【合体ロボ】死んだはずの幼なじみが、隣の世界から俺の名前を呼んだ 作:シラヌイ321
二つの世界が、同じ場所で悲鳴を上げた。
蒼界(そうかい)の中央都市。
青い高層建築の壁から、赤く錆びた鉄橋が突き出している。
その鉄橋は、紅界(こうかい)にしか存在しないはずのものだった。
赤い鉄橋が青い建物へ食い込む。
窓が一斉に砕け、避難途中の市民へ降り注いだ。
青銀の機体アズールが、建物と鉄橋の間へ滑り込む。
操縦席の蒼羽レン(あおば・れん)が、両手を広げた。
無数の青い円環が、空中の破片を一秒だけ止める。
『固定対象、二百七十一』
『安全上限を超過しています』
「避難完了まで何秒だ」
『最短で四・八秒』
「五秒持たせる」
『〇・二秒の余裕を確認』
「それを余裕とは呼ばない」
『操縦者の基準を適用した結果です』
「訂正してくれ」
『戦闘終了後に検討します』
アズールは青い建物を左腕で支え、右掌を鉄橋へ向けた。
だが力任せに押せば、紅界側で橋につながる避難路まで崩れる。
赤い通信窓が開いた。
『レン、そっちで橋の先端を止められる?』
緋月アカリ(ひづき・あかり)の声。
紅界側では、赤金の機体フレアが鉄橋の基部を両腕で掴んでいた。
二人の目には、別々の空が映っている。
それでも今、二機は同じ一本の橋へ触れていた。
「押し返すのか」
『外すの。基部だけ残して、重なった部分を引き抜く』
「右へ十二度ずらせ。下に避難路がある」
『十一度じゃ駄目?』
『十一度では、赤側支柱との接触確率が三十四パーセントです』
フレアの機体AIが答えた。
『十二度なら六パーセントまで低下します』
『最初から十二度って言おうと思ってた』
「今、十一度と言った」
『記録にも残っています』
『二人して細かい!』
避難していた子供が、緊急放送から流れた声に小さく笑う。
アカリは、その笑いを聞き逃さなかった。
『フレア。十二度で行く!』
『赤側駆動軸を修正』
レンは橋の先端へ、青い円環を重ねる。
「固定した。今だ」
フレアの全身へ、赤い光が走った。
赤金の機体が、鉄橋を真横へ引く。
固定された先端と、紅界側の基部。
その間だけが、きれいに外れた。
フレアは重なっていた部分を、誰もいない赤い荒野へ投げる。
蒼界の建物から圧力が消えた。
アズールが市民の頭上へ、砕けた窓をゆっくり下ろす。
『予定を〇・一秒超過しました』
「避難者は」
『全員無事です』
「なら、余裕だ」
今度は機体AIが、一拍黙った。
『操縦者の基準を再登録しました』
青い空と赤い空を、同じ黒い歯車が覆っている。
数字は、一秒も休まず減り続けていた。
境界航行母艦ノア・ギアの作戦室では、青と赤の立体地図が互いへ食い込んでいた。
「重合地点、百八十七」
戦術解析担当の白瀬ユナ(しらせ・ゆな)が報告する。
「蒼界と紅界の物質が、同じ座標へ押し込まれています。互いを異物として壊し合う現象です」
「名前は」
「界面重合(かいめんじゅうごう)と呼びます。完全起動を待たず、主要都市の崩壊が始まります」
艦長の御堂カナメ(みどう・かなめ)は、中央の黒い扉を見つめた。
「扉の向こうには何がある」
零位相格納区から、カイン・ヴァイスの映像が届く。
『原初座標だ』
「過去へ戻る場所か」
『違う。過去の記録を、現在へ上書きする場所だ』
カインは、記憶の中で見た設計図を作戦卓へ送る。
『アウレルは世界を元へ戻すつもりじゃない。七年前から後に生まれた人間も、復興した街も、積み重ねた記憶も、最初から存在しなかったことにする』
青側の通信窓で、レンが問う。
「侵入経路は」
『ヴァイスなら一度だけ開ける』
『杭を引き抜かれたとき、他の未来を渡る力もほとんど持っていかれた。残っているのは一度分だけだ』
赤側の窓で、アカリが続けた。
『帰りは?』
カインは答えない。
整備主任の真壁ゲンゴ(まかべ・げんご)が、代わりに口を開いた。
「向こうで杭を止め、ノア・ギアから帰還路を作り直す。それしかない」
「止められなければ」
「三機とも戻れん」
『なら止めればいい』
アカリが即答する。
『回答時間、〇・三秒』
フレアの機体AIが記録した。
『推奨される検討時間を満たしていません』
『考えたよ』
『いつですか』
『今』
カインが赤側の窓を見る。
『お前は考える前に答える癖を直せ』
『あなたは答える前に諦める癖を直したら?』
「二人とも、後にしろ」
レンが遮った。
『三者間会話の停止を確認』
『継続時間は推定四秒です』
「短いな」
『過去記録に基づく予測です』
三秒後、アカリが口を開いた。
『それで、作戦は?』
カインが小さく息を吐く。
『機械の予測が当たったな』
「認めたくはない」
カナメが作戦目標を表示する。
「ニルの救出。第三の杭の停止。アウレル・ゼロの確保」
カインの目が鋭くなった。
『確保する必要があるのか』
「君が殺したいと思う理由は否定しない」
カナメは静かに答えた。
「だが、殺すかどうかを会う前に固定すれば、アウレルと同じになる」
カインは返事をしなかった。
「作戦名、トライ・コード。青、赤、零の三機を独立させたまま、原初座標へ侵入する」
発進まで二時間。
残り時間は、十一時間二十六分。
ノア・ギアの三つの格納区画で、応急修理が進んでいた。
青側は蒼界。
赤側は紅界。
ヴァイスが収容された中央区画だけが、二つの世界の狭間にある。
三つを重ねる位相窓によって、機体同士が並んでいるように見えていた。
だがレンとアカリの間には、まだ触れられない世界一つ分の距離がある。
ゲンゴは三つの整備班へ、同時に指示を飛ばしていた。
『ヴァイスの主動力は六十一パーセント。胸部の空洞へ、青と赤の補助回路を複製する』
カインが眉を寄せる。
『俺の機体へ、あいつらの回路を入れるのか』
『嫌なら素手で扉を開けろ』
『それが可能なら、機体は不要だ』
『冗談へ正論を返すな。整備士が疲れる』
アカリが赤側から笑う。
『カインも機械と相性よさそう』
『どこを見て判断した』
『真面目に返すところ』
『補足』
フレアの機体AIが会話へ入る。
『当機と操縦者の相性は、真面目さでは測定されていません』
『どういう意味?』
『因果関係を確認できない、という意味です』
「遠回しに否定されたな」
レンが言う。
『そっちのAIも笑ってない?』
『感情機能の搭載記録はありません』
『ただし、会話記録の保存優先度を上げました』
『絶対に楽しんでる!』
カインは、位相窓越しの二人と二機を見た。
七年前、自分が未来へ残した青と赤。
想像していた英雄とは、ずいぶん違う。
だが少なくとも、装置の部品には見えなかった。
格納庫の照明が、一斉に落ちる。
三つの位相窓の中央へ、白髪の少女の像が現れた。
像は黒い雑音に削られ、青と赤の瞳だけが、かろうじて見える。
カインが一歩前へ出た。
『ニル』
少女の背後に、青くも赤くもない街が映る。
壊れていない研究区画。
笑いながら歩く人々。
七年前の、世界が分かれる前の景色。
「アウレルが見せるのか」
『原型炉が、心から作ります』
ニルの声が細くなる。
レンが眉を寄せた。
「どういう意味だ」
『そこにある幸福は、正しく作られています』
『間違っているから偽物なのでは、ありません』
ニルは三人を順に見る。
白い腕が背後から伸び、少女の肩を掴んだ。
アウレルの声が重なる。
『帰って来い』
『七年前に失ったものを、すべて返そう』
通信が切れた。
格納庫の照明が戻る。
カインだけが、像の消えた場所を見つめている。
「来るなと言われた」
レンが青側の搭乗路へ向かう。
「行かないのか」
『あいつの命令に従ったことはない』
カインはヴァイスへ乗り込む。
『今のはお願いじゃない?』
『なおさら従えない』
『面倒な人』
『操縦者との類似率が上昇しました』
フレアの機体AIが告げた。
『どっちとの類似!?』
返答はない。
三機の両眼が、青、赤、紫に灯った。
ノア・ギアが、二つの世界の中心座標へ到達した。
艦の前方で、黒い扉が空を縦に裂いている。
左側には蒼界の都市。
右側には紅界の荒野。
中央には、どちらにも属さない色のない亀裂。
三つの発進路が開いた。
三機は合体しない。
それぞれ二本の腕と二本の脚、独立した操縦席と意思を持ったまま、同じ扉へ向かう。
ヴァイスが二本の位相刃を交差させた。
紫色の刃が、黒い扉へ食い込む。
『青と赤の座標を送れ』
「蒼界側、固定」
『紅界側、押し開く!』
アズールの青い円環が、扉の左半分を止める。
フレアが右半分へ両掌を当てる。
ヴァイスは中央の亀裂を、残る一枚の翼ごと押し広げた。
黒銀の胸部から、紫色の火花が噴き出す。
『零座標出力、限界を超過』
『継続すれば、ヴァイスの帰還能力は完全に失われます』
「まだ開いていない」
『警告への回答になっていません』
『今はそれで通じる!』
アカリがフレアの出力を上げた。
黒い扉の隙間から、昼の光が漏れる。
青でも赤でもない、ただの太陽の光。
三人が七年間、一度も見ていない色だった。
『先に行け!』
「三機同時でなければ座標が崩れる」
『だから一緒に行く!』
アズールがヴァイスの左肩を支える。
フレアが右肩を押す。
三機は一列となり、扉の隙間へ突入した。
ノア・ギアから、黄金の細い線が伸びる。
『位相索、接続。三機の現在位置を記録し続ける。これが帰り道になる』
黄金線がヴァイスの背部へつながった。
カナメの声が、最後に届く。
『帰る場所を見失うな』
扉が閉じる。
黒い空間の中で、黄金線だけが長く伸びていた。
次の瞬間。
三機は、七年前の空へ落ちた。
青くない空が広がっていた。
赤くない街が続いていた。
壊れる前の研究区画。
二つに裂ける前の鉄道。
時計は、七年前の午後四時十七分で止まっている。
街には人がいた。
子供が走っている。
列車が駅へ入ってくる。
店員が客へ笑いかける。
誰もが自然に動き、会話し、昨日から続く今日を生きていた。
前に潜った白い世界の幻とは違う。
同じ動作を繰り返す人影ではない。
記録も、性格も、因果関係も、ほとんど矛盾なく再現されている。
『三機の距離が拡大』
並んで降下したはずの三機が、別々の街区へ引き離されていく。
「アカリ。カイン。応答しろ」
雑音だけが返った。
アズールの前へ、十七歳のアカリが歩いてくる。
記録映像ではない。
世界が分かれず、レンと同じ場所で七年間を過ごした姿。
制服の袖をまくり、右手には見覚えのない小さな傷がある。
「レン、遅い」
声も、歩幅も、こちらを待つ時に少しだけ眉を寄せる癖も、本物と同じだった。
「アズール。照合しろ」
『記憶、行動傾向、生体反応を照合』
レンの呼吸が止まる。
偽のアカリが手を差し出した。
「帰ろう。今日は何も起きないから」
存在しなかった七年間が、レンの記憶へ流れ込む。
同じ学校へ通った朝。
喧嘩して、三日間口をきかなかった冬。
仲直りの仕方が分からず、二人で自動販売機の前へ立ち続けた夜。
どれも、都合がよいだけの映像ではない。
失敗も、痛みも、仲直りも含んだ一つの未来だった。
『現在世界との接続を切れば、この記録を主現実として選択できます』
原型炉の声が、街全体から響く。
アズールの操縦席が、開き始めた。
レンは、差し出された手を見る。
七年間、触れたかった手。
「この世界が続いた場合、蒼界はどうなる」
『分裂後の誤差として消去されます』
「そこにいる人々は」
『発生しなかった存在へ戻ります』
アズールの機体AIが、小さな青い一覧を開いた。
『蒼界で当機が記録した救助者、整備員、管制員、市民のうち、この世界に存在しない個体です』
名前が、画面を埋め尽くす。
分裂後に生まれた子供。
災害を生き延びた後で出会った人々。
失敗した未来の中で、それでも生きようとした命。
『この一覧を消去しますか』
機体AIは、答えを選ばない。
ただ、レンへ問い返した。
レンは、開きかけた操縦席を閉じる。
「保存しろ」
『保存先は』
「俺が帰る未来だ」
偽のアカリの指先へ届く寸前で、青い手を引いた。
「君と過ごした七年が欲しかった」
偽の少女が、悲しそうに笑う。
「今も欲しい」
レンは正面から認めた。
「だが、そのために今を生きている人を、最初からいなかったことにはしない」
アズールが青い円環を地面へ放つ。
「俺が帰るのは、間違えなかった過去じゃない」
青い光が街を包む。
七年分の景色が、静かな光となって崩れた。
フレアの前には、崩れたことのない共同居住区が広がっていた。
赤い砂嵐はない。
不足していた水も食料も、棚へ十分に並んでいる。
アカリが救えなかった人々も、全員が生きていた。
避難路で倒れた女性。
食料を子供へ譲り、自分の分を残さなかった老人。
崩落した防壁の下から戻らなかった整備員。
誰もが笑っている。
「おかえり、アカリ」
聞きたかった声が、次々に名前を呼ぶ。
フレアの胸部が、ゆっくり開いた。
アカリは降りようとする。
『照合結果を報告します』
「今は、あとにして」
『重大な矛盾は確認できません』
アカリの足が止まった。
「本物なの」
『この未来が選ばれていた場合に、成立し得る人格記録です』
偽物だから拒絶できる、という相手ではなかった。
アカリが手を伸ばせば、女性も手を伸ばす。
今度こそ、届く。
『追加情報があります』
機体AIが、赤い名簿を開いた。
『現在の紅界で生存している人物のうち、この世界には存在しない個体です』
七歳の少女。
五歳の兄弟。
分裂後の避難施設で生まれ、アカリの後ろを走り続けた子供たち。
ここでは、彼らの両親が別の道を歩んでいる。
生まれる理由そのものが、存在しない。
「両方を残して」
『原型炉へ要求を送信』
すぐに答えが返る。
『選択不能』
『この世界と現在世界は、同時に維持できません』
アカリの前で、亡くなった女性が優しく笑う。
「もう頑張らなくていいよ」
「会いたかった」
アカリの声が震える。
「ずっと、謝りたかった」
「なら、ここにいて」
涙が浮かぶ。
それでもアカリは、伸ばした手を止めた。
「ごめんね」
亡くなった人へではない。
自分が欲しかった幸福へ、謝った。
「今のあの子たちを消してまで、あなたに会うことは選べない」
フレアの操縦席を閉じる。
『選択を確認』
「帰ろう、フレア」
『帰還先を、現在の紅界へ設定します』
赤い拳が地面へ触れた。
「失ったものを忘れない」
フレア・ドライブの光が広がる。
赤い世界が、炎ではなく朝焼けのようにほどけていった。
ヴァイスは、白い研究室に立っていた。
失った翼は元へ戻り、黒銀の装甲にも傷一つない。
操縦席の外では、幼いニルが端末を抱えて待っている。
その隣にいる若いアウレルは、白衣を脱いでいた。
『カイン』
ニルが呼ぶ。
『次の検査は中止になりました』
「なぜだ」
『アウレルが、私たちを研究対象から外してくれました』
若いアウレルが頭を下げる。
「すまなかった。お前たちは部品ではない」
カインが七年間、聞きたかった言葉だった。
「ここに残れ」
「ニルも、お前も、もう番号では呼ばせない」
幼いニルが、小さな手を差し出す。
『帰ってきて、カイン』
カインは操縦席を開いた。
黒い靴が、白い床へ触れる。
少女の手へ、自分の指を伸ばす。
「一つ聞く」
『はい』
「今度は忘れないか」
『絶対に忘れません』
完璧な返事だった。
だから、カインの手が止まった。
現在のニルは、そう答えなかった。
忘れないとは約束できない。
また失っても、何度でも思い出す。
弱く、不完全で、それでも自分で選んだ言葉を返した。
「お前は、間違えないんだな」
『はい』
「アウレルも謝った。俺も忘れられない。何も失敗しない」
『それが、あなたの望んだ世界です』
「そうだ」
カインは自分の手を見る。
「だから、ここには答えの続きがない」
幼いニルの笑顔が止まった。
「俺が帰るのは、許せるかまだ分からない現在だ」
操縦席へ戻り、二本の位相刃を抜く。
紫色の刃が、白い研究室を切り裂いた。
優しいアウレルも、忘れないニルも、光の破片へ変わる。
その最後まで、カインは目を逸らさなかった。
三つの幸福な世界が、同時に砕けた。
三機は、巨大な円形空間へ戻されていた。
それぞれ離れた足場に立っている。
青、赤、紫の通信が、再びつながった。
『現在世界の記憶接続を確認』
『記憶改変はありません』
「助かった」
『ただし操縦者の心拍数は、通常値を大きく超過しています』
「それは記録しなくていい」
『重要な生体情報です』
赤い通信から、アカリの声が戻る。
『そっちも言われてる?』
「君もか」
『当機の操縦者は、泣いた回数を非公開にするよう要求しています』
『公開しなくていい!』
『回数は、まだ述べていません』
「述べるな」
『青側操縦者からも、同一要求を受信』
『レンも泣いたの?』
「今は前を見ろ」
『話をそらした』
カインの低い声が割り込む。
『無事なら静かにしろ』
『あなたは何を見たの』
沈黙。
『答えの続きを聞けない世界だ』
アカリは、それ以上尋ねなかった。
三機の中央で、分裂前のインフィニティ・ギアが回転している。
巨大な黄金円環。
その内側へ、青、赤、紫の三本の光が吸い込まれていた。
中心には、ニルの透明な収容室。
その下に、白い長衣のアウレルが立っている。
男の胸から伸びた黒い管が、原型炉へ深く沈んでいた。
「よく戻った」
声が、三つの操縦席へ直接響く。
「お前たちは、成立し得た幸福を拒絶した」
『今いる人たちを消す幸福なんて、いらない』
「彼らは、消えたことにも気づかない」
アカリの赤い目が細くなる。
『気づかなければ、奪っていいの?』
「奪うのではない。最初から起きなかったことにする」
カインが低く笑った。
『自分の失敗もか』
アウレルの視線が、七年前で止まった時計へ向く。
「私は毎日、この時刻の記録を見た」
円形空間へ、過去の光景が投影される。
幼いレンとアカリ。
泣いているニル。
中央環へ腕を差し入れるカイン。
そして制御卓の前で、一人を選べと叫ぶアウレル。
「私は、最も損失の少ない未来を選ぼうとした」
『選べなかった子供に、残りを全部背負わせた』
カインの言葉が、白い空間へ刺さる。
アウレルは目を閉じた。
「だから訂正する」
『俺たちごと消して?』
「お前は境界へ落ちなかったことになる。ニルは記憶を裂かれない。レンとアカリは七年を失わない」
「その代わり、今生きている人が消える」
レンが言う。
「あなたは過去の犠牲を減らすために、現在の犠牲を数えていない」
「現在は、私の誤りから生まれた」
『間違いから生まれたら、生きる価値がないの?』
アカリが問い返す。
アウレルは答えない。
カインが二本の位相刃を展開した。
『俺を救いたいなら、俺が選んだ七年を消すな』
「苦しみを残すことが救いだと言うのか」
『違う』
カインは刃先を男へ向ける。
『苦しんだ後で何を選ぶかを、俺から奪うなと言っている』
アウレルの瞳が、初めて揺れた。
「ならば、その選択を停止する」
黄金円環が折り畳まれる。
白金色の装甲が、アウレルとニルの周囲へ集まった。
頭部。
胸部。
両腕。
両脚。
三重の黄金輪を背負う、白金の完全人型機が立ち上がる。
『原型炉が形成した戦闘体と推定』
胸部の透明な核にはニルが閉じ込められ、その奥でアウレルの黒い装置が鼓動していた。
『原初結果を執行』
『すべての選択を、発生前へ戻す』
最初に動いたのは、アズールだった。
「胸部核を固定する!」
青い円環を三枚放つ。
円環がオリジンへ届く直前、第一の黄金輪が回った。
青い光が逆流する。
アズールの右腕は、攻撃を選ぶ前の位置へ戻っていた。
放ったはずの円環も、掌部コアの中にある。
『行動記録が〇・八秒、巻き戻されました』
「記憶は」
『保持しています』
『なら、考える前に殴る!』
フレアが地面を蹴る。
赤い流星となり、白金の顔面へ拳を突き出した。
衝突まで十センチ。
第二の黄金輪が回る。
フレアは、出発地点へ戻されていた。
推進器の熱だけが残り、赤い装甲から白煙が上がる。
『行動は戻っています』
『しかし、機体負荷は戻っていません』
『ずるい!』
『敵機へ抗議窓口は存在しません』
ヴァイスが紫色の亀裂を開く。
オリジンの背後へ現れ、二本の位相刃を振り下ろした。
第三の黄金輪が回る。
世界が一度、瞬いた。
ヴァイスは、亀裂を開く前の位置へ戻されている。
ただし白い応急装甲には、新しい亀裂が走っていた。
『位置は戻っても、痛みは残るのか』
F-00オリジンが右手を上げる。
掌の前へ、午後四時十七分を示す時計が浮かんだ。
『選択を継続するほど、現在は原初時刻へ接近する』
オリジンの周囲へ、無数の白い刃が現れる。
アズールが防御円環を選ぶ。
第一輪が回り、構える前へ戻された。
青い肩へ、白刃が突き刺さる。
フレアがアズールを庇おうとする。
第二輪に戻され、右脚を切り裂かれた。
ヴァイスが射線をそらそうとする。
第三輪に戻され、残った黒銀翼を貫かれる。
三機が、別々の足場へ膝をついた。
強く選ぶほど、その選択自体が敗北へ変えられていく。
『選択が苦痛を生む』
『お前たちは今、それを証明している』
カインが、血の混じった息を吐いた。
『違う』
「何が違う」
『お前の装置は結果を戻せても、選んだ意味までは戻せない』
レンは、三重の黄金輪を観察していた。
青。
赤。
紫。
三つの輪は、完全には同時に光っていない。
ごく短い順番がある。
「アズール。発光間隔を解析」
『第一輪から第二輪まで〇・〇二秒。第二輪から第三輪まで〇・〇二秒』
『全周は〇・〇六秒。各輪は、一機ずつの選択を順番に処理しています』
『三人が本当に同じ瞬間へ入れば、一つずつ戻せない』
アカリが立ち上がる。
「同期誤差は〇・〇一秒以内」
レンが言う。
『可能?』
『二機間のみなら可能です』
『三機目の操縦傾向データが不足しています』
『俺のせいか』
『肯定』
『即答だな』
『ただし、カイン・ヴァイスの無断行動率は、二名の操縦者と近似しています』
『褒められている気がしない』
『私も!』
「今は合えばいい」
レンは青いペンダントをコアへ重ねた。
アカリも赤いペンダントを掲げる。
ヴァイスの胸部では、ゲンゴが組み込んだ青と赤の補助回路が紫色に光った。
三機の間へ、青、赤、紫の輪が開く。
『三機の操縦権は混ぜません。出力と選択時刻のみを共有します』
『接続率、三十三パーセント』
オリジンが白い刃を構える。
『六十六パーセント』
『青、赤、零の原初座標を確認』
アウレルの声が、初めて揺れた。
『その接続は、扉を完成させる』
「完成させない」
レンはアズールの左掌を開く。
「俺は今を固定する」
アカリがフレアの右拳を引く。
『私は次へ進む』
カインが位相刃を逆手に構えた。
『俺は戻る道だけを切る』
『三機の独立制御を確認』
『同期誤差、〇・〇〇七秒』
三機が動いた。
アズールの青い円環が、敵ではなく空間全体へ広がる。
午後四時十七分の時計を、現在位置へ固定する。
第一の黄金輪が回った。
アズールを選択前へ戻そうとする。
だが開始点そのものが青い円環に固定され、動かない。
フレアが赤い通路を駆けた。
第二輪が回帰を始める。
赤い機体が、一瞬だけ後ろへ引かれた。
アカリは、戻された距離よりさらに深く踏み込む。
ヴァイスが、青と赤の間に生まれた〇・〇二秒へ飛び込む。
第三輪が光る直前、紫色の刃が白い回帰軌道を切断した。
『ゼロ・リターンの帰還経路、切断!』
三重輪の回転が止まる。
フレアの拳が、オリジンの胸部へ届いた。
赤い衝撃が、透明な核を覆う白金装甲だけを砕く。
アズールの円環が衝撃を外側へ固定し、ニルの収容室へ伝わる力を止めた。
ヴァイスの位相刃が、アウレルと原型炉をつなぐ黒い管を露出させる。
三色の光が、一つの破口へ集まった。
『対象を破壊せず、支配機能のみを解放します』
青の現在固定。
赤の前進力。
紫の回帰切断。
三つが、白金の巨体を貫いた。
F-00オリジンの三重輪が砕ける。
装甲が花弁のように開き、ニルの収容室と黒い原型炉が露出した。
『三人とも……』
ニルが目を開く。
オリジンの巨体が膝をついた。
だが、第三の杭は止まらない。
原型炉が制御を失い、二つの世界を一気に引き寄せる。
空へ、蒼界と紅界が崩壊する景色が映り始めた。
『収容室へ入れるのは、零座標の適合者だけです』
ユナの解析が届く。
『カインさん。あなたしかいません』
『分かった』
ヴァイスが、開いたオリジンの胸部へ接近する。
アズールとフレアは左右から白金装甲を押さえ、閉じようとする外殻を固定した。
カインはヴァイスの短距離転送環へ入る。
「一人で行くな」
レンの声。
『物理的に入れるのは俺だけだ』
『声は届く』
アカリが言う。
『だから、一人で決めないで』
カインは返事の代わりに、三者通信を開いたまま転送を実行した。
紫色の光が、白い制御室へ降りる。
カインだけが、そこへ実体として立っていた。
レンとアカリの身体は、それぞれの機体と世界に残っている。
二人の顔は、制御室の青い窓と赤い窓へ映っていた。
中央の透明な壁の中で、ニルが浮いている。
その手前に、アウレルが片膝をついていた。
胸の黒い装置から伸びる管は、切れかけている。
それでも男は、自分の手で管を押さえていた。
「離せ」
カインが近づく。
「接続を切れば、上書きは止まる」
「今切れば、第三の杭が崩壊する」
アウレルの声は、苦痛にかすれていた。
『事実です。原型炉は二つの世界を引き寄せながら、衝突速度も抑えています。急停止すれば、両世界は慣性のまま激突します』
赤い窓のアカリが、ニルを見る。
『収容室を開く方法は』
『私が原型炉の演算を引き受ければ、開きます』
「その後、お前はどうなる」
ニルは答えない。
カインが透明な壁を叩いた。
「また一人で残るつもりか!」
『他に方法がありません』
「その言葉は七年前に聞いた!」
青い窓で、レンが原型炉の構造を展開する。
一人を中心座標へ残せば、二つの世界は安定する。
アウレルが接続を維持する。
ニルが交代する。
カインが再び零座標へ戻る。
装置が示す答えは、七年前と同じ三つだった。
『俺が残る』
『駄目』
アカリが即答した。
『俺が一番適合する』
『だから駄目』
『感情で否定するな』
『七年前と同じ人を、同じ場所へ戻す答えなんて選ばない!』
『操縦者の主張を支持します』
フレアの機体AIが加わる。
『理由は』
『同一手順の再実行は、問題解決ではなく再発です』
「一人を中心にする条件そのものを外す」
レンが言った。
「アズールが蒼界を固定する。フレアが紅界を押し戻す。ヴァイスが、中央に衝突しない空間を作る」
『三機分の負荷を、ノア・ギアへ分散します』
カインが青い窓を見る。
『三機とも原初の側にいる。どうやって母艦へ出力を返す』
ニルが両手を透明な壁へ当てた。
『切れた位相索を、私が一度だけつなぎます』
「負荷は」
『記憶領域の一部を失う可能性があります』
カインの表情が険しくなる。
ニルは青と赤の窓を見る。
『一人では決めません』
『三人に、協力をお願いします』
レンが青いペンダントを掲げる。
「頼まれた」
アカリも赤いペンダントを重ねた。
『なら断れないね』
カインは黒い識別環を外し、透明な壁へ当てる。
三つの位相信号が、収容室へ届いた。
青、赤、紫の亀裂が走る。
壁が、静かに開いた。
ニルの身体が前へ倒れる。
カインが両腕で受け止めた。
七年前に届かなかった手が、今度は離れなかった。
「軽いな」
『人型端末ですから』
「そういう意味じゃない」
『体重の話では、ないのですか』
「今はそういうことにしておけ」
赤い窓から、アカリの声が飛ぶ。
『あとでちゃんと説明してあげて』
『お前は黙っていろ』
ニルがカインの胸元を掴んだ。
『覚えています』
「何を」
カインは返事をしなかった。
ただ、支える腕の力を少し強めた。
背後でアウレルが立ち上がる。
「その方法でも、私が接続を切らなければ原型炉は移行しない」
カインはニルを床へ座らせ、アウレルと向き合った。
「なら切れ」
「切れば、私はもう訂正できない」
「何を」
「七年前を」
初めて、研究者の冷静さが男の声から消えた。
「私は選べなかった。子供へ選択を押しつけた。二つの世界へ七年の苦痛を生んだ」
「だから全部なかったことにするのか」
「他に償う方法がない」
カインの拳が、アウレルの頬を打った。
白い男が床へ倒れる。
二度目の拳を振り上げる。
青と赤の窓に、レンとアカリの顔が映っていた。
二人は止めない。
カイン自身が、続きを選ぶのを待っている。
拳は、下りなかった。
「それは償いじゃない」
アウレルが、血のにじむ口元を上げる。
「では何だ」
「逃げだ」
「お前に何が分かる」
「分かる」
カインの拳が震える。
「俺も二つの世界を憎んだ。全部消えればいいと思った」
「ならば――」
「だが、消した後には答えが残らない」
カインはニルを見た。
「俺は、こいつがなぜ忘れたのか聞きたい。なぜ思い出したのかも聞きたい」
次にアウレルを見る。
「お前が俺を利用した理由も、許せないまま聞き続ける」
拳を下ろす。
「私に、失敗した後を生きろというのか」
「そうだ」
青い窓で、レンが答える。
「失敗を消すのではなく、失敗した自分で次を選んでください」
赤い窓のアカリも続けた。
『償う相手まで消したら、謝ることもできないよ』
アウレルは、胸の黒い装置を見下ろす。
誰か一人を犠牲にすれば、結果は安定する。
七年前から変わらない最適解。
その答えを拒んだ三人が、別々の場所から自分を見ている。
「私は、この先を観測していない」
「未来は、観測してから進むものじゃない」
レンが言う。
『進んだ後で、選んだ意味を作るの』
アカリが続ける。
アウレルは胸へ指を入れた。
黒い装置の留め具を掴む。
それでも、手は止まっている。
ニルが名を呼んだ。
『アウレル』
男が顔を上げる。
『私たちを番号で呼んだことを、私は許していません』
アウレルの表情が固まる。
許しではない。
断罪でもない。
逃げることを許さない視線だった。
アウレルは、黒い装置を引き抜いた。
胸から黒い光が噴き出す。
原型炉が激しく揺れた。
第三の杭との接続が切れる。
アウレルが膝をついた。
「行け」
「あなたもだ」
カインは紫色の転送環を開く。
「生きろと言った直後に、置いていけるか」
意識を失ったアウレルとニルを、転送光が包む。
二人はヴァイスの後部収容区画へ移された。
カインも最後に転送環へ入る。
青と赤の窓が消える寸前、アカリが叫んだ。
『カイン、戻って!』
「命令か」
『お願い!』
「なら、考えておく」
『そこはすぐ戻るって言うところ!』
白い制御室が崩れる。
カインは、ほんの少し笑いながらヴァイスへ帰還した。
三機が、崩壊するF-00オリジンから離れる。
ヴァイスの補助席では、ニルが青と赤の両目を開いた。
後部収容区画には、拘束されたアウレルが横たわっている。
空が青と赤に裂けた。
蒼界と紅界の建造物が、巨大な波のように互いへ迫っている。
「ニル。位相索を」
『接続を開始します』
二つのペンダントとヴァイスの補助回路から、白い光が伸びた。
底に落ちていた黄金線が、浮かび上がる。
接続失敗。
ニルの白い髪から、光の粒が落ちた。
『記憶領域への負荷が上昇』
『中止しますか』
『続けます』
「何を覚えている」
カインが尋ねる。
『カインが、私に名前をくれました』
蒼界側の応答を検出。
『次は』
『レンとアカリを救う方法を、カインが教えてくれました』
紅界側の応答が重なる。
『次は』
ニルはカインを見た。
黄金線が、強く光った。
『こちらノア・ギア。三機の帰還記録を確認した』
『遅い!』
『帰る場所を切ったのはそちらだ』
カナメは冷静に返す。
カインが通信へ入った。
『説明は後だ。艦を中心座標へ固定しろ』
『命令権限を確認できない』
『なら頼む』
一秒の間。
『要請を受理する。ノア・ギア、全境界杭を展開』
母艦の全長に沿って、黄金の環が開いた。
三機と母艦を結ぶ、四本の線が張られる。
誰か一人を杭にはしない。
全員が別々の役割を持ち、互いが倒れないための支点になる。
アズールが左側へ飛ぶ。
その向こうには、蒼界がある。
青い円環が、都市ではなく蒼界の地平線そのものへ重なった。
アズールの両腕から、装甲が剥がれ始める。
『右腕出力、限界』
「左へ分散」
『左腕も限界です』
「なら全身へ」
『操縦者の回答傾向を学習済みです』
青い光が、胸部と両脚へ広がった。
フレアは右側へ加速する。
その向こうには、紅界がある。
赤い両掌が、迫る紅界の界面へ触れる。
両脚が床へ沈んだ。
『駆動出力、百九パーセント』
『気合換算値、百四十二名を超過』
『今それ使うの!?』
『操縦者が登録しました』
アカリは、苦しい呼吸の中で笑った。
『なら、もっと上げる!』
赤金の装甲が焼けながら、紅界を押し返す。
ヴァイスが、二つの世界の中央へ立った。
逃げ道へ使う力は残っていない。
最後の零座標を、蒼界と紅界の間に何も衝突しない空間を作るために使う。
『零座標、開放』
一枚だけ残っていた黒銀翼の外装が、光の羽根へ分かれていく。
カインの全身に、七年前と同じ痛みが走った。
『カイン』
補助席からニルが呼ぶ。
「今度は落ちない」
『はい』
「名前を呼べ」
『操縦者名を保持』
『零座標の帰還先を、現在へ設定』
ノア・ギアが黄金環を回転させる。
青い円環に亀裂が走る。
赤い装甲が焼け落ちる。
紫色の翼が崩れる。
黄金の母艦が大きく傾く。
それでも四つの支点は、離れない。
界面重合した建造物が、透明になっていく。
蒼界の空から、赤い鉄骨が消える。
紅界の荒野から、青い高層建築が離れる。
止まっていた時計が、午後四時十七分から動き始める。
秒針が、未来へ一つ進む。
黒い歯車へ亀裂が走る。
ニルが両目を閉じる。
アウレルの胸から抜かれた黒い装置が砕ける。
カインは操縦環を握り直す。
アズールが青い固定を解除する。
フレアが赤い界面を押し返して跳ぶ。
ヴァイスが中央の亀裂を閉じる。
ノア・ギアが、三機を黄金線で引き寄せた。
第三ゼロ・アンカーの機能が停止する。
黒い歯車は、爆発しなかった。
無数の小さな光へ変わり、二つの空へ静かに降る。
蒼界と紅界が離れていく。
互いを消すためではなく、それぞれの場所で生き続けるために。
ノア・ギアの三つの医療区画が、位相窓によってつながっていた。
青側では、レンの両腕へ固定具が巻かれている。
赤側では、アカリが損傷した右脚を寝台へ乗せていた。
中央の零位相区画では、ニルが白い寝台へ座り、カインがその隣で検査を受けている。
壁の修理画面には、三機の損傷も並んでいた。
アズールは左腕の主装甲を喪失。
フレアは右脚外装のほぼ半分を失い、冷却管が露出。
ヴァイスは残る片翼の外装と、二本の位相刃のうち一本を失っている。
三人とニルの姿は、一つの部屋にいるように見える。
だが身体はそれぞれの世界と位相に分かれ、互いへ触れることはできない。
ニルは透明な壁の外で、初めて自分の手を見つめた。
青い右目と、赤い左目に、白い天井が映っている。
ユナが検査結果を、三つの窓へ表示した。
「ニルの端末機能は安定。記憶欠損も確認できません」
「確実か」
カインがすぐに尋ねる。
「同じ質問は三回目です」
「答えが変わっていないか確認した」
「結果は一分で変わりません」
「なら一分後に、もう一度聞く」
赤側の窓でアカリが笑う。
『心配性』
『操縦者の右脚が、寝台から四・二センチ移動しました』
フレアの機体AIが告げた。
『動かしてない。少し曲げただけ』
「それを動かしたと言う」
カインが即答する。
アカリが目を見開いた。
『前にも同じこと言われた!』
「誰にだ」
『あなたに似た面倒な人』
青側のレンは、何も言わずに視線を外した。
『レン、どうして目をそらすの』
「休め」
『逃げた!』
ニルが小さく笑う。
笑い方を知らなかった端末の、不器用な声だった。
医療区画の奥にある拘束室では、アウレルが眠っている。
胸の黒い装置はなく、生体反応は弱いが、止まっていない。
カナメが三つの窓へ告げた。
「アウレル・ゼロは回復後、我々の監視下で事情聴取を行う。終端機関ゼロの指導者としての責任も消えない」
ニルが、眠る男を見る。
『それでいいと思います』
カインは何も言わない。
許したわけではない。
答えも、まだ聞き終えていない。
だから、生きている必要がある。
カナメは観測画面を切り替えた。
「第三の杭は停止。界面重合も解消した。蒼界と紅界は、それぞれの位相へ戻っている」
アカリが息をつく。
『終わったの?』
「第三の杭については」
レンが顔を上げた。
「他に何がある」
ユナが新しい波形を開く。
杭が止まる直前、原型炉から外へ送られた信号。
送信先は蒼界ではない。
紅界でも、原初の側でもない。
観測図に存在しなかった、第四の方向。
「アウレルが送ったのか」
「いいえ。原型炉による自動送信です」
ニルの表情が強張った。
『この信号を知っています』
「いつ見た」
『七年前。インフィニティ・ギアが暴走する直前です』
観測画面の奥へ、巨大な輪郭が浮かぶ。
人型に見える。
しかし、アズールやフレアよりはるかに大きい。
星のない空間を背負い、四つの黒金の歯車を回していた。
『青座標、確認』
『赤座標、確認』
『零座標、確認』
短い沈黙。
通信が切れた。
医療区画の窓の外。
蒼界と紅界の空へ、同じ黒金の点が現れる。
レンが寝台から立ち上がろうとした。
『安静を推奨します』
「状況確認を優先する」
『予測済みです』
赤側では、アカリも痛む右脚を床へ下ろしている。
『右脚が、さらに十二・六センチ移動しました』
『今は数えなくていい!』
カインはニルの前へ立った。
「あれは何だ」
ニルは、七年前にも答えられなかった存在を見上げる。
『インフィニティ・ギアが、未来を観測するために見つけたもの』
『未来の向こうから、私たちを観測していたものです』
二つの世界を救った夜。
三人が自分の意思で同じ未来を選んだことを、誰かが遠い場所で見ていた。
そして今。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
レン、アカリ、カインは、それぞれが最も欲しかった「間違いのない世界」を拒みました。三人とも、誰かを見捨てたのではありません。今を生きている人を消さない方を選んだだけです。
よければ、ひとつだけ教えてください。
残ったのは「これから会いに行く未来だ」でしたか。それとも「生きているから、答えを変えられる」でしたか。
感想をいただけると、次の一話を書く力になります。