腐海は今日も静かだった。
無論、それは人間の耳で聞いた場合の話である。
木々の間では小さな蟲達が羽音を立て、菌糸は地中深くへ伸び、巨大な植物は人間には聞こえぬほど低い音を立てながら胞子を吐き出している。人にとってはマスク無しでの生存を許さない死の森であろうと、そこには確かに生命の営みがあり、一時でも動きを止める事は無い。
その中を、ナウシカは進んでいく。そんな彼女のすぐ後ろを紅い機械鳥・リーベが付き従っていた。
《ナウシカ様》
「何?」
《先程から採取されている物質について質問があります》
「胞子よ」
《それは認識しております》
防毒マスク越しに、ナウシカは少し笑った。
「じゃあ、何が聞きたいの?」
《何故、既に複数の標本を所有しているにも拘らず、同種の胞子を追加で採取されるのでしょう?》
「同じじゃないわ」
《遺伝情報及び外見上の特徴には、極めて高い一致が見られます》
「生えていた場所が違うもの」
《は……》
「湿度も違うし、近くに生えている植物も違う。水が近いかどうかも違うでしょう? 同じ種類でも、育つ場所によって何か違うかも知れないわ」
《理解しました》
「知らないから怖いのよ。だから、知れば良いの」
《以前にも同様の発言を確認しております》
「覚えてたの?」
《私に、受動的に記録を失う機能は搭載されておりません》
「……そう」
少しだけ恥ずかしくなった。
もっともリーベには、ナウシカが何故恥ずかしがったのかまでは理解出来なかったようだ。
ナウシカは足を止めると、胞子を採取用の小瓶へ入れた。
その間、リーベはすぐ後ろに立ち止まって周囲を監視している。
以前までなら、腐海へ入る時は一人だから常に周囲へ気を配り、神経を張り巡らせていなくてはならなかった。
蟲。毒、崩落、底無し沼、その他いっぱい…腐海には危険が多い。
今も最低限の警戒は欠かしていないが、少なくとも背後から何かが近付いてきても、リーベが先に気付くだろう。それが分かっているだけでも、随分と気が楽だった。
「次はあっちへ行ってみましょう」
《承知しました》
ナウシカが進み、リーベも後ろから続く。
巨大な植物の根元を抜けた、その時だった。
「……?」
風がある。
ごく弱いが、しかし確かに、奥から空気が流れてくる。
ナウシカは立ち止まった。
「リーベ」
《はい》
「この先、空間がある?」
《走査します》
額の多重走査アイが露出する。数秒でスキャンが完了し、再びギミックがスライドして頭部の内側にスキャナーは隠された。
《前方およそ百四十メートルに広大な空洞を確認》
「やっぱり」
ナウシカは嬉しそうに走り出した。
《足元にお気を付けください》
「分かってる!」
枝を掻き分ける。
その先で、唐突に森が途切れる。
「わぁ……」
そこには巨大な空洞が広がっていた。幅や広さは、人間が掘れるような規模ではない。
何か巨大な物が、植物も菌類も薙ぎ倒して通っていった痕跡だ。
「王蟲の道……」
《王蟲》
「腐海で一番大きな蟲よ」
《情報を照合します》
少し間があった。これはデータの読み出し作業だ。
《該当する生物情報を複数確認。ただし現在個体との一致率には不明点があります》
「昔から知ってるの?」
《旧文明末期に存在した大型節足生物との類似情報があります。ただし現在の生態系については、現地観測を優先すべきと判断します》
「そうね」
ナウシカは道の先を指差した。
「行ってみましょう」
王蟲の道はどこまでも続いていくようであったが、終着点は唐突に訪れた。
「あった!」
ナウシカが弾んだ声を上げた。
そこには巨大な抜け殻が横たわっていた。
王蟲。
全長数十メートルにもなる腐海最大級の蟲。抜け殻だけでも、その存在感は圧巻である。
「すごい……完全な抜け殻だわ」
《珍しいのですか?》
「ええ、私も見るのは初めて」
ナウシカは駆け寄って、外殻を手で叩く。
時間差を置いて、甲高い音が内部で反響して木霊する。
「いい音…まだ新しい」
《材質を分析します》
「壊さないでね」
すぐに釘を刺された。リーベは反論しない。
《非破壊検査を行います》
ナウシカは抜け殻の頭部へ回る。
そこには、王蟲の特徴である巨大な眼殻が幾つも並んでいた。
「……きれい」
厚みはあるが透明度が高く、光を受けて宝石のように輝いていた。
ナウシカは暫く眺めていたが、ふと思い付いたようにリーベを振り返った。
「ねえ、リーベ」
《はい》
「これ、外せる?」
《可能です》
「本当に?」
《対象を損傷させずに、という条件ですね? 問題ありません》
リーベが王蟲の抜け殻へ近付く。
ナウシカは何か工具でも出てくるのかと思った。父を手術した時のワイヤーや、谷の人々に栄養食や薬を配っていた事からもうリーベの体のどこから何が飛び出しても驚かない自信があった。
しかしながら、予想は外れる事になった。
《周辺生物への影響を防ぐ為、指向性を限定します》
「え?」
リーベの嘴が、僅かに開いた。
「?」
ナウシカが首を傾げた、次の瞬間。
王蟲の目の周囲に、細い線が走った。その線は甲殻と目の付け根を沿うように動いて、短い時間で一周する。
《終わりました》
ほとんど抵抗も無く、巨大な眼殻が外れるように抜け落ちた。ナウシカは慌てて受け止める。
「わっ!」
《重量はおよそ3.2キログラムです》
「先に言って!」
《申し訳ありません》
リーベは翼を差し込み、眼殻を支えた。
「今、何したの?」
《声帯を調整し、超音波を一点へ収束させました》
「超音波?」
《人間の可聴域を超える周波数の音です。高密度に収束させる事で切断工具として利用出来ます》
ナウシカは切断面を見る。
綺麗だった。
焼け焦げたような後も、削り取ったような粗さも無い。グローブ越しにも川の下流で良く見られるような、ぶつかり合って研磨された石のような滑らかさが伝わってくる。そして鏡のように、覗き込むナウシカの目を反射していた。
「……便利ね」
《同意します》
二人は暫く、その場所に留まった。
ナウシカは切り取った眼殻を頭部を覆うように乗せて抜け殻の上に寝転がり、リーベはその傍らに座る。
いつしか周囲には、胞子が降っていた。
「ムシゴヤシが午後の胞子を飛ばしてるのね」
《……》
腐海は静かだった。
ナウシカの体を包み隠すように、胞子が積もっていく。リーベは、少しも動いていないのに胞子は一粒も彼女に付着しない。彼女を避けるようにして胞子が降っていくようだった。
「綺麗ね。マスクをしなければ5分で肺が腐ってしまう、死の森なのに」
《…一般的な人間の感性が、この風景を美しいと認識する事を同意します》
時間までゆっくりと流れているような静けさ。
それを破ったのはリーベだった。
《ナウシカ様、お気を付けください》
「何?」
《遠方で、何か異様な音が聞こえます。現在、記録にある周波数のパターンと照合を行なっております》
「えっ」
体に積もっていた胞子を払いのけて起き上がったナウシカが周囲を見渡して耳を澄ます。しかし、すぐに顔を顰めた。
「何も聞こえないけど」
《私は視覚や聴覚など五感が人間の何千倍も優れています。間違いなく聞こえました。そして近付いてきています。恐らく次は、ナウシカ様にも聞こえるかと》
リーベの言葉はすぐに証明された。
ギュルルルルル
独特の尾を引くような音を聞いて、ナウシカの顔色が変わった。
「蟲封じの銃……?」
《火薬式火器の発砲音を確認。距離およそ3.8キロ》
もう一発聞こえた。
「行くわよ! 誰かが蟲に襲われてる」
《承知しました》
ナウシカは来た時よりもずっと早く、腐海を駆け抜けた。リーベもその背後をぴったり付いていく。見晴らしの良い高台に出ると、大量の胞子の煙が上がるのが目に入った。本来なら静かに漂い落ちるばかりの胞子が激しく巻き上げられ、森の一角が先程の静寂が嘘のように騒ぎ出す。
そして、巨大な蟲が煙を突き破るようにして姿を見せた。
「王蟲!」
目が赤い。これは攻撃色である。怒っている。
「きっとあの抜け殻の主だわ」
《大型生物一体。高速移動中》
「誰か追われてる、助けなきゃ!」
《ナウシカ様、接近は推奨され――》
「大丈夫!」
《……》
主からこの言葉を聞いた時は、大丈夫ではない事が多い。
リーベはその事実を記録した。
森を抜ける。ナウシカは腐海のほとりの砂漠に停めていたメーヴェに飛び乗った。ゴーグルを下ろすと、ペダルを踏んでエンジンを始動させる。彼女を追うようにして、リーベも翼を広げ、浮き上がるように飛び立った。
上空から見ると、王蟲の動きは一目瞭然であった。一直線に胞子の煙が上がっている。
森から人を乗せたものと、それに引かれた空のトリウマが飛び出してくる。
僅かな間を置いて、目を真っ赤にした王蟲が森の木立を吹き飛ばして砂漠に姿を見せた。
ナウシカはメーヴェを王蟲から逃げているトリウマの乗り手に併飛行させた。
「風上へ!」
「すまん!」
再び、高度を上げてリーベと翼を並べる。
「王蟲、森へお帰り!! この先はお前の世界ではないのよ!! ねぇ、いい子だから!!」
呼びかけるが、全く効果があったように思えない。
王蟲は進む勢いを緩めなかった。
「怒りに我を忘れてる。鎮めなきゃ」
ナウシカはすぐ横を飛ぶ機械鳥を振り返った。
「リーベ!!」
《ハッ》
「あの王蟲を止められる? 少しの間でいいから」
《可能です。非殺傷兵装を使用します》
リーベは速度と高度を調整して王蟲の正面に出る。
胴体下部がスライドして開き、数個の球体が投下された。それらが砂漠に落ちる。
ここで、リーベは声帯を調節して声量を大きくした。
《強烈な光と音が発生します。目を瞑って、口を開けてください》
王蟲が動く騒音も掻き消すような大声を受けて、ナウシカもトリウマの乗り手もそれに従い、目を閉じて口を開ける。
一秒後にはその指示の的確さが理解出来た。
今は昼間なのに、世界が白一色に染まって頭の中がグラグラと揺さぶられるほど、強烈な爆音と閃光が走った。直視せずに目を閉じていても瞼を貫いて網膜に届くほど強烈な光だった。
光と音の洪水が治まり、やっとナウシカが目を開いた時には王蟲の動きも止まっていた。
怒りの攻撃色である赤く染まっていた目は、今はぼんやりとした色だ。
「閃光と音で王蟲が目を回した…」
《閃光音響弾(スタングレネード)の効果を確認》
トリウマの乗り手とリーベがそうして王蟲の様子を伺った時、一帯に甲高い音が響き始めた。音の発生源はナウシカ、正確には彼女の手にした筒状の物体からである。
「蟲笛…」
《あの物体を空気が通過する事で、笛の原理でこの音波が発生しているようですね》
ナウシカはメーヴェを旋回させつつ、蟲笛を奏でていく。
「王蟲、目を覚まして。森へ帰ろう」
ややあって、王蟲の目に青い色が宿った。気が付いたのだ。先程のように怒りに任せて突き進む様子は見られない。
ゆっくりとUターンして、森へと戻っていった。ナウシカはそれを見送るようにメーヴェを操る。
《……》
リーベは滞空しつつ、その様子を観察していた。
《ナウシカ様》
「何?」
《質問があります》
「後にして」
《承知しました》
地上を見ると、トリウマの乗り手が手にした銃をこちらに向けて振っている。そうしてトリウマに乗って、森から十分に離れた安全な場所まで移動する。ナウシカとリーベも上空からそれを追跡した。
彼がトリウマから降りた所で、ナウシカもメーヴェから殆ど飛び降りると、ゴーグルやマスクを脱ぎ捨てて駆け寄った。
「ユパ様!」
「おおっ、ナウシカ」
飛び付いてきたナウシカを、ユパと呼ばれた壮漢は力強く抱き留めた。
「ハハハ、見違えたぞ。大きくなったな」
「一年半振りですもの。父が喜びます」
「助けられた、礼を言わねばならんな。良い風使いになったものだ……ところで」
ユパの視線がナウシカの肩越し、背後へと動いた。
ちょうど、ふわりとリーベが羽根のように降下してくる所であった。
「あれは何だ?」
「リーベです」
「名前を聞いたのではないのだが…」
「あ……」
ナウシカは少し考えた。リーベが風の谷で過ごすようになって数週間にもなり、いつの間にか居るのが当たり前のように妙に彼女の中で納得してしまっていた。知らない者から見れば、リーベは異形の怪物機械なのだ。
正確な説明の為に、少し考える時間が必要だった。
「腐海の遺跡で見付けた、昔の機械です」
「……」
ユパの沈黙は長かった。
「何故そんな物が、お前に付いて来ている?」
「良く分からないんですけど…どうも私が主人になったみたいで」
「……」
ユパの納得出来る答えではなかったが、ナウシカとしてもそれ以上の答えを用意するのは難しかった。
《初めまして》
リーベは丁寧に頭を下げた。
《当機はナウシカ様からリーベと命名されました。ナウシカ様の護衛を務めております》
「喋るのか」
《はい》
「……そうか」
辺境随一の剣士と呼ばれるユパをして、一度に与えられた情報が多すぎたようである。そう呟くのが精一杯であった。
と、その時。彼の腰のバッグがもぞもぞと動いた。
「ああそうそう、こいつの事をすっかり忘れておった」
ボタンを外すと、小さな生き物が顔を出した。
ナウシカの目が輝く。
「まぁキツネリス! 私初めて!」
「こいつが羽虫にさらわれたのを人の子と間違えてな。つい銃を使ってしまったのだ」
「それで王蟲があんなに怒っていたのね」
「気絶しておったので毒は吸わなかったようだが…手は出さない方が良い、チビでも凶暴だぞ」
小さな獣は歯を剥いている。
「おいで」
しかし、ナウシカはそっと手を差し出した。
「大丈夫」
キツネリスは警戒している。しかしナウシカの腕を駆け上ると、肩を回って反対側の腕に立った。
「ほら、怖くない…怖くない…」
ゆっくりと、ナウシカが手を近付けていく。キツネリスは毛を逆立てて威嚇行動を取っている。そして手が首を延ばせば届く距離まで近付いた時、指へ噛み付いた。
「んっ…」
《ナウシカ様》
慌てた様子ではないが、リーベが声を掛けた。キツネリスは毒の類は持っていないようだ。ならばサイズ差からして、一匹では首筋に噛み付きでもしない限りはナウシカの生命に対して危険を及ぼせる可能性は無い。
「平気よ」
《は…》
「大丈夫…怖くない…怖くない」
暫くして。
逆立てていた毛を丸くしたキツネリスは口を離すと、ナウシカの傷口を舐め始めた。
ナウシカは微笑む。
「ほらね。怯えていただけよ。フフッ…ユパ様、この子私にくださいな」
「あ、あぁ。それは構わんが…」
《……》
リーベは何も言わなかった。
先程の王蟲、そして今のキツネリス。
危険と攻撃。攻撃と排除。
それら間には、別の選択肢が存在するらしい。少なくともナウシカはそう信じ、考え、実践している。
リーベはその事実を新しい記録に刻んだ。
ナウシカの視線は、今度はユパの乗っていたトリウマへと移った。
「カイにクイ、私を覚えてる? 疲れたでしょう、いっぱい走って」
「皆に変わりは無いかな?」
「えぇ…父はもう飛べなくなりました」
少しだけ、ナウシカの声のトーンが低くなった。
「ジルが? 森の毒がもうそんなに…」
「一時はもう長くないとも言われたんですけど…でも、リーベが診てくれるようになってから随分良くなったんです。もうすぐ床離れも出来るだろうって」
「こいつがか」
ユパはすぐ背後で、静かに座っている機械鳥を振り返った。
「リーベは怪我や病を治す事が出来るんですよ。谷のみんなも、大勢診てもらって元気になって…」
「それは凄いな」
《ナウシカ様の指も、大丈夫とは思いますが後で簡単な治療だけはさせていただきます》
「分かってるわ。そうだ」
ナウシカが駆け出した。
「私、先に谷へ戻ってユパ様が帰って来た事を知らせてきます」
「そうしてくれるか」
「はい! 先生も急いで!」
メーヴェへ乗り込もうとした所で、ナウシカは足を止めた。
「あ、リーベ」
《何でしょうか、ナウシカ様》
「さっきの王蟲の目だけど」
《保管しております》
リーベが翼を動かす。
先程切り出した巨大な眼殻が姿を見せた。
「それはあなたが運んできてくれる? メーヴェに乗せてると気流が乱れて上手く飛べないの」
《了解しました》
「お願いね」
ナウシカは眼殻をひょいっと掴むと、リーベが背負っている玉座の背もたれへと引っ掛けた。
「これでよし」
《……》
「大丈夫、落ちない?」
《固定します》
不可視の力場が働き、王蟲の目はピクリとも動かなくなった。
「じゃあ行きましょう!」
《承知しました》
ナウシカはメーヴェのエンジンを掛けて、動力付き凧は風を受け、飛び上がった。
リーベも翼を広げて、垂直に体を浮上させる。
紅金の機械神獣。
空を飛ぶその姿は優雅かつ幽玄そのものであり、その全身は人が創造し得る究極とも言うべき華麗さを持ち、そしてこれまでに見せた様々な力。まさに造形美と機能美が一体となった究極の芸術と言えるだろう。
その背には、唯一人が座るべき豪奢な玉座がある。
そして今、その玉座の背もたれには王蟲の眼殻が、無造作に引っ掛けられていた。
「急ぐわよ、リーベ」
《承知しました》
二つの影は風の谷へ向かって飛んでいった。