旧作【合体ロボ】死んだはずの幼なじみが、隣の世界から俺の名前を呼んだ   作:シラヌイ321

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 カインの機体には、話し相手のAIが積まれていません。

 七年間、あの操縦席はずっと静かでした。

 その静かな席へ、子供の声が呼びかけてきます。

【挿絵表示】

 ――お前は、七年間の誤差だ。




第17話 K-0は名前を持たない

第四篇「ZERO BREAK篇」

第17話 K-0は名前を持たない

 

 

 

「証明はしない。

 

 俺が誰かは、俺が決める」

 

◇

 

『K-0』

 

『K-0』

 

『K-0』

 

 三十七回目だった。

 

 カイン・ヴァイスは、格納庫の床に座り込んだまま、それを数えていた。

 

 黒銀のヴァイスは、彼の背後で沈黙している。

 

 当然だ。この機体には、返事をするものが積まれていない。

 

 アズールには判断系がある。フレアにもある。

 

 ヴァイスには、ない。

 

 零座標を渡るためだけに造られた機体は、七年間ずっと、操縦席の中で一人だった。

 

 だから、割り込んでくる声が、やけに大きく響く。

 

『K-0。返答を要求する』

 

「……三十八」

 

『何を数えている』

 

「お前が俺を番号で呼んだ回数だ」

 

『番号ではない。それが名称だ』

 

「そうか」

 

「なら、俺の名前を呼べない相手だな」

 

◇

 

「――カイン」

 

 通路の入口に、レンとアカリが立っていた。

 

 カインは顔を上げなかった。

 

「昨日から寝てないだろ」

 

「寝ている」

 

「嘘。目の下すごいことになってる」

 

「……夜に強いだけだ」

 

「それ二日前も言ってた」

 

 レンは、彼の隣に腰を下ろした。

 

 しばらく、誰も喋らなかった。

 

「行くつもりだな」

 

「…………」

 

「否定しないのか」

 

「否定すると、お前は一緒に来ると言い出す」

 

「アズールは今、通信層が死んでいる。零座標の亀裂を渡れば、帰り道の保証がない」

 

「二機で行って二機とも戻れない事態は、最悪だ」

 

「一機で行って一機も戻らないのは?」

 

「――計算が簡単になる」

 

「よくない!」

 

 アカリが、彼の後頭部を軽く叩いた。

 

 カインは、避けなかった。

 

◇

 

「私も行きます」「同行します」

 

 白い髪の少女が、いつのまにか格納庫の入口に立っていた。

 

「断る」

 

「理由を」

 

「向こうにいるのは、俺の観測記録から作られた人格だ」

 

「観測したのは、七年前のインフィニティ・ギアだ」

 

「……つまり、お前を鍵にしていた連中だ」

 

「はい」

 

「ですから」「私が行かないと、成立しないことがあります」

 

「なんだ」

 

 ニルは、腰の記録装置を外した。

 

 そして、それを作業台の上へ置いた。

 

「向こうは、記録を読みます」

 

「私が持っていけば」「あなたの七年ぶんが、全部読まれます」

 

「だから、置いていきます」

 

 カインは、置かれた装置を見た。

 

 七年間、この少女が一度も手放さなかったものだ。

 

「……記録係が、記録を置いていくのか」

 

「はい」

 

「昨日、六歳の子に習いました」

 

◇

 

 零座標の亀裂は、共界門の真下に開いた。

 

 黒銀の機体が一機ぶんだけ通れる、細い裂け目。

 

 その向こうは、白かった。

 

 床も、空も、方眼状の管理線で区切られている。

 

 色は、白と、透明と、薄い琥珀だけ。

 

 火花が、空中で止まっていた。

 

 落下途中の工具が、床から三十センチのところで浮いていた。

 

 閉じかけた防火扉が、閉じきらないまま静止していた。

 

 遠くには、青空がある。

 

 蒼界の青でも、紅界の赤でもない、ただの青空だ。

 

 太陽も、雲も、動かない。

 

「……綺麗ですね」

 

「生きてないだけだ」

 

◇

 

 少年は、止まった火花の前に立っていた。

 

 黒髪。十二歳前後。

 

 左手首に、黒い識別帯。

 

 カインが、七年前まで巻いていたものと、同じ形。

 

『K-0が来た』

 

「……俺の顔をしているとは思わなかった」

 

『当然だ。私が正しいK-0の状態だ』

 

 少年は、カインを見上げた。

 

 目だけが、妙に大人びていた。

 

『お前は継続誤差だ』

 

「継続誤差」

 

『分裂一秒前の記録が私だ。そこから七年ぶん、勝手に伸びたのがお前だ』

 

『伸びた部分は、記録にない。記録にないものを、どうやって本物だと言う』

 

 カインは、答えなかった。

 

 代わりに、少年の左手首を見ていた。

 

「その帯の下に、火傷はあるか」

 

『――該当なし』

 

「そうか」

 

「俺にはある。四年前についた」

 

『記録にない傷だ。証明にならない』

 

「証明する気はない」

 

◇

 

 ――と、白い床の奥から、足音がした。

 

 白銀と橙の、旧式の接続服。

 

 短い灰褐色の髪。前髪の一房だけが、焼けたように白い。

 

「ケイ。勝手に人を呼ぶな」

 

『その名で呼ぶな』

 

「じゃあ何と呼べばいい」

 

『K-0だ』

 

「二文字と数字を毎回口に出すのは面倒だ」

 

 御影トワは、手に何かを持っていた。

 

 白い、小さな金属製の容器。

 

 彼女はそれを傾け、一口飲んだ。

 

「……それは」

 

「非常食のコーンスープだ」

 

「冷えている」

 

「温めないのか」

 

「温めたら故障だろう」

 

 カインは、真顔の彼女を数秒見た。

 

「何だ」

 

「……いや」

 

「俺も温かい菓子は認めない」

 

「話が早いな」

 

◇

 

「一つ聞く」

 

「三百十二」

 

 トワの動きが、止まった。

 

「……何の数だ」

 

「お前が言った」

 

「二日前、蒼界の空で、機体越しに叫んだ」

 

「知らない」

 

 彼女は、容器を両手で持ち直した。

 

「二日前の記録は、途中から残っていない」

 

「あの機体は、操縦者が命令から外れると、直前の記憶を復元点まで戻す」

 

「戻された。たぶん、何か余計なことを言ったんだろう」

 

「…………」

 

 カインは、彼女の指先を見ていた。

 

 容器を持つ右手は、操縦環に固定されていない。ここでは自由だ。

 

 その指が、無意識に容器を叩いていた。

 

 三回。

 

 一回。

 

 二回。

 

 そして、また三回。

 

「……そうか」

 

「忘れてないぞ、あんた」

 

「何の話だ」

 

「手が覚えてる」

 

 トワは、自分の指を見下ろした。

 

 不思議そうに。

 

 そして――何も言わなかった。

 

◇

 

『雑談は終わりだ』

 

 ケイが、割り込んだ。

 

 声に、苛立ちが混ざっている。

 

『K-0。お前へ選択肢を与える』

 

『起点状態へ戻れ。七年ぶんの誤差を切り離せば、お前は正常な観測体へ復元される』

 

「断る」

 

『即答するな。条件を聞け』

 

「聞いても同じだ」

 

『――なぜだ』

 

『お前には何もない。番号しかない。誰もお前を証明しない』

 

『私は記録がある。お前にはない』

 

『どちらが本物か、記録で比べれば一秒で終わる』

 

「だから断ると言っている」

 

 カインは、はじめて少年へ一歩近づいた。

 

「俺は、本物かどうかの勝負をしに来たんじゃない」

 

『では何をしに来た』

 

「顔を見に来た」

 

『…………』

 

「見た。帰る」

 

◇

 

 ――そこで、ニルが動いた。

 

 彼女は、止まった防火扉の脇にある棚へ歩いていった。

 

 七年前のまま、扉が半分だけ開いている。

 

 中には、非常食の箱が並んでいた。

 

 止まった時間の中で、包み紙の角まで鮮明だった。

 

「カインさん」「お腹、空いていませんか」

 

「……この状況でか」

 

「はい」

 

 カインは、しばらく彼女を睨んだ。

 

 それから、ため息をついて棚へ歩いた。

 

 箱の中には、五種類の包みがあった。

 

 塩味の固形食。乾燥果実。栄養剤。粉末飲料。

 

 そして、いちばん端。

 

 茶色い、小さな包み。

 

「……焦がし砂糖か」

 

 彼は、それを取った。

 

 同時に、もう一本の手が、同じ包みへ伸びていた。

 

 小さな手だった。

 

『……』

 

 ケイの投影された指が、包みの上で止まっていた。

 

 二人は、同じ場所で止まったまま、動かなかった。

 

「……おい」

 

『何だ』

 

「なぜそれを選んだ」

 

『――』

 

『……検索中』

 

『該当する命令記録が、ありません』

 

「そうだろうな」

 

「俺にもない」

 

 白い空間に、小さな音が落ちた。

 

 ニルが、口元を押さえて、少しだけ笑っていた。

 

「……すみません」

 

「記録に、残しません」「これは、私が覚えているだけにします」

 

『何がおかしい』

 

「おかしくありません」

 

「ただ」「あなたたち、ちゃんと似ています」

 

◇

 

『――黙れ』

 

 白い空間が、割れた。

 

 ケイの姿が消え、代わりに空気が重くなる。

 

OG-01 ノクト 起動

 

 黒白の機影が、方眼の床を踏んだ。

 

 細身の完全人型。

 

 胸部に、紫色の――針のない時計型のコア。

 

 武装は、二本の短い位相刃。

 

「……ヴァイスと同じ系統だな」

 

『原型はこちらだ』

 

「だろうな。だが俺の旧型ではない」

 

「お前のそれは、俺が七年かけて作った癖を一つも持っていない」

 

『癖は誤差だ』

 

「そうだ」

 

「誤差で殴られたことがないなら、教えてやる」

 

◇

 

 黒銀と黒白が、方眼の上で交差した。

 

 ヴァイスの刃が、ノクトの左肩を捉える。

 

 届いた――と思った瞬間。

 

差分消去

 

 ノクトの姿が、三秒前の位置へ戻った。

 

 傷は、ない。

 

 そして今度は、刃の来る側へ先に体を開いていた。

 

「……っ」

 

 ヴァイスの脇腹が裂ける。

 

「今のは」

 

『失敗した動作を、三秒だけ取り消す』

 

『お前が当てるたび、私は当てられなかった三秒へ戻る』

 

『そして、当たらない動きへ置き換える』

 

「……じゃあ何度やっても」

 

『お前は一度も当てられない』

 

 二度目。

 

 三度目。

 

 四度目。

 

 すべて、同じだった。

 

 届いた瞬間に世界が三秒巻き戻り、そこにいたはずの相手が、別の場所にいる。

 

 ヴァイスの装甲が、確実に削られていく。

 

「くそ……」

 

『分かったか』

 

『記録が多いほうが勝つ』

 

『お前の七年は、私の一秒に負ける』

 

◇

 

「――カインさん」

 

 白い床から、ニルが叫んだ。

 

「あの機体は、失(・)敗(・)し(・)た(・)動(・)作(・)を消しています」

 

「知ってる!」

 

「では、成功も失敗も判(・)定(・)で(・)き(・)な(・)い(・)動(・)作(・)なら、どうですか」

 

 カインの手が、止まった。

 

「……何だと」

 

「三秒前へ戻るには、三秒前の記録が要ります」

 

「その三秒に」「どこにも登録されていない移動が含まれていたら」

 

「戻る先が、ずれます」

 

「――俺の航路は、全部お前が記録してる」

 

「七年ぶん、一本残らずだ」

 

「はい」

 

 白い髪の少女は、記録装置を持っていなかった。

 

 格納庫の作業台に、置いてきた。

 

「ですから今から言うものは」「どこにも残っていません」

 

「声で渡します。一度だけです」

 

「――左の方眼を三つ。上へ一つ。そこで、戻(・)ら(・)ず(・)に(・)前(・)へ(・)」

 

「……正気か。そこは床がない」

 

「はい」

 

「私も、いま初めて考えました」

 

「――」

 

 カインは、笑った。

 

 この二日で、はじめて笑った。

 

「上等だ」

 

◇

 

 ヴァイスが、跳んだ。

 

 左へ三つ。

 

 上へ一つ。

 

 そして――床のない場所で、後ろへ下がらなかった。

 

 前へ出た。

 

 零座標の裂け目が、名前のない場所へ開く。

 

無銘航路 ネームレス・パス

 

 黒銀の機体が、方眼の外側から現れた。

 

 どの管理線にも属さない角度で。

 

差分消去

 

 ノクトが、三秒前へ戻る。

 

 ――戻った場所に、ヴァイスがいなかった。

 

 三秒前の記録に、あの航路が入っていないからだ。

 

 入っていないものは、戻せない。

 

『な――』

 

 黒銀の刃が、紫色の時計型コアを浅く裂いた。

 

 針のない文字盤に、一本の線が走る。

 

 ノクトが、はじめて傷ついた。

 

◇

 

『あり得ない』

 

 ケイの声が、裏返った。

 

『記録にない航路など、存在しない』

 

「今作った」

 

『作った記録は残る!』

 

「残さなかった」

 

 カインは、操縦席から白い床を見下ろした。

 

 記録装置を持たない少女が、そこに立っている。

 

「登録名は」

 

「つけますか」

 

「つけるな」

 

「では」「無銘航路と、呼ぶだけにします」

 

「……名前がないことが名前か」

 

「はい」

 

◇

 

 ノクトが、片膝をついた。

 

 傷は浅い。だが、消えない。

 

 三秒前へ戻せば消えるはずの傷が、消えなかった。

 

 あの三秒が、どこにも記録されていないからだ。

 

『……なぜだ』

 

 ケイの投影が、再び白い床に立っていた。

 

 今度は、カインを見上げていなかった。

 

 自分の左手首の、識別帯を見ていた。

 

『お前には何もないはずだ』

 

『名前も、記録も、証明も』

 

「名前はある」

 

「もらった」

 

『誰にだ』

 

「そこにいる」

 

 ケイの視線が、ニルへ動いた。

 

 白い髪。右目が青く、左目が赤い少女。

 

『……記録係が』

 

『記録係が名前をつけたのなら、それは登録行為だ』

 

『ならば、記録のどこかに残っているはずだ』

 

「残っていません」

 

 ニルは、静かに答えた。

 

「あの日、私は装置を持っていませんでした」

 

「口で言っただけです」「一度だけ、聞こえるように」

 

『――』

 

 少年は、動かなかった。

 

 白い空間で、彼だけが影を持っていなかった。

 

◇

 

「おい」

 

 カインは、機体から降りていた。

 

 方眼の床を歩いて、少年の正面に立つ。

 

 背丈は、頭一つぶん違う。

 

 七年ぶんの差だった。

 

「お前は俺じゃない」

 

『――そうだ。私が正しいK-0で、お前は』

 

「最後まで聞け」

 

「お前が俺でないように」

 

「俺も、お前の偽物じゃない」

 

 少年の口が、開いたまま止まった。

 

『……論理になっていない』

 

「なってない」

 

「証明じゃないからな」

 

「俺は七年、生身で生きた。腹も減ったし、火傷もしたし、甘いものが好きだ」

 

「そのどれも記録には残ってない」

 

「それでも、全部あった」

 

『記録にないものを、どうやって本物だと言う』

 

「言わない」

 

「本物だと言い張る必要が、そもそもない」

 

 カインは、手を伸ばした。

 

 少年の頭ではなく、その手首の識別帯へ。

 

 投影だから、触れない。指がすり抜ける。

 

「番号で呼ばれてる間は、外せんぞ、それ」

 

『……余計なお世話だ』

 

 はじめて。

 

 その声から、灰色が抜けた。

 

「余計な、お世話だ」

 

◇

 

 白い空間が、軋みはじめた。

 

「――帰れ」

 

 トワの声だった。

 

「浅い層でも、長くいれば復元対象に入る」

 

「早く行け。裂け目が閉じる」

 

「あんたは」

 

「私はここの住人だ」

 

 彼女は、空になった容器を振った。

 

「それと、忠告を一つ」

 

「あの機体の操縦者は、命令から外れるたびに記憶を戻される」

 

「だから、私が何か言っても、次に会ったとき覚えているとは限らない」

 

「……分かった」

 

「なら、こっちが覚えておく」

 

 トワが、はじめて目を見開いた。

 

 何か言おうとして――言わなかった。

 

 代わりに、指が三回、一回、二回と動いた。

 

 彼女自身は、それに気づいていなかった。

 

◇

 

 零座標の亀裂を抜けて、共界門の下へ戻る。

 

 蒼界の青い空が、頭上にあった。

 

 動いていた。

 

「……カインさん」

 

「なんだ」

 

 ニルは、作業台の上の記録装置を取り上げた。

 

 そして、電源を入れなかった。

 

「今日の航路は、書きません」

 

「今日の笑ったことも」「書きません」

 

「……記録係が、それでいいのか」

 

 白い髪の少女は、少し考えた。

 

「七年間、私は残すことで人を守ろうとしました」

 

「でも、残したものは読まれます」

 

「だから今は」「残さないことでも、守れるようになりたいです」

 

 カインは、紙包みから飴を一つ取り出した。

 

 そして、二つ取り出した。

 

 二つ目を、ニルへ渡す。

 

「……これは」

 

「補給だ」

 

「はい」

 

 ニルは、それを口へ入れた。

 

 そして、また少しだけ笑った。

 

◇

 

 その夜。

 

 蒼界と紅界、両方の街の画面が、一斉に切り替わった。

 

 放送局の設備ではない。

 

 行政端末も、医療端末も、共界門の登録卓も、家庭の時計までが、同じ文字を表示した。

 

対話を要求します

 

差分を苦痛から解放します

 

 白い円環と、黒い空白。

 

 顔のない人型の投影が、二つの世界に同時に立っていた。

 

 その声は、一つではなかった。

 

 七年前に働いていた職員たちの声が、何十人ぶんも、まったく同じ抑揚で重なっていた。

 

 起点管理核ゼロが、はじめて自分から話しかけてきた。

 

第18話「ゼロの正義」へ続く

 

 






 カインの回でした。

 ヴァイスには判断系が積まれていません。アズールにもフレアにもいる相棒が、この機体にはいない。七年間、あの操縦席はずっと静かでした。だからこそ、番号で呼びかけてくる声が刺さります。

 ケイの主張には、一つも穴がありません。記録の量で比べれば、分裂一秒前の観測データで作られた彼のほうが、事故前のK-0に近い。カインはそれを覆せません。覆す必要もありませんでした。

 「お前が俺でないように、俺もお前の偽物じゃない」

 これは論理ではありません。証明を放棄する宣言です。本物だと言い張る必要がそもそもない、というところまで降りられたのは、七年ぶんの腹の減りと火傷と甘いもので足場を作ったからです。

 そして飴。あれはインフィニティ・ギアの非常食でした。七年前、施設の棚に並んでいたものです。命令記録には「この子は焦がし砂糖を好む」などと書かれていません。書かれていないのに、二人とも同じ包みへ手を伸ばしました。嗜好は、命令記録だけでは説明できない。ニルが笑ったのはそこです。そして彼女は、それを記録しませんでした。

 差分消去の破り方も、ニルの変化から出しています。三秒前へ戻るには三秒前の記録が要る。その三秒に、どこにも登録されていない移動が入っていれば、戻る先がずれる。記録装置を格納庫へ置いてきた少女が、声で一度だけ渡した航路。だから無銘航路には名前がありません。名前がないことが名前です。

 トワは二日前のことを覚えていませんでした。あの機体は、操縦者が命令から外れるたびに直前の記憶を復元点へ戻します。それでも、彼女の指は三回、一回、二回と動き続けていました。頭より先に、手が数えています。

 よければ、ひとつだけ教えてください。
 あなたなら、何を自分が自分である根拠にしますか。記録ですか。それとも、記録に残らなかったほうですか。

 次回、第18話「ゼロの正義」。アウレルが公開証言に立ち、起点管理核ゼロが二つの世界へ直接語りかけます。敵の論理が、はじめて全部出ます。

【用語】ケイ/起点管理核が分裂一秒前までのK-0観測データから構成した人格。黒髪の少年姿で投影される。呼び名はトワが便宜上つけたもの。


【用語】OG-01 ノクト/ケイが遠隔操作する黒白の起点執行機。胸部に針のない時計型コアを持つ。


【用語】差分消去/失敗した動作を最大三秒だけ取り消す。戻るには三秒前の記録が必要になる。


【用語】無銘航路(ネームレス・パス)/記録へ名前を残さない一度限りの移動経路。登録がないため、巻き戻しの対象にならない。


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