レンとアカリはヴァイスを破壊せず、わずか〇・〇三秒の位相差を利用して、カインを第二ゼロ・アンカーから救出する。
しかし、三人が同じ未来を選んだ瞬間さえもアウレルの計画に利用され、最後の第三ゼロ・アンカーが完全起動へ向かい始めた。
蒼界と紅界が同じ座標へ押し込まれ、互いを異物として破壊し始めるまで、残された時間は約十二時間。
ニルを救出し、第三アンカーを停止するため、アズール、フレア、ヴァイスは合体せず、青、赤、零の三座標を維持したまま、世界が分裂する前の疑似世界「原初界」へ突入する。
忘れていた第6話キービジュアル
【挿絵表示】
「選ばない世界では、誰も間違えない。
けれど、選べない世界では、誰も未来へ進めない」
◇
二つの世界が、同じ場所で悲鳴を上げていた。
その中央都市の大通りへ、赤く錆びた鉄橋が突き出していた。
鉄橋は
紅界――七年前の世界分裂で緋月アカリが生き残り、崩壊した環境を住民同士の支え合いによって維持してきた赤い世界。
本来なら決して触れ合わない二つの建造物が、同じ座標へ押し込まれている。
青い高層建築の壁から、紅界の共同居住区が半分だけ現れる。
蒼界の道路を走っていた輸送車の前へ、紅界で七年前に崩落した瓦礫が落ちる。
互いを見ることのできなかった人々が、薄い光の向こうで初めて相手の姿を見た。
だが、感動する時間はなかった。
一人の蒼界市民が、紅界の避難通路へ足を踏み入れる。
身体の輪郭が青と赤に二重化した。
『接触しないでください!』
白瀬ユナの警告が、両世界の緊急放送へ同時に響く。
白瀬ユナ――蒼界と紅界の位相現象を解析する、境界保全機構ARK-∞の戦術解析担当。
『界面重合が発生しています。重なって見える場所は、別世界の物質が同一座標へ侵入した危険区域です!』
市民の足元から、青と赤の火花が噴き出した。
次の瞬間、青い円環が身体を包む。
「アイオン・ロック。蒼界側へ固定」
蒼界機アズールが、青銀の腕を通りへ伸ばしていた。
蒼界機アズール――蒼羽レンが操縦し、精密演算と位相固定を得意とする、両腕と両脚を備えた青い完全人型機。
アズールの青い円環が市民の位相を蒼界側へ引き戻す。
赤い鉄橋の一部が高層建築へさらに食い込んだ。
窓が一斉に砕ける。
レンはアズールを建物と鉄橋の間へ滑り込ませた。
左腕で青い建物を支える。
右掌から円環を放ち、紅界の鉄橋だけを別の位相へ押し返す。
二つの巨大構造物が、機体の両側からアズールを押し潰そうとする。
「離れろ……!」
青い装甲の継ぎ目から火花が飛ぶ。
胸元の記憶のペンダントが赤く明滅した。
記憶のペンダント――アズールとフレアを起動する位相鍵であり、現在は白髪の人型端末ニルの記憶も保存している青と赤の装身具。
『レン、三秒だけ持たせて!』
緋月アカリの声だった。
紅界側では、紅界機フレアが同じ鉄橋を掴んでいる。
紅界機フレア――緋月アカリが操縦し、瞬間加速と強力な近接打撃を得意とする、両腕と両脚を備えた赤い完全人型機。
二人の視界には異なる世界が映っている。
それでも、掴んでいる鉄橋は同じだった。
「何をする」
『押し返すんじゃない。橋を外す!』
「基部が共同居住区へ繋がっている。力任せに引けば――」
『だから三秒だけ、向こう側を止めて!』
レンはアカリが狙っている箇所を読み取った。
鉄橋の基部には、赤い避難路が接続されている。
アズールの円環が、避難路と鉄橋の境界だけへ重なった。
「固定した。今だ!」
フレアの全身を赤い光が走る。
「フレア・ドライブ!」
瞬間的に高出力を流す駆動機構が唸り、赤い巨人が鉄橋を真横へ引き抜いた。
基部だけは青い円環に固定されて動かない。
連結部がきれいに外れる。
フレアは鉄橋を誰もいない赤い荒野へ投げた。
蒼界の建物から圧力が消える。
アズールがゆっくりと左腕を下ろした。
二つの世界に、数秒だけ静けさが戻る。
だが空を覆う黒い歯車は止まっていない。
第三ゼロ・アンカー――消された可能性が集まる色のない疑似世界、
その完全起動までの残り時間が、レンの視界へ表示される。
十一時間四十一分十二秒。
数字は一秒も休まず減り続けていた。
◇
境界航行母艦ノア・ギアの作戦室では、青と赤の立体地図が互いへ食い込んでいた。
境界航行母艦ノア・ギア――蒼界と紅界へ半分ずつ存在し、二世界を同時に観測できるARK-∞の母艦。
御堂カナメ艦長が、増え続ける重合地点を見つめる。
「衝突の進行速度は」
「予測の一・八倍です」
ユナが地図へ黒い線を引いた。
「第三アンカーが開いた扉から、新たな位相が流入しています。このままでは完全起動を待たず、主要都市の一部が崩壊します」
作戦卓の脇に立つカイン・ヴァイスが、黒い扉の表示を睨んだ。
カイン・ヴァイス――七年前、レンとアカリの両方を救う第三の未来をニルへ提案し、その中心座標となったため、どちらの世界からも存在を失った青年。
「原初座標が開いた」
カナメが振り向く。
「知っているのか」
「記憶を戻された時に見た。インフィニティ・ギアの設計図の最深部に、そう書かれていた」
インフィニティ・ギア――分岐する未来を観測するため旧研究区画へ建造され、七年前の暴走によって世界を二つに分裂させた巨大装置。
カインは黒い扉を指差す。
「原初座標は、世界が分かれる前の状態を記録した場所だ。アウレルはそこを『誰も何も選ぶ必要のなかった世界』と呼んでいた」
ユナが扉の波形を解析する。
「過去へ戻る装置ですか」
「違う。過去を現在へ上書きする装置だ」
作戦室の空気が凍った。
「七年前より後に生まれた人間も、復興した街も、積み重ねた記憶も残らない」
カインの声に感情はなかった。
感情を込めれば、自分が選んだ七年間まで消される恐怖を認めることになる。
「アウレルは二つの世界を合体させるつもりじゃない。分裂前の記録で、両方を塗り潰すつもりだ」
作戦室中央の通信窓へ、レンとアカリが現れた。
青い操縦席と赤い操縦席。
別々の世界にいる二人が、同じ黒い扉を見る。
「侵入経路は」
レンが尋ねる。
カインは損傷した黒銀機の構造図を開いた。
ZC-01ヴァイス――カインが操縦する黒銀の完全人型機。第二ゼロ・アンカーから解放された代償として、選ばれなかった未来を渡る位相移動能力の大半を失っている。
「ヴァイスなら一度だけ亀裂を開ける」
『帰りは?』
アカリの問いに、カインは答えなかった。
真壁ゲンゴが代わりに口を開く。
真壁ゲンゴ――アズールとフレアの構造を熟知し、現在は損傷したヴァイスの応急修理も担当するARK-∞の整備主任。
「今のヴァイスには、往復するだけの位相出力がない。向こうで第三アンカーを停止し、ノア・ギアから帰還路を開くしかねえ」
「停止できなければ」
レンが確認する。
「三機とも戻れん」
『なら、停止させればいい』
アカリは即答した。
カインが赤い通信窓を見る。
「お前は考える前に答える癖を直せ」
『あなたは答える前に諦める癖を直したら?』
「何だと」
「二人とも、後にしろ」
レンが遮る。
カナメは三人を順番に見た。
「作戦目標は三つ。ニルの救出。第三アンカーの停止。アウレル・ゼロの確保」
終端機関ゼロ――「未来は一つでいい」という思想を掲げ、蒼界と紅界を色のない未来へ上書きしようとする敵組織。
アウレル・ゼロ――終端機関ゼロを率い、カインの記憶を封じ、ニルと二つの世界を利用して原初座標を開いた白髪の研究者。
カインの目が鋭くなる。
「確保する必要があるのか」
「君が殺したいなら、その理由まで否定はしない」
カナメは言った。
「だが、殺すかどうかを決めるのは、会う前ではない」
カインは返事をしなかった。
それを了解と判断し、カナメは作戦卓へ手を置く。
「作戦名、トライ・コード。青、赤、零の三座標で原初世界へ侵入する」
トライ・コード――アズール、フレア、ヴァイスの三機を独立させたまま、互いの位置情報だけを共有する臨時侵入作戦。
「発進まで二時間」
残り時間は、十一時間二十六分。
◇
ノア・ギアの隔離格納庫で、ヴァイスの黒銀装甲が一枚ずつ外されていた。
青い整備員と赤い整備員が、同じ機体の左右へ立っている。
七年前なら、同じ場所に存在することすらできなかった光景だった。
ゲンゴが胸部の空洞へ潜り込み、焼けた回路を引き抜く。
「第二アンカーを外したせいで、動力の四割が丸ごと消えてる。よくこれで格納庫まで歩いたな」
「止まれば死ぬと思った」
「正解だ。だが今日は止まっても死ぬし、走りすぎても死ぬ」
「役に立たない説明だな」
「整備士は機体を直す。操縦者の性格までは直せん」
ゲンゴは黒い回路の代わりに、青と赤の細い導線を差し込んだ。
カインが眉を寄せる。
「それは何だ」
「アズールとフレアの予備伝導材だ。ヴァイスの出力を青と赤のどちらへも逃がせるようにする」
「俺の機体へ、あいつらの部品を入れるのか」
「嫌なら素手で行け」
カインは黙った。
少し離れた場所で、レンがアズールの青い掌部コアを確認している。
アカリはフレアの赤い拳へ新しい冷却板を取り付けていた。
三機はまだ並んでいない。
それぞれ別の格納台に立っている。
それでも、床を走る青、赤、紫の整備線は中央で一度だけ交差していた。
「カイン」
レンが呼ぶ。
「何だ」
「七年前、どうしてニルに名前をつけた」
カインの手が止まる。
「今、聞くことか」
「向こうへ行けば、アウレルは俺たちの記憶を使う。知っておきたい」
カインはヴァイスの足元へ視線を落とした。
「あいつが、自分には何もないと言ったからだ」
「それだけ?」
アカリが会話へ入る。
「それだけで十分だ。番号で呼ばれていると、自分まで装置の部品に見える」
カインは左腕に残る薄い傷跡をなぞった。
境界適合試験体K-0。
かつて研究施設が彼へ与えた識別番号。
「名前は、自分が部品ではないと証明する最初のものだった」
アカリは赤いペンダントを見た。
「ニルは覚えてる。遅くなったけど」
「一度忘れた事実は消えない」
「消さなくていい」
アカリは静かに答えた。
「忘れたことも、思い出したことも、両方あって今のニルでしょ」
カインは反論しなかった。
格納庫の照明が一瞬だけ消える。
三人のペンダントとヴァイスの胸部だけが、暗闇に浮かんだ。
白い少女の像が、その中央へ現れる。
人型端末ニル――青い右目と赤い左目を持ち、七年前にカインの提案を受けて世界を二つへ分けた白髪の少女。
像は激しい雑音に削られていた。
『来ないで』
カインが前へ出る。
「ニル」
『扉は、場所ではありません』
少女の背後に、分裂前の都市が映る。
青くも赤くもない空。
壊れていない研究区画。
笑いながら歩く人々。
『入った人が、戻りたいと願う過去です』
「アウレルが見せているのか」
『原型炉が、心から読み取ります』
ニルの右目から青い涙が落ちる。
左目から赤い涙が続く。
『正しい記憶を探さないで』
「どういう意味だ」
『そこでは、正しいものほど偽物です』
像が大きく乱れた。
白い腕が背後から伸び、ニルの肩を掴む。
アウレルの声が重なる。
『帰って来い、三人とも』
通信が切れた。
格納庫の照明が戻る。
レンは青い操縦席へ向かった。
アカリも赤い昇降環へ足をかける。
カインだけが、ニルの像が消えた場所を見ていた。
「来るなと言われた」
レンが振り返る。
「行かないのか」
「あいつの命令に従ったことはない」
カインはヴァイスへ乗り込む。
三機の両眼が、青、赤、紫に灯った。
◇
残り九時間十八分。
ノア・ギアが二世界の中心座標へ到達した。
艦の前方に、黒い扉が浮かんでいる。
扉の片側には蒼界の都市。
反対側には紅界の荒野。
中央には、どちらにも属さない色のない亀裂が走っていた。
三つの発進路が開く。
『蒼界機アズール、発進』
青い完全機体が左舷から飛び出す。
『紅界機フレア、発進』
赤い完全機体が右舷から加速する。
『ZC-01ヴァイス、発進』
黒銀の完全機体が中央から二機の間へ出た。
アズールとフレアは合体しない。
フェイズ・ドッキング――二機の位相機能を重ね、青と赤の合体機、双界機神インフィナイトを誕生させる機構は、第三アンカーへ黄金出力を与える危険があるため封印されている。
三機は別々の身体のまま、同じ扉へ向かう。
ヴァイスが両腕の位相刃を交差させた。
紫色の刃が黒い扉へ食い込む。
「座標を送れ」
「蒼界側、固定完了」
『紅界側も固定した!』
アズールの青い円環が扉の左半分を止める。
フレアが右半分を両腕で押し開く。
ヴァイスは中央の亀裂へ刃を差し込み、自らの黒銀装甲ごと左右へ引き裂こうとする。
機体の胸部から紫色の火花が噴き出した。
『位相出力、限界を超えています!』
ユナの警告。
「まだ開いていない」
カインは操縦環をさらに押し込む。
黒い扉の隙間から、昼の光が漏れた。
青でも赤でもない、ただの太陽の光。
三人が七年間、一度も見ていない色だった。
「今だ。先に行け!」
「三機同時でなければ座標が崩れる」
『だから、一緒に行く!』
アズールがヴァイスの左肩を掴む。
フレアが右肩を押す。
三機は一列のまま扉の隙間へ突入した。
ノア・ギアから黄金の帰還索が伸びる。
ノア・ライン――原初座標へ侵入した三機の現在位置を記録し、帰還路を再形成するための位相索。
黄金線がヴァイスの背部へ接続される。
カナメの声が最後に届いた。
『帰る場所を見失うな』
扉が閉じる。
黒い空間の中で、黄金線だけが長く伸びた。
次の瞬間。
三機は、七年前の空へ落ちた。
◇
青くない空が広がっていた。
赤くない街が続いていた。
壊れる前の研究区画。
二つに裂ける前の鉄道。
蒼界では建て替えられ、紅界では瓦礫になった駅舎が、白い壁と透明な屋根を保っている。
時計は七年前の午後四時十七分で止まっていた。
街には人がいる。
子供が走っている。
列車が駅へ入ってくる。
店員が客へ笑いかける。
けれど、音がない。
誰の足音も、列車の走行音も聞こえない。
人々は同じ動作を繰り返していた。
子供は落とした帽子を拾い、また落とす。
列車の扉は開き、閉じ、もう一度開く。
店員は同じ角度で頭を下げ続ける。
「生きていない」
レンが呟く。
『記録を動かしているだけね』
アカリの声が、どこか遠くから聞こえた。
三機の位置表示が乱れる。
並んで降下したはずのアズールとフレアとヴァイスが、別々の街区へ離されていた。
「アカリ。カイン。応答しろ」
通信には雑音しか返らない。
アズールの前を、一人の少女が歩いていく。
赤褐色の髪。
七年前の制服。
幼いアカリではない。
今の年齢まで成長したアカリだった。
彼女はアズールを見上げ、懐かしい笑顔を向けた。
『レン、遅いよ』
操縦席の通信器ではなく、街の空気から声が聞こえる。
「アカリ?」
『今日は研究区画へ行かないって約束したでしょ』
レンの視界へ、存在しない記憶が流れ込む。
七年前、二人は研究区画へ行かなかった。
インフィニティ・ギアは暴走しなかった。
世界は分かれなかった。
同じ学校へ通い、同じ街で成長した。
喧嘩をし、仲直りをし、何度も隣を歩いた。
失ったはずの七年が、最初から存在したように胸へ入ってくる。
アカリが手を伸ばす。
『降りてきて』
『もう戦わなくていい』
操縦席が開こうとする。
レンは手動で閉鎖した。
「質問がある」
『何?』
「俺が約束を破って研究区画へ行くと言ったら、どうする」
偽のアカリは微笑んだまま答える。
『行かないでってお願いする』
「それでも行くと言ったら」
『行かないでってお願いする』
「俺を殴ってでも止めるんじゃないのか」
笑顔が止まった。
『行かないでってお願いする』
同じ言葉。
同じ声。
同じ表情。
レンは目を閉じる。
本物のアカリなら、お願いだけで終わらない。
怒る。
無茶をする。
こちらの予測を外し、自分で次の答えを作る。
「お前は、俺の望んだ返事しかできない」
アズールの両眼が青く輝く。
「正しいから、偽物なんだ」
青い円環が街へ広がる。
偽のアカリと駅舎が、薄い板のように割れた。
◇
フレアの前には、紅界の共同居住区があった。
ただし防壁は壊れていない。
空は澄み、赤い砂嵐もない。
蒼界の技術者と紅界の住民が、同じ広場で笑っている。
七年間に失われた人々もいた。
避難誘導中に命を落とした者。
食料を分け、自分の分を残さなかった者。
崩落した防壁の下から戻らなかった者。
全員が生きている。
『アカリ』
懐かしい声が呼ぶ。
フレアの操縦席で、アカリの指が震えた。
降りれば、抱きしめられる。
謝れる。
もう一度、名前を呼んでもらえる。
広場の人々が一斉に手を伸ばした。
『あなたは十分頑張った』
『もう選ばなくていい』
『ここでは、誰も失わない』
アカリは赤い操縦環から手を離した。
フレアの胸部が開き始める。
その時、一人の少年が広場で転んだ。
周囲の誰も動かない。
笑顔のまま、手を伸ばし続けている。
少年は自分で立ち上がり、同じ場所へ戻った。
もう一度、同じ角度で転ぶ。
「どうして助けないの」
誰も答えない。
『ここでは、誰も失わない』
「目の前で転んでる!」
『ここでは、誰も失わない』
アカリは操縦環を握り直した。
「私が会いたい人たちは、誰かが転んだら絶対に手を伸ばす」
フレアの胸部コアへ赤い炎が戻る。
「私に休めって言っても、自分たちは走る」
人々の笑顔に亀裂が入った。
「あなたたちは、優しい言葉を並べているだけ」
フレアが地面へ拳を叩き込む。
「誰も選ばない優しさなんて、誰も救わない!」
赤い衝撃が広場を突き上げる。
理想の共同居住区が、赤い光の破片となって崩れた。
◇
ヴァイスは白い研究室に立っていた。
損傷していた黒銀装甲は、完全に修復されている。
左肩の傷もない。
操縦席の外には、幼いニルが座っていた。
その隣で、若いアウレルが端末を読んでいる。
白衣ではなく、普通の黒い上着を着ていた。
『カイン』
ニルが呼ぶ。
『次の検査は中止になりました』
「なぜだ」
『アウレルが、私たちを研究対象から外してくれたからです』
若いアウレルが顔を上げる。
『すまなかった。お前たちは部品ではない』
カインが七年間、一度も聞けなかった言葉だった。
『ここに残れ』
『ニルも、お前も、もう番号で呼ばせない』
操縦席の扉が開く。
幼いニルが待っている。
カインは一歩だけ外へ出た。
黒い靴が白い床へ触れる。
ニルが手を差し出す。
『帰ってきて、カイン』
その手を取る直前、カインは尋ねた。
「お前の名前は、誰がつけた」
『アウレルです』
カインの手が止まる。
幼いニルは同じ笑顔で繰り返す。
『アウレルが、私をニルと名づけました』
若いアウレルも頷く。
『私がお前たちを救った』
「違う」
『私がお前たちを救った』
「お前は一人を選べと言った」
『私がお前たちを救った』
カインは差し出された小さな手を見た。
握りたかった。
この世界が嘘でも、温かさだけは本物かもしれないと思った。
だが、本物のニルは命令しない。
行かないでと言いながら、それでも最後にはカインへ選ばせた。
「ニルは俺を忘れた」
白い研究室が震える。
「間違えた。傷つけた。遅すぎる謝罪をした」
幼いニルの笑顔が崩れる。
「だから、本物だ」
カインは操縦席へ戻った。
「俺が帰る場所は、間違いのない過去じゃない」
ヴァイスが位相刃を抜く。
「答えを聞いていない現在だ」
紫色の刃が白い研究室を切り裂いた。
偽のニルも、優しいアウレルも、音のない光へ変わる。
三つの疑似世界が同時に砕けた。
◇
アズール、フレア、ヴァイスは、巨大な円形空間へ戻された。
三機の距離は離れている。
それでも通信は繋がっていた。
「無事か」
『少し腹が立ってる』
「誰にだ」
『自分に』
カインの声が続く。
『怒れるなら問題ない。何も感じなくなるよりはましだ』
アカリが数秒黙る。
『あなた、時々まともなこと言うのね』
『時々は余計だ』
レンは円形空間の中心を見る。
分裂前のインフィニティ・ギアが、完全な姿で立っていた。
黄金の円環。
青、赤、紫の三本の光。
その中心に、ニルの透明な収容室が浮かんでいる。
収容室の下には白い長衣の男が立っていた。
アウレルの胸から黒い管が伸び、巨大円環へ繋がっている。
「よく戻った」
声は通信器を通さず、三つの操縦席へ直接響いた。
「お前たちは、自分に都合のいい世界を拒絶した」
『当然でしょ』
「当然ではない。人は苦痛を真実と呼び、幸福を偽物と疑う。だが、苦痛を選ぶことに価値があるわけでもない」
レンが問う。
「ここにいる人々は記録か」
「最初は記録だ。上書きが完了すれば現実になる」
「では、今の二世界にいる人々は」
「分裂後に生じた誤差として消える」
アカリの目から迷いが消えた。
『それを救いとは呼ばない』
「彼らは消えたことにも気づかない」
『気づかなければ、奪っていいの?』
「奪うのではない。最初から起きなかったことにする」
カインが低く笑った。
『自分の失敗までか』
アウレルの顔が初めて動く。
『七年前、一人を選べと命じたことを消したいんだろ』
円形空間へ、七年前の警報音が響く。
幼いレンとアカリ。
泣いているニル。
中央環へ腕を差し入れるカイン。
制御卓の前で「一人を選べ」と叫ぶアウレル。
その場面が空間全体へ投影された。
アウレルは映像を見上げる。
「私は最も損失の少ない未来を選ぼうとした」
『そして、選ばなかった子供に全部を背負わせた』
「だから訂正する」
『俺たちごと消して?』
「お前は境界へ落ちなかったことになる。ニルは記憶を裂かれない。レンとアカリも七年を失わない」
カインの拳が震える。
それは、一度だけ欲しいと思った未来だった。
アウレルは三人へ手を差し出す。
「戻れ。今なら、まだ間に合う」
レンは青い操縦環を握る。
「間に合わなかった時間も、俺たちの時間だ」
アカリが赤い拳を構える。
『失った人を理由に、今生きている人を消させない』
カインは紫色の位相刃を展開する。
『俺を救いたいなら、俺が選んだ七年を消すな』
アウレルが目を閉じた。
「ならば、お前たちの選択を停止する」
巨大な黄金円環が折り畳まれる。
白い装甲がアウレルとニルの周囲へ集まった。
頭部。
胸部。
両腕。
両脚。
三重の黄金輪を背負う、白金色の完全人型機が立ち上がる。
F-00オリジン。
F-00オリジン――インフィニティ・ギアの原型炉が形成する原初機。相手の行動を、その選択が行われる直前まで巻き戻す機能を持つ白金色の巨人。
胸部の透明な核には、ニルの姿が閉じ込められている。
さらに奥で、アウレルの黒い装置が鼓動していた。
『原初結果を執行』
アウレルの声と、機械音声が重なる。
『すべての選択を、発生前へ戻す』
◇
最初に動いたのはアズールだった。
青い円環を三枚放つ。
「アイオン・ロック。胸部核を固定!」
円環がオリジンへ届く。
触れる直前、青い光が逆向きに流れた。
アズールの腕が構える前の位置へ戻る。
放ったはずの円環は、掌部コアの中へ消えていた。
「行動が巻き戻された」
『なら、考える前に殴る!』
フレアが地面を蹴る。
赤い流星となり、オリジンの顔面へ拳を突き出す。
衝突まで十センチ。
赤い光が逆流した。
フレアは出発地点へ立っていた。
拳を引く前の姿勢。
推進器の熱まで消えている。
『何、これ……』
ヴァイスが二本の位相刃を交差させる。
紫色の亀裂を通り、オリジンの背後へ現れた。
刃を振り下ろす。
世界が一度瞬く。
ヴァイスは亀裂を開く前の場所へ戻されていた。
ただし、機体の左肩には新しい亀裂が走っている。
「行動だけが戻り、負荷は残るのか」
レンがオリジンの三重輪を解析する。
一度目の輪が青く光る。
二度目が赤く光る。
三度目が紫に光る。
三機の選択を記録し、それぞれの開始点へ戻している。
「同じ攻撃は届かない」
『違う攻撃でも、選んだ瞬間を読まれたら同じよ』
オリジンが右腕を上げる。
白い掌の前へ、止まった時計が現れた。
針は午後四時十七分。
七年前、世界が分裂した時刻。
『選択を継続するほど、現在は原初時刻へ接近する』
時計の針が一秒だけ逆回転した。
ユナの声が雑音の中から届く。
『残り時間が急減しています! 一度の原初回帰につき、外部では約二十七分が失われています!』
表示が切り替わる。
残り七時間五十二分。
「あと十七回戻されたら終わる」
『十七回も殴れば一回くらい当たるかも』
「当たる前に世界が消える」
『分かってる!』
アカリは呼吸を整えた。
カインがオリジンの背後を見る。
黄金のノア・ラインが、空間の端から伸びている。
帰還索はまだ切れていない。
だがオリジンの左腕が、ゆっくりと黄金線へ向いた。
『帰還という選択を、発生前へ戻す』
白い光が放たれる。
ヴァイスが射線へ飛び込んだ。
「戻されるぞ!」
『戻される前に、切らせる』
位相刃がノア・ラインを自ら切断した。
黄金線はオリジンの光に触れず、原初界の床へ落ちる。
三機の帰還座標が消えた。
『何してるの!』
『消されれば、ノア・ギア側の記録までなくなる。切断なら、向こうに接続記録が残る』
「帰還路を再接続できる可能性を残したのか」
『お前たちの真似だ。三つ目の答えを作った』
アカリが一瞬だけ笑う。
『覚えるの早いじゃない』
オリジンの三重輪が回転する。
無数の白い刃が、三機を囲んだ。
『では、戻る前に破壊する』
刃が降る。
アズールは円環を張る。
防御を選んだ瞬間、姿勢を戻される。
青い肩へ刃が突き刺さる。
フレアがアズールを庇おうとする。
踏み出した位置へ戻され、赤い脚を切り裂かれる。
ヴァイスが位相をずらす。
移動前へ戻され、黒銀の翼を貫かれる。
三機が膝をついた。
どれだけ強く選んでも、選んだことそのものが敗北へ変えられる。
アウレルの声が降る。
『選択が苦痛を生む。お前たちは今、それを証明している』
カインは血の混じった息を吐く。
「違う」
『何が違う』
「同じ結果でも、誰が選んだかで意味は変わる」
ニルがアウレルへ告げた言葉。
カインはそれを繰り返した。
「お前の装置は結果を戻せても、意味までは戻せない」
レンが顔を上げる。
オリジンは三機の行動を一つずつ読み、直前へ戻している。
青。
赤。
紫。
三つの輪は同時に光っていない。
必ず、ごく短い順番がある。
「ユナ、聞こえるか」
雑音。
その奥から、かすかな返答が届く。
『聞こえ……ます』
「三重輪の回帰間隔を送る」
『受信。青から赤まで〇・〇二秒。赤から紫まで〇・〇二秒。全周〇・〇六秒です』
「同時ではない」
アカリが意図を理解する。
『三人が同じ瞬間に、別々のことを選べば』
「一つの開始点へ戻せない」
カインがヴァイスの胸部を見る。
ゲンゴが組み込んだ青と赤の導線が、紫色の核を挟んで光っている。
『だが、三機の出力を繋げば、第三アンカーが待っている三座標をもう一度揃えることになる』
「アウレルが選ばせるのと、俺たちが選ぶのは同じじゃない」
レンが答える。
『失敗すれば、上書きが完成する』
『成功すれば、ニルまで道が開く』
アカリは赤い操縦環を前へ押す。
『迷う理由はある。でも、止まる理由はない』
カインは目を閉じた。
七年前、自分は二人を救うため中心座標になった。
今度は誰かの外側へ落ちるためではない。
三人が別々のまま、同じ未来へ進むために中央へ立つ。
「ヴァイスから青と赤へ、接続路を開く」
アズールとフレアの胸部で、半円形の動力核が回転した。
ツイン・ギア・コア――もともと一つだった位相機能を青側と赤側へ分けて保持する、アズールとフレアの半円形動力核。
二つのコアから黄金線が伸びる。
その中央へ、ヴァイスの紫色の核が接続された。
黄金の歯車は一つにならない。
青、赤、紫の三つの輪として、三機の間へ並んだ。
トライ・ギア・リンク。
トライ・ギア・リンク――アズール、フレア、ヴァイスの操縦権を共有せず、三機の出力と選択時刻だけを接続する三相連携方式。
『接続率、三十三パーセント』
ユナの声。
『六十六パーセント』
オリジンが白い刃を構える。
『青、赤、零の原初座標を確認』
アウレルの声が初めて揺れた。
『その接続は、扉を完成させる』
「完成させない」
レンはアズールの左掌を開く。
「俺は、今という瞬間を固定する」
アカリがフレアの右拳を引く。
『私は、次の瞬間へ進む』
カインがヴァイスの位相刃を逆手に構える。
『俺は、戻る道だけを切る』
『接続率、百パーセント!』
三機が同時に動いた。
アズールの青い円環が、オリジンではなく空間全体へ広がる。
「アイオン・ロック!」
午後四時十七分を示す時計が、現在の位置へ固定される。
オリジンの青い輪が光る。
アズールを行動前へ戻そうとする。
だが、開始点そのものが青い円環に固定されて動かない。
フレアが赤い通路を駆ける。
「フレア・ドライブ!」
赤い輪が回帰を始める。
フレアの身体が一瞬だけ後ろへ引かれた。
アカリはさらに出力を上げる。
『戻るなら、その分まで前へ進む!』
赤い巨人は同じ距離を二度踏み込み、回帰を押し切った。
ヴァイスが二機の間に生まれた〇・〇二秒の隙間へ入る。
紫色の輪が光る前に、位相刃が白い軌跡を切断した。
『ゼロ・リターンの帰還経路、切断!』
三重輪の回転が止まる。
フレアの拳がオリジンの胸部へ届いた。
『フレア・バースト!』
赤い衝撃が透明な核を包む白金装甲だけを砕く。
同時にアズールの円環が衝撃を外側へ固定し、ニルの収容室へ伝わる力を止める。
ヴァイスの位相刃が、アウレルと原型炉を繋ぐ黒い管を露出させる。
三つの力が一つの破口へ集まった。
「トライ・ギア――」
『リベレーション!』
トライ・ギア・リベレーション――青の現在固定、赤の前進力、紫の回帰切断を同時に行い、対象を破壊せず支配機能だけを解放する三機連携攻撃。
黄金ではなく、青、赤、紫の三色の光が爆発した。
F-00オリジンの三重輪が砕ける。
白金色の装甲が花弁のように開き、内部の収容室と黒い原型炉が露出した。
ニルが目を開く。
『三人とも……』
オリジンの巨体が膝をついた。
だが、第三アンカーは止まらない。
残り時間が一気に減る。
一時間十二分。
一時間十一分五十九秒。
原初界の空へ、蒼界と紅界の崩壊する景色が映り始めた。
◇
三機はオリジンの胸部へ手を伸ばした。
青、赤、紫の転送光が走り、レン、アカリ、カインが原型炉の制御室へ降り立つ。
同じ白い床。
今度は三人とも同じ位相にいる。
中央の透明な壁の中に、ニルが浮いていた。
その手前で、アウレルが片膝をついている。
胸の黒い装置から伸びる管は切れかけていた。
それでも、彼は自分の手で管を押さえている。
「離せ」
カインが近づく。
「離せば、上書きは止まる」
アウレルは首を振った。
「今、接続を切れば第三アンカーが崩壊する」
ユナの通信が、三人のペンダントへ届く。
『事実です。原型炉は二世界を引き寄せる力と同時に、衝突速度を制御しています。急停止すれば、蒼界と紅界が慣性のまま激突します』
アカリが透明な壁へ手を置く。
「ニルを出す方法は」
『私が原型炉の演算を引き受ければ、収容室は開きます』
「その後、あなたは?」
ニルは答えない。
カインが壁を叩く。
「また一人で残るつもりか!」
『他に方法がありません』
「その言葉は七年前に聞いた!」
レンは原型炉の構造をペンダントへ読み込ませた。
三つの座標。
青、赤、零。
その中央にアウレルとニルがいる。
誰か一人を中心へ残せば、二つの世界は安定する。
アウレルが接続を維持する。
ニルが交代する。
あるいは、カインがもう一度中心座標へ戻る。
装置が示す答えは、また同じだった。
「俺が残る」
カインが言った。
アカリが即座に振り向く。
「駄目」
「俺はもともと零座標だ。一番適合する」
「だから駄目」
「感情で否定するな」
「七年前と同じ人を、同じ場所へ戻すことを正解にしたくない!」
レンは二人の間へ立つ。
「一人を中心にするという条件自体を外す」
「できるのか」
「三機の出力を、ノア・ギアへ戻す」
切断されたノア・ラインの記録が、青いペンダントに残っている。
帰還路そのものは消えた。
だが、ノア・ギア側には接続を試みた履歴がある。
「アズールで蒼界を固定する。フレアで紅界を押し戻す。ヴァイスで二世界の中央を開ける」
アカリが続ける。
「ノア・ギアを、第四の支点にする」
カインが原型炉を見る。
「三機とも原初界から動けない。どうやって外へ出力を送る」
ニルが両手を透明な壁へ当てた。
『私が、切れたノア・ラインを一度だけ繋ぎます』
「負荷は」
『記憶領域の一部を失う可能性があります』
カインの表情が険しくなる。
『でも、忘れても思い出せると教えてもらいました』
ニルはカインを見る。
『今度は、一人で決めません』
『三人にお願いします』
アカリは小さく頷いた。
レンも青いペンダントを掲げる。
カインは数秒だけ目を閉じた後、紫色の識別環を外した。
三つの位相鍵が透明な壁へ重なる。
ニルの収容室に、青、赤、紫の亀裂が走った。
壁が静かに開く。
ニルの身体が前へ倒れる。
カインが受け止めた。
七年前に届かなかった手が、今度は離れなかった。
「軽いな」
『端末ですから』
「そういう意味じゃない」
ニルはカインの胸元を掴む。
『覚えています』
「何を」
『あなたが、私に名前をくれたこと』
カインは返事をしなかった。
ただ、腕の力を少し強めた。
背後でアウレルが立ち上がる。
「その方法でも、私が接続を切らなければ原型炉は移行しない」
カインがニルをアカリへ預け、アウレルと向き合う。
「なら切れ」
「切れば、私はもう訂正できない」
「何を」
「七年前を」
アウレルの声から、初めて研究者の冷静さが消えた。
「私は最適解を選べなかった。子供へ選択を押しつけた。二つの世界に七年の苦痛を生んだ」
「だから全部なかったことにするのか」
「他に償う方法がない」
カインはアウレルの胸を殴った。
白い男が床へ倒れる。
レンもアカリも止めなかった。
カインは二度目の拳を振り上げる。
だが、下ろさない。
「それは償いじゃない」
アウレルが血の滲む口元を上げる。
「では、何だ」
「逃げだ」
「お前に何が分かる」
「分かる」
カインの拳が震える。
「俺も世界を憎んで、全部消えればいいと思っていた」
「ならば――」
「だが、消した後には答えが残らない」
カインはニルを見る。
「俺は、こいつがなぜ忘れたのか聞きたい。なぜ思い出したのかも聞きたい。お前が俺を利用した理由も、許せないまま聞き続けたい」
拳を下ろす。
「生きているから、答えを変えられる」
「私に、失敗した後を生きろというのか」
「そうだ」
アウレルは黒い装置を見下ろした。
七年前の自分なら、最も損失の少ない答えを選んだ。
今の装置も、同じ計算を続けている。
誰か一人を犠牲にすれば、結果は安定する。
だが、その答えを拒んだ三人が目の前にいる。
アウレルは胸へ指を入れた。
黒い装置の留め具を掴む。
「私は、この先を観測していない」
レンが答える。
「未来は、観測してから進むものじゃない」
アカリが続ける。
「進んだ後で、選んだ意味を作るの」
アウレルは黒い装置を引き抜いた。
胸から黒い光が噴き出す。
原型炉が激しく揺れる。
第三アンカーとの接続が切れた。
残り時間、五分。
「行け」
アウレルが膝をつく。
「お前たちの、観測されていない未来へ」
◇
三人は転送光へ飛び込んだ。
レンがアズールへ戻る。
アカリとニルがフレアの操縦席へ入る。
カインがヴァイスを起動する。
アウレルだけが制御室に残っている。
『アウレルを置いていくの?』
ニルが尋ねる。
カインはヴァイスの副転送環を開いた。
紫色の光が制御室のアウレルを包む。
「生きろと言った直後に置いていけるか」
意識を失ったアウレルが、ヴァイスの後部収容区画へ転送される。
三機は崩壊するF-00オリジンから離れた。
原初界の空が青と赤に裂ける。
蒼界と紅界の建造物が、巨大な波のように互いへ迫っていた。
『残り三分四十秒!』
ユナの声が、切れた通信の奥から届く。
「ニル。ノア・ラインを」
『接続を開始します』
フレアの操縦席で、ニルが青と赤の両目を開く。
二つのペンダントから白い光が伸びる。
原初界の床に落ちていた黄金線が浮かび上がった。
切断面から細い光が伸び、見えないノア・ギアを探す。
一度目。
接続失敗。
ニルの白い髪から光の粒が落ちる。
二度目。
蒼界側の応答を検出。
三度目。
紅界側の応答が重なる。
カナメの声が戻った。
『こちらノア・ギア。三機の帰還記録を確認した』
アカリが笑う。
『遅い!』
『帰る場所を切ったのはそちらだ』
カインが通信へ入る。
『説明は後だ。艦を中心座標へ固定しろ』
カナメは一秒も迷わない。
『ノア・ギア、全境界杭を展開。三機の出力を受ける』
母艦の全長に沿って、黄金の環が開く。
アズールが原初界の左側へ飛ぶ。
その向こうには蒼界がある。
「アイオン・ロック。世界座標固定!」
青い円環が、都市ではなく蒼界の地平線そのものへ重なる。
アズールの両腕から装甲が剥がれ始めた。
レンは操縦環を離さない。
フレアが右側へ加速する。
その向こうには紅界がある。
『フレア・ドライブ、全出力!』
赤い両掌が、迫る紅界の界面へ触れる。
フレアの両脚が原初界の床へ沈む。
アカリは叫びながら世界を押し返す。
『未来は、前にしか進まない!』
ヴァイスが二世界の中央へ立つ。
位相移動能力を失った黒銀機が、最後の一度だけ紫色の亀裂を開く。
逃げるための亀裂ではない。
蒼界と紅界の間に、何も衝突しない空間を作るための亀裂。
「零座標、開放」
ヴァイスの黒い翼が左右へ裂ける。
カインの全身に、七年前と同じ痛みが走った。
『カイン!』
ニルの声が届く。
「今度は、落ちない」
『うん』
「名前を呼べ」
『カイン!』
青い通信からレンの声が重なる。
「カイン!」
赤い通信からアカリの声が続く。
『カイン!』
三つの声が、黒銀機を現在へ繋ぎ止める。
ノア・ギアが黄金の環を回転させた。
誰か一人を杭にしない。
機体も操縦者も、役割を分けたまま互いを支える。
『残り三十秒!』
青い円環に亀裂が走る。
赤い装甲が焼け落ちる。
紫色の翼が崩れる。
黄金の母艦が大きく傾く。
それでも、四つの支点は離れない。
十秒。
界面重合した建造物が透明になっていく。
九秒。
蒼界の空から赤い鉄骨が消える。
八秒。
紅界の荒野から青い高層建築が離れる。
七秒。
原初界の時計が午後四時十七分から動き始めた。
六秒。
止まっていた秒針が、未来へ一つ進む。
五秒。
第三アンカーの黒い歯車に亀裂が走る。
四秒。
ニルが両目を閉じる。
三秒。
アウレルの黒い装置が砕ける。
二秒。
カインは操縦環を握り直す。
一秒。
レンとアカリが同時に叫んだ。
「今だ!」
『離して!』
アズールが青い固定を解除する。
フレアが赤い界面を押し返して跳ぶ。
ヴァイスが中央の亀裂を閉じる。
ノア・ギアが三機を黄金線で引き寄せた。
第三ゼロ・アンカーが砕ける。
黒い歯車は爆発しなかった。
無数の小さな光となり、二つの空へ静かに降った。
蒼界と紅界は離れていく。
互いを消すためではなく、それぞれの場所で生き続けるために。
残り時間は、零で止まった。
◇
ノア・ギアの中央医療区画。
ニルは白い寝台へ座っていた。
透明な収容室の外で、自分の手を見るのは初めてだった。
青い右目と赤い左目に、白い天井が映っている。
「身体の状態は」
ユナが端末を確認する。
「人型端末としての機能は安定しています。記憶欠損も、今のところ確認できません」
「今のところ、とは何だ」
カインがすぐに反応する。
「検査が終わっていないという意味です」
「なら早く終わらせろ」
「あなたも患者です。座ってください」
カインの腕には、すでに三本の固定具が巻かれていた。
アカリが隣の寝台で笑う。
「怒られてる」
「お前も右脚を動かすなと言われただろう」
「私は動かしてない。少し曲げただけ」
「それを動かすと言う」
レンは青い包帯を巻かれた左腕で、二人の間に仕切りを引いた。
「静かにしろ。アウレルが目を覚ます」
医療区画の奥には、拘束環をつけたアウレルが眠っている。
胸の黒い装置はなくなっていた。
生体反応は弱いが、止まってはいない。
カナメが入口へ立つ。
「アウレル・ゼロは回復後、ARK-∞の監視下で事情聴取を行う。終端機関ゼロの指導者としての責任も消えない」
ニルが眠る男を見る。
『それでいいと思います』
カインは何も言わない。
許したわけではない。
答えもまだ聞いていない。
だからこそ、生きている必要がある。
カナメは三人へ視線を戻す。
「第三アンカーは消滅した。界面重合も停止。蒼界と紅界は分離状態へ戻った」
アカリが尋ねる。
「終わったの?」
「第三アンカーに関しては」
カナメの答えに、レンが顔を上げる。
「他に何かある」
ユナが新しい観測画面を開いた。
第三アンカーが砕ける直前、原型炉から外へ送られた信号。
送信先は蒼界ではない。
紅界でも、零界でもない。
これまで存在しなかった第四の方向だった。
「アウレルが送ったのか」
「いいえ。原型炉が自動送信しています」
ニルの表情が強張る。
『この信号を知っています』
カインが彼女を見る。
「いつ見た」
『七年前。インフィニティ・ギアが暴走する直前です』
観測画面の奥で、巨大な輪郭が浮かぶ。
人型に見える。
しかし、アズールやフレアよりはるかに大きい。
星を背に、四つの黒金の歯車を回している。
機械音声が、ノア・ギアの全区画へ響いた。
『青座標、確認』
『赤座標、確認』
『零座標、確認』
短い沈黙。
『三名による自由選択を観測』
『再接続条件、成立』
通信が切れる。
医療区画の窓の外で、蒼界と紅界の空に同じ黒金の点が現れた。
レンが立ち上がる。
アカリも痛む右脚を床へ下ろす。
カインはニルの前へ出た。
「あれは何だ」
ニルは、七年前にも答えられなかった名前を口にする。
『インフィニティ・ギアが、未来を観測するために見つけたもの』
『未来の向こうから、私たちを観測していたものです』
二つの世界を救った夜。
三人が自分の意志で同じ未来を選んだことを、誰かが遠い場所で見ていた。
そして今。
観測するだけだった巨大な影が、初めて二つの世界へ向かって動き始めた。
お読みいただきありがとうございます。
第6話では、第三ゼロ・アンカーによって蒼界と紅界が同じ座標へ押し込まれ、二つの世界が互いを異物として破壊し始めました。
レン、アカリ、カインは、アズール、フレア、ヴァイスを合体させず、三機を独立させたまま原初界へ突入します。
原初界が見せたのは、世界が分裂せず、誰も失われなかった理想の過去でした。しかし三人は、間違いも後悔も存在しない過去ではなく、自分たちが七年間を生きてきた現在を選びます。
F-00オリジンとの戦いでは、青、赤、紫の三相を接続する「トライ・ギア・リンク」が起動。三機連携攻撃「トライ・ギア・リベレーション」によって、ニルを傷つけずにオリジンの支配機能だけを破壊しました。
最後は誰か一人を新たな境界杭にするのではなく、アズール、フレア、ヴァイス、ノア・ギアの四点で二つの世界を支える「三相境界固定」を実行。
第三ゼロ・アンカーは消滅し、ニルとアウレルも原初界から救出されました。
しかし、原型炉が第四の方向へ送った信号に応え、四つの黒金の歯車を持つ巨大な観測者が動き始めます。
物語は第7話「第四の選択者」へ続きます。
【初めて読む方向け 人物・固有名詞ガイド】
-
七年前の世界分裂でレンが生き残った青い世界。精密技術と秩序を中心に復興している。
-
七年前の世界分裂でアカリが生き残った赤い世界。崩壊した環境を住民同士の支え合いによって維持している。
-
蒼界機アズールの操縦者。冷静な観測と位相固定を得意とし、与えられた選択肢の条件そのものを変えようとする。
-
紅界機フレアの操縦者。目の前の人を救うため、予測された結末を越えて即座に行動する。
- カイン・ヴァイス
黒銀機ヴァイスの操縦者。七年前、二人を救う第三の未来を提案したことで両世界の外側へ落ちた。第5話で第二アンカーから解放され、本話ではレン、アカリと共に原初界へ入る。
- 人型端末ニル
青い右目と赤い左目を持つ白髪の少女。カインから名前を与えられ、七年前に世界を二つへ分けた。本話で収容室から救出される。
- アウレル・ゼロ
終端機関ゼロの指導者。七年前に一人を選べと命じた自分の失敗を消すため、分裂後の二世界を原初界で上書きしようとした。
-
蒼界と紅界の双方を守る境界保全機構。どちらか一方だけを救う方針を拒んでいる。
-
ノア・ギア艦長。戦う者へ判断を委ねながら、帰還できる道を残す指揮官。
-
ARK-∞の戦術解析担当。界面重合、原初回帰、三機の回帰時間差を解析する。
-
ARK-∞の整備主任。損傷したヴァイスへアズールとフレアの予備伝導材を組み込み、三相接続を可能にする。
- 境界航行母艦ノア・ギア
蒼界と紅界へ半分ずつ存在するARK-∞の母艦。本話では三機の帰還座標と世界安定化の第四支点を担う。
- 蒼界機アズール
青と銀の完全人型機。両腕と両脚を持ち、青い円環による精密な位相固定を得意とする。
- 紅界機フレア
赤と金の完全人型機。両腕と両脚を持ち、瞬間加速と近接打撃によって新しい進路を作る。
- ZC-01ヴァイス
カインが操縦する黒銀の完全人型機。第二アンカーから解放された後は位相移動能力の大半を失ったが、零座標を開く力を残している。
- 双界機神インフィナイト
アズールとフレアがフェイズ・ドッキングすることで誕生する青と赤の合体機。本話では第三アンカーを刺激しないため合体していない。
-
蒼界と紅界の同じ座標が強制的に重なり、建造物や人間が互いを異物として破壊し始める現象。
- 第三ゼロ・アンカー
アウレルとインフィニティ・ギア原型炉によって構成された最後の境界杭。青、赤、零の三座標を利用して原初界を開いた。
-
消された可能性を集めて作られた、青にも赤にも属さない色のない疑似世界。
- 終端機関ゼロ
「未来は一つでいい」という思想の下、蒼界と紅界を色のない未来へ上書きしようとする敵組織。
- インフィニティ・ギア原型炉
分裂前の世界記録と未来観測機能を保持するインフィニティ・ギアの中核。本話では侵入者の願望から原初界とF-00オリジンを形成する。
-
分裂前の記録と侵入者の願望から構成される疑似世界。幸福に見えるが、住民は新しい選択を行えず、同じ動作を繰り返す。
- F-00オリジン
インフィニティ・ギア原型炉が形成する白金色の完全人型機。アウレルとニルを内部へ取り込み、選択を発生前へ戻す。
-
F-00オリジンが対象の行動を読み、その決断が行われる直前の位置と状態へ戻す機能。機体へ生じた負荷までは消えない。
- トライ・コード
アズール、フレア、ヴァイスの三機を独立させたまま、位置情報だけを共有して原初界へ侵入する作戦。
- ノア・ライン
原初界へ入った三機の現在位置を記録し、ノア・ギアから帰還路を再形成する黄金の位相索。
- トライ・ギア・リンク
三機の操縦権を共有せず、出力と選択時刻だけを青、赤、紫の三相で接続する方式。
- トライ・ギア・リベレーション
アズールの現在固定、フレアの前進力、ヴァイスの回帰切断を同時に行い、対象を破壊せず支配機能だけを解放する三機連携攻撃。
-
アズールが蒼界、フレアが紅界、ヴァイスが中央座標を支え、ノア・ギアへ負荷を分散する四点式の世界安定化方式。人間を境界杭として犠牲にしない。
【第7話への扉】
第三ゼロ・アンカーは砕け、蒼界と紅界はそれぞれの場所へ戻った。
しかし原型炉は消滅の直前、蒼界でも紅界でも零界でもない「第四の方向」へ信号を送っていた。
信号へ応えたのは、星を背に四つの黒金の歯車を回す巨大な観測者。
三人による自由選択を確認した存在は、観測するだけの立場を捨て、初めて二つの世界へ向かって動き始める。