旧作【合体ロボ】死んだはずの幼なじみが、隣の世界から俺の名前を呼んだ 作:シラヌイ321
任務ではありません。
それを人に説明するのが、救助より少し難しいようです。
七年間、一人で道を渡ってきた彼が、誰かに帰り道を預ける話です。
「カインさん。午後二時は、お忙しいですか」
「忙しい」
「何をなさるのですか」
「まだ決めていない」
ニルは、少し考えた。
白い髪の下で、青い右目と赤い左目が、同じ相手を見ている。
「では、その予定を」「一つ、決めませんか」
格納庫の作業台に、小さな紙袋が置かれた。
カインは、工具から目を上げた。
「なんだ」
「プリンです」
「見れば分かる」
まだ袋は開いていなかった。
ニルは、そのことを指摘しなかった。
「焦がし砂糖が、入っています」
「上か」
「下です」
「……悪くない」
「冷たいです」
「当然だ」
「二つあります」
「そうか」
「一つは、私のです」
「まだ何も言っていない」
ニルは、今度は少しだけ笑った。
「午後二時に、格納庫の休憩室で」「ご一緒に食べませんか」
「……巡回が終わればな」
「はい」
彼女は、紙袋を冷蔵庫へ入れに行った。
カインは、締め終わっていた留め具を、もう一度確認した。
そのあと、時計を見た。
まだ、午前十一時だった。
「おい。締めすぎるなよ」
真壁ゲンゴが、工具箱の向こうから言った。
「分かっている」
「さっきから、同じところ見てるぞ」
「確認だ」
「そうか」
ゲンゴは、カインが工具を置くまで待った。
「今日の巡回、十三時半には終わる」
「知っている」
「聞かれてねえけどな」
「……仕事をしろ」
「してるよ」
ゲンゴが笑った。
カインは、返事をしなかった。
代わりに、出発前の点検表を取った。
最後の欄に、自分で一行足した。
十四時、格納庫。
任務の欄から少し離して、小さく書いた。
起点層から帰って、半年。
共界門の周りには、まだ補修箇所が残っていた。
復元によって薄れた支持部。
組み直した階段。
蒼界と紅界で、ねじの径が少しずつ違う接続金具。
カインの仕事は、その日、蒼界側の補修区域を回ることだった。
ヴァイスでなければ見に行けない死角がある。
零座標の隙間を抜け、構造物の裏側から支柱を確かめる。
戦闘のない仕事でも、カインはよく足元を見た。
下がどうなっているかを確かめず、先へ進むことはなかった。
十三時十四分。
最後の支柱を確認し終わったとき、外部音声へ短い悲鳴が入った。
続いて、鉄の裂ける音。
資材橋の下に吊られた作業箱が、片側へ傾いていた。
箱を支える古い受け金が、一つ破断している。
乗っていた作業員は一人。
側面の隙間から、手袋をした手が見えた。
動いていた。
「ニル。下の作業箱、人数を」
安全側の監視所から、すぐに返事が来た。
『一名です。作業責任者にも確認しました』
「橋の上を空けろ。下へ入れるな」
カインは、機体を前へ出した。
橋の上から腕を伸ばすことはできる。
だが、箱の吊り金具は橋の骨組みに引っかかっている。
そのまま引けば、箱の天井から潰す。
必要なのは、下から支える手だった。
正面には、崩れた補修足場が塞がっていた。
『右側の通路から回れば――』
「間に合わん」
金属が、もう一度鳴った。
作業箱が、指二本ぶん下がる。
カインの視線が、橋の外側へ動いた。
斜面に露出した岩盤。
機体の足を置ける、狭い段。
その手前には、道がなかった。
「出口の足場、見えるか」
『はい。右足を置く位置が、半歩狭いです』
「左から入る」
『後ろの梁まで、肩一つぶんです』
「足りる」
黒銀の機体が、短く沈んだ。
紫の裂け目が開く。
橋を回るための道は、使わなかった。
その場で選んだ一度きりの角度から、ヴァイスが現れた。
無銘航路。
次に現れた黒銀の右掌は、落ちかけた作業箱の底にあった。
衝撃が、右腕から操縦席へ突き抜けた。
カインは、奥歯を噛んだ。
持ち上げない。
落ちるぶんだけ受け止める。
指を一本ずつ動かし、箱の底へ荷重を逃がす。
ヴァイスは、何も言わなかった。
当然だ。
この操縦席には、判断系が積まれていない。
危ない方向を教える声も、手の震えを叱る声もない。
七年間、そうだった。
カインは、自分で計器を見た。
右肘の角度。
左足の接地。
箱の傾き。
そして、外部回線を開いた。
「レン。手を貸せ」
『どこだ』
「資材橋の根元だ。箱には触るな。橋を止めろ」
『分かった。今行く』
返事を聞いて、カインは息を一つ吐いた。
「ニル。あいつが来たら、荷重を渡す」
『はい』
「俺は機体を降りる。箱の中へ入る」
少しだけ、間があった。
『……戻る経路は』
「右腕を使う。関節を固定すれば、足場になる」
『一人で渡る場合ですね』
「だから、二人ぶんで探せ」
カインは、作業箱から伸びた手を見ていた。
「一人で帰る方法は、聞いていない」
アズールが、橋の根元を固定した。
ヴァイスの右腕へかかる重みが、わずかに減った。
カインは関節を機械的に固定し、救助用の帯と命綱を取った。
命綱の端を、機体側の固定環へ留めた。
操縦席を出る。
風が、黒髪の白い一房を乱した。
胸部の縁から右腕へ移り、冷たい装甲の上を進む。
その下は、資材搬出用の深い溝だった。
紫色の瞳が、一度だけ下を見た。
次に置く足を、確かめた。
『カインさん。右手首の先、滑ります』
「見えている」
『左側に、足を置ける継ぎ目があります』
「……助かる」
短く答えた。
箱の扉は歪んでいた。
工具を差し込んで押し開けると、中の作業員が顔を上げた。
若かった。
カインと、いくらも歳が違わない。
片足の靴が床の格子へ挟まり、腰を落としたまま動けなくなっていた。
「すみ、ません」
「あとだ。痛むところは」
「足、が」
カインは、膝をついた。
格子の角度を見た。
靴の踵が、金属の下へ噛み込んでいる。
「足首は動くか」
「……少し」
「抜く。痛かったら言え」
「だいじょうぶ、です」
カインは、相手の顔を見た。
白くなった唇。
息が浅い。
「まだ何もしていない」
「……」
「先に大丈夫と言うな。分からなくなる」
作業員が、小さく頷いた。
カインは、締めつけていた靴紐を緩めた。
靴そのものは動かさず、足をゆっくり抜いていく。
途中で、相手が息を詰めた。
カインは止まった。
「ここか」
「……はい」
「分かった。角度を変える」
もう一度。
今度は、抜けた。
靴だけが、格子に残った。
「靴……」
「置いていけ」
カインは、救助帯を広げた。
「足は持って帰る」
帯を締め、命綱を確認する。
扉の外へ出たところで、作業員の身体が止まった。
黒銀の腕。
その先の操縦席。
横にも、下にも、手すりはない。
「……無理です」
声が、小さくなった。
「すみません。分かってるんですけど」
膝が、動かなかった。
「足が」
「ああ」
カインは、相手の視線を見た。
溝の底。
そこから、目が離せなくなっている。
知っていた。
見てはいけないと思うほど、見てしまう。
次の一歩より先に、落ちるところまで見えてしまう。
「先に、戻ってください」
カインの顔から、表情が消えた。
「俺、もう少ししたら動けるから」
「そのほうが、早――」
「その計算は、もうやった」
言葉を切った。
作業員が、口を閉じた。
カインは、相手と同じ高さまで腰を落とした。
「一人減らせば、楽になる」
「そういうやつだろ」
「……」
「今日は使わん」
橋の向こうで、金属が軋んだ。
レンの声が入る。
『押さえてる。こっちは大丈夫だ』
カインは、その声を相手にも聞かせた。
「聞いたか」
「……はい」
「待っている人間がいる」
「お前が足を動かすまで、俺もここにいる」
作業員が、カインの腕を掴んだ。
強く。
それから、驚いたように顔を上げた。
「……震えて」
「高いからな」
「あなたも?」
「お前には低く見えるか」
作業員は、また下を見そうになった。
カインが、自分の肩を示した。
「こっちだ」
「……怖くないんだと、思ってました」
「慣れているだけだ」
手首の黒い識別帯が、少しずれた。
その下に、古い火傷の跡が見えた。
カインは、帯を直さなかった。
両手で、相手の救助帯を確かめた。
「怖くなったら、止まれ」
「止まったら、言え」
「黙って落ちるな。それが一番困る」
作業員が、息を吸った。
今度は、少し深く。
「……止まっても、いいんですか」
「何回でも」
「そのたびに、足を置く場所を探す」
一歩目は、箱の縁から出るだけだった。
二歩目で、また止まった。
カインは急かさなかった。
先に自分の足を置き、同じ場所を示す。
片方は靴下のままだった。
装甲の継ぎ目へ引っかからないよう、ニルが見ている。
『そこで一度、身体を左へ』
「聞こえたな。左だ」
「はい」
作業員の声が、少しだけ大きくなった。
三歩。
四歩。
操縦席へ近づくにつれ、機体の肩が視界を塞ぎ、溝の底が見えなくなった。
そこでようやく、相手の手の力が緩んだ。
カインは、まだ緩めなかった。
操縦席の内側へ入れ、身体を支えられる場所に座らせる。
収容を伝えると、下から救助班の返事が来た。
「そこで待て。降ろす」
自分も中へ戻った。
関節の固定を解除する。
右手の指が、操縦桿を握り損ねた。
一度、開いて。
もう一度握る。
ニルが、名前を呼んだ。
『カインさん』
「聞こえている」
『二名、収容を確認しました』
彼は、計器を見ていた。
作業員は、一人だ。
もう一人は、自分だった。
「……ああ」
黒銀の機体が、ゆっくり膝を折った。
地上で、作業員は救助班に足を診てもらった。
ひどい怪我ではなさそうだ、と言われたとき、初めて泣いた。
カインは、少し離れて立っていた。
右の手袋を外す。
箱の扉を押し開けたとき、手の甲を擦っていた。
赤くなったところを見て、手袋を戻しかけた。
やめた。
「こっちも、頼む」
空いていた救助員へ、右手を出した。
「……あの」
処置が済むと、若い作業員が呼び止めた。
「俺、途中、何もできなくなって」
「見ていた」
「すみません」
「謝るのは、もう聞いた」
カインは、紙包みを取り出した。
焦がし砂糖の飴が、一つ残っていた。
相手の掌へ置く。
「これ」
「落ち着いてから食え」
「でも、最後の」
「俺は今から、もっと旨いものを食う」
作業員が、泣いたまま瞬きをした。
「羨ましがれ」
少し遅れて、笑い声が漏れた。
カインは、そこでようやく手を引いた。
「次は、もっとちゃんと動けるようにします」
「次は早く呼べ」
「……はい」
「俺でも、そこのやつでもいい。動けなくなる前に呼べ」
若い作業員は、飴を落とさないように握った。
「名前、教えてもらってもいいですか」
カインは、少しだけ顔を向けた。
「カインだ」
「カインさん」
「なんだ」
「……ありがとうございました」
彼は、目を逸らした。
「足を冷やすな。靴下しか履いていない」
最後まで、礼への返事にはなっていなかった。
ヴァイスの足元へ戻ると、レンが待っていた。
「右手、大丈夫か」
「処置はした」
「したのか」
「なんだ、その顔は」
「いや。よかった」
カインは、答えなかった。
レンは、黒銀の右腕を見上げた。
「よくあの場所に入れたな」
「七年歩いた。足を置ける場所ぐらいは分かる」
「俺だったら、正面から箱を持ってた」
「潰すぞ」
「うん。だから次は、先に呼ぶ」
カインは、少し黙った。
「……俺も呼んだ」
「聞こえたよ」
「助かった」
レンが、顔を上げた。
カインは、もう梯子に手をかけていた。
「おい。それ、こっち見て言えよ」
「聞こえたんだろ」
「聞こえたけどさ」
「二回は言わん」
格納庫へ戻る前に、カインは時計を見た。
十三時五十六分。
帰投と引き継ぎには、どう急いでも二十分かかる。
間に合わなかった。
帰投後の引き継ぎが終わったのは、十四時十九分だった。
ニルは、ヴァイスの足元に立っていた。
両目が、機体を降りるカインを追っている。
「……遅れた」
「はい」
「先に食えばよかっただろう」
「一緒に、と申し上げました」
「溶けるぞ」
「冷蔵庫に入っています」
「……そうか」
会話が、そこで止まった。
カインは、ニルの隣へ降りた。
右手に、新しい処置の跡がある。
彼女はそれを見た。
「痛みますか」
「少しな」
ニルが、目を上げた。
「なんだ。お前まで」
「いいえ」「聞けて、よかったです」
カインは、歩き出した。
二歩目で、彼女が少し後ろにいることに気づいた。
「ニル」
「はい」
「隣を歩け」
「歩く速さを、合わせますか」
「そこまでは頼んでいない」
そう言って、彼のほうが半歩、遅くなった。
休憩室には、二人しかいなかった。
ニルが冷蔵庫から紙袋を出す。
透明な容器が二つ。
小さな匙が二本。
カインは、椅子を引いた。
ニルが座るのを待って、向かいへ腰を下ろした。
「……茶もあるのか」
「はい。砂糖は入れていません」
「入れる」
「プリンも甘いですよ」
「別だ」
返事に、迷いがなかった。
ニルは、小さな砂糖入れを彼の側へ寄せた。
一口目で、カインの匙が止まった。
ニルも、止まった。
「……お口に合いませんか」
「黙ってろ」
「はい」
彼は、もう一口食べた。
今度は、底の焦がし砂糖まで届くように。
それから、容器の底を少し透かして見た。
「これ、どこだ」
「共界門の、蒼界側の菓子店です」
「場所は分かる。店だ。店の名前」
ニルが、紙袋の印を見せた。
カインは、それを確かめた。
確かめ終わっても、少しの間、見ていた。
「……覚えましたか」
「一度で覚えた」
「では、今は」
「定休日を見ている」
ニルは、口元を押さえた。
「笑うな」
「まだ、笑っていません」
「準備をするな」
今度は、笑ってしまった。
カインは、匙を置いた。
右手の処置の上から、指を一度開いた。
ニルの視線が、その動きへ落ちた。
「平気だ。使える」
「はい」
「今日、あの方が怖いと言ったとき」
「……なんだ」
「待っていらっしゃいましたね」
カインは、容器を見ていた。
「急がせたら落ちる」
「はい」
「動けないときに動けと言われても、足は動かん」
そこで、言葉が途切れた。
ニルは続きを求めなかった。
自分のプリンを、一口食べた。
しばらくしてから、カインが言った。
「昔は、止まると道が閉じた」
「休める場所を探すのも、一人だった」
七年間の航路を、ニルは記録していた。
どこへ進み、どこで引き返したか。
だが、そのとき彼の足がどれほど震えていたかは、線の上にはなかった。
「今日は、あいつが押さえてた」
「お前も、足元を見てた」
カインは、茶を飲んだ。
「だったら、待てる」
ニルは、彼を見た。
手元に記録装置はなかった。
「はい」
「今日も」「あなたが戻るところまで、見ていました」
カインの指が、湯のみの側面で止まった。
「……知ってる」
窓の外で、搬送車が通った。
格納庫から、工具の落ちる音がした。
誰かが叱られて、誰かが笑った。
呼び出しは、なかった。
カインは、残りを食べようとして、ニルの容器を見た。
まだ、半分ほど残っている。
「嫌いだったか」
「いいえ」
「遅い」
「ゆっくり食べています」
「なぜだ」
ニルは、少しだけ考えた。
「今日は、急がなくていいので」
カインは、自分の残りを見た。
あと二口。
一口を、小さくした。
「カインさん」
「なんだ」
「次は、ご自分で買いに行かれますか」
「……ああ」
「では、お店の方に伝えておきます」
「何を」
「焦がし砂糖を、多めに」
「頼んでいない」
「少なめにしますか」
「多めでいい」
ニルは頷いた。
カインは、最後の一口を食べた。
容器を置いてから、付け足した。
「お前も来い」
「道案内ですか」
「その程度の道で迷うか」
「では、荷物を」
「二個だぞ。俺が持つ」
「では――」
「用を探すな」
少し、強く言った。
ニルが、顔を上げた。
カインは、空の容器を見ていた。
しばらくして、目だけを彼女へ向けた。
「一緒に食うんだろ」
白い髪の少女は、すぐには頷かなかった。
青い目と、赤い目が、彼を見ていた。
道を読むためでも、記録を持つためでもない。
二つある甘いものを、一つずつ食べる。
今日、彼女が頼んだことだった。
次は、彼のほうから言った。
「……はい」
少し遅れた返事を、カインは待った。
「じゃあ、決まりだ」
その夜、ヴァイスの操縦席で、カインは巡回記録を閉じた。
静かだった。
この機体には、今も判断系がない。
彼の独り言へ返事をするものは、積まれていない。
カインは、午後二時と書いた紙を取り出した。
終わった予定に線を引く。
その下へ、次の予定を書きかけた。
日付が、まだ決まっていなかった。
「……ニル」
外部回線を開いた。
少し待つと、声が返ってきた。
『はい。カインさん』
「明日、空いているか」
『何時でしょう』
「お前が決めろ。合わせる」
通信の向こうで、小さく息を吸う音がした。
『では、午後二時に』
「分かった」
彼は、明日の欄へ二文字書いた。
二人。
カインの回でした。
彼の格好よさを、危険を怖がらないことには置きませんでした。怖さも、足が動かなくなることも知っている。そのうえで足場を探し、相手が動けるまで待てる人として書きました。
「一人減らせば楽になる」という計算は、カイン自身がしてきたものです。今回は、その答えを他人に使わせません。そしてレンに橋を預け、ニルに帰り道を見てもらい、自分の手の処置も頼みます。七年間の強さを、全部一人で使い切らなくてよくなりました。
飴を渡したあとに、自分にも楽しみが残っています。「もっと旨いものを食う」は強がりですが、約束を楽しみにしていることまで、隠しきれていません。
ニルへの「用を探すな」も、書きたかった言葉でした。道案内でも荷物持ちでもなく、ただ一緒に食べるために来てほしい。自分を役割で数えてきた相手へ、カインからそれを言ってもらいました。
ヴァイスには、最後まで判断系を積んでいません。静かな操縦席のまま、外へ呼びかければ返事が来る。その変化で、この話を閉じました。
よければ、ひとつだけ教えてください。
カインと菓子店へ行くなら、何を勧めてみたいですか。