「未来は、まだ生まれていない。
それでも、そこで生きている誰かを、存在しないとは言えなかった」
◇
蒼界と紅界は、初めて互いの朝を見た。
蒼界〈そうかい〉――七年前の世界分裂で蒼羽レンが生き残り、青い技術都市を中心に復興した世界。
中央都市の大型画面には、赤い砂に覆われた街が映っている。
紅界〈こうかい〉――同じ世界分裂で緋月アカリが生き残り、崩壊した環境を人々の支え合いによって維持してきた赤い世界。
共同居住区の古い表示板には、青い高層建築と、真っ直ぐすぎる道路が映っていた。
共同放送には、各世界から数人ずつ声を交わす試験通話枠が設けられていた。
七年前から、二つの世界は同じ場所に存在していた。
見ることができなかっただけだった。
蒼界の広場では、青い包装の栄養食を持った少年が画面へ近づく。
画面の向こうでは、紅界の少年が丸い焼きパンを掲げていた。
通信には〇・三秒の遅れがある。
二人はしばらく、互いの朝食を無言で見せ合った。
蒼界の少年が先に尋ねる。
「そっちの赤いの、辛い?」
〇・三秒後、紅界の少年が眉を寄せた。
『赤い世界の食べ物が、全部辛いと思うなよ』
「じゃあ、甘い?」
『今日はしょっぱい』
「交換できる?」
『その青い四角が食べ物なら』
蒼界の少年は、自分の栄養食を見た。
「たぶん」
周囲から、小さな笑いが起きた。
それは、二世界が初めて共有した笑いだった。
だが、笑わない人もいた。
蒼界の男が赤い映像を指差す。
「あの世界があるから、こちらの境界が不安定になったんじゃないのか」
隣の女性が言い返す。
「向こうも同じ被害を受けていると説明されていたでしょう」
「説明を信じろと言うのか」
紅界の配給所でも、人々の声が重なる。
「青い世界には、あれだけ建物が残っている」
「私たちの分まで奪ったからじゃないの」
「七年間、向こうだってこちらを知らなかったんだ」
「なら、どうして向こうだけ豊かなの」
互いを知らなかった七年間が、一朝で消えるはずはない。
同じ映像を見ても、受け取る答えは一つではなかった。
画面の上部には、黒金の数字が表示されている。
終界接続まで、六十三時間四十分二十二秒。
数字は、二つの世界で同じ速度で減っていた。
終界〈しゅうかい〉――第四観測機クアドラが存在する、青、赤、零の外側にある第四の座標。
現在から分岐した可能性が、すべて終わった先にあると推測されている。
その世界に何があるのかは、まだ誰も知らない。
ただ一人。
白髪の少女だけが、終界から自分を呼ぶ声を聞いていた。
◇
境界航行母艦ノア・ギアの医療区画。
境界航行母艦ノア・ギア――蒼界と紅界へ半分ずつ存在し、二世界を同時に観測できる境界保全機構ARK-∞の母艦。
人型端末ニルは、鏡の前に立っていた。
人型端末ニル――青い右目と赤い左目を持ち、七年前に世界を蒼界と紅界へ分けた白髪の少女。
第四観測機クアドラとの戦いでは、自ら戦う場所を選び、第四の自由選択体として認識された。
鏡に映る右目は青い。
左目は赤い。
いつもと同じだった。
ニルは、鏡の中の自分へ少しだけ口角を上げてみせる。
昨夜、アカリに教えられた。
笑顔は、嬉しい時だけに出るものではない。
誰かを安心させたい時にも使うのだと。
『笑顔を形成』
鏡の中の自分は、ほとんど変わらない。
『成功率、判定不能』
もう一度試そうとした時、鏡の中の少女が先に笑った。
ニルは動いていない。
鏡の中の右目が黒く染まる。
左目が金色へ変わる。
白い髪の先端を、黒金の光が走った。
『笑顔としては、不完全です』
声はニルとよく似ていた。
けれど、言葉の終わりに微かな揺れがある。
笑っているようにも、泣いているようにも聞こえた。
『あなたは誰ですか』
『帰還条件を満たしました』
『質問への回答になっていません』
鏡の少女は、ほんの少し首を傾けた。
その仕草まで、ニルによく似ていた。
『何が帰るのですか』
『私たちです』
鏡の奥に、巨大な都市が現れる。
黒い空。
金色の線だけで形を保つ建物。
道には、人の姿があった。
誰も動かない。
立ったまま、眠っている。
『ここは終界ですか』
『あなたたちが、そう呼んでいる場所です』
『あなたはクアドラですか』
鏡の少女は、ゆっくり首を振る。
『クアドラは、私たちを運ぶ身体です』
『私は、帰ることを選んだ者です』
ニルは鏡へ手を伸ばす。
指が触れる直前、黒金の少女も同じ動きをした。
二人の指先が、薄い鏡を挟んで重なる。
『ニル』
相手が名前を呼んだ。
『私を知っているのですか』
『あなたの記憶から、私は生まれました』
医療区画の警報が鳴る。
鏡に亀裂が走った。
黒金の少女は消える直前に告げる。
『私の名前は、ミラ』
『あなたが選び続けた先に生まれた、未来の端末です』
鏡が砕けた。
ニルの掌から、赤い血が一筋落ちる。
自分の身体から血が出ることを、ニルは初めて知った。
廊下の奥から、急速に近づく足音が聞こえる。
扉が開くより先に、外側から強い衝撃が一度だけ響いた。
自動扉が慌てたように左右へ開く。
カイン・ヴァイスが医療区画へ飛び込んだ。
カイン・ヴァイス――七年前、レンとアカリの両方を救う第三の未来を提案し、その代償として二世界の外側へ存在を落とされた青年。
「ニル!」
彼は鏡の破片より先に、ニルの手を見た。
「何があった」
『鏡の中に、私がいました』
「お前はここにいる」
『私ではありません』
ニルは血のついた指で、黒金の鏡片を拾う。
『私から生まれた、未来の端末です』
カインが鏡片を床へ払い落とした。
「触るな」
『もう触りました』
「そういう報告を先にしろ」
『あなたは扉を蹴ろうとしましたか』
「していない」
扉の警備記録が、小さな警告音を鳴らした。
ニルはカインを見る。
『記録と一致しません』
「今は手を見せろ」
カインは医療箱を取り、ニルの掌へ止血布を巻いた。
力を入れすぎないよう、何度も指先の色を確かめている。
ニルは、その手つきを見つめた。
『血は、故障ですか』
「生きていれば出ることもある」
『では、生存の証明ですか』
「もっと安全な方法で証明しろ」
ニルの掌で、黒い点が皮膚の下から明滅する。
金色の文字が浮かんだ。
N∞-01。
帰還端末ミラ。
◇
黒金の鏡片は、隔離容器ごとノア・ギアの作戦室へ運び込まれた。
白瀬ユナが、鏡片から伸びる信号を表示する。
白瀬ユナ――蒼界と紅界の位相現象を解析し、戦場の数字から隠れた規則を見つけるARK-∞の戦術解析担当。
「終界側からの双方向通信です。映像だけではありません。微量ですが、物質転送も起きています」
御堂カナメ艦長が尋ねる。
御堂カナメ――ノア・ギア艦長であり、戦う者へ判断を委ねながら、必ず帰還路を残そうとする指揮官。
「侵入経路は」
「ニルの第四選択信号です」
作戦室の視線が、ニルへ集まった。
カインが彼女の前へ一歩出る。
「責任を押しつけるな」
「事実を説明しています」
ユナは淡々と答えた。
「クアドラは、ニルを新しい接続点として登録しました。終界は、その経路を使っています」
第四観測機クアドラ――未来を先行観測し、青、赤、零、そして第四の自由選択を収集した黒金の巨大機。
現在の空へ現れたものは投影体であり、都市ほど巨大な本体は終界に存在する。
カインが尋ねる。
「経路を切れるか」
「ニルの自由選択機能ごと停止すれば」
作戦室の空気が止まった。
ニルが自分から尋ねる。
『停止すると、私はどうなりますか』
「生命維持と記憶は残ります」
ユナは迷わず答える。
「ただし、新しい自律判断を記録できなくなる可能性があります」
ニルは数秒考えた。
『それでは、残るのは昨日までの私です』
ユナが顔を上げる。
『新しく選べないなら、それは私の記録であって、今の私ではありません』
カインが低く告げた。
「答えは出た。別の方法を探せ」
「最初から実行案には入れていません」
カナメも頷く。
「ニルの自由を止めて世界を守っても、我々がクアドラと同じになるだけだ」
作戦卓の反対側には、拘束環をつけたアウレル・ゼロが座っていた。
アウレル・ゼロ――終端機関ゼロを率い、二つの世界を原初界で上書きしようとした研究者。
第三ゼロ・アンカーを自ら停止した後、現在はARK-∞の監視下に置かれている。
彼は鏡片の識別文字を見たまま動かない。
「N∞-01」
カナメが振り向く。
「知っているのか」
「知らない」
カインの目が鋭くなる。
「また隠すなら――」
「この名称を知らないという意味だ」
アウレルは、自分の胸に残る傷へ触れた。
「だが、∞の形式は知っている」
黒金の鏡片へ、古い設計記録を重ねる。
現在のARK-∞が使用する機密識別形式。
組織名。
母艦名。
設計世代。
一致する部分が、次々に青く光った。
ユナの表情が変わる。
「この符号は、外部文明が偶然使ったものではありません」
アウレルが頷く。
「クアドラを造ったのは、人類だ」
作戦卓へ、黒金の巨人とノア・ギアの構造が並ぶ。
四つの歯車を支える骨格。
複数世界へ同時に存在する境界炉。
帰還座標を記録する中枢。
大きさも形も違う。
それでも、基本構造は同じだった。
ノア・ギアを、巨大な人型へ変えたような構造。
ユナが解析結果を確定する。
「クアドラは、未来のノア・ギアです」
誰もすぐには答えられなかった。
カナメが記録時刻を確認する。
「いつの未来だ」
「現在の暦へ換算して、百二十七年後」
レンの青い通信窓が開く。
蒼羽レン――蒼界機アズールの操縦者。冷静な観測と青い円環による位相固定を得意とする少年。
『なら、終界は百二十七年後の世界なのか』
アカリの赤い通信窓も続く。
緋月アカリ――紅界機フレアの操縦者。目の前の人を救うため、予測された結末を越えて行動する少女。
『私たちの未来が、戻って来ようとしてるってこと?』
ユナは首を振る。
「一つの可能性です。今の選択が必ず終界へ続くとは限りません」
アウレルが低く続ける。
「だが、終界側にとって自分たちは可能性ではない」
「生きている現在だ」
カインが言った。
アウレルは彼を見る。
「そうだ」
作戦室中央に、終界都市の映像が映る。
動かない人々。
黒金の光で保たれた建物。
その地下に、無数の生命反応があった。
ユナが数を読み上げる。
「確認できるだけで、一億八千四百万人」
アカリの表情から怒りが消える。
『人がいるの』
「全員が低活動状態です。クアドラから生命維持を受けています」
レンが問う。
『終界接続を止めた場合は』
「クアドラの残存エネルギーが尽きれば、維持できません」
カインは拳を握る。
「だから現在を奪うのか」
ニルは、眠る人々を見つめる。
『ミラは、帰ると言いました』
ユナが二つの世界地図へ、黒金の第三層を重ねる。
「終界の構造を現在へ接続すれば、蒼界と紅界の物質座標は未来側の記録へ置き換わります」
『今いる人は?』
「残らない可能性が高いです」
未来の一億八千四百万人。
現在の蒼界と紅界に生きる人々。
どちらか一方しか残せない。
装置が、また同じ形の答えを見せていた。
アウレルは目を閉じる。
「一方を選べと、言っている」
カインが答える。
「なら、また条件を壊す」
ニルも頷く。
『どちらも、存在しなかったことにはしません』
その直後。
ノア・ギアの全区画に警報が響いた。
◇
蒼界中央都市の上空へ、一本の黒金の杭が現れた。
紅界共同居住区の上空にも、同じ杭が降りる。
二世界の中央にある零座標では、ノア・ギアの真正面へ第三の杭が突き出した。
終端接続杭〈ターミナル・ピン〉。
終端接続杭――終界の物質構造を現在へ固定し、クアドラ本体が通過できる座標を形成する黒金の境界杭。
三本が完全固定されれば、終界接続までの時間は六十三時間から二十四時間へ短縮される。
ユナが表示を切り替える。
「固定まで十一分四十秒!」
カナメが即座に命じる。
「三機を出す」
整備主任の真壁ゲンゴが、格納庫から通信へ割り込む。
真壁ゲンゴ――アズール、フレア、ヴァイスの構造を熟知するARK-∞の整備主任。
『無茶を言うな。アズールの左腕は七十一パーセント、フレアの右脚は六十六パーセント、ヴァイスは位相刃をまだ一本も戻してねえ』
「固定された後に修理しても、使う時間がなくなる」
ゲンゴが三機を見上げる。
蒼界機アズール。
両腕と両脚を備え、精密な位相固定を得意とする青銀の完全人型機。
紅界機フレア。
両腕と両脚を備え、瞬間加速と近接打撃を得意とする赤金の完全人型機。
ZC-01ヴァイス。
零座標へ亀裂を開く力を持つ、黒銀の完全人型機。
三機とも、自分の身体を保つだけで精一杯だった。
レンが青い操縦席へ入る。
「円環を一枚出せればいい」
アカリが赤い操縦環を握る。
『一回動けば、二回目は何とかする』
カインが折れた位相刃の柄だけを受け取る。
「刃がないなら、亀裂を刃にする」
ゲンゴが叫ぶ。
『お前らは故障箇所を新機能みたいに言うな!』
三つの発進路が開く。
『蒼界機アズール、発進』
青い巨人が蒼界の空へ上がる。
『紅界機フレア、発進』
赤い巨人が紅界の砂塵を切り裂く。
『ZC-01ヴァイス、発進』
黒銀機がノア・ギアの前へ出る。
三機は、それぞれの接続杭へ向かう。
だが、杭の前に新しい機影が形成された。
蒼界には、青黒いアズール。
紅界には、赤黒いフレア。
零座標には、黒金のヴァイス。
残響機〈エコー・ギア〉。
残響機――クアドラが観測した操縦記録から、三人が最も予測どおりに動いた未来を再現した無人模倣機。
形は同じでも、色がない。
操縦席もない。
過去に記録された最適行動だけを、何度でも繰り返す。
『各残響機、元機体の行動記録を九十九・二パーセント再現』
ユナの解析が届く。
『同じ戦い方では、先に動きを読まれます!』
青黒い残響機が、アズールより先に円環を放った。
レンが避けようとする座標へ、二枚目が重なる。
「俺の回避順を知っている」
レンは一枚目を右へ避ける。
そこへ二枚目が来る。
左へ機体を倒す。
三枚目が待っている。
青黒い円環がアズールの両脚を固定した。
残響アズールは、最も効率よく相手を止める。
迷わない。
その動きは、レン自身が何度も選んだ正解だった。
紅界では、残響フレアが正面から加速する。
アカリも拳を構えた。
同じ踏み込み。
同じ角度。
同じ瞬間加速。
二つの赤い拳が衝突する。
損傷した右脚が耐えられない。
本物のフレアだけが後方へ弾かれた。
『私より、私らしい動きしてる』
残響フレアは追撃へ移る。
アカリなら、倒れた相手が立つ前に進む。
だから、止まらない。
零座標では、残響ヴァイスが自分から黒金の杭へ接続していた。
機体を境界杭にし、青と赤の残響機へ出力を送っている。
カインが位相亀裂を開く。
残響ヴァイスは、その出口を自分の胸部へ固定した。
「俺なら、中央へ来ると知っているのか」
無人機は答えない。
自分を犠牲にし、他の二機を動かす。
それが、記録の中で最も成功率の高かったカインの行動だった。
固定まで、八分。
三機は、自分自身の正解に止められていた。
◇
ノア・ギアの観測席で、ニルは三つの戦場を見ていた。
隣の黒金の鏡片から、ミラの声が聞こえる。
『彼らは変われません』
『記録を繰り返しているだけです』
『違います』
ニルが答える。
『残響機が、繰り返しているのです』
『同じことです』
ミラの姿が、鏡片の上へ浮かぶ。
白い髪。
黒い右目。
金色の左目。
『人は、自分の役割から離れられません』
『観測する者は考え続ける』
『進む者は止まれない』
『捨てられた者は、自分を犠牲にする』
ニルは三人の通信を開く。
『レン』
「聞こえている」
『アカリ』
『まだ動ける』
『カイン』
「命令なら早くしろ」
ニルは一度、言葉を止めた。
これまでなら、自分が三人の行動を組み立てていた。
誰が、どの順番で、何をするか。
それもまた、観測する端末という自分の役割だった。
『命令しません』
カインが眉を寄せる。
「では何だ」
『自分の機能を、一つだけ別の人へ預けてください』
レンが意図を理解する。
「役割を交換するのか」
『機体は交換しません』
『合体もしません』
『一つの機能を、別の人の選択で使います』
ユナが三機の接続構造を開く。
「ノア・ラインを経由すれば、一時的な機能貸与は可能です」
ノア・ライン――三機の現在位置と出力をノア・ギアへ記録し、異なる座標を結ぶ黄金の位相索。
「ただし貸与中、元の機体はその機能を使えません」
アカリが笑う。
『自分より、相手を信用しろってことね』
カインは残響ヴァイスを見る。
自分だけで中央を支え続ける無人機。
「それが一番、記録にない」
三人が接続を開いた。
青い円環。
赤い瞬間加速。
紫の位相亀裂。
三つの機能が、ノア・ギアの中央で交差する。
一つにはならない。
互いの機体へ、一つずつ移動した。
交差機能転送〈クロス・ギア・シフト〉。
交差機能転送――アズール、フレア、ヴァイスを合体させず、各機の機能を一度だけ別の操縦者へ貸し出す連携方式。
レンは、アカリから赤い瞬間加速を受け取る。
アカリは、レンから青い位相固定を受け取る。
カインは二人から、機体を現在へ留める青赤の安定出力を受け取った。
代わりにヴァイスの位相亀裂は、二つへ分かれてアズールとフレアへ渡る。
残響機は、自分と同じ動きを待っている。
レンは固定された両脚を見た。
いつもなら円環を解析し、順番に解除する。
だが今、円環はアカリへ預けている。
アズールの背部へ、赤い光が走った。
「フレア・ドライブ、借りる」
『壊して返したら、弁償だからね』
「使用前から右脚は六十六パーセントだ」
『その数字まで借りなくていい!』
青い巨人が、固定された両脚ごと前へ加速する。
青黒い円環を解除しない。
地面へ固定された空間そのものを引き裂いた。
残響アズールの予測が止まる。
レンは高速で接近しながら、ヴァイスから借りた小さな位相亀裂を開いた。
残響機の円環が、自分自身の背後へ抜ける。
青黒い機体が、自分の固定に捕らわれた。
「正解だけを繰り返すなら、その正解から動けない」
アズールの肩が残響機を接続杭へ叩き込む。
蒼界の杭に亀裂が走った。
紅界では、残響フレアが拳を振り下ろす。
本物のアカリは立ち上がらない。
前へ進まない。
赤い操縦席で、青い円環を開く。
『アイオン・ロック!』
残響フレアの右脚が、踏み込んだ瞬間に固定される。
加速だけが止まらない。
無人機の上半身が前へ投げ出された。
アカリは、その横をゆっくり立ち上がる。
『これ、毎回こんなに細かく計算してるの?』
「今渡したのは簡易版だ」
『今後は少しだけ尊敬する』
「少しなのか」
『残りは帰ってから決める!』
倒れる残響機の胸部へ、ヴァイスから借りた位相亀裂を置く。
赤黒い巨体が亀裂を通り、接続杭の真上へ落ちた。
自分の突進力で、紅界の杭を打ち砕く。
零座標では、残響ヴァイスがさらに深く杭へ接続していた。
カインは一人で近づかない。
通信を開く。
「レン。固定を貸せ」
「もう貸している」
「アカリ。出力を寄越せ」
『最初から送ってる!』
青と赤の光が、ヴァイスの胸部へ重なる。
誰か一人を中心座標にしないための三相境界固定。
その安定出力だけが、黒銀機を現在へ繋ぎ止める。
残響ヴァイスは、自分を杭にしている。
カインは、自分を杭にしない。
「俺一人で支える必要はない」
刃のない柄を振り下ろす。
青と赤に固定された紫色の亀裂が、一本の刃になる。
残響機ではなく、接続だけを切る。
残響ヴァイスが杭から解放された。
無人機は支えを失い、静かに崩れる。
カインは倒れる残響機を受け止めた。
過去の自分を、切り捨てなかった。
「もう、そこに残らなくていい」
紫色の刃が、零座標の杭を切断する。
三本の終端接続杭が、ほぼ同時に砕けた。
固定まで、残り二秒。
一秒。
黒金の表示が停止する。
終界接続まで、六十三時間二十八分十一秒。
二十四時間への短縮は起きなかった。
三機は、それぞれの空で膝をつく。
勝った姿ではない。
それでも、自分の役割を少しだけ越えた姿だった。
鏡片の中で、ミラは三つの機体を見つめていた。
『目的に不要な会話が、複数確認されました』
ニルが答える。
『はい』
『なぜ削除しないのですか』
『必要かどうかを、まだ誰も決めていないからです』
◇
砕けた三本の杭から、黒金の光がノア・ギアへ戻ってきた。
ユナが遮断壁を展開する。
「侵入信号です!」
黒金の光は壁を通り抜け、観測席のニルへ集まった。
カインの通信が開く。
『ニル、そこから離れろ!』
『間に合いません』
光が、人の形を作る。
白い髪。
黒い右目。
金色の左目。
帰還端末ミラ。
帰還端末ミラ――識別名N∞-01。ニルの記憶構造を原型として、百二十七年後の終界で生み出された白髪の人型端末。
投影ではない。
半透明ではあるが、その足はノア・ギアの床へ触れている。
ミラは初めて踏んだ床を見下ろした。
「現在の物質密度、三・八パーセント」
一歩だけ動く。
「床面温度、終界基準より〇・七度高温」
ニルが向き合う。
『それは、観測結果ですか』
「はい」
答えるまでに、ほんの少し間があった。
『あなたは、私ですか』
「違います」
ミラは即答した。
「あなたの記憶と選択記録から造られた、別の端末です」
『では、なぜ私と同じ姿を』
「終界の人々が、あなたを忘れなかったからです」
作戦室へ、終界の記録が流れ込む。
百二十七年分の断片。
二つの世界が接触した日。
資源を巡って争った日。
それでも、同じ街を造った日。
新しい子供が生まれた日。
再び世界が崩れた日。
ノア・ギアを巨大な人型機へ改造した日。
未来を一つへ固定すれば、誰も失わないと決めた日。
「クアドラは、戦争を止めるために造られました」
ミラが告げる。
「すべての未来を観測し、最も多くの人が残る一つへ世界を固定するために」
アウレルが映像を見つめる。
「私と同じ答えへ辿り着いたのか」
「あなたの研究が、基礎に使われました」
アウレルの顔から血の気が引く。
自分が捨てようとした思想が、百二十七年後に世界そのものとなっている。
ミラは続ける。
「未来を固定した結果、終界では新しい選択が生まれなくなりました」
生まれない。
変わらない。
失敗しない。
終界の人々は、最も安全な瞬間へ固定された。
その代わり、時間が進まなくなった。
「クアドラの境界炉は限界です」
「終界がこのまま停止すれば、全生命維持が終わります」
カナメが問う。
「だから過去へ戻り、現在を器にするのか」
「はい」
「現在に生きる人々が消えると知っていても」
「はい」
ミラの答えには迷いがない。
アカリの通信が響く。
『それを救うって言わない』
ミラは、赤い通信窓を見る。
「では、終界の一億八千四百万人を見捨てますか」
『見捨てない』
「両方は残せません」
『それを決めるのは、あなたじゃない』
「物理条件です」
レンが静かに入る。
「条件なら変えられる」
ミラの黒い右目がレンを観測する。
「その回答は、記録されています」
「なら、結果が違うことも記録しておけ」
ミラの金色の左目が、わずかに細くなる。
怒ったのか。
それとも笑ったのか。
ニルにも判断できなかった。
ミラは、ニルへ手を伸ばす。
「一緒に来てください」
『私を接続鍵にするためですか』
「それだけではありません」
ミラの声に、初めて明確な感情が宿る。
「終界の人々は、あなたを始まりの人と呼んでいます」
『私は、人ではなく端末です』
「それを否定したのは、あなたでしょう」
ニルは答えられなかった。
ミラの言葉は正しい。
装置として扱われることを拒み、自分で選んだ。
同じように、未来の端末も自分で帰還を選んだと言っている。
カインのヴァイスが、格納庫から作戦室の外壁へ手を伸ばす。
『触るな、ニル』
ミラがカインを見る。
「あなたも、終界にいます」
カインの表情が止まる。
「何だと」
「レンも、アカリも」
青と赤の通信窓が揺れる。
「ただし、今のあなたたちではありません」
終界の深部に、三つの眠る生命反応が表示される。
青。
赤。
紫。
名前は隠されている。
「会いたければ、終界へ来てください」
ミラの物質密度が下がり始める。
残り二パーセント。
一パーセント。
ニルは、消えかけた手を掴んだ。
カインが叫ぶ。
『ニル!』
『行きません』
ニルは答えた。
『でも、見ます』
ミラの黒と金の瞳を正面から見る。
『あなたが守ろうとしている人を、存在しないことにはしません』
二人の手から、白と黒金の光が溢れる。
ミラは、握られた自分の手を見た。
「接触温度、三十六・四度」
『はい』
「記録より、あたたかい」
『それは、必要な観測ですか』
ミラは初めて、すぐに答えなかった。
「分かりません」
ニルの指を、わずかに握り返す。
「ですが、削除はしません」
終界の景色が流れ込む。
黒金の都市。
眠る人々。
止まった時計。
巨大なクアドラ本体。
その胸部より、さらに深い場所。
二つの人影が、青と赤の透明な棺に収められている。
顔は見えない。
だが、二つの棺を繋ぐ黄金の歯車が回っていた。
双界機神インフィナイトと同じ歯車。
ニルが声を上げる。
『これは――』
接続が切れた。
ミラの身体が、黒金の粒となって消える。
最後の声だけが残った。
「残り時間までに、あなたは自分から来ます」
「誰が待っているかを知れば」
作戦室へ静けさが戻る。
ニルは、誰もいない空間をまだ掴んでいた。
掌に残っているのは、血の痛みと、触れた温度だった。
◇
終端接続杭の破片から、百二十七年後の設計記録が回収された。
クアドラの中枢設計者。
ARK-∞終界支部。
母艦基礎構造。
ノア・ギア第四世代。
人型端末原型。
N-0。
すべての記録が、一つの事実を示していた。
敵は、異星から来た存在ではない。
未来の人類が、自分たちを守るために造ったものだった。
カナメは作戦室の全員を見る。
「作戦目標を変更する」
ユナが記録を開く。
「クアドラの破壊から、終界接続の阻止へ変更しますか」
「それだけではない」
カナメは、現在の二世界と停止した終界を並べる。
「蒼界と紅界を残す」
「終界の人々も救う」
「三つすべてだ」
アウレルが目を伏せる。
「また、存在しない答えを選ぶのか」
カインが言い返す。
「お前には何度言えば分かる」
「答えがないなら、作る」
レンが青い通信窓から続ける。
「終界の構造を調べるには、接続の向こうへ入る必要がある」
アカリも頷く。
『でも、完全接続したら現在が上書きされる』
ユナが、三本の杭の残骸を表示する。
「小規模な通路なら、形成できる可能性があります」
「問題は、出口をどこへ固定するかです」
ニルは、終界で見た青と赤の棺を思い出す。
二つを繋ぐ黄金の歯車。
『私が固定します』
カインがすぐに反応する。
「一人では行かせない」
『まだ行くとは言っていません』
「今の顔は言っていた」
ニルは、自分の顔へ触れる。
『顔で通信した記録はありません』
アカリが小さく笑う。
『それ、私も時々言われる』
レンが問い返す。
「誰に」
『あなたに』
数秒だけ、作戦室に笑いが生まれた。
終界接続まで、六十二時間五十六分。
残された時間は増えていない。
問題も、一つ減ったわけではない。
それでも、敵の向こうに人がいると分かった。
倒す相手ではなく、救うべき未来があると分かった。
カナメは、新しい作戦名を入力する。
二未来救出作戦〈デュアル・フューチャー〉。
二未来救出作戦――現在の蒼界と紅界を守りながら、停止した終界の住民も別座標へ避難させるための救出計画。
成功する方法は、まだ一つもない。
だからこそ、最初の仕事は決まっていた。
終界へ渡り、その世界を自分たちの目で見る。
格納庫から、ゲンゴの通信が入る。
『作戦名を決める前に、修理時間を確保しろ』
カナメが尋ねる。
「最低で何時間だ」
『三機合わせて三十六時間』
「残りは六十二時間だ」
『だから、これ以上壊すなと言ってる』
カインが短く答えた。
「善処する」
『その返事が一番信用できねえ』
◇
ノア・ギアから蒼界と紅界へ、終界の映像が公開された。
黒い空。
金色の都市。
眠る一億八千四百万人。
未来の人々を救うためには、現在の二世界が消える可能性があることも隠さなかった。
蒼界の広場で、一人の男が叫ぶ。
「まだ生まれていない未来のために、俺たちが消えるのか!」
紅界の配給所では、一人の女性が画面へ手を伸ばす。
「でも、あそこにいる子供を見捨てろって言うの?」
「未来の映像なんて信用できない」
「私たちだって、向こうから見れば過去の人間よ」
二つの世界で、同じ問いが生まれる。
未来の命は、今の命と同じなのか。
自分たちが消える危険を負ってまで、救うべきなのか。
答えは分かれた。
恐怖も、怒りも、優しさも、どれか一つだけが間違いではなかった。
朝に栄養食を持っていた蒼界の少年が、再び共同画面の前へ立つ。
画面の向こうには、焼きパンを持った紅界の少年がいた。
二人の間にも、終界の映像が流れている。
蒼界の少年が尋ねた。
「交換、できなくなるの?」
紅界の少年は、焼きパンを半分に割った。
『まだ一度も交換してない』
「うん」
『なら、できなくなるって決めるのは早い』
〇・三秒遅れて、蒼界の少年も栄養食を半分に割った。
味も、価値も、まだ分からない。
それでも、渡す相手はもう知っていた。
レンは蒼界の格納庫から、そのやり取りを聞いていた。
アカリは紅界の整備台で、同じ放送を見ていた。
二人の間に通信窓が開く。
『ねえ、レン』
「何だ」
『終界へ行ったら、同じ場所に立てると思う?』
レンはすぐに答えなかった。
終界は青でも赤でもない。
二つの座標を未来側から一つに固定した場所。
危険であると同時に、二人が初めて同じ地面へ立てる可能性がある。
「立てるかもしれない」
『同じ場所に立ったら、最初に何する?』
「座標の確認」
『違う』
「互いの実在確認」
『言い方を変えただけでしょ』
「何をするつもりだ」
『会ってから決める』
「質問した意味がない」
『今、決めないって決めたの』
レンは、青いペンダントを握る。
「それは便利な答えだな」
『あなたにも貸してあげる』
「フレア・ドライブより扱いが難しそうだ」
通信窓の向こうで、アカリが笑った。
二人はまだ、同じ場所に立っていない。
だが今度は、どこで会うのかも、会って何をするのかも、自分たちで選べるところまで来ていた。
◇
遠い終界。
帰還端末ミラは、クアドラ本体の胸部へ戻っていた。
物質密度、百パーセント。
黒い右目に蒼界が映る。
金色の左目に紅界が映る。
「終端接続杭、三基とも破壊」
クアドラの機械音声が答える。
『結果を保存』
「交差機能転送を確認」
『結果を保存』
「N-0は、こちらへ来る」
『根拠を要求』
ミラは、巨大な胸部の奥を見る。
青い透明棺。
赤い透明棺。
二つの間で回る黄金の歯車。
「あの二人を、見たからです」
クアドラは答えない。
ミラの視界に、一件の未分類記録が残っていた。
接触温度、三十六・四度。
重要度、不明。
保存理由、不明。
『不要記録の削除を推奨』
ミラは数秒、表示を見つめた。
「削除しません」
青い棺の中で、誰かの指が動く。
赤い棺の中でも、別の誰かが目を開こうとしている。
クアドラの計器へ、二つの名前が一瞬だけ現れた。
すぐに黒い遮蔽で隠される。
ミラは、誰にも聞こえない声で呟く。
「早く来てください、始まりの人」
「この未来を救えるのは、過去のあなたたちだけです」
終界接続まで、六十二時間三十一分九秒。
止まっていた未来の時計が、現在へ向かって一秒だけ進んだ。
第8話 終
お読みいただき、ありがとうございます。
今回は「自分らしさとは、同じ行動を繰り返すことなのか」を軸に、三人が自分の得意な力を仲間へ預ける戦いを描きました。
ニルとミラ、レンとアカリ、カインと残響ヴァイス。印象に残った組み合わせや台詞があれば、感想や「ここすき」で教えていただけると嬉しいです。
もし現在の二世界と、終界の一億八千四百万人を同時には救えないと言われたら、あなたは何を選びますか。
次回、第9話「九十秒のインフィナイト」。
合体した瞬間から、世界滅亡までの九十秒が始まります。