【合体ロボ】死んだはずの幼なじみが、隣の世界から俺の名前を呼んだ 作:シラヌイ321
食べてみたいと言ったレンを、今度はアカリが案内します。
今日は、最初から隣です。
それでも、知らなかった顔は見つかります。
共界門を抜けると、アカリが紙を持っていた。
レンは、その紙を見た。
折り目が四本。何かを消した跡が、何か所もある。
「……作戦?」
「案内!」
アカリが、紙を畳んだ。
「せっかく来るんだから、いろいろ見せたいじゃん。東の展望台とか、新しい市場とか、組合の展示室とか」
「卵は」
「入ってる」
「ならいい」
「もうちょっと期待して来てよ!」
レンは、通行票を上着へしまった。
次の枠が取れたら、紅界のいつもの食堂へ。
蒼界で交わした約束を、今日、果たしに来た。
帰りは午後四時。
紺の上着の襟元には、小さな通話器が留まっている。
『当機は、市場にも興味があります』
「ほら。アズールのほうが観光する気ある」
『乾燥機の音を確認したいので』
「お前、まだ洗濯の話してるのか」
『現地での会話は、推奨しません。聞こえなくなります』
アカリの通話器から、フレアが答えた。
二機は門の両側に残り、整備用回線と紅界側の中継器を通してつながっていた。今日は最初から、四人で話せるようにしてある。
小さなレンズを向けると、相棒たちにも街が見える。
「じゃ、まず――」
アカリが紙を開きかけた。
その向こうから、声が飛んできた。
「アカリ! こないだの箱!」
「返した! マオさんの机の下!」
「中身は!」
「食べた!」
「そっちは返すなよ!」
「返せないって!」
作業服の男が、大きく笑って台車を押していった。
レンは、彼女を見た。
「何を食った」
「蒸し芋。組合で余ったやつ」
「うまかった?」
「うん。ここの通りの奥に、釜があるの。昼前だと、たまに買える」
レンが、その奥へ目を向ける。
アカリは、手元の紙を見た。
展望台へ向かう矢印は、反対側だった。
「別に、特別なとこじゃなくていいぞ」
「……そう?」
「お前、いつものとこ連れてくって言っただろ」
アカリは、少し考えた。
それから紙を畳み、今度はポケットの底まで入れた。
「じゃあ、変更」
「途中で、ちょっと借りたもの返していい?」
「いいぞ」
「あと、一時半に約束がある。二十分くらい。そこだけ付き合って」
「ああ」
アカリが歩きだした。
紙に書いていない道を、迷わず曲がった。
紅界の商店通りには、赤い空を透かす布の日除けが張られていた。
石の路面を、荷車の車輪が鳴らしていく。焼いた粉の匂いと、鉄を削る匂いが、角を曲がるたびに入れ替わった。
アカリは、よく立ち止まった。
ただし、挨拶だけでは終わらない。
「アカリ。この前の結び方、また解けたぞ」
「え、二回回した?」
「三回だ」
「増やせばいいってもんじゃないから!」
靴直しの店先では、片足を持ち上げさせられた。
「踵」
「まだ大丈夫」
「大丈夫かどうかを、見てんだよ」
アカリは、黙って足を出した。
店主が靴底を確かめ、指で一度叩く。
「来月持ってこい。それまでは走りすぎるな」
「それ、毎回言う」
「毎回聞かないからだ」
レンは、笑いかけて、やめた。
「今、笑ったでしょ」
「まだだ」
「今から笑うつもりだったじゃん」
『靴の扱いについては、操縦者レンにも改善の余地があります』
「こっちへ持ってくるな、その話」
日除けの下に、二人ぶんの笑い声が落ちた。
借りたものを返す先は、細い階段を五段上がった店だった。
戸口に、小さな木札が下がっている。
貸本。修繕。持ち込み相談。
アカリが扉を引くより先に、中から声がした。
「一日遅れ」
「おはようくらい言ってよ」
「おはよう。二冊」
「持ってきた!」
作業台の向こうに、同じ年ごろの少女がいた。
短く結んだ髪。指先に、青いインク。刷毛と糸を並べ、本の背へ布を貼っている。
アカリは肩の袋から二冊取り出し、台の端へ置いた。
一冊は、料理の本だった。
もう一冊には、丸い竜が描いてあった。
竜は、前掛けをしていた。
「……それ、お前が読むのか」
「読むけど」
「へえ」
アカリは、竜の本へ手を置いた。
隠すほどではない。
だが、もう少し早く返しておけばよかった、という置き方だった。
「久世ナギ。ここで本を直してます」
少女が、レンへ会釈した。
「蒼羽レン」
「うん。聞いてる。今日は卵を食べに来る人」
「……間違ってはいない」
「もっと他にも説明したよね、あたし!」
「した。でも、いちばん念を押されたのが卵だった」
ナギは、二冊の返却日を確かめた。
「料理のほう、どうだった?」
「難しかった」
「どこが」
「少々と、ひとつまみが、別の量なとこ」
「だから、最初は量るほうを借りなって言ったのに」
「写真が、こっちのほうがおいしそうだったんだもん」
レンは、背表紙を見た。
題名の下に、小さく「慣れた人の台所」とある。
「選ぶ段階で間違ってるだろ」
「作る前から諦めるよりいいでしょ」
「それで、できたのか」
「……食べられた」
「じゃあ次は、煮込みの本にしなよ。待ってる間、こっちも読める」
ナギが、竜の本を持ち上げた。
アカリは、反論しなかった。
店の奥から、男の子が顔を出した。
「アカリ、きょう、パンのやつ?」
「うん。一時半ね。約束したでしょ」
「ぼく、雨やる」
「じゃあ、窓の紙、ナギと切っておいて。細かすぎると、雨じゃなくて吹雪になるから」
「分かった!」
男の子は、奥へ戻っていった。
アカリも、戻った背中を見送る。
今の声は、通りで話していた声より、少し低かった。
「一時半の用事、ここか」
「そう。奥で、たまに本読むの。子供と」
「見てもいいか」
アカリは、すぐには答えなかった。
「付き合ってもらうって言ってたんじゃなかったの」
ナギが、刷毛を置かずに言う。
「言ったけど。言ったあとで、ちょっと」
「嫌なら、外で待つぞ」
「嫌じゃない」
そこは、早かった。
アカリは袋の紐を指に巻いた。
「……笑ってもいいけど、あとで真似しないで」
「何をだ」
「見れば分かる」
ナギが言った。
楽しそうだった。
食堂は、貸本屋から二本向こうの通りにあった。
扉を開けると、油の音がした。
「おばちゃん、二人!」
「見えてる。手、洗って」
「洗った」
「どこで」
「出る前」
「何時に」
アカリは、洗い場へ向かった。
レンも、その後ろへついた。
「……確かに、強いな」
「でしょ」
小さな窓の下に座ると、注文する前に水が来た。
アカリの前には、欠けた取っ手を直した青いコップ。
「あ、これ、戻ってる」
「捨てるなってうるさかっただろ」
「持ちやすいんだもん」
嬉しそうに、取っ手へ指を入れた。
レンは、彼女がそのコップを使うところを見ていた。
街の誰かが、直してまで残しておくものを知っている。
そういう付き合い方も、あるのだと思った。
紅界の卵は、聞いていたとおりだった。
薄く、平たく、端が茶色い。
箸で切ると、縁だけが小さく鳴った。
レンは、一口食べた。
アカリが、見ている。
「……うまい」
「でしょ!」
「飯がいるな、これ」
「そう。それで、次に汁飲むの」
言われたとおりにした。
向こうの食堂の甘い卵とは、ずいぶん違う。
レンがもう一口食べると、アカリはようやく自分の箸を動かした。
「ずっと見てたな」
「だって。あんたのとこ、おいしかったから」
「どっちも、うまいぞ」
「……うん」
アカリは、汁椀へ口をつけた。
その縁の向こうで、まだ少し笑っていた。
『評価を受領しました』
『当機には、味覚情報が届いていません』
『操縦者アカリが、上機嫌です』
『こちらも、二口目が早かったです』
「食べる速さまで話さなくていいの!」
レンは三口目を、少しだけゆっくり食べた。
食事のあと、アカリは二人ぶんの皿を重ねた。
そのまま立とうとして、店主に止められる。
「そこに置いて」
「持ってくよ」
「通路、今、熱い鍋が通る。座ってて」
「……はい」
アカリは、座り直した。
手持ち無沙汰になった指で、青いコップを半回転させる。
「いつも手伝ってるのか」
「前はね。宿舎に戻るの遅くなると、ここ、もう閉まってることあって」
「裏で何か出してやると、皿を洗わないと帰らないんだよ、この子」
「一人ぶん、余計に出してもらってるんだから」
「今日は開いてる。代金ももらう。客」
店主が、アカリの前へ小皿を置いた。
果物が、二切れ。
「……これは?」
「客へのおまけ」
言い返す隙がなかった。
アカリは一切れを、レンのほうへ寄せた。
「強いでしょ」
「勝てんな」
今日は、二人とも客だった。
一時半。
貸本屋の奥には、低い椅子が六つ並んでいた。
座っている子供は五人。付き添いの女性が一人、窓のそばに腰を下ろしている。
壁際に、水を張った糊の皿。
窓には、細く切った青い紙が下がっていた。
「見て。雨」
「いいね。これなら、パン屋まで走れそう」
アカリは、子供と同じ高さの椅子へ座った。
竜の本を膝へ置く。
レンは、後ろの丸椅子を借りた。
二人の通話器は、ナギの許可をもらって机に並べた。子供たちの希望で、相棒の声も小さな外部スピーカーから聞こえるようにしている。
『音量は、これでよろしいでしょうか』
「もうちょっと小さいの」
『はい』
『当機も合わせます』
アカリが、表紙を開いた。
話しはじめた声に、レンは顔を上げた。
「山の向こうに、小さな竜がいました」
よく通るのに、大きくなかった。
語尾が、急がない。
子供たちの目が、赤い髪の下の口元を追っている。
ページには、大人と同じ背丈の、丸い竜が描いてあった。
「竜は、たいへん困っていました。雨が降ると、くしゃみが出るからです」
アカリは一度、唇を結んだ。
肩を、小さく持ち上げる。
「……へ」
子供が、息を止めた。
「へっ……」
誰かが先に笑った。
「ぷしゅっ」
鼻から抜ける、小さな音だった。
五人とも、笑った。
レンも、口元を手で押さえた。
アカリが一瞬だけ、こちらを睨んだ。
次の瞬間には、もう竜へ戻っていた。
竜は、雨宿りできる場所を探した。
鳥の家は小さすぎた。
ウサギの家では、角がつかえた。
アカリは、それぞれ違う声で断られた。
鳥は、早口。
ウサギは、やけに丁寧。
そして、小さなパン屋のおばあさんは――
「あらまあ。そんなところで鼻水たらして、どうしたんだい」
レンは、とうとう吹き出した。
さっきの食堂の店主に、似ていた。
かなり。
ナギが横から、小声で言った。
「本人の前でもやるよ」
「怒られないのか」
「似てないって言われる」
レンは、もう一度笑ってしまった。
アカリの耳が、赤くなっていた。
声は、ちゃんとおばあさんのままだった。
竜がパン屋へ入るところで、一番端の女の子が言った。
「角、ぶつかるよ」
アカリの指が、ページの端で止まった。
挿絵には、まだ扉の前にいる竜が描かれていた。
「……ほんとだ。さっき、ウサギさんのおうちでも、ぶつけたもんね」
「うん」
「どうやって入ろっか」
女の子は、本を見ていた。
他の子が答えかけた。
アカリが、その子へ笑って、人差し指を唇に当てた。
待った。
竜は、扉の前で待った。
レンは、彼女の手を見ていた。
現場では、誰より先に伸びる手だった。
今は、紙を一枚、動かさない。
「……横」
女の子が、小さく言った。
「横?」
「お顔、こっちにするの」
自分の顔を、少し傾けた。
アカリも、同じように傾けた。
「こう?」
「もっと」
「こうか」
「うん」
そこで、ページをめくった。
竜は、横を向いて入っていた。
女の子の膝が、嬉しそうに一度跳ねた。
アカリは、その子だけに分かるくらい、小さく頷いた。
パン屋には、困ったことがあった。
雨で薪が濡れて、窯に火が入らない。
「フレアなら、できるじゃん」
男の子が、通話器を見た。
『当機の出力では、店舗も残らない可能性があります』
「パン屋で火力出さないで」
『使用前に、申告しました』
子供たちが笑った。
アズールが言う。
『当機も、火を起こす用途には適していません』
「じゃあ、雨の音はどうだ」
レンは、机に置かれた紙を指で軽く叩いた。
ぱら、ぱら。
男の子が目を丸くする。
「それ、ぼくがやる!」
「ああ。やってくれ」
机の上で、雨が降りはじめた。
アズールは、短い風音を添えた。
フレアは、窯の火がついたときの、小さな音を一度だけ鳴らした。
戦場で聞くどの警告よりも、ずっと控えめだった。
「竜は、鼻をむずむずさせました。煙を出したら、お店がすすだらけになります」
アカリが、竜の声になる。
少し鼻にかかった、気弱な声。
「ぼく、外で待っていようか」
今度のおばあさんは、首を振った。
「いいから、そこで、くしゃみを一つおし」
ぱら、ぱら。
雨の音が、一度止まる。
五人の子供と、一人の少年と、二つの相棒が待った。
「……ぷしゅっ」
フレアが、小さく、ぱち、と鳴った。
パン屋の窯に、火がついた。
最後に、パンが六個焼けた。
一つはおばあさんに。
残りの五つは、大きなお腹を鳴らしていた竜に。
食べ終えても、雨は止まらなかった。
おばあさんは、竜の尻尾へ毛布を掛けた。
明日のパンが焼けるまで、ここにいればいい、と言った。
アカリは、そのページを、いちばんゆっくり読んだ。
読み終えたあとも、しばらく本を開いていた。
絵を見ている子が、まだいたからだ。
やがて、ぱら、ぱら、と最後の雨が降った。
アカリが、表紙を閉じる。
「おしまい」
五人ぶんの拍手に、二つの通話器の小さな音が混ざった。
レンは、何も言わずに手を叩いた。
アカリが一度だけ、後ろを見た。
さっきまで、おばあさんにも竜にもなれていた顔が、今はどこへ向けばいいのか迷っていた。
片付けは、早かった。
椅子を戻す子。紙の雨を持ち帰る子。もう一冊借りて帰る子。
ナギが、貸出票へ日付を書いていく。
フレアの前には、男の子が一人、残っていた。
「火、ちっちゃくてよかった」
『ありがとうございます』
「またやって」
『次も、パン屋の予定でしょうか』
「分かんない。おふろかも」
『……用途が増えました』
隣でアズールが、風音の長さを聞かれていた。
相棒たちも、すぐには帰れそうになかった。
アカリは、流しでコップを洗っていた。
レンが空の盆を持っていくと、ちらりと見た。
「……何」
「うまいな」
「何が」
「読むの。声、全然違った」
「別の人なんだから、違う声にするでしょ」
「できんだろ、普通は」
アカリは、洗ったコップを置いた。
同じ場所へ置こうとしていた次のコップを、慌ててずらす。
「……練習したし」
「どこで」
「フレアの中」
レンは、机の上の通話器を振り返った。
『当機が、ウサギの役を担当したこともあります』
「そこまで説明しなくていい!」
『評価は』
『入店を断る態度が、強すぎると』
「何て言ったんだ」
『入口の寸法と体格が一致しません。接近を中止してください』
レンは、流しの端に手をついた。
笑いすぎないようにした。
無理だった。
「だから、ウサギのおうちだってば!」
ナギは、片付いた部屋で本の背を撫でていた。
レンが、竜の本を見た。
「子供に読むために、借りてるのか」
「これ?」
ナギが、表紙を開いた。
貸出票には、同じ筆跡が何度もあった。
緋月アカリ。
その少し下にも。
もっと前の日付にも。
「逆だよ。この子が何度も借りるから、そんなに好きなら読んでよって言ったの」
レンは、アカリを見た。
彼女は、濡れた手を布で拭いていた。
「……好きだよ」
少し、開き直った声だった。
「これ、竜が誰とも戦わないんだもん」
レンは、もう一度表紙を見る。
前掛けをした竜。
角の先に、小麦粉がついている。
「火を吐けるから、悪いやつ倒してこい、ってならない」
「くしゃみして、パン食べて、雨やむまで寝るの」
「……ああ」
「いいじゃん。そういう日も」
「いいな」
アカリは、ようやくレンを見た。
からかわれていないと分かるまで、少しだけ間があった。
「初めて貸したときは、ここで読んで帰ってたね」
ナギが、本を閉じた。
「宿舎で表紙見られるの、ちょっと嫌だったし」
「あたしには見られてたのに」
「あんたは先に、竜の声やったじゃん」
「したっけ」
「した。すっごい低い声で。あたし、竜よりおばあさんが心配になった」
ナギが笑った。
アカリも笑った。
「じゃあ、あんたがやりなよって言ったんだっけ」
「そう。あたしのせいみたいに言わないで」
レンは、二人の間に置かれた本を見ていた。
アカリが、人を励ましている姿は知っていた。
手を伸ばして、前へ出て、誰かの代わりに声を上げるところも。
けれど、この本の前では、先に笑わせてもらった側だった。
好きだと言うのが少し恥ずかしいものを、同じ声で読んでくれる友達がいた。
レンの知らなかった紅界は、こんな小さな机の向こうにもあった。
ナギが、別の本を取り出した。
表紙には、長靴を左右逆に履いた小さな鳥。
「これ、今日戻ってきた。次、読む?」
「あ。借りたいって言ってたやつ」
「中、見てて。あたし、表の客に糊を渡してくる」
店先で、鈴が鳴っていた。
ナギは、瓶を持って席を立つ。
アカリが、本へ手を伸ばした。
その前に、レンが言った。
「俺、やってみてもいいか」
「……読むの?」
「声、全部は変えられんぞ」
「いいけど」
レンは、本を受け取った。
子供たちは、もう帰っている。
聞いているのは、アカリと、二つの通話器だけだった。
「小さな鳥は、新しい長靴を買いました」
アカリは、口元を押さえた。
「……まだ一行だぞ」
「ごめん。いつもと一緒すぎて」
「急に変わるかよ」
次のページで、鳥は水溜まりを見つけた。
飛び越えればいいのに、わざわざ長靴で入っていった。
「……飛べるだろ」
「本に文句言わないで」
『新しい装備を試したいものと、推定します』
『当機は、その判断を支持します』
「お前ら、鳥に味方するのか」
アカリが笑った。
声を抑えず、笑った。
レンは、次のページをめくった。
鳥は、水溜まりの中で片方の長靴をなくした。
拾ったカエルが、頭にかぶって現れた。
そこでレンが、低い声を出した。
「いい帽子を、拾った」
アカリの肩が、震えた。
「……変だったか」
「ちがう。続けて」
彼は続きを読んだ。
途中で一度、同じ行を読み直した。
アカリは、指で場所を教えた。
急いで代わらなかった。
窓から入った風が、切り残された紙の雨を揺らしていた。
最後に、長靴は二つとも戻った。
鳥は帰って、片方ずつ逆さに干した。
レンが、本を閉じる。
「……おしまい」
アカリは、まだ椅子の背にもたれていた。
膝の上で、両手をゆるく重ねている。
次の予定を言わなかった。
店先の客の声が、遠くで聞こえた。
「……もう一冊、読んで」
レンは、顔を上げた。
「時間、大丈夫なら」
時計を見た。
二時を、少し過ぎたところだった。
「一冊なら、余裕ある」
「じゃあ、一冊」
声は、竜でも、おばあさんでもなかった。
レンが普段聞く声より、少しだけ小さかった。
ナギは、戻ってきてからも声をかけなかった。
自分の作業台で、ほどけた本の綴じ糸を抜いている。
レンが読む声に、時々アカリの笑い声が混ざった。
それから、ぱち、と小さな音。
「フレア。今の話、火は出てこない」
『場面を取り違えました』
『次は、雨です』
『そちらばかり、出番が多くありませんか』
「静かに聞く役もあるだろ」
通話器が、二つとも黙った。
数秒して、アカリが小さく吹き出した。
「……それ、あたしもやってる」
「知ってる。今、初めて見てる」
アカリは、彼の持つ本へ目を戻した。
続きを、待った。
店を出るとき、アカリは三冊借りた。
鳥の本。
次に読んでもらった、橋の下の犬の本。
そして、分量がきちんと書いてある煮込みの本。
「返却日」
ナギが、貸出票を指す。
「分かってる。今度は間に合う」
「間に合わなかったら、言って。次に待ってる人がいるから」
「うん」
袋へ入れる前に、アカリは日付をもう一度見た。
ナギは、レンにも会釈した。
「また来て。声、後半よかった」
「前半は」
「小さい鳥が、ずっと何かを我慢してた」
アカリが、先に笑ってしまった。
「……次は、最初からやる」
「うん。待ってる」
ナギは、扉を閉めずに、作業台へ戻った。
帰り道、アカリはポケットから紙を出した。
朝、持っていた案内の予定表だった。
「展望台、全然行けなかった」
「そうだな」
「展示室も」
「ああ」
「……本当に、あんなのでよかった?」
レンが、足を緩めた。
「あんなの、って言うなよ」
アカリは、紙から顔を上げた。
「お前、楽しそうだったろ」
「あたしは、いつも行ってるとこだもん」
「俺は知らなかった」
レンは、彼女の袋を見た。
角が傷まないように、本は布で包まれていた。
「あの声も。好きな本も」
「……お前が黙って、誰かに読んでもらうのも」
「黙ってたの、そんな珍しい?」
「うん」
「そこは迷ってよ」
レンが笑った。
アカリも、少しだけ笑った。
「あたしが喋ってないと、退屈かなって」
「誰が」
「……あんたが」
彼は、少し考えた。
「俺が本読むのに、横からずっと喋られたら困る」
「そういう意味じゃ――」
「聞いてくれたから、最後まで読めた」
アカリの口が、閉じた。
レンは、通りの先を見る。
「俺は、面白かったぞ」
アカリは、案内の紙を畳んだ。
捨てずに、ポケットへ戻した。
門の手前で、二人は足を止めた。
帰りの枠まで、まだ少しある。
「レン」
「なんだ」
「次、あの竜の本、あんたに読んでほしい」
「俺がおばあさんやるのか」
「うん」
「似せられんぞ」
「似てなくていいよ。あんたの声で聞きたい」
言ってから、アカリの目が少し動いた。
レンも、すぐには返さなかった。
通話器が二つとも、静かだった。
「……練習しとく」
「あ。それは、アズールの中?」
「場所まで聞くな」
『ウサギの役が、必要でしょうか』
『入口の案内なら、引き継げます』
「そこは引き継がなくていい!」
四人の声が、門の前に戻った。
通行票を出す前に、レンは振り向いた。
「卵、また食いに来る」
「うん」
「それと、展望台」
「……行く?」
「見せたかったんだろ」
アカリは、上着のポケットへ手を入れた。
折り畳んだ紙の端に、指が触れた。
「うん。見せたい」
「じゃあ、次」
レンは、門へ向き直った。
途中で一度だけ、足を止める。
「あと」
「まだある?」
「本、三冊とも返せよ」
「分かってる!」
最後は、いつもの声だった。
レンは、笑って歩いていった。
門衛へ通行票を渡し、通話をアズールだけに戻した。
帰りの廊下で、相棒が言った。
『報告。本日の観光先は、予定から大幅に変更されました』
「そうだな」
『次回の訪問先が、増えています』
「悪くないだろ」
『はい。当機は、雨音以外も用意します』
レンは、門の向こうを一度見た。
赤い上着が、まだそこにいた。
手を上げると、向こうも上げた。
好きな本を借りて、卵を食べて、友達に返却日を念押しされる。
そういうアカリの一日に、次の約束が一つ増えた。
その約束のために、少しだけ、読む練習をする。
レンは、誰にも聞こえないくらいの声で言ってみた。
「……あらまあ」
一拍。
『聞こえています』
「報告するな」
今度は、アカリのいつもの道でした。
蒼界で「それ、食いたいな」と言った卵を、レンが食べに来ます。アカリは張り切って案内を用意しましたが、実際に歩いたのは、顔見知りに呼び止められ、靴を見られ、本を返す道でした。
アカリの読み聞かせは、子供を喜ばせるためだけに始めたものではありません。最初は、自分がその本を好きだった。その好きを、先にナギが笑い合えるものにしてくれました。
レンに見てほしかったのは、声を変える上手さと、ページをめくらずに待つ手です。そして最後には、自分から「もう一冊、読んで」と言える姿も。
二つのAIにも、戦う以外の出番ができました。パン屋を残せるくらいの、小さな音です。
よければ、ひとつだけ。
アカリのおばあさんの声と、レンの読み聞かせ。あなたなら、どちらを聞いてみたいですか。