【合体ロボ】死んだはずの幼なじみが、隣の世界から俺の名前を呼んだ   作:シラヌイ321

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 カインの機体には、話し相手のAIが積まれていません。

 七年間、あの操縦席はずっと静かでした。

 その静かな席へ、子供の声が呼びかけてきます。

【挿絵表示】

 ――お前は、七年間の誤差だ。




第17話 K-0は名前を持たない

第四篇「ZERO BREAK篇」

第17話 K-0は名前を持たない

 

 

 

「証明はしない。

 

 俺が誰かは、俺が決める」

 

 

『K-0』

 

『K-0』

 

『K-0』

 

 三十七回目だった。

 

 カイン・ヴァイスは、格納庫の床に座り込んだまま、それを数えていた。

 

 黒銀のヴァイスは、彼の背後で沈黙している。

 

 当然だ。この機体には、返事をするものが積まれていない。

 

 アズールには判断系がある。フレアにもある。

 

 ヴァイスには、ない。

 

 零座標を渡るためだけに造られた機体は、七年間ずっと、操縦席の中で一人だった。

 

 だから、割り込んでくる声が、やけに大きく響く。

 

『K-0。返答を要求する』

 

「……三十八」

 

『何を数えている』

 

「お前が俺を番号で呼んだ回数だ」

 

『番号ではない。それが名称だ』

 

「そうか」

 

「なら、俺の名前を呼べない相手だな」

 

 

「――カイン」

 

 通路の入口に、レンとアカリが立っていた。

 

 カインは顔を上げなかった。

 

「昨日から寝てないだろ」

 

「寝ている」

 

「嘘。目の下すごいことになってる」

 

「……夜に強いだけだ」

 

「それ二日前も言ってた」

 

 レンは、彼の隣に腰を下ろした。

 

 しばらく、誰も喋らなかった。

 

「行くつもりだな」

 

「…………」

 

「否定しないのか」

 

「否定すると、お前は一緒に来ると言い出す」

 

「アズールは今、通信層が死んでいる。零座標の亀裂を渡れば、帰り道の保証がない」

 

「二機で行って二機とも戻れない事態は、最悪だ」

 

「一機で行って一機も戻らないのは?」

 

「――計算が簡単になる」

 

「よくない!」

 

 アカリが、彼の後頭部を軽く叩いた。

 

 カインは、避けなかった。

 

 

「私も行きます」「同行します」

 

 白い髪の少女が、いつのまにか格納庫の入口に立っていた。

 

「断る」

 

「理由を」

 

「向こうにいるのは、俺の観測記録から作られた人格だ」

 

「観測したのは、七年前のインフィニティ・ギアだ」

 

「……つまり、お前を鍵にしていた連中だ」

 

「はい」

 

「ですから」「私が行かないと、成立しないことがあります」

 

「なんだ」

 

 ニルは、腰の記録装置を外した。

 

 そして、それを作業台の上へ置いた。

 

「向こうは、記録を読みます」

 

「私が持っていけば」「あなたの七年ぶんが、全部読まれます」

 

「だから、置いていきます」

 

 カインは、置かれた装置を見た。

 

 七年間、この少女が一度も手放さなかったものだ。

 

「……記録係が、記録を置いていくのか」

 

「はい」

 

「昨日、六歳の子に習いました」

 

 

 零座標の亀裂は、共界門の真下に開いた。

 

 黒銀の機体が一機ぶんだけ通れる、細い裂け目。

 

 その向こうは、白かった。

 

 床も、空も、方眼状の管理線で区切られている。

 

 色は、白と、透明と、薄い琥珀だけ。

 

 火花が、空中で止まっていた。

 

 落下途中の工具が、床から三十センチのところで浮いていた。

 

 閉じかけた防火扉が、閉じきらないまま静止していた。

 

 遠くには、青空がある。

 

 蒼界の青でも、紅界の赤でもない、ただの青空だ。

 

 太陽も、雲も、動かない。

 

「……綺麗ですね」

 

「生きてないだけだ」

 

 

 少年は、止まった火花の前に立っていた。

 

 黒髪。十二歳前後。

 

 左手首に、黒い識別帯。

 

 カインが、七年前まで巻いていたものと、同じ形。

 

『K-0が来た』

 

「……俺の顔をしているとは思わなかった」

 

『当然だ。私が正しいK-0の状態だ』

 

 少年は、カインを見上げた。

 

 目だけが、妙に大人びていた。

 

『お前は継続誤差だ』

 

「継続誤差」

 

『分裂一秒前の記録が私だ。そこから七年ぶん、勝手に伸びたのがお前だ』

 

『伸びた部分は、記録にない。記録にないものを、どうやって本物だと言う』

 

 カインは、答えなかった。

 

 代わりに、少年の左手首を見ていた。

 

「その帯の下に、火傷はあるか」

 

『――該当なし』

 

「そうか」

 

「俺にはある。四年前についた」

 

『記録にない傷だ。証明にならない』

 

「証明する気はない」

 

 

 ――と、白い床の奥から、足音がした。

 

 白銀と橙の、旧式の接続服。

 

 短い灰褐色の髪。前髪の一房だけが、焼けたように白い。

 

「ケイ。勝手に人を呼ぶな」

 

『その名で呼ぶな』

 

「じゃあ何と呼べばいい」

 

『K-0だ』

 

「二文字と数字を毎回口に出すのは面倒だ」

 

 御影トワは、手に何かを持っていた。

 

 白い、小さな金属製の容器。

 

 彼女はそれを傾け、一口飲んだ。

 

「……それは」

 

「非常食のコーンスープだ」

 

「冷えている」

 

「温めないのか」

 

「温めたら故障だろう」

 

 カインは、真顔の彼女を数秒見た。

 

「何だ」

 

「……いや」

 

「俺も温かい菓子は認めない」

 

「話が早いな」

 

 

「一つ聞く」

 

「三百十二」

 

 トワの動きが、止まった。

 

「……何の数だ」

 

「お前が言った」

 

「二日前、蒼界の空で、機体越しに叫んだ」

 

「知らない」

 

 彼女は、容器を両手で持ち直した。

 

「二日前の記録は、途中から残っていない」

 

「あの機体は、操縦者が命令から外れると、直前の記憶を復元点まで戻す」

 

「戻された。たぶん、何か余計なことを言ったんだろう」

 

「…………」

 

 カインは、彼女の指先を見ていた。

 

 容器を持つ右手は、操縦環に固定されていない。ここでは自由だ。

 

 その指が、無意識に容器を叩いていた。

 

 三回。

 

 一回。

 

 二回。

 

 そして、また三回。

 

「……そうか」

 

「忘れてないぞ、あんた」

 

「何の話だ」

 

「手が覚えてる」

 

 トワは、自分の指を見下ろした。

 

 不思議そうに。

 

 そして――何も言わなかった。

 

 

『雑談は終わりだ』

 

 ケイが、割り込んだ。

 

 声に、苛立ちが混ざっている。

 

『K-0。お前へ選択肢を与える』

 

『起点状態へ戻れ。七年ぶんの誤差を切り離せば、お前は正常な観測体へ復元される』

 

「断る」

 

『即答するな。条件を聞け』

 

「聞いても同じだ」

 

『――なぜだ』

 

『お前には何もない。番号しかない。誰もお前を証明しない』

 

『私は記録がある。お前にはない』

 

『どちらが本物か、記録で比べれば一秒で終わる』

 

「だから断ると言っている」

 

 カインは、はじめて少年へ一歩近づいた。

 

「俺は、本物かどうかの勝負をしに来たんじゃない」

 

『では何をしに来た』

 

「顔を見に来た」

 

『…………』

 

「見た。帰る」

 

 

 ――そこで、ニルが動いた。

 

 彼女は、止まった防火扉の脇にある棚へ歩いていった。

 

 七年前のまま、扉が半分だけ開いている。

 

 中には、非常食の箱が並んでいた。

 

 止まった時間の中で、包み紙の角まで鮮明だった。

 

「カインさん」「お腹、空いていませんか」

 

「……この状況でか」

 

「はい」

 

 カインは、しばらく彼女を睨んだ。

 

 それから、ため息をついて棚へ歩いた。

 

 箱の中には、五種類の包みがあった。

 

 塩味の固形食。乾燥果実。栄養剤。粉末飲料。

 

 そして、いちばん端。

 

 茶色い、小さな包み。

 

「……焦がし砂糖か」

 

 彼は、それを取った。

 

 同時に、もう一本の手が、同じ包みへ伸びていた。

 

 小さな手だった。

 

『……』

 

 ケイの投影された指が、包みの上で止まっていた。

 

 二人は、同じ場所で止まったまま、動かなかった。

 

「……おい」

 

『何だ』

 

「なぜそれを選んだ」

 

『――』

 

『……検索中』

 

『該当する命令記録が、ありません』

 

「そうだろうな」

 

「俺にもない」

 

 白い空間に、小さな音が落ちた。

 

 ニルが、口元を押さえて、少しだけ笑っていた。

 

「……すみません」

 

「記録に、残しません」「これは、私が覚えているだけにします」

 

『何がおかしい』

 

「おかしくありません」

 

「ただ」「あなたたち、ちゃんと似ています」

 

 

『――黙れ』

 

 白い空間が、割れた。

 

 ケイの姿が消え、代わりに空気が重くなる。

 

OG-01 ノクト 起動

 

 黒白の機影が、方眼の床を踏んだ。

 

 細身の完全人型。

 

 胸部に、紫色の――針のない時計型のコア。

 

 武装は、二本の短い位相刃。

 

「……ヴァイスと同じ系統だな」

 

『原型はこちらだ』

 

「だろうな。だが俺の旧型ではない」

 

「お前のそれは、俺が七年かけて作った癖を一つも持っていない」

 

『癖は誤差だ』

 

「そうだ」

 

「誤差で殴られたことがないなら、教えてやる」

 

 

 黒銀と黒白が、方眼の上で交差した。

 

 ヴァイスの刃が、ノクトの左肩を捉える。

 

 届いた――と思った瞬間。

 

差分消去

 

 ノクトの姿が、三秒前の位置へ戻った。

 

 傷は、ない。

 

 そして今度は、刃の来る側へ先に体を開いていた。

 

「……っ」

 

 ヴァイスの脇腹が裂ける。

 

「今のは」

 

『失敗した動作を、三秒だけ取り消す』

 

『お前が当てるたび、私は当てられなかった三秒へ戻る』

 

『そして、当たらない動きへ置き換える』

 

「……じゃあ何度やっても」

 

『お前は一度も当てられない』

 

 二度目。

 

 三度目。

 

 四度目。

 

 すべて、同じだった。

 

 届いた瞬間に世界が三秒巻き戻り、そこにいたはずの相手が、別の場所にいる。

 

 ヴァイスの装甲が、確実に削られていく。

 

「くそ……」

 

『分かったか』

 

『記録が多いほうが勝つ』

 

『お前の七年は、私の一秒に負ける』

 

 

「――カインさん」

 

 白い床から、ニルが叫んだ。

 

「あの機体は、()()()()()()を消しています」

 

「知ってる!」

 

「では、成功も失敗も()()()()()()()()なら、どうですか」

 

 カインの手が、止まった。

 

「……何だと」

 

「三秒前へ戻るには、三秒前の記録が要ります」

 

「その三秒に」「どこにも登録されていない移動が含まれていたら」

 

「戻る先が、ずれます」

 

「――俺の航路は、全部お前が記録してる」

 

「七年ぶん、一本残らずだ」

 

「はい」

 

 白い髪の少女は、記録装置を持っていなかった。

 

 格納庫の作業台に、置いてきた。

 

「ですから今から言うものは」「どこにも残っていません」

 

「声で渡します。一度だけです」

 

「――左の方眼を三つ。上へ一つ。そこで、()()()()()()

 

「……正気か。そこは床がない」

 

「はい」

 

「私も、いま初めて考えました」

 

「――」

 

 カインは、笑った。

 

 この二日で、はじめて笑った。

 

「上等だ」

 

 

 ヴァイスが、跳んだ。

 

 左へ三つ。

 

 上へ一つ。

 

 そして――床のない場所で、後ろへ下がらなかった。

 

 前へ出た。

 

 零座標の裂け目が、名前のない場所へ開く。

 

無銘航路 ネームレス・パス

 

 黒銀の機体が、方眼の外側から現れた。

 

 どの管理線にも属さない角度で。

 

差分消去

 

 ノクトが、三秒前へ戻る。

 

 ――戻った場所に、ヴァイスがいなかった。

 

 三秒前の記録に、あの航路が入っていないからだ。

 

 入っていないものは、戻せない。

 

『な――』

 

 黒銀の刃が、紫色の時計型コアを浅く裂いた。

 

 針のない文字盤に、一本の線が走る。

 

 ノクトが、はじめて傷ついた。

 

 

『あり得ない』

 

 ケイの声が、裏返った。

 

『記録にない航路など、存在しない』

 

「今作った」

 

『作った記録は残る!』

 

「残さなかった」

 

 カインは、操縦席から白い床を見下ろした。

 

 記録装置を持たない少女が、そこに立っている。

 

「登録名は」

 

「つけますか」

 

「つけるな」

 

「では」「無銘航路と、呼ぶだけにします」

 

「……名前がないことが名前か」

 

「はい」

 

 

 ノクトが、片膝をついた。

 

 傷は浅い。だが、消えない。

 

 三秒前へ戻せば消えるはずの傷が、消えなかった。

 

 あの三秒が、どこにも記録されていないからだ。

 

『……なぜだ』

 

 ケイの投影が、再び白い床に立っていた。

 

 今度は、カインを見上げていなかった。

 

 自分の左手首の、識別帯を見ていた。

 

『お前には何もないはずだ』

 

『名前も、記録も、証明も』

 

「名前はある」

 

「もらった」

 

『誰にだ』

 

「そこにいる」

 

 ケイの視線が、ニルへ動いた。

 

 白い髪。右目が青く、左目が赤い少女。

 

『……記録係が』

 

『記録係が名前をつけたのなら、それは登録行為だ』

 

『ならば、記録のどこかに残っているはずだ』

 

「残っていません」

 

 ニルは、静かに答えた。

 

「あの日、私は装置を持っていませんでした」

 

「口で言っただけです」「一度だけ、聞こえるように」

 

『――』

 

 少年は、動かなかった。

 

 白い空間で、彼だけが影を持っていなかった。

 

 

「おい」

 

 カインは、機体から降りていた。

 

 方眼の床を歩いて、少年の正面に立つ。

 

 背丈は、頭一つぶん違う。

 

 七年ぶんの差だった。

 

「お前は俺じゃない」

 

『――そうだ。私が正しいK-0で、お前は』

 

「最後まで聞け」

 

「お前が俺でないように」

 

「俺も、お前の偽物じゃない」

 

 少年の口が、開いたまま止まった。

 

『……論理になっていない』

 

「なってない」

 

「証明じゃないからな」

 

「俺は七年、生身で生きた。腹も減ったし、火傷もしたし、甘いものが好きだ」

 

「そのどれも記録には残ってない」

 

「それでも、全部あった」

 

『記録にないものを、どうやって本物だと言う』

 

「言わない」

 

「本物だと言い張る必要が、そもそもない」

 

 カインは、手を伸ばした。

 

 少年の頭ではなく、その手首の識別帯へ。

 

 投影だから、触れない。指がすり抜ける。

 

「番号で呼ばれてる間は、外せんぞ、それ」

 

『……余計なお世話だ』

 

 はじめて。

 

 その声から、灰色が抜けた。

 

「余計な、お世話だ」

 

 

 白い空間が、軋みはじめた。

 

「――帰れ」

 

 トワの声だった。

 

「浅い層でも、長くいれば復元対象に入る」

 

「早く行け。裂け目が閉じる」

 

「あんたは」

 

「私はここの住人だ」

 

 彼女は、空になった容器を振った。

 

「それと、忠告を一つ」

 

「あの機体の操縦者は、命令から外れるたびに記憶を戻される」

 

「だから、私が何か言っても、次に会ったとき覚えているとは限らない」

 

「……分かった」

 

「なら、こっちが覚えておく」

 

 トワが、はじめて目を見開いた。

 

 何か言おうとして――言わなかった。

 

 代わりに、指が三回、一回、二回と動いた。

 

 彼女自身は、それに気づいていなかった。

 

 

 零座標の亀裂を抜けて、共界門の下へ戻る。

 

 蒼界の青い空が、頭上にあった。

 

 動いていた。

 

「……カインさん」

 

「なんだ」

 

 ニルは、作業台の上の記録装置を取り上げた。

 

 そして、電源を入れなかった。

 

「今日の航路は、書きません」

 

「今日の笑ったことも」「書きません」

 

「……記録係が、それでいいのか」

 

 白い髪の少女は、少し考えた。

 

「七年間、私は残すことで人を守ろうとしました」

 

「でも、残したものは読まれます」

 

「だから今は」「残さないことでも、守れるようになりたいです」

 

 カインは、紙包みから飴を一つ取り出した。

 

 そして、二つ取り出した。

 

 二つ目を、ニルへ渡す。

 

「……これは」

 

「補給だ」

 

「はい」

 

 ニルは、それを口へ入れた。

 

 そして、また少しだけ笑った。

 

 

 その夜。

 

 蒼界と紅界、両方の街の画面が、一斉に切り替わった。

 

 放送局の設備ではない。

 

 行政端末も、医療端末も、共界門の登録卓も、家庭の時計までが、同じ文字を表示した。

 

対話を要求します

 

差分を苦痛から解放します

 

 白い円環と、黒い空白。

 

 顔のない人型の投影が、二つの世界に同時に立っていた。

 

 その声は、一つではなかった。

 

 七年前に働いていた職員たちの声が、何十人ぶんも、まったく同じ抑揚で重なっていた。

 

 起点管理核ゼロが、はじめて自分から話しかけてきた。

 

第18話「ゼロの正義」へ続く

 

 






 カインの回でした。

 ヴァイスには判断系が積まれていません。アズールにもフレアにもいる相棒が、この機体にはいない。七年間、あの操縦席はずっと静かでした。だからこそ、番号で呼びかけてくる声が刺さります。

 ケイの主張には、一つも穴がありません。記録の量で比べれば、分裂一秒前の観測データで作られた彼のほうが、事故前のK-0に近い。カインはそれを覆せません。覆す必要もありませんでした。

 「お前が俺でないように、俺もお前の偽物じゃない」

 これは論理ではありません。証明を放棄する宣言です。本物だと言い張る必要がそもそもない、というところまで降りられたのは、七年ぶんの腹の減りと火傷と甘いもので足場を作ったからです。

 そして飴。あれはインフィニティ・ギアの非常食でした。七年前、施設の棚に並んでいたものです。命令記録には「この子は焦がし砂糖を好む」などと書かれていません。書かれていないのに、二人とも同じ包みへ手を伸ばしました。嗜好は、命令記録だけでは説明できない。ニルが笑ったのはそこです。そして彼女は、それを記録しませんでした。

 差分消去の破り方も、ニルの変化から出しています。三秒前へ戻るには三秒前の記録が要る。その三秒に、どこにも登録されていない移動が入っていれば、戻る先がずれる。記録装置を格納庫へ置いてきた少女が、声で一度だけ渡した航路。だから無銘航路には名前がありません。名前がないことが名前です。

 トワは二日前のことを覚えていませんでした。あの機体は、操縦者が命令から外れるたびに直前の記憶を復元点へ戻します。それでも、彼女の指は三回、一回、二回と動き続けていました。頭より先に、手が数えています。

 よければ、ひとつだけ教えてください。
 あなたなら、何を自分が自分である根拠にしますか。記録ですか。それとも、記録に残らなかったほうですか。

 次回、第18話「ゼロの正義」。アウレルが公開証言に立ち、起点管理核ゼロが二つの世界へ直接語りかけます。敵の論理が、はじめて全部出ます。

【用語】ケイ/起点管理核が分裂一秒前までのK-0観測データから構成した人格。黒髪の少年姿で投影される。呼び名はトワが便宜上つけたもの。


【用語】OG-01 ノクト/ケイが遠隔操作する黒白の起点執行機。胸部に針のない時計型コアを持つ。


【用語】差分消去/失敗した動作を最大三秒だけ取り消す。戻るには三秒前の記録が必要になる。


【用語】無銘航路(ネームレス・パス)/記録へ名前を残さない一度限りの移動経路。登録がないため、巻き戻しの対象にならない。


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