【合体ロボ】死んだはずの幼なじみが、隣の世界から俺の名前を呼んだ   作:シラヌイ321

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 紅界の卵は、塩味で、端が少し焦げています。

 食べてみたいと言ったレンを、今度はアカリが案内します。

 今日は、最初から隣です。

 それでも、知らなかった顔は見つかります。


後日談 よく喋る人の、小さな声

「……もう一冊、読んで」

 

◇

 

 共界門を抜けると、アカリが紙を持っていた。

 

 レンは、その紙を見た。

 

 折り目が四本。何かを消した跡が、何か所もある。

 

「……作戦?」

 

「案内!」

 

 アカリが、紙を畳んだ。

 

「せっかく来るんだから、いろいろ見せたいじゃん。東の展望台とか、新しい市場とか、組合の展示室とか」

 

「卵は」

 

「入ってる」

 

「ならいい」

 

「もうちょっと期待して来てよ!」

 

 レンは、通行票を上着へしまった。

 

 次の枠が取れたら、紅界のいつもの食堂へ。

 

 蒼界で交わした約束を、今日、果たしに来た。

 

 帰りは午後四時。

 

 紺の上着の襟元には、小さな通話器が留まっている。

 

『当機は、市場にも興味があります』

 

「ほら。アズールのほうが観光する気ある」

 

『乾燥機の音を確認したいので』

 

「お前、まだ洗濯の話してるのか」

 

『現地での会話は、推奨しません。聞こえなくなります』

 

 アカリの通話器から、フレアが答えた。

 

 二機は門の両側に残り、整備用回線と紅界側の中継器を通してつながっていた。今日は最初から、四人で話せるようにしてある。

 

 小さなレンズを向けると、相棒たちにも街が見える。

 

「じゃ、まず――」

 

 アカリが紙を開きかけた。

 

 その向こうから、声が飛んできた。

 

「アカリ! こないだの箱!」

 

「返した! マオさんの机の下!」

 

「中身は!」

 

「食べた!」

 

「そっちは返すなよ!」

 

「返せないって!」

 

 作業服の男が、大きく笑って台車を押していった。

 

 レンは、彼女を見た。

 

「何を食った」

 

「蒸し芋。組合で余ったやつ」

 

「うまかった?」

 

「うん。ここの通りの奥に、釜があるの。昼前だと、たまに買える」

 

 レンが、その奥へ目を向ける。

 

 アカリは、手元の紙を見た。

 

 展望台へ向かう矢印は、反対側だった。

 

「別に、特別なとこじゃなくていいぞ」

 

「……そう?」

 

「お前、いつものとこ連れてくって言っただろ」

 

 アカリは、少し考えた。

 

 それから紙を畳み、今度はポケットの底まで入れた。

 

「じゃあ、変更」

 

「途中で、ちょっと借りたもの返していい?」

 

「いいぞ」

 

「あと、一時半に約束がある。二十分くらい。そこだけ付き合って」

 

「ああ」

 

 アカリが歩きだした。

 

 紙に書いていない道を、迷わず曲がった。

 

◇

 

 紅界の商店通りには、赤い空を透かす布の日除けが張られていた。

 

 石の路面を、荷車の車輪が鳴らしていく。焼いた粉の匂いと、鉄を削る匂いが、角を曲がるたびに入れ替わった。

 

 アカリは、よく立ち止まった。

 

 ただし、挨拶だけでは終わらない。

 

「アカリ。この前の結び方、また解けたぞ」

 

「え、二回回した?」

 

「三回だ」

 

「増やせばいいってもんじゃないから!」

 

 靴直しの店先では、片足を持ち上げさせられた。

 

「踵」

 

「まだ大丈夫」

 

「大丈夫かどうかを、見てんだよ」

 

 アカリは、黙って足を出した。

 

 店主が靴底を確かめ、指で一度叩く。

 

「来月持ってこい。それまでは走りすぎるな」

 

「それ、毎回言う」

 

「毎回聞かないからだ」

 

 レンは、笑いかけて、やめた。

 

「今、笑ったでしょ」

 

「まだだ」

 

「今から笑うつもりだったじゃん」

 

『靴の扱いについては、操縦者レンにも改善の余地があります』

 

「こっちへ持ってくるな、その話」

 

 日除けの下に、二人ぶんの笑い声が落ちた。

 

◇

 

 借りたものを返す先は、細い階段を五段上がった店だった。

 

 戸口に、小さな木札が下がっている。

 

 貸本。修繕。持ち込み相談。

 

 アカリが扉を引くより先に、中から声がした。

 

「一日遅れ」

 

「おはようくらい言ってよ」

 

「おはよう。二冊」

 

「持ってきた!」

 

 作業台の向こうに、同じ年ごろの少女がいた。

 

 短く結んだ髪。指先に、青いインク。刷毛と糸を並べ、本の背へ布を貼っている。

 

 アカリは肩の袋から二冊取り出し、台の端へ置いた。

 

 一冊は、料理の本だった。

 

 もう一冊には、丸い竜が描いてあった。

 

 竜は、前掛けをしていた。

 

「……それ、お前が読むのか」

 

「読むけど」

 

「へえ」

 

 アカリは、竜の本へ手を置いた。

 

 隠すほどではない。

 

 だが、もう少し早く返しておけばよかった、という置き方だった。

 

「久世ナギ。ここで本を直してます」

 

 少女が、レンへ会釈した。

 

「蒼羽レン」

 

「うん。聞いてる。今日は卵を食べに来る人」

 

「……間違ってはいない」

 

「もっと他にも説明したよね、あたし!」

 

「した。でも、いちばん念を押されたのが卵だった」

 

 ナギは、二冊の返却日を確かめた。

 

「料理のほう、どうだった?」

 

「難しかった」

 

「どこが」

 

「少々と、ひとつまみが、別の量なとこ」

 

「だから、最初は量るほうを借りなって言ったのに」

 

「写真が、こっちのほうがおいしそうだったんだもん」

 

 レンは、背表紙を見た。

 

 題名の下に、小さく「慣れた人の台所」とある。

 

「選ぶ段階で間違ってるだろ」

 

「作る前から諦めるよりいいでしょ」

 

「それで、できたのか」

 

「……食べられた」

 

「じゃあ次は、煮込みの本にしなよ。待ってる間、こっちも読める」

 

 ナギが、竜の本を持ち上げた。

 

 アカリは、反論しなかった。

 

◇

 

 店の奥から、男の子が顔を出した。

 

「アカリ、きょう、パンのやつ?」

 

「うん。一時半ね。約束したでしょ」

 

「ぼく、雨やる」

 

「じゃあ、窓の紙、ナギと切っておいて。細かすぎると、雨じゃなくて吹雪になるから」

 

「分かった!」

 

 男の子は、奥へ戻っていった。

 

 アカリも、戻った背中を見送る。

 

 今の声は、通りで話していた声より、少し低かった。

 

「一時半の用事、ここか」

 

「そう。奥で、たまに本読むの。子供と」

 

「見てもいいか」

 

 アカリは、すぐには答えなかった。

 

「付き合ってもらうって言ってたんじゃなかったの」

 

 ナギが、刷毛を置かずに言う。

 

「言ったけど。言ったあとで、ちょっと」

 

「嫌なら、外で待つぞ」

 

「嫌じゃない」

 

 そこは、早かった。

 

 アカリは袋の紐を指に巻いた。

 

「……笑ってもいいけど、あとで真似しないで」

 

「何をだ」

 

「見れば分かる」

 

 ナギが言った。

 

 楽しそうだった。

 

◇

 

 食堂は、貸本屋から二本向こうの通りにあった。

 

 扉を開けると、油の音がした。

 

「おばちゃん、二人!」

 

「見えてる。手、洗って」

 

「洗った」

 

「どこで」

 

「出る前」

 

「何時に」

 

 アカリは、洗い場へ向かった。

 

 レンも、その後ろへついた。

 

「……確かに、強いな」

 

「でしょ」

 

 小さな窓の下に座ると、注文する前に水が来た。

 

 アカリの前には、欠けた取っ手を直した青いコップ。

 

「あ、これ、戻ってる」

 

「捨てるなってうるさかっただろ」

 

「持ちやすいんだもん」

 

 嬉しそうに、取っ手へ指を入れた。

 

 レンは、彼女がそのコップを使うところを見ていた。

 

 街の誰かが、直してまで残しておくものを知っている。

 

 そういう付き合い方も、あるのだと思った。

 

◇

 

 紅界の卵は、聞いていたとおりだった。

 

【挿絵表示】

 

 薄く、平たく、端が茶色い。

 

 箸で切ると、縁だけが小さく鳴った。

 

 レンは、一口食べた。

 

 アカリが、見ている。

 

「……うまい」

 

「でしょ!」

 

「飯がいるな、これ」

 

「そう。それで、次に汁飲むの」

 

 言われたとおりにした。

 

 向こうの食堂の甘い卵とは、ずいぶん違う。

 

 レンがもう一口食べると、アカリはようやく自分の箸を動かした。

 

「ずっと見てたな」

 

「だって。あんたのとこ、おいしかったから」

 

「どっちも、うまいぞ」

 

「……うん」

 

 アカリは、汁椀へ口をつけた。

 

 その縁の向こうで、まだ少し笑っていた。

 

『評価を受領しました』

 

『当機には、味覚情報が届いていません』

 

『操縦者アカリが、上機嫌です』

 

『こちらも、二口目が早かったです』

 

「食べる速さまで話さなくていいの!」

 

 レンは三口目を、少しだけゆっくり食べた。

 

◇

 

 食事のあと、アカリは二人ぶんの皿を重ねた。

 

 そのまま立とうとして、店主に止められる。

 

「そこに置いて」

 

「持ってくよ」

 

「通路、今、熱い鍋が通る。座ってて」

 

「……はい」

 

 アカリは、座り直した。

 

 手持ち無沙汰になった指で、青いコップを半回転させる。

 

「いつも手伝ってるのか」

 

「前はね。宿舎に戻るの遅くなると、ここ、もう閉まってることあって」

 

「裏で何か出してやると、皿を洗わないと帰らないんだよ、この子」

 

「一人ぶん、余計に出してもらってるんだから」

 

「今日は開いてる。代金ももらう。客」

 

 店主が、アカリの前へ小皿を置いた。

 

 果物が、二切れ。

 

「……これは?」

 

「客へのおまけ」

 

 言い返す隙がなかった。

 

 アカリは一切れを、レンのほうへ寄せた。

 

「強いでしょ」

 

「勝てんな」

 

 今日は、二人とも客だった。

 

◇

 

 一時半。

 

 貸本屋の奥には、低い椅子が六つ並んでいた。

 

 座っている子供は五人。付き添いの女性が一人、窓のそばに腰を下ろしている。

 

 壁際に、水を張った糊の皿。

 

 窓には、細く切った青い紙が下がっていた。

 

「見て。雨」

 

「いいね。これなら、パン屋まで走れそう」

 

 アカリは、子供と同じ高さの椅子へ座った。

 

 竜の本を膝へ置く。

 

 レンは、後ろの丸椅子を借りた。

 

 二人の通話器は、ナギの許可をもらって机に並べた。子供たちの希望で、相棒の声も小さな外部スピーカーから聞こえるようにしている。

 

『音量は、これでよろしいでしょうか』

 

「もうちょっと小さいの」

 

『はい』

 

『当機も合わせます』

 

 アカリが、表紙を開いた。

 

 話しはじめた声に、レンは顔を上げた。

 

「山の向こうに、小さな竜がいました」

 

 よく通るのに、大きくなかった。

 

 語尾が、急がない。

 

 子供たちの目が、赤い髪の下の口元を追っている。

 

 ページには、大人と同じ背丈の、丸い竜が描いてあった。

 

「竜は、たいへん困っていました。雨が降ると、くしゃみが出るからです」

 

 アカリは一度、唇を結んだ。

 

 肩を、小さく持ち上げる。

 

「……へ」

 

 子供が、息を止めた。

 

「へっ……」

 

 誰かが先に笑った。

 

「ぷしゅっ」

 

 鼻から抜ける、小さな音だった。

 

 五人とも、笑った。

 

【挿絵表示】

 

 レンも、口元を手で押さえた。

 

 アカリが一瞬だけ、こちらを睨んだ。

 

 次の瞬間には、もう竜へ戻っていた。

 

◇

 

 竜は、雨宿りできる場所を探した。

 

 鳥の家は小さすぎた。

 

 ウサギの家では、角がつかえた。

 

 アカリは、それぞれ違う声で断られた。

 

 鳥は、早口。

 

 ウサギは、やけに丁寧。

 

 そして、小さなパン屋のおばあさんは――

 

「あらまあ。そんなところで鼻水たらして、どうしたんだい」

 

 レンは、とうとう吹き出した。

 

 さっきの食堂の店主に、似ていた。

 

 かなり。

 

 ナギが横から、小声で言った。

 

「本人の前でもやるよ」

 

「怒られないのか」

 

「似てないって言われる」

 

 レンは、もう一度笑ってしまった。

 

 アカリの耳が、赤くなっていた。

 

 声は、ちゃんとおばあさんのままだった。

 

◇

 

 竜がパン屋へ入るところで、一番端の女の子が言った。

 

「角、ぶつかるよ」

 

 アカリの指が、ページの端で止まった。

 

 挿絵には、まだ扉の前にいる竜が描かれていた。

 

「……ほんとだ。さっき、ウサギさんのおうちでも、ぶつけたもんね」

 

「うん」

 

「どうやって入ろっか」

 

 女の子は、本を見ていた。

 

 他の子が答えかけた。

 

 アカリが、その子へ笑って、人差し指を唇に当てた。

 

 待った。

 

 竜は、扉の前で待った。

 

 レンは、彼女の手を見ていた。

 

 現場では、誰より先に伸びる手だった。

 

 今は、紙を一枚、動かさない。

 

「……横」

 

 女の子が、小さく言った。

 

「横?」

 

「お顔、こっちにするの」

 

 自分の顔を、少し傾けた。

 

 アカリも、同じように傾けた。

 

「こう?」

 

「もっと」

 

「こうか」

 

「うん」

 

 そこで、ページをめくった。

 

 竜は、横を向いて入っていた。

 

 女の子の膝が、嬉しそうに一度跳ねた。

 

 アカリは、その子だけに分かるくらい、小さく頷いた。

 

◇

 

 パン屋には、困ったことがあった。

 

 雨で薪が濡れて、窯に火が入らない。

 

「フレアなら、できるじゃん」

 

 男の子が、通話器を見た。

 

『当機の出力では、店舗も残らない可能性があります』

 

「パン屋で火力出さないで」

 

『使用前に、申告しました』

 

 子供たちが笑った。

 

 アズールが言う。

 

『当機も、火を起こす用途には適していません』

 

「じゃあ、雨の音はどうだ」

 

 レンは、机に置かれた紙を指で軽く叩いた。

 

 ぱら、ぱら。

 

 男の子が目を丸くする。

 

「それ、ぼくがやる!」

 

「ああ。やってくれ」

 

 机の上で、雨が降りはじめた。

 

 アズールは、短い風音を添えた。

 

 フレアは、窯の火がついたときの、小さな音を一度だけ鳴らした。

 

 戦場で聞くどの警告よりも、ずっと控えめだった。

 

「竜は、鼻をむずむずさせました。煙を出したら、お店がすすだらけになります」

 

 アカリが、竜の声になる。

 

 少し鼻にかかった、気弱な声。

 

「ぼく、外で待っていようか」

 

 今度のおばあさんは、首を振った。

 

「いいから、そこで、くしゃみを一つおし」

 

 ぱら、ぱら。

 

 雨の音が、一度止まる。

 

 五人の子供と、一人の少年と、二つの相棒が待った。

 

「……ぷしゅっ」

 

 フレアが、小さく、ぱち、と鳴った。

 

 パン屋の窯に、火がついた。

 

◇

 

 最後に、パンが六個焼けた。

 

 一つはおばあさんに。

 

 残りの五つは、大きなお腹を鳴らしていた竜に。

 

 食べ終えても、雨は止まらなかった。

 

 おばあさんは、竜の尻尾へ毛布を掛けた。

 

 明日のパンが焼けるまで、ここにいればいい、と言った。

 

 アカリは、そのページを、いちばんゆっくり読んだ。

 

 読み終えたあとも、しばらく本を開いていた。

 

 絵を見ている子が、まだいたからだ。

 

 やがて、ぱら、ぱら、と最後の雨が降った。

 

 アカリが、表紙を閉じる。

 

「おしまい」

 

 五人ぶんの拍手に、二つの通話器の小さな音が混ざった。

 

 レンは、何も言わずに手を叩いた。

 

 アカリが一度だけ、後ろを見た。

 

 さっきまで、おばあさんにも竜にもなれていた顔が、今はどこへ向けばいいのか迷っていた。

 

◇

 

 片付けは、早かった。

 

 椅子を戻す子。紙の雨を持ち帰る子。もう一冊借りて帰る子。

 

 ナギが、貸出票へ日付を書いていく。

 

 フレアの前には、男の子が一人、残っていた。

 

「火、ちっちゃくてよかった」

 

『ありがとうございます』

 

「またやって」

 

『次も、パン屋の予定でしょうか』

 

「分かんない。おふろかも」

 

『……用途が増えました』

 

 隣でアズールが、風音の長さを聞かれていた。

 

 相棒たちも、すぐには帰れそうになかった。

 

◇

 

 アカリは、流しでコップを洗っていた。

 

 レンが空の盆を持っていくと、ちらりと見た。

 

「……何」

 

「うまいな」

 

「何が」

 

「読むの。声、全然違った」

 

「別の人なんだから、違う声にするでしょ」

 

「できんだろ、普通は」

 

 アカリは、洗ったコップを置いた。

 

 同じ場所へ置こうとしていた次のコップを、慌ててずらす。

 

「……練習したし」

 

「どこで」

 

「フレアの中」

 

 レンは、机の上の通話器を振り返った。

 

『当機が、ウサギの役を担当したこともあります』

 

「そこまで説明しなくていい!」

 

『評価は』

 

『入店を断る態度が、強すぎると』

 

「何て言ったんだ」

 

『入口の寸法と体格が一致しません。接近を中止してください』

 

 レンは、流しの端に手をついた。

 

 笑いすぎないようにした。

 

 無理だった。

 

「だから、ウサギのおうちだってば!」

 

◇

 

 ナギは、片付いた部屋で本の背を撫でていた。

 

 レンが、竜の本を見た。

 

「子供に読むために、借りてるのか」

 

「これ?」

 

 ナギが、表紙を開いた。

 

 貸出票には、同じ筆跡が何度もあった。

 

 緋月アカリ。

 

 その少し下にも。

 

 もっと前の日付にも。

 

「逆だよ。この子が何度も借りるから、そんなに好きなら読んでよって言ったの」

 

 レンは、アカリを見た。

 

 彼女は、濡れた手を布で拭いていた。

 

「……好きだよ」

 

 少し、開き直った声だった。

 

「これ、竜が誰とも戦わないんだもん」

 

 レンは、もう一度表紙を見る。

 

 前掛けをした竜。

 

 角の先に、小麦粉がついている。

 

「火を吐けるから、悪いやつ倒してこい、ってならない」

 

「くしゃみして、パン食べて、雨やむまで寝るの」

 

「……ああ」

 

「いいじゃん。そういう日も」

 

「いいな」

 

 アカリは、ようやくレンを見た。

 

 からかわれていないと分かるまで、少しだけ間があった。

 

◇

 

「初めて貸したときは、ここで読んで帰ってたね」

 

 ナギが、本を閉じた。

 

「宿舎で表紙見られるの、ちょっと嫌だったし」

 

「あたしには見られてたのに」

 

「あんたは先に、竜の声やったじゃん」

 

「したっけ」

 

「した。すっごい低い声で。あたし、竜よりおばあさんが心配になった」

 

 ナギが笑った。

 

 アカリも笑った。

 

「じゃあ、あんたがやりなよって言ったんだっけ」

 

「そう。あたしのせいみたいに言わないで」

 

 レンは、二人の間に置かれた本を見ていた。

 

 アカリが、人を励ましている姿は知っていた。

 

 手を伸ばして、前へ出て、誰かの代わりに声を上げるところも。

 

 けれど、この本の前では、先に笑わせてもらった側だった。

 

 好きだと言うのが少し恥ずかしいものを、同じ声で読んでくれる友達がいた。

 

 レンの知らなかった紅界は、こんな小さな机の向こうにもあった。

 

◇

 

 ナギが、別の本を取り出した。

 

 表紙には、長靴を左右逆に履いた小さな鳥。

 

「これ、今日戻ってきた。次、読む?」

 

「あ。借りたいって言ってたやつ」

 

「中、見てて。あたし、表の客に糊を渡してくる」

 

 店先で、鈴が鳴っていた。

 

 ナギは、瓶を持って席を立つ。

 

 アカリが、本へ手を伸ばした。

 

 その前に、レンが言った。

 

「俺、やってみてもいいか」

 

「……読むの?」

 

「声、全部は変えられんぞ」

 

「いいけど」

 

 レンは、本を受け取った。

 

 子供たちは、もう帰っている。

 

 聞いているのは、アカリと、二つの通話器だけだった。

 

◇

 

【挿絵表示】

 

「小さな鳥は、新しい長靴を買いました」

 

 アカリは、口元を押さえた。

 

「……まだ一行だぞ」

 

「ごめん。いつもと一緒すぎて」

 

「急に変わるかよ」

 

 次のページで、鳥は水溜まりを見つけた。

 

 飛び越えればいいのに、わざわざ長靴で入っていった。

 

「……飛べるだろ」

 

「本に文句言わないで」

 

『新しい装備を試したいものと、推定します』

 

『当機は、その判断を支持します』

 

「お前ら、鳥に味方するのか」

 

 アカリが笑った。

 

 声を抑えず、笑った。

 

 レンは、次のページをめくった。

 

◇

 

 鳥は、水溜まりの中で片方の長靴をなくした。

 

 拾ったカエルが、頭にかぶって現れた。

 

 そこでレンが、低い声を出した。

 

「いい帽子を、拾った」

 

 アカリの肩が、震えた。

 

「……変だったか」

 

「ちがう。続けて」

 

 彼は続きを読んだ。

 

 途中で一度、同じ行を読み直した。

 

 アカリは、指で場所を教えた。

 

 急いで代わらなかった。

 

 窓から入った風が、切り残された紙の雨を揺らしていた。

 

 最後に、長靴は二つとも戻った。

 

 鳥は帰って、片方ずつ逆さに干した。

 

 レンが、本を閉じる。

 

「……おしまい」

 

 アカリは、まだ椅子の背にもたれていた。

 

 膝の上で、両手をゆるく重ねている。

 

 次の予定を言わなかった。

 

 店先の客の声が、遠くで聞こえた。

 

「……もう一冊、読んで」

 

 レンは、顔を上げた。

 

「時間、大丈夫なら」

 

 時計を見た。

 

 二時を、少し過ぎたところだった。

 

「一冊なら、余裕ある」

 

「じゃあ、一冊」

 

 声は、竜でも、おばあさんでもなかった。

 

 レンが普段聞く声より、少しだけ小さかった。

 

◇

 

 ナギは、戻ってきてからも声をかけなかった。

 

 自分の作業台で、ほどけた本の綴じ糸を抜いている。

 

 レンが読む声に、時々アカリの笑い声が混ざった。

 

 それから、ぱち、と小さな音。

 

「フレア。今の話、火は出てこない」

 

『場面を取り違えました』

 

『次は、雨です』

 

『そちらばかり、出番が多くありませんか』

 

「静かに聞く役もあるだろ」

 

 通話器が、二つとも黙った。

 

 数秒して、アカリが小さく吹き出した。

 

「……それ、あたしもやってる」

 

「知ってる。今、初めて見てる」

 

 アカリは、彼の持つ本へ目を戻した。

 

 続きを、待った。

 

◇

 

 店を出るとき、アカリは三冊借りた。

 

 鳥の本。

 

 次に読んでもらった、橋の下の犬の本。

 

 そして、分量がきちんと書いてある煮込みの本。

 

「返却日」

 

 ナギが、貸出票を指す。

 

「分かってる。今度は間に合う」

 

「間に合わなかったら、言って。次に待ってる人がいるから」

 

「うん」

 

 袋へ入れる前に、アカリは日付をもう一度見た。

 

 ナギは、レンにも会釈した。

 

「また来て。声、後半よかった」

 

「前半は」

 

「小さい鳥が、ずっと何かを我慢してた」

 

 アカリが、先に笑ってしまった。

 

「……次は、最初からやる」

 

「うん。待ってる」

 

 ナギは、扉を閉めずに、作業台へ戻った。

 

◇

 

 帰り道、アカリはポケットから紙を出した。

 

 朝、持っていた案内の予定表だった。

 

「展望台、全然行けなかった」

 

「そうだな」

 

「展示室も」

 

「ああ」

 

「……本当に、あんなのでよかった?」

 

 レンが、足を緩めた。

 

「あんなの、って言うなよ」

 

 アカリは、紙から顔を上げた。

 

「お前、楽しそうだったろ」

 

「あたしは、いつも行ってるとこだもん」

 

「俺は知らなかった」

 

 レンは、彼女の袋を見た。

 

 角が傷まないように、本は布で包まれていた。

 

「あの声も。好きな本も」

 

「……お前が黙って、誰かに読んでもらうのも」

 

「黙ってたの、そんな珍しい?」

 

「うん」

 

「そこは迷ってよ」

 

 レンが笑った。

 

 アカリも、少しだけ笑った。

 

「あたしが喋ってないと、退屈かなって」

 

「誰が」

 

「……あんたが」

 

 彼は、少し考えた。

 

「俺が本読むのに、横からずっと喋られたら困る」

 

「そういう意味じゃ――」

 

「聞いてくれたから、最後まで読めた」

 

 アカリの口が、閉じた。

 

 レンは、通りの先を見る。

 

「俺は、面白かったぞ」

 

 アカリは、案内の紙を畳んだ。

 

 捨てずに、ポケットへ戻した。

 

◇

 

 門の手前で、二人は足を止めた。

 

 帰りの枠まで、まだ少しある。

 

「レン」

 

「なんだ」

 

「次、あの竜の本、あんたに読んでほしい」

 

「俺がおばあさんやるのか」

 

「うん」

 

「似せられんぞ」

 

「似てなくていいよ。あんたの声で聞きたい」

 

 言ってから、アカリの目が少し動いた。

 

 レンも、すぐには返さなかった。

 

 通話器が二つとも、静かだった。

 

「……練習しとく」

 

「あ。それは、アズールの中?」

 

「場所まで聞くな」

 

『ウサギの役が、必要でしょうか』

 

『入口の案内なら、引き継げます』

 

「そこは引き継がなくていい!」

 

 四人の声が、門の前に戻った。

 

◇

 

 通行票を出す前に、レンは振り向いた。

 

「卵、また食いに来る」

 

「うん」

 

「それと、展望台」

 

「……行く?」

 

「見せたかったんだろ」

 

 アカリは、上着のポケットへ手を入れた。

 

 折り畳んだ紙の端に、指が触れた。

 

「うん。見せたい」

 

「じゃあ、次」

 

 レンは、門へ向き直った。

 

 途中で一度だけ、足を止める。

 

「あと」

 

「まだある?」

 

「本、三冊とも返せよ」

 

「分かってる!」

 

 最後は、いつもの声だった。

 

 レンは、笑って歩いていった。

 

◇

 

 門衛へ通行票を渡し、通話をアズールだけに戻した。

 

 帰りの廊下で、相棒が言った。

 

『報告。本日の観光先は、予定から大幅に変更されました』

 

「そうだな」

 

『次回の訪問先が、増えています』

 

「悪くないだろ」

 

『はい。当機は、雨音以外も用意します』

 

 レンは、門の向こうを一度見た。

 

 赤い上着が、まだそこにいた。

 

 手を上げると、向こうも上げた。

 

 好きな本を借りて、卵を食べて、友達に返却日を念押しされる。

 

 そういうアカリの一日に、次の約束が一つ増えた。

 

 その約束のために、少しだけ、読む練習をする。

 

 レンは、誰にも聞こえないくらいの声で言ってみた。

 

「……あらまあ」

 

 一拍。

 

『聞こえています』

 

「報告するな」

 

後日談 完




 今度は、アカリのいつもの道でした。

 蒼界で「それ、食いたいな」と言った卵を、レンが食べに来ます。アカリは張り切って案内を用意しましたが、実際に歩いたのは、顔見知りに呼び止められ、靴を見られ、本を返す道でした。

 アカリの読み聞かせは、子供を喜ばせるためだけに始めたものではありません。最初は、自分がその本を好きだった。その好きを、先にナギが笑い合えるものにしてくれました。

 レンに見てほしかったのは、声を変える上手さと、ページをめくらずに待つ手です。そして最後には、自分から「もう一冊、読んで」と言える姿も。

 二つのAIにも、戦う以外の出番ができました。パン屋を残せるくらいの、小さな音です。

 よければ、ひとつだけ。
 アカリのおばあさんの声と、レンの読み聞かせ。あなたなら、どちらを聞いてみたいですか。
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