラ・エンドの胸部で、黄金歯車が大きく開いた。
終界全域から、黒金の光が集まり始める。
一億八千四百万人を、二度と選び直せない深さまで固定するつもりだった。
ノア心炉の内部で、ニルが両目を開く。
向かいにはミラがいた。
同じ白い髪。
違う色の瞳。
違う時間に生まれた二人。
「全固定層への接続が開きました」
『時間を返します』
「何秒ですか」
『一秒』
「一秒では、誰も避難できません」
『避難のためではありません』
ニルは、一億八千四百万人へ問いを送る。
声ではない。
命令でもない。
止まった意識へ、一つの余白だけを届けた。
ミラの黒い右目が、固定層を開く。
金色の左目が、生命維持を一秒だけ本人の身体へ返した。
白い波が、都市全体を走る。
止まっていた時計の秒針が動いた。
母親の手が、転びかけた子供の背中へ届く。
空中で止まっていた果実が落ち、店先の男が慌てて両手で受け止める。
窓辺の鳥が羽ばたく。
涙が頬を伝う。
言いかけた言葉が、声になる。
隣にいる誰かの手を、誰かが握る。
立ち上がる者がいた。
座ったまま、周囲を見つめる者もいた。
恐怖で動けない者もいる。
それでも、動けなかったことは拒絶ではない。
迷ったことも、怖いと思ったことも、本人だけの新しい反応だった。
クアドラが記録していない一秒。
誰かに決められた安全ではなく、自分で迎えた次の時間。
白い選択信号が、ノア心炉へ集まる。
観測数が増えるほど、終端心炉の予測画面が白く塗り替えられていった。
『未登録選択、上限超過』
『単一未来を算出不能』
クアドラ・エンドの槍が揺れる。
未来を一つへ絞る機械には、一億を超える違う答えを同時に処理できない。
『全員が、同じ答えを選ぶ必要はありません』
「違う答えを持ったまま、同じ次の時間へ進めます」
ミラも続けた。
二つの心炉から、青、赤、紫、白の光が終界の空へ放たれる。
傷ついたアズールとフレアの間に、白い道が開いた。
二つの半円形コアが、互いの位置を探し始める。
黄金座標。
これまでは、その座標が現れた瞬間、クアドラに見つかった。
だから紫の膜で隠し、九十秒だけ戦ってきた。
今、二つの心炉は同じ方向へ回っている。
黄金座標は、クアドラが現在へ帰るための目印ではない。
三つの世界を、生きた時間へつなぐ帰還路になる。
『黄金座標、帰還航路へ接続』
「観測遮断は、不要」
ミラが数値を確かめた。
『制限時間は』
「ありません」
アカリが赤い操縦環へ手を置く。
レンも青い操縦環を握った。
二人は互いの機体を、通信窓ではなく同じ空の中に見る。
「レン」
「聞こえてる」
「今度は、何秒?」
レンの計器から、数字が消えていく。
どれも表示されない。
「終わるまでだ」
アカリが笑った。
「長いね」
「まだ始まってない」
「じゃあ、始めよう」
二つの半円形コアの縁に、金色の文字が浮かぶ。
七年前、記念品の歯車の裏で読んだのと同じ書体だった。
二つの半円が触れた中央にだけ、三つ目の一行が灯った。
傷ついた二機が、それぞれの形を保ったまま光へ変わる。
二つの完成した構造から、必要な機能が同じ設計図へ重なっていく。
『青側判断を維持します』
『赤側判断を維持します』
『統合による平均化を拒否』
『賛成。違いは故障ではありません』
二つのAIは、一つの答えに混ざらない。
異なる判断を持ったまま、同じ機体を動かすために噛み合った。
失われたアズールの左腕は、二機が共有する設計記録から新しく形成される。
時間固定されたフレアの右腕も、黒金の殻を脱ぎ捨てて再構成された。
二本の腕。
二本の脚。
青い左側。
赤い右側。
胸部中央には、黄金と白の二重歯車。
額に黄金の角が開き、全身へ白い帰還線が走る。
同じ名前。
同じ二人。
けれど、もう黄金座標を隠す必要はない。
九十秒の限界もない。
二つの操縦席が、同じ空間へ並ぶ。
二人の間を隔てていた薄い光の壁が消えた。
レンの左手とアカリの右手が、中央の黄金操縦環へ同時に触れる。
終界で初めて会った時と同じ温度。
今度は、離さなくても機体は動く。
黄金の双眼が開いた。
クアドラ・エンドが、終端選択槍を両手で構える。
『黄金座標を確認』
『回収を実行』
黒金の槍が、インフィナイトの胸部へ突き出された。
レンは左腕を上げる。
青い円環が槍先を固定した。
同時に、アカリが右脚へ加速を入れる。
インフィナイトは固定された槍の周囲を回り、クアドラ・エンドの背後へ出た。
未来の戦闘記録にはない動きだった。
今のインフィナイトでは、レンが赤い加速を選べる。
アカリが青い固定点を変えられる。
どちらが青で、どちらが赤か。
もう役割は決まっていない。
必要な瞬間に、必要な方が選ぶ。
「今の加速、私より思い切りよくなかった?」
「数値は同じだ」
「そういう話じゃない」
「なら、あとで説明してくれ」
「今度こそ先に聞くからね!」
クアドラ・エンドの予測画面へ、無数の進路が開く。
現在の二人だけではない。
蒼界の人々。
紅界の人々。
終界で一秒を選び直した人々。
そのすべてが、新しい可能性として黄金座標へ流れ込んでいた。
『進路を算出不能』
クアドラ・エンドが振り返り、槍を横へ払う。
インフィナイトは避けない。
青い左手で柄を掴む。
赤い右手で刃を受けた。
黒金の力が、操縦席へ三つの結末を映し出す。
『一つを選択してください』
『選ばなければ、全未来を失います』
アカリは、黄金操縦環へ重ねた手に力を入れた。
「どれも、あり得た未来なんだね」
「ああ」
レンは三つの世界を観測する。
「じゃあ、消さない」
「同じ考えだ」
インフィナイトの胸部で、黄金と白の歯車が回る。
一つへ決めない。
存在した可能性を、失敗も含めて残す。
その上で、今いる場所から次を選ぶ。
青、赤、黒金の幻が、白い光へ変わった。
クアドラ・エンドの槍に、亀裂が走る。
アカリが右腕を引いた。
レンが左掌で衝撃範囲を固定する。
青赤の拳が、槍の中心へ届いた。
黒金の刃が二つに折れる。
だがクアドラ・エンドは、折れた槍を捨てなかった。
二本の短い刃として握り直す。
一方が青い左肩を切り裂いた。
もう一方が、赤い右脚を貫く。
インフィナイトが、初めて後退した。
「壊れないわけじゃないんだ」
アカリが表示を見る。
「当然だ」
「ちょっと安心した」
「なぜ」
「無敵になったんじゃ、選ぶ意味がないから」
レンは一秒考えた。
「安心する場面ではない」
「分かってる。ちょっとだけ!」
クアドラ・エンドが、二本の刃を重ねる。
終界の空全体が、黒金に染まった。
インフィナイトが右へ避ける未来が消える。
左へ避ける未来も消える。
上昇。
下降。
防御。
反撃。
選ぶたび、その結果が先に黒く塗り潰された。
最後に残るのは一つ。
二本の刃がインフィナイトの胸部を貫き、黄金歯車が砕ける未来。
クアドラ・エンドが、その結末へ踏み込む。
レンは動かない。
アカリも操縦環を押さなかった。
「何もしないの?」
「今は」
刃が迫る。
「いつまで?」
「アカリが動くまで」
アカリはレンの横顔を見た。
未来は一つずつ消されている。
だが消されたのは、二人がこれまで選んだ行動だけだ。
今この瞬間、別々の人々が生んだ何千万もの選択までは、まだ一つに絞られていない。
「分かった」
アカリが、黄金操縦環から手を離す。
レンも同時に手を離した。
ほんの〇・三秒。
二人は、機体へ直接命令することをやめる。
代わりにニルとミラが、三つの世界から届く選択信号を操縦系へ開いた。
右へ進みたい者。
左へ逃げたい者。
誰かを守りたい者。
まだ動けない者。
互いに違う無数の力が、一つへ揃わないままインフィナイトへ流れ込む。
『不一致入力を排除しません』
『全件を未観測選択として保持します』
「これ、まとめられる?」
『不可能です』
「なら、まとめるな」
レンが答える。
『提案を承認』
クアドラには、どれが実行される未来か判別できない。
インフィナイトは、そのすべてを抱えたまま中央を前へ進んだ。
二本の刃の間を、真正面から抜ける。
『未登録操縦を検出』
『操縦者、不明』
レンとアカリは、もう一度黄金操縦環を握った。
「決めたのは、俺たちだけじゃない」
インフィナイトの両手が、クアドラ・エンドの胸部へ届く。
壊すための拳ではない。
終端心炉とノア心炉の間へ、帰還航路を直接つなぐ。
青い固定円環が、観測された可能性を消えない記録として残す。
赤い加速光が、それらを一秒先へ進める。
カインの零座標経路が、逃げ道を開く。
ニルとミラが、白い選択信号を重ねた。
黄金の歯車が、三つの世界を一つへ潰さず結んでいく。
壊すのは、クアドラではない。
誰かが最初に決めた未来を、永遠に守り続けろという命令だけ。
黄金と白の光が、クアドラ・エンドの胸部を貫いた。
爆発は起きない。
黒金の装甲が、静かに光の粒へ変わる。
終端固定光が消えた。
二本の刃も崩れていく。
一つの未来だけを残せという命令が、百二十七年分の記録から切り離された。
クアドラ・エンドの双眼から、青と赤の光が抜ける。
未来のレンとアカリを閉じ込めていた棺が開いた。
二人の身体が、白い光へ解放される。
『固定未来を終了』
『帰還航行へ移行』
クアドラ・エンドの巨体が、両膝をつく。
戦闘装甲は、避難用の白い航路板へ組み替わっていった。
未来を止めていた巨大機が、全員を運ぶ船へ戻る。
戦いは終わった。
救出は、まだ始まったばかりだった。
残された余裕は、六秒。
「六秒もある」
ノア・スキフの操縦席で、カインが紫色の操縦環を握り直した。
『通常、六秒は余裕と呼びません』
「俺たちの作戦では長い」
『その基準は改善が必要です』
「帰ってから聞く」
『帰還予定を確認しました』
カインは一瞬黙る。
「そういう意味ではない」
『知っています』
ノア・スキフが、紫色の亀裂へ飛び込んだ。
未来のカインから託された経路を使い、第一街区の時間固定層を零座標へ沈める。
建物。
道路。
人々。
一つの空間として移し、その先で停止時刻の一秒後へ再配置する。
終界を現在へ上書きせず、終界自身の次の時間を作る座標。
『蒼界側、座標固定開始』
カナメの声が、白い帰還線を越えて届く。
『紅界側も同期。継続座標、誤差〇・〇〇〇四』
『出力は足りる! 遠慮せず持っていけ!』
ゲンゴの声が割り込んだ。
蒼界と紅界の市民が、再び予備電力を送る。
工場。
家庭用蓄電池。
病院の非常炉。
輸送車。
一つ一つの光は小さい。
終界の人々も、自分たちの選択信号を返していた。
現在が未来を運ぶだけではない。
未来も、自分たちの足で次の一秒へ進もうとしている。
インフィナイトが、終界上空で両腕を広げた。
青い左手が、移動前の街区を固定する。
赤い右手が、継続座標へ時間を一秒進める。
黄金と白の胸部が、二つの場所を同時につないだ。
街区が紫色へ消える。
次の瞬間、白い光の向こうへ現れた。
止まっていた時計が動き始める。
人々の呼吸が戻る。
誰かが叫ぶ。
誰かが泣く。
何が起きたのか理解できず、隣の人へ尋ねる。
答えられないまま、二人で笑う者もいた。
全員に、次の一秒が来る。
ノア・スキフの右翼が、零座標の流れに剥がされた。
カインは機体を横滑りさせ、金色の塔へ船腹をぶつけて進路を変える。
「帰ったら、ゲンゴに怒られるな」
『帰る理由が増えました』
ニルが答えた。
カインは一瞬だけ黙る。
「誰の真似だ」
『記録から学習しました』
未来のカインが残した紫色の経路が、次の街区を示す。
姿はもうない。
それでも、選んだ道は現在のカインの手に残っていた。
解放された未来のレンとアカリは、白い航路板の上へ降りていた。
長い時間固定で、二人の身体は弱っている。
互いの肩を支えなければ歩けない。
それでも棺の外にいる。
『あんな形になれたんだ』
未来のアカリが、空を飛ぶインフィナイトを見上げた。
『形は同じだ』
『違うよ』
未来のアカリが首を横へ振る。
未来のレンは、動き始めた街を見た。
『俺たちは、二人だけで全部を背負おうとした』
『誰にも選ばせないことが、守ることだと思った』
「これからどうする」
現在のレンが通信を開く。
『決めていない』
「いい答え」
現在のアカリが笑った。
『明日のことは、明日みんなで決める』
『もう、私たちだけでは決めない』
ミラが二人のそばへ現れる。
『ミラも現在へ行く?』
ミラは、通信画面のニルを見た。
同じ白い髪。
違う瞳。
違う記憶。
「私は、ここに残ります」
『命令ですか』
「いいえ」
ミラは自分の胸へ手を置く。
「私が選びました」
「この世界の人々が自分で明日を決められるまで、帰還端末ではなく、ミラとしてここにいます」
『では、また通信します』
ニルが頷いた。
「待っています」
『待つだけではなく、あなたからも送ってください』
ミラの口元が、少し緩む。
「努力します」
『約束してください』
ミラは、かつてカインへ同じ言葉を返したニルの意図に気づいた。
「通信すると選びます」
二人は同じ姿で、別々の未来を選ぶ。
クアドラの旧中枢が崩れ始める。
終端命令を失った黒金装甲は、終界の重力を保てない。
インフィナイトが、両脚を地面へ固定した。
青い円環を限界まで広げ、最後の街区群を支える。
「まとめて送る!」
アカリが赤い出力を右腕へ集めた。
「座標差が大きい」
レンが警告する。
「一つずつじゃ間に合わない!」
「分かってる」
「止めないの?」
「止めるのは街区だ。アカリじゃない」
青い固定円環が、十二の街区を一つの巨大な輪へまとめる。
赤い加速光が、輪全体の時間を一秒先へ押した。
十二街区が、同時に零座標へ沈む。
「どこだ!」
カインが叫ぶ。
『登録座標にいません』
ニルが全固定記録を開いた。
ミラが、選択返還の一秒を再生する。
母親の手が、転びかけた子供の背へ届く。
支えられた子供は、その後で自分から一歩だけ前へ出ていた。
クアドラの固定記録には存在しない、一歩。
だから退避経路にも登録されていない。
「見つけた!」
アカリが叫んだ。
崩れる金色の交差点。
消えた街区の跡に、小さな人影が一人だけ残っている。
インフィナイトが飛ぶ。
クアドラの旧装甲が、空から落ちた。
青い左肩へ直撃する。
レンが子供の位置を固定する。
だが継続座標への出口は、閉じ始めていた。
アカリが赤い右手を伸ばす。
巨人の指では、子供を直接掴めない。
衝撃だけで傷つけてしまう。
「レン、固定を借りる!」
「もう使ってる!」
「じゃあ、半分!」
レンは子供の足元を固定したまま、残る円環をアカリへ渡した。
赤い掌の内側へ、青い小さな円環が生まれる。
柔らかな空気だけを固定した、受け皿。
インフィナイトの右手が、子供を空気ごと包む。
赤い加速で、継続座標へ送った。
白い出口の向こうで、母親が両腕を伸ばす。
子供の身体が、母親の胸へ届いた。
終界の生命維持が停止する。
同時に、未退避生命反応が零になった。
完全接続は実行されない。
蒼界は消えない。
紅界も消えない。
終界の人々も現在を奪わず、自分たちの次の一秒へ到達した。
終界だった空間から、金色が消えていく。
そこに残ったのは、空になった街と白い帰還航路だけ。
継続座標では、同じ街が一秒先を生き始めていた。
時計が動く。
風が吹く。
止まっていた鳥が、羽ばたきの続きを飛ぶ。
未来のレンとアカリは、移動した都市の中央広場に立っていた。
母親に抱かれた子供が、空を指す。
白い光の中に、インフィナイトが見えた。
『全員いるよ』
未来のアカリが通信を開く。
「よかった」
現在のアカリは、操縦席で息を吐いた。
その一言で、身体から力が抜けそうになる。
レンの手が、黄金操縦環の上で支えた。
「まだ帰還がある」
「分かってる」
「眠るな」
「レンこそ」
『現在が違う道を選べば、俺たちの未来は生まれない』
未来のレンが二人を見る。
『俺たちも消える可能性がある』
「ここにいるお前たちは消えない」
現在のレンは首を横へ振った。
終界は、現在が必ず辿り着く結末ではなくなった。
一つの可能性から分かれ、自分の次を選べる世界になった。
現在が違う道を進んでも、救出された一億八千四百万人の一秒は消えない。
『そうか』
未来のレンが、ようやく肩の力を抜く。
『次に会う時は、百二十七年も待たせないでね』
「そっちからも来てよ」
現在のアカリが笑った。
『航路を直したらね』
「帰還航路を現在へ固定します」
ミラが通信へ入る。
「通過可能なのは、人型機一機と小型艇一隻」
「来た時と同じか」
レンが確認した。
「いいえ」
ミラの金色の左目が、わずかに柔らかくなる。
「今度は、こちらから閉じません」
白い歯車が開く。
向こう側には、現在のノア・ギアが見えた。
暗くなった格納庫。
その中央で、ヴァイスが紫色の灯りを掲げている。
ノア・スキフが先に航路へ入った。
『また通信します』
「はい」
小型艇が白い光へ消える。
インフィナイトも後へ続いた。
未来のレンとアカリが、動き始めた街から見送る。
現在の二人は、同じ操縦席から手を上げた。
異なる時間を生きる二組の手が、白い航路の両側で重なる。
現在のノア・ギア。
白い歯車から、ノア・スキフが飛び出した。
格納庫の床へ着く直前、残っていた左の安定翼まで外れる。
「受け止めろ!」
ゲンゴが整備員へ叫んだ。
緩衝膜が小型艇を包む。
続いて、青、赤、金、白の巨人が航路を越えた。
インフィナイトの黄金の足が、中央格納庫へ着地する。
帰還航路が閉じた。
今度は断絶ではない。
両側に座標記録を残した、再び開ける扉として閉じた。
『フェイズ・ドッキング、終了可能』
アカリは、中央の操縦環へ置いた手を見る。
レンの手が、まだその上に重なっていた。
「終わったね」
「作戦は」
「そういう意味じゃなくて」
レンは少し考える。
「始まった」
アカリは一度だけ目を丸くした。
それから笑う。
「うん」
「そっちの方がいい」
二人は手を離した。
「フェイズ・ドッキング解除」
「またね、インフィナイト」
黄金の巨体が、青と赤の光へ分かれる。
アズールとフレアが、それぞれ二本の腕と二本の脚を持つ完全な機体として戻った。
『青側機体へ復帰』
『赤側機体へ復帰』
『共有記録は保持します』
『ただし、操縦者アカリの過大入力は共有対象外を希望します』
「ちょっと!」
『希望は却下されました』
レンが視線を逸らす。
アカリは見逃さなかった。
「今、笑った?」
「記録にない」
『記録は存在します』
「レン、あとで見せてもらうからね」
戦闘前の損傷は、消えていない。
アズールの左腕は応急構造だけを残して停止する。
フレアの右腕も、時間固定こそ解けたが出力は戻らない。
二機は壊れたまま帰ってきた。
それでも、自分の両脚で同じ格納庫へ立っている。
胸部ハッチが開く。
アズールの青い掌へ、レンが降りる。
フレアの赤い掌へ、アカリが立つ。
終界で初めて会った時と同じ形。
今度は、二人の間に八メートルもない。
二つの掌が共通甲板へ並び、レンとアカリは同じ床へ降りた。
そこにはカナメが待っていた。
ユナ。
ゲンゴ。
拘束環をつけたアウレル。
「帰還を確認した」
カナメが潜入班を見渡す。
「全員だ」
「一人、未来に残った」
カインが壊れたノア・スキフから降りる。
『ミラは、自分で残ると選びました』
「なら、未帰還ではない」
カナメは頷いた。
「あれが彼女の帰る場所だ」
ゲンゴがアズールとフレアを見上げる。
左腕。
右腕。
肩部装甲。
推進器。
次々と損傷表示が開いた。
さらにノア・スキフの両翼が、遅れて床へ落ちる。
ゲンゴは目を閉じた。
「壊しすぎるなと言ったはずだ」
「やっぱり怒られた」
アカリがレンを見る。
「予測どおりだ」
「予測できたなら壊すな!」
ゲンゴは工具箱を開け、三人へ順に手渡した。
「言ったはずだ。帰ってきたら全員に工具を持たせる」
「俺もか」
カインが受け取る。
「お前が一番壊した」
格納庫に笑いが広がった。
七年前の世界分裂から、何度も失われた場所。
そこへ初めて、二つの世界の笑い声が同じ空気で響く。
アウレルは少し離れた場所から、動き続ける未来の映像を見ていた。
「私の理論は、最後まで間違っていた」
「全部ではない」
レンが答える。
アウレルが顔を上げた。
「零座標の計算がなければ、避難路は作れなかった」
「正しかった部分まで消す必要はない」
「でも、したことも消えない」
アカリが続ける。
「分かっている」
アウレルは拘束環へ触れた。
「消さずに、生きて責任を負う」
『その選択を記録します』
ニルが彼を見る。
「頼む」
三十日後。
蒼界と紅界の間に、小さな扉が完成した。
二つの世界を無理に重ねず、人と物だけが安全に行き来できる通路。
大きさは、人が二人並んで通れる程度。
人型機は通れない。
軍隊も、大量の物資も、一度には送れない。
最初に運ばれたのは、紅界の少年が描いた四つの歯車の絵だった。
次は、蒼界の女性が育てた青い花。
交換条件を巡って議論が起きた。
通行人数でも揉めた。
どちらの規則を採用するかで、会議は夜まで続く。
世界がつながっても、全員が同じ考えになるわけではない。
恐怖も疑いも、すぐには消えない。
それでも、意見が違うたびに扉を閉じる者はいなかった。
その日、レンは共界門の紅界側へ渡っていた。
崩れた旧研究区画。
倒れた支柱の前で、足を止める。
コンクリートには、釘で刻まれた自分の名前があった。
その下に、線が七本。
レンは、しばらくそれを見ていた。
「八本目は、いらないな」
「当たり前でしょ」
背後から、アカリの声がした。
彼女は蒼界側から戻ってきたところだった。
「そっちは、見た?」
「見た」
アカリは胸元の赤いペンダントを握る。
蒼界の慰霊碑。
上から三番目に、緋月アカリ。享年十歳。
「自分の名前を読むのって、変な気分」
「消すか」
「ううん」
アカリは首を横へ振った。
「あそこに置かれた花は、本物だから」
レンは何も言わない。
「消さずに、隣へ書き足してもらう。生きてますって」
「役所の手続きが必要だ」
「そこは事務!」
アカリが笑う。
七年前と同じ笑い声だった。
今は、同じ空気の中で聞こえる。
二人は並んで歩き始めた。
目的地は、ノア・ギアの共同食堂。
会議でも作戦でもない。
ただ同じ場所で食事をするための約束だった。
後ろから、カインとニルが共界門を通る。
ニルの両目は、青と赤のままだ。
『二人の心拍数が上昇しています』
「記録しなくていい!」
アカリが振り返る。
『今回は位相変動ではなく、健康確認です』
「諦めろ。あいつは記録する」
カインが言う。
『必要な情報だけです』
「必要の基準が広すぎる」
共同食堂へ着くと、カインは端末から特大の甘味を注文した。
「甘い物、好きなの?」
アカリが画面を見る。
「何か問題があるか」
「ないけど、もっと苦い物だけで生きてそう」
「人を外見で固定するな」
「今回の教訓と一致する」
レンが頷いた。
「そこまで大きな話にしないで」
四人分の食事が並ぶ。
青い栄養食。
赤い香辛料。
特大の甘味。
そして、ニルの前にも小さな皿が置かれていた。
白い指が、フォークの柄をぎこちなく握る。
『摂食機能は搭載されています』
「使ったことは?」
アカリが尋ねた。
『ありません』
「じゃあ、初めてだ」
ニルは一口だけ、口へ運ぶ。
しばらく動きが止まった。
『……味覚評価を、保留します』
「それ、まずいって意味?」
『判断材料が不足しています』
「二口目を食べればいい」
カインが言う。
ニルは、二口目を食べた。
「何にするの?」
アカリが聞く。
ニルはフォークを置き、三人の顔を順番に見た。
アカリの手が止まる。
レンも、青い栄養食を持ったまま動けなくなった。
七年前。
白い観測室。
見学が終わったら、三人でご飯を食べようと言った少女がいた。
その約束を覚えていたのは、忘れられた側だけだった。
「……覚えてたの」
アカリの声が掠れる。
『思い出しました』
「遅い」
レンが言った。
『はい』
「それでも来た」
『はい』
アカリが目元を拭う。
「泣いてない」
『涙腺反応を検出しました』
「記録しなくていい!」
『これは記録します』
カインが甘味を一口食べ、静かに言った。
「四人になったな」
『訂正します』
ニルが答える。
「増えた分は」
『新しい記録です』
四人の声が、青と赤の食堂へ重なった。
ノア・ギアの大型画面へ、百二十七年後から通信が届く。
白髪のミラが映った。
その背後では、人々が街の瓦礫を片づけている。
止まっていない。
怒鳴り合う者もいる。
泣いている者もいる。
子供たちは、動く時計の秒針を珍しそうに追いかけていた。
未来のレンとアカリも画面へ入る。
『世界の新しい名前を決めようって話になったんだけど』
『候補が四千を超えた』
「決まりそう?」
現在のアカリが笑う。
『すぐには無理だ』
「それでいい」
現在のレンは頷いた。
「終界という名称は、昨日をもって使用を終了しました」
ミラが現在と未来の全員を見る。
「新しい名称は、まだありません」
「決まるまで、この世界を未来と呼びます」
止まった世界は終わった。
そこに残ったのは、完成した正解ではない。
失敗するかもしれない明日。
意見が衝突するかもしれない社会。
それでも、選び直せる時間。
未来のアカリが、画面越しに手を振る。
現在のアカリも振り返した。
『あの一秒、返す』
未来のレンが、現在のレンへ言う。
「次の誰かへ預けてくれ」
未来のレンは少し考えた。
それから頷く。
『分かった』
通信が終わる。
青い世界は、青いまま残った。
赤い世界も、赤いまま残った。
二つを無理に一つへ戻すことはしない。
違う世界だからこそ、扉を開く意味がある。
アズールとフレアは、格納庫で別々の機体として修復を受けている。
必要な時には、またインフィナイトになれる。
離れていても、つながっている。
インフィナイトとは、一体の機体だけを指す言葉ではなくなった。
違う答えを持つ者たちが、互いの未来を消さずに進むための名前になった。
その夜。
ノア・ギアの観測室で、ニルが一人だけ目を開いた。
青い右目に、蒼界。
赤い左目に、紅界。
二つの間へ、見覚えのない透明な光が現れる。
光の奥で、白銀の人型機を示す設計像が立ち上がった。
二本の腕と、二本の脚。
胸部には、まだ色のない歯車。
青と赤へ分かれる以前を思わせる輪郭だったが、完成記録も実在記録もない。
設計識別欄に残っていたのは、二つの名称だけ。
それが造られた機体なのか、造られなかった可能性なのか、ニルにも判別できなかった。
未来からではない。
零座標からでもない。
音声が再生される。
激しい雑音。
誰かの呼吸。
そして、聞いたことのない女の声。
通信は一度で切れた。
ニルは透明な光へ手を伸ばす。
恐怖はある。
分からないことも多い。
それでも彼女は、信号を消さなかった。
保存する。
そして、自分の言葉で記録名をつけた。
青と赤の間で、透明な歯車が一度だけ回る。
『双界機神インフィナイト』第1期、これにて完結です。
最終話でレンたちが壊したのは、クアドラそのものではなく、一度決めた未来を永遠に変えてはいけないという命令でした。蒼界も紅界も百二十七年後の未来も、一つへ潰さず残す。一億八千四百万人を最後の一人まで帰す。その答えを選べたのは、特別な一人ではなく、違う考えを持つ全員が次の一秒を選んだからです。
そして第0話の観測室で交わされた、三人でご飯を食べるという約束。七年と少し遅れて、ようやく果たされました。
よければ、ひとつだけ教えてください。
いちばん残ったのは、未来のレンが承認環を外す場面でしたか。最後の子供の救出でしたか。それとも、ニルがつけた記録名でしたか。
最後に届いたのは、世界分裂の一秒前からの救難信号です。次に救うべきものは、未来ではなく始まりなのかもしれません。
ここまで物語を追ってくださり、本当にありがとうございました。第2期へ続きます。