百二十七年後の人々は救出された。
そして世界分裂の一秒前から、存在しないはずの救難信号が届いた。
第2期「ZERO BREAK篇」、開幕です。
第13話 ゼロから届く声【第2期開幕】
「アズール。応答しろ」
返事がない。
それだけなら、通信故障と判断できた。
だが、
喉は震えている。
息も吐いている。
それなのに、青銀の機体を満たしていた冷却器の音も、格納庫を歩く整備員の足音も、耳へ届かなかった。
全ての音が、世界から切り取られている。
アズールの操縦席で、レンは右手を青い操縦環へ置いた。
胸部コアは回っている。
出力も正常。
青い巨大人型機アズールは、二本の腕と二本の脚を備えた完全な機体のまま、蒼界側格納庫の固定台へ立っている。
壊れたのは機体ではない。
音だけだ。
正面の通信窓に、赤い光が走る。
紅界側格納庫の映像が開いた。
赤金の完全人型機フレア。その操縦席で、
声はない。
長い赤褐色の髪が揺れ、唇だけがレンの名を作った。
レンは操縦環から手を離し、通信窓へ向けて二本の指を立てる。
二人とも無事だ。
そう伝えたつもりだった。
アカリは一瞬だけ目を細め、それから同じように二本の指を返す。
次の瞬間、音が戻った。
格納庫の警報が一斉に耳へ突き刺さる。
冷却器が唸り、整備員たちの叫びが重なり、通信窓からアカリの声が飛び込んできた。
『レン!』
「無事だ」
『それを先に言って! 二本指だけじゃ分からないでしょう!』
「二人とも無事という意味だ」
『初めて聞いた合図なんだけど!』
青い計器へ、ようやく合成音声が戻る。
『アズール判断系、再接続。全音響消失時間、一・〇〇〇秒』
続いて、赤い通信窓から別の合成音声が響いた。
『フレア判断系も復帰しました。なお、今の二本指へ共通規格は存在しません』
「作ればいい」
レンが答えると、アカリは額へ手を当てた。
『操縦者二名による即席規格を登録しますか』
アズール判断系が尋ねる。
「保留」
『私は登録を推奨します。次は三本になるかもしれません』
フレア判断系が明るく言った。
「何が三つになるのよ」
『意味は後から決められます』
「合図って、そういうものじゃないから」
たった一秒前まで、返事がないことが恐ろしかった。
今は二つのAIが、いつもの調子で正確さと勢いをぶつけている。
レンは息を吐いた。
その安堵が消える前に、艦長回線が割り込む。
『全員、応答確認後に
境界航行母艦ノア・ギアの艦長、
『ニルが、世界分裂前からの信号を受信した』
短い間を置いて、カナメは続ける。
『始まりが、こちらへ帰ろうとしている』
◇
十五分後。
蒼界と紅界を結ぶ小規模通路、共界門の中央観測室には、二つの世界の代表が同じ数だけ集まっていた。
机の左半分は蒼界の青い端末。
右半分は紅界の赤い端末。
中央だけが透明で、その下を人が二人並べるほどの短い通路が貫いている。
世界を一つへ融合させず、人と少量の物資だけを通す扉。
三十日前に得た、戦いではない成果だった。
今、その扉の周囲を六枚の防護板が囲んでいる。
閉じれば、両世界の行き来は止まる。
壊れるわけではない。
だが、向こうから届いた救難信号も同時に閉じ込める可能性があった。
会議机の中央で、ニルが一枚の白い紙を広げる。
右目は青。
左目は赤。
かつて未来を選ぶ装置として扱われた少女は、今、自分の言葉で記録を読み上げた。
「発信時刻は、西暦二一八九年六月十二日」
紙の上へ、整った字が並んでいる。
「世界分裂の一秒前です」
解析担当の
「受信記録は残っていないの?」
「保存を拒否されました」
「破損ではなく?」
「表示は『起点記録に存在しない差分』でした」
ユナの指が止まる。
電子記録へ残せない情報を前にして、完全なデータを好む彼女は、わずかに眉を寄せた。
「だから手書き」
「はい」
「筆圧まで解析できる?」
「ユナ」
カナメが呼ぶ。
「今は文字を読め」
「読んでいます。筆圧も文字です」
観測室の隅で、カインが紙の裏側を確かめた。
黒い上着の胸元から、焦がし糖菓子の包みが一枚だけ覗いている。
「菓子の在庫票ではないな」
ニルが答えた。
「別の紙です」
「ならいい」
「在庫票には、五個不足と記録しました」
「今はその話ではない」
「カインが先に確認しました」
アカリが吹き出しかけ、唇を結ぶ。
カナメは咳払いを一つしてから、紙の続きを促した。
笑えるうちに笑っておく。
それは三十日前まで、誰も持てなかった余裕だった。
ニルが次の行へ指を置く。
「信号には二つの名称がありました」
青い端末へ、一つ目を入力する。
「
次に、赤い端末へ二つ目を入力する。
「プロトタイプ・インフィナイト」
観測室の空気が変わった。
インフィナイト。
青のアズールと赤のフレアが、二つの完成機を壊すことなく、装甲と機能を第三の設計へ重ねて成立させる機体。
その名を、世界分裂前の信号が知っている。
「映像は?」
レンが尋ねた。
「白銀の完全人型機を確認しました。二本の腕と二本の脚。左右対称。胸部に、色のない歯車型コア」
ニルは一度、言葉を止めた。
「中に、女性が一人いました」
アカリが身を乗り出す。
「声の人?」
「断定できません。ですが、同じ方向へ手を伸ばしていました」
「何て言ったの」
ニルは紙を見ずに答えた。
「『こちらは、まだ一つだ』」
最初の言葉。
「『蒼羽レン、緋月アカリ』」
二人の名前。
「『次は、始まりを助けてくれ』」
最後の言葉。
レンは青いペンダントへ触れた。
七年前から持つ半円の歯車が、体温より少し冷たい。
通信窓の向こうでは、アカリも赤いペンダントを握っている。
「俺たちを知っていた」
「七年前の私たちじゃなく、今の名前で呼んだ」
アカリが続ける。
「待っていたんだと思う」
「その可能性はあります」
ニルは紙の最後を見せた。
そこには、短い一行だけがある。
会いに行く人。
カナメが読む。
「敵でも、味方でもないのか」
「まだ会っていません」
ニルは迷わず答えた。
「会う前に、どちらかへ固定したくありません」
青い通信窓で、アズール判断系が静かに応じる。
『分類保留を合理的と判断します』
赤い窓では、フレア判断系が少し遅れて続いた。
『会ってから困る可能性もありますが、会わずに決めるよりは公平です』
「後半だけ聞くと、歓迎してるように聞こえるわね」
アカリが言う。
『私は歓迎と警戒を同時に実行できます』
『論理上、両立します』
アズール判断系も同意した。
レンは二つの窓を見る。
「意見が合った」
『訂正します。結論が一致しただけです』
『そこを細かく分けるから、合っていないように聞こえるのでは?』
二つのAIの声が、青と赤から別々に届く。
同じ基礎規格を持っていても、七年間に選んだ言葉は違う。
その違いがあるから、レンとアカリは声だけでも相手を見分けられた。
観測室の奥で、拘束区画からの回線が開く。
白い髪の男が、監視員二名を背後に立たせて画面へ現れた。
アウレル・ゼロ。
二つの世界を偽りの一つへ戻そうとした終端機関ゼロの指導者であり、現在は境界航行機関
彼が協力しても、行ったことは消えない。
画面のアウレル自身が、その事実から目を逸らさなかった。
『その名称を、私は知っている』
カインの目が細くなる。
「都合のいい続きが出てきたな」
『そう聞こえるだろう』
「聞こえ方の話じゃない」
『なら、事実だけを話す』
アウレルは両手を机の上へ置いた。
逃げるためでも、許しを求めるためでもない。
監視側へ指先まで見せる姿勢だった。
『ZEROとは、インフィニティ・ギアの旧記録に残っていた最上位命令名だ。私は災害後に回収した断片から、その文字だけを知った』
「だから自分の組織と名前へ使った?」
アカリの声は冷たい。
『そうだ。完全な仕組みを理解していたわけではない』
アウレルは、そこで言葉を切らなかった。
『だが、知らなかったことは免罪にならない。過去の状態を現在へ上書きすれば、分裂後に生まれた者が消える。その可能性を理解したうえで、私は計画を進めた』
カナメが確認する。
「起点管理核とは何だ」
『組織ではない。おそらく、自律した安全管理系だ』
観測室の中央へ、七年前の施設図が投影される。
だが、蒼界に残った青い図面とも、紅界に残った赤い図面とも一致しない。
二つへ分かれる前の、白い基礎構造だけが表示されていた。
『事故が起きた時、施設と人員を直前の正常状態へ戻す。そのために、復元点を保存する仕組みがあったと考えられる』
ユナが白い構造を拡大する。
「復元点は、どこに保存されたの?」
『通常の座標ではない。未来観測系の外側にある管理領域だ』
アウレルの指が、二つの世界の手前に白い層を描く。
『仮に、
初めて聞く名称が、観測室へ落ちる。
カナメはすぐに問い返した。
「七年前の過去へ行けるのか」
『違う』
アウレルは明確に否定した。
『過去そのものではない。分裂一秒前の施設、登録情報、命令を保存した管理用の復元領域だ。そこで何かを変えても、七年間の歴史をやり直せるわけではない』
「では、何ができる」
『現在を、保存された古い状態で上書きできる』
誰も言葉を挟まなかった。
時間を戻すのではない。
今を生きる人々の上へ、七年前の記録を被せる。
蒼界と紅界で別々に生きた同じ人物は、一人へ戻される。
分裂後に生まれた子供は、登録されていない差分になる。
百二十七年後の未来は、まだ存在しない情報として扱われる。
起点管理核に悪意がなくても、結果は同じだった。
七年間を生きた現在が消える。
「三十日前の戦いで、起点層を起こしたのか」
レンが尋ねる。
『起こした、という表現は正確ではない』
アウレルは首を横へ振った。
『二つの心炉と三世界の帰還経路が接続し、さらに共界門が完成した。世界を重ねずに結ぶ安定した道が生まれたことで、七年間閉じていた救難信号が現在まで届いたのだろう』
「つまり、私たちの勝利が間違いだったわけじゃない」
アカリが言う。
『違う』
アウレルは答えた。
『世界が前へ進めるようになったから、止まっていた始まりの声が届いた』
ニルは白い紙へ、その言葉を書き足さない。
誰が言ったかを残すより、自分が何を選ぶかを決めたかった。
その時、共界門の表示が白く変わった。
青でもない。
赤でもない。
二つの世界が分かれる前の、色になる前の光だった。
透明な床を、白い線が走る。
線は共界門の中心から蒼界側へ伸び、次いで紅界側へ枝分かれした。
警報が鳴るより早く、青と赤の端末へ同じ文字が現れる。
起点照合開始。
現在構造に未登録差分を検出。
正常復元まで、二百九十九秒。
「全員、門から離れろ!」
カナメの命令で、観測員たちが壁際へ退く。
共界門の向こうでは、買い物籠を持った人々が立ち止まっていた。
蒼界で作られた浄水部品を紅界へ運ぶ者。
紅界の加熱部品を蒼界へ持ち帰る者。
三十日で始まったばかりの、小さな往来だった。
防護扉が天井から降りる。
半分まで下がったところで、扉の青い塗装が白へ変わった。
続いて赤い警告灯が消える。
古い灰色の灯火が一つだけ点き、防護扉は停止した。
「自動閉鎖を受けつけない」
ユナが端末を叩く。
「違う。命令は通っている。でも扉が七年前の位置へ戻されている」
『電子制御を切れ!』
画面のアウレルが声を上げた。
『その扉の基礎規格は分裂前のものだ。起点命令の下では、こちらの閉鎖指示よりゼロの復元を優先する』
「手動なら動かせるか」
カナメが尋ねる。
『機械式の固定具まで復元されなければ』
「ずいぶん頼りになる答えだな」
カインが皮肉を返す。
『確実でないことを、確実とは言えない』
「そこだけは信用する」
共界門の天井から金属音が落ちた。
白く変わった固定具が一本、床へ突き刺さる。
ニルが机の上の紙を抱え、落下地点から退いた。
その足元へ、もう一枚の紙が滑ってくる。
四つの歯車が描かれた子供の絵だった。
青、赤、紫、金。
共界門が開いた日に、未来から帰還した子供が残したものだ。
白い線が絵の端へ触れる。
金色の歯車が消えた。
次に紫が薄れ、青と赤まで紙の白へ溶け始める。
ニルは絵を拾い上げた。
「この子は、記録の間違いではありません」
白い線は答えない。
ただ、正常復元までの数字だけを減らしていく。
二百六十八秒。
◇
中央観測室へ、二人の整備主任が駆け込んだ。
蒼界側から来たのは、アズールの整備を預かる
紅界側から来た
ゲンゴが床を指で叩いた。
マオも同じ場所を小型槌で叩く。
「叩くな。振動が混ざる」
「そっちが先に叩いたでしょ」
「俺のは診察だ」
「私のは問診」
「機械は口を利かん」
「あんた、いつも機体に話しかけてるじゃない」
ゲンゴは一秒だけ黙った。
「聞いているのと、答えるのは別だ」
「はいはい。蒼界式の繊細な会話ね」
言い争いながらも、二人の手は止まらない。
ゲンゴが床下の固定環を開き、マオが赤熱した緩衝材を隙間へ押し込む。
二人は同時に顔を上げた。
「門そのものは壊れていない」
「壊されるより面倒。造られる前へ戻ろうとしてる」
ユナが白い線の波形を表示する。
全ての値が同じ位置へ近づき、差が零へ収束していた。
「復元命令が波のように、分裂前の機器を伝っている」
彼女は現象名の欄へ文字を入力した。
「
アウレルが画面越しに頷く。
『破壊ではなく、復元。だから通常の防壁では止められない』
「なら、分裂後に追加した部品なら止められる」
ゲンゴが言った。
マオは固定環を確かめる。
「蒼界式の固定具は位置を守れる。でも衝撃を逃がせない」
「紅界式の緩衝帯は耐えるが、基準位置がずれる」
二人は相手の工具箱へ同時に手を伸ばした。
ゲンゴが赤い耐熱楔を取る。
マオが青い精密締結器を取る。
「貸すとは言ってない」
「返せとは言わせない」
「壊したら弁償」
「世界が残ったら請求書をよこせ」
それきり二人は言葉を止めた。
青い固定環を、赤い緩衝帯が包む。
どちらか一方の技術では作れなかった支えが、白い線の前へ組み上がっていく。
残り二百二十一秒。
だが、中央通路の白化は止まらない。
◇
蒼界と紅界の緊急代表回線が開いた。
十の窓に、立場の違う人々が映る。
蒼界の治安局員は、門を閉じるべきだと主張した。
紅界の防災責任者も同じだった。
一方、蒼界の市場代表は、開けておくべきだと訴えた。
紅界の医療担当も、患者の薬品輸送を止められないと言った。
青だから慎重で、赤だから強気なのではない。
守ろうとする生活によって、答えが分かれていた。
『門を切り離せば、ゼロ波の侵入は遅らせられる』
ユナが解析結果を共有する。
「何日だ」
『不明です。数時間かもしれません。数分かもしれません』
「閉じれば安全になる、とは言えないのか」
『言えません』
さらに別の表示が開く。
共界門を通っている救助経路、生活物資、家族面会の予約。
三十日前まで存在しなかった数字が並ぶ。
『切り離した場合、これらは全て停止します。起点層からの信号も追えなくなる可能性があります』
カナメは代表たちを見た。
「戦場なら、私は閉鎖を命じる」
その声に迷いはなかった。
「だが、これは二つの世界が使う生活路だ。艦長一人が決めるものではない」
残り百八十六秒。
時間は待ってくれない。
それでもカナメは、決定権を奪わなかった。
「事実を全て公開する。門を残す場合は、通行を一時停止し、手動隔離班を常駐させる。閉じる場合も破壊はせず、再接続手段を残す」
蒼界側の代表が問う。
『開けたままなら、未知の相手を招き入れることになる』
「閉じれば、助けを求めた相手を置き去りにするかもしれない」
紅界側から別の声が飛ぶ。
『どちらを選んでも、責任が残る』
「そうだ」
カナメは短く答えた。
「だから、責任のない正解を探すな。引き受けられる選択を出してくれ」
投票窓が開いた。
レンは青い表示を見つめる。
門の向こうには、赤い通信窓のアカリがいる。
「アカリ。お前は紅界へ戻って――」
言いかけて、止める。
彼女を危険から遠ざけたい。
その思いを、彼女の選択まで奪う言葉へ変えてはいけない。
これまでの戦いで、何度も学んだことだった。
「ごめん。今のは違う」
『うん。違う』
アカリは怒鳴らなかった。
レンが続きを選ぶまで待った。
「怖い」
口にすると、胸の奥に押し込めていたものが形を持った。
「一秒でも、お前の声が消えるのが怖い。アズールの返事がなくなるのも怖い。だから戻れとは言わない。同じ危険を、俺にも分けてくれ」
通信窓の向こうで、アカリが小さく息を吐く。
『分ける順番が逆。レンが一人で抱えてから渡すんじゃなくて、最初から二人で持つの』
「難しい注文だ」
『七年分、練習して』
「長いな」
『私たちには、もう短いでしょう』
赤い窓越しに、アカリが右手を上げる。
レンも左手を重ねた。
触れられない距離に戻っても、今度はその向こうに相手がいると知っている。
アカリが言った。
『私は門を残したい。でも、知らない誰かを信じ切ったからじゃない』
「分かっている」
『会って、止めるべきなら止める。助けられるなら助ける。その判断を、門を閉じて手放したくない』
レンは頷く。
「俺も同じだ」
ニルが二人の間へ歩み出た。
薄くなった四つの歯車の絵を胸へ抱いている。
「危険を招くために開けるのではありません」
彼女は十の代表窓を見た。
「助けを求める声を、聞かなかったことにしないためです」
投票の表示が一つずつ埋まる。
蒼界、門を維持。
紅界、門を維持。
同じ答えへ至る理由は、全員が同じではなかった。
それでいい。
違う理由を持ったまま、同じ行動を選べる。
カナメが決定を読み上げた。
「共界門は破棄しない。通行を一時停止。両界共同の手動隔離へ移行する」
残り百三十二秒。
「始まりの声を救出する。同時に、現在を一人も消させない」
◇
蒼界側格納庫で、アズールの固定台が外れる。
青銀の巨体が一歩を踏み出した。
二本の腕。
二本の脚。
青い胸部コア。
誰かの部品ではない、一機の完全人型機だ。
紅界側では、フレアが赤金の肩を上げる。
こちらも独立した二本の腕と二本の脚で床を踏み締めた。
共界門は人と小型貨物のための通路であり、巨大人型機が通れる幅ではない。
二機は門を挟み、別々の世界から同じ構造を支える。
『アズール判断系、蒼界側固定点を取得』
『フレア判断系、紅界側加熱路を取得。いつでも派手に行けます』
「派手にするな」
ゲンゴが共同回線へ割り込む。
『では、壊れない範囲で印象的に行きます』
「同じ意味に聞こえるぞ」
『印象には個人差があります』
マオが工具をくわえたまま、笑いを漏らした。
「紅界製の判断系にしては、よく分かってる」
『私は紅界製という一語では説明できません』
「なお良し」
アズール判断系が、冷静な声を重ねる。
『会話中も残り時間は減少しています』
「蒼界製は空気を冷やすのが得意ね」
『当機に空調機能はありますが、比喩との関連を確認できません』
残り九十秒。
ゲンゴとマオが手動固定具を閉じる。
二人の工具が、説明なしに入れ替わった。
ゲンゴは紅界式の耐熱楔を打ち、マオは蒼界式の締結器を〇・一ミリ単位で合わせる。
カインが中央の手動輪へ両手をかけた。
「これは、どちらへ回す」
「右だ」
「左!」
ゲンゴとマオの声が重なる。
カインは動きを止めた。
「世界を救った後で、回す方向から決めてくれ」
二人が手動輪の軸を覗き込む。
ゲンゴが咳払いした。
「紅界側から見れば右だ」
マオも視線を逸らす。
「蒼界側から見れば左」
「つまり同じ方向か」
「最初からそう言ってる」
「二人とも別のことを言った」
ニルが事実を記録する。
カインは何も言わず、手動輪を回した。
笑いはそこで終わった。
白い線が観測室の壁を越え、両側の格納庫へ到達したからだ。
アズールの青い外装へ、白い筋が浮かぶ。
フレアの赤い外装にも、同じ筋が走る。
レンの計器から、七年間の戦闘記録が一項目ずつ暗くなった。
アカリの表示では、フレア判断系が覚えた独自の応答語が削除待機へ移る。
『ゼロ波が機体の基礎規格へ侵入』
アズール判断系が報告する。
『優先復元対象は、私たちの会話学習層です』
「遮断できるか」
『演算と姿勢制御は保全可能。音声人格層は保全率、三十二パーセント』
フレア判断系の声から、わずかに雑音が落ちた。
『私は、削除に同意していません』
「当然よ」
アカリは操縦環を強く握る。
『確認しました。アカリも同意していません』
「確認するまでもないでしょう」
『重要なことは、何度確認してもよいと学習しました』
それは、初めから与えられていた規則ではない。
七年間、アカリと話し、失敗し、言い直し、選び直して得た答えだった。
白い筋が、フレアの喉元へ届く。
『もし私が黙っても、同意したとは思わないでください』
「思わない」
『私は、かなり大きな声で反対しています』
アカリは目を閉じそうになる。
だが、閉じなかった。
「聞こえなくても、分かるから」
蒼界側では、アズール判断系の声も細くなっていた。
『レン。接触対象の脅威分類は未確定です』
「ああ」
『会う前に、敵へ固定しないでください』
「ニルと同じ意見か」
『結論が一致しただけです』
聞き慣れた訂正だった。
レンは、ほんの少しだけ笑う。
「分かった。会ってから、俺が決める」
『私たちで、です』
「そうだったな」
『はい。では――』
声が切れた。
今度も喉は動く。
工具が床を打つ音も、カインが手動輪を回す軋みも聞こえている。
消えたのは、世界を越える声だった。
紅界側のアカリが何かを叫ぶ。
その唇は見えるのに、通信窓は無音のまま閉じた。
アズール判断系も返事をしない。
フレア判断系の声も届かない。
二つの世界はつながったまま、互いの音だけを失った。
残り三十秒。
ユナが紙へ数字を書き、観測室の窓へ押しつける。
門を支えて。
レンはアズールの右腕を上げた。
青い掌部コアを、蒼界側の固定柱へ触れさせる。
反応がない。
違う。
操縦環が、レンの右手へほんの少しだけ押し返している。
進めではない。
角度を二度、下へ。
レンが補正すると、アズールの掌部コアが明滅した。
二回。
短く二回。
二人とも無事。
十五分前、規格にもなかった合図だった。
「いるんだな」
返事はない。
代わりに操縦環が、今度は一度だけ手の中で震えた。
紅界側では、フレアの掌部コアが三回光る。
一回目より二回目。
二回目より三回目の方が明るい。
アカリが涙を拭い、声の届かない相手へ笑った。
「本当に三つ目を作ったのね」
意味は後から決められる。
アカリは操縦環を前へ押した。
「分かった。三つ目は、ここにいる」
フレアの両脚が床を捉える。
赤金の右腕が、紅界側の緩衝柱を支えた。
アズールが位置を守る。
フレアが衝撃を逃がす。
二機は合体していない。
声も届かない。
それでも、門を挟んだ力は同じ方向へ流れた。
ゲンゴが最後の楔を打ち込む。
マオが締結器を固定する。
カインが手動輪を回し切る。
ニルは色の消えかけた絵を、白い線から持ち上げた。
残り三秒。
二。
一。
零。
共界門の表示が消えた。
白い光が観測室を満たす。
床も壁も、人の輪郭も、色のない一枚へ溶ける。
だが、痛みは来なかった。
レンは操縦環の感触を失っていない。
アカリは赤いペンダントを握ったまま、そこにいる。
四つの歯車の絵も、ニルの腕の中に残っている。
現在は消えていない。
光が細くなった。
共界門の透明な通路があった場所に、白い廊下が延びている。
実際の門幅は、人が二人並べるほどのままだ。
それなのに視界だけが、あり得ないほど深い空間へ接続していた。
廊下の向こうは、巨大な格納庫だった。
天井から散った火花が空中で止まっている。
壁の時計は、世界分裂の一秒前を示したまま動かない。
整備員らしい人影も、床へ落ちる工具も、白い霧の中で静止していた。
その最奥に、一機の巨大人型機が立っている。
白銀の装甲。
黒い内部骨格。
左右対称の二本の腕と二本の脚。
胸部では、色のない透明な歯車型コアが止まっていた。
額から、一本の透明な直線角が伸びている。
背に翼はない。
代わりに、白い円環が一基、停止した機体の周囲を囲んでいた。
現在のインフィナイトとは似ていない。
だが、知らない機体とも思えなかった。
アズールとフレアより前に、同じ問いへ別の答えを出そうとした姿。
完成しているのに、何かが決定的に足りない。
医療機器のように人を救えそうで、処刑具のように選択を一つへ絞る姿だった。
ユナの手書き端末が、門の奥から古い識別情報を拾う。
XG-00。
プロトタイプ・インフィナイト。
緊急起動席登録者。
その名前は、起点層へ触れているユナの端末にだけ表示されていた。
音声回線も機体への転送回線も沈黙したままでは、格納庫にいるレンやアカリへ伝えられない。
白銀の機体の胸部で、透明な装甲がゆっくり開いた。
一人の女性が、操縦席に座っている。
短い灰褐色の髪。
前髪の一房だけが白く焼け、琥珀色の瞳が現在を見つめていた。
身につけているのは、白銀と橙色の旧式接続服。
右手は操縦環へ固定されている。
左手だけが、門のこちら側へ伸びていた。
ニルが一歩、近づく。
「あなたが、助けを呼んだ人ですか」
通信は切れている。
声が届くはずはなかった。
白銀の機体を囲む円環の中心に、黒い空白が開いた。
顔はない。
感情もない。
ただ、白い文字だけが浮かぶ。
分岐状態を確認。
正常起点への復元を開始。
共界門の外で、街の照明が一斉に瞬いた。
蒼界では、七年前に存在しなかった診療所の扉へ白い線が走る。
紅界では、新しく架けられた避難橋の基礎が古い座標を示し始める。
復元は、門の中だけで終わらない。
レンは白銀の機体を見上げた。
「聞こえるか。俺たちは――」
トワが、伸ばしていた左手を握る。
琥珀色の瞳に怒りが浮かんだ。
その奥には、怒りよりずっと長く耐えた人の安堵があった。
トワの唇が動く。
白い廊下の床が震え、その振動が共界門の骨組みを伝った。
音声回線ではない。
七年前の金属と、現在の金属が触れたことで生まれた声だった。
止まった一秒の向こうから、彼女の声が届く。
「七年も遅刻するなんて、聞いていない」
お読みいただき、ありがとうございます。
第2期「ZERO BREAK篇」が始まりました。
あなたなら、共界門を閉じますか。それとも危険を監視しながら開いておきますか。
次回、第14話「声のない出撃」。
用語解説
【共界門】
第1期の決戦後、蒼界と紅界を統合せずにつないだ小規模通路。人と少量の物資だけが通行でき、アズールやフレアのような巨大人型機は通れない。
【起点管理核ゼロ】
世界分裂以前から存在した自律安全管理系。分裂一秒前を正常状態として保存し、現在をその状態へ復元しようとしている。アウレルが率いた終端機関ゼロとは別の存在。
【起点層】
分裂一秒前の施設、登録情報、命令を保存した管理用の復元領域。過去そのものではなく、歴史を自由にやり直せる場所でもない。
【ゼロ波】
分裂前の機器へ組み込まれた復元命令が、波のように現在の設備へ広がる現象。七年間の変化を未登録差分と判断し、特に機体AIが学習した声や個性へ干渉する。
【プロトタイプ・インフィナイト】
世界分裂以前に建造された白銀の試験人型機。二本の腕と二本の脚、透明な歯車型胸部コアを持つ。現在のインフィナイトとの詳しい関係は、まだ判明していない。