風の谷へ帰ったユパを待っていたのは、盛大な歓迎だった。
「ユパ様だ!」
「ユパ様がお帰りになったぞ!」
一年半振りに帰還した辺境一の剣士を見るなり、仕事の手を止めて集まってくる者も多い。
老人は懐かしそうに笑い、若者は旅の話を聞きたがり、子供達は珍しい土産でも持っていないかと遠慮無くまとわり付いてくる。
「この谷はいい、いつ来ても心が和む」
蓄えた髭で口元は見えないが、ユパの眼が細められた。
「ユパ様、ユパ様!」
人混みを掻き分けて、一人の女性がやって来る。彼女の腕には、生まれて間もない赤子が抱かれていた。
「ユパ様、今年生まれたトエトの子です」
ナウシカに紹介されて、ユパはその子を注意深く受け取って抱き上げる。
「おお…良い子だ。幼い頃のナウシカを思い出す」
「どうかこの子の名付け親になってくださいませ」
「いつも良い風がその子に吹きますように」
「引き受けよう。良い名を贈らせてもらうよ」
「ありがとうございます。どうか姫様のように丈夫に育ちますように」
その言葉を聞いた城オジの一人が、髭を弄りながら笑う。
「丈夫と言うなら姫様は折り紙付きじゃ。だが腐海遊びまで似ると困るぞ」
「もう!」
すぐ近くにいたナウシカが頬を膨らませた。
「でもお陰で今日は王蟲の抜け殻を見付けたし、リーベにも会えたのよ」
「わはは! そりゃ姫様の腐海遊びも無駄とは言えんのう!」
「しかし、ワシらの身にもなってみろ。心配でオチオチしておられんわい」
周囲から笑い声が上がる。
その輪の少し外側。
紅い機械鳥は、静かに座っていた。
背中の玉座には、王蟲の巨大な眼殻がまだ引っ掛けられている。
「ところで姫様」
「何?」
「その王蟲の目、いつまでリーベに背負わせとくんです?」
「あ」
完全に忘れていた。
《私は問題ありません》
「それにしても良い品じゃ。早速明日にでも人手を繰り出して取りに行かせねばな」
無遠慮にリーベの体をよじ登ると、背中の玉座の背もたれに引っ掛けられていた殻を取り上げる。がっしりと重みのあるリーベは、大人一人に組み付かれたくらいではビクともしなかった。
数週間前なら、リーベが翼を動かすだけでも銃へ手を伸ばしていた人々である。
「リーベ、この前の映画の続き見せて!」
「お話聞かせて!」
「遊んで遊んで!」
三本の尾を子供達が別々の方向へと引っ張る。無論この程度ではリーベは1ミリも動かない。
親達もそんな姿を見ても、リーベが暴れ出したりする事は想像もしていないようだった。
その夜。
谷は静かな闇に包まれていた。
昼間に比べれば風も弱く、家々から漏れる灯りも一つ、また一つと消えていく。
そんな風の谷の上空を、紅い影がゆっくりと進んでいく。
リーベである。
ナウシカが眠りに就いた後、日課のように行なっている巡回飛行だった。
高高度から谷を一周。
風車、水源、農地、城、周囲の崖、腐海方向…
接近する大型生物無し、異常な熱源無し、火災無し、不審な人間の移動無し。
全てのセンサーが弾き出した数値が許容値内に収まっている。
《異常無し》
一通り確認を終えると、翼を畳むように角度を変え、城の屋上へ降下した。そうして殆ど音も立てず、優雅さすら感じさせる動きで着地する。
「精が出るのう」
声の方に振り向くと、城オジのゴルが歩み寄ってきていた。
《ゴル様》
「今日の夜警の当番でな。お前さんは空からの見回りを毎晩やっとるのか?」
《必要と判断した場合には》
「姫様も、とんでもない用心棒を拾ってきたもんじゃ」
肩を揺らして笑う。そして思い出したように片手を差し出して、手袋を外した。
「そうだ。見てくれ」
節くれ立った手の、指を小指から一本ずつ曲げていって握り、拳を作る。その拳を開く。この動作を、ゆっくりと何度か繰り返した。以前は関節が固まり、満足に動かなかった手だった。
「どうじゃ。もうこんなに動くようになったぞ」
《経過は良好です》
「お前さんに治してもらう前は、朝なんぞ指を開くだけで一苦労だったんじゃがな」
《ただし治療直後の組織は、正常な運動機能を完全に回復した訳ではありません》
「む?」
《毎日、指を一本ずつゆっくり曲げ伸ばししてください。痛みが出ない範囲で、柔らかい布や皮袋などを握る運動も有効です》
「まだ何かせにゃならんのか」
《治療と機能回復は別です》
「医者みたいな事を言うのう」
《私には医療機能が搭載されています》
「そうじゃったな」
再びゴルが笑う。その時だった。
《むっ》
リーベの頭が唐突に上がって、空を睨む。
《……》
「どうした?」
返事が無い。黄金色の眼が夜空の一点を向き、内蔵されたカメラアイがピントを合わせる為に動く。額の多重走査アイも露出した。
《エンジン音を確認、フェイズドアレイレーダーにも感あり》
ゴルには半分以上意味が分からなかった。
《大型飛行物体、数は一。高度1800、北東方向より接近中》
それを聞いたゴルも空を見る。
夜明け前の一番くらい時間帯である事もあり、人間の眼には何も見えない。だが…
目を細める。
「風が臭うな…」
《感知されましたか》
「良い風なんじゃが、何かおかしい。ワシは他の者に知らせてくる。ここを見ておいてくれ」
《了解しました》
リーベは彫像のように一点を睨んで城の屋上で静止していた。
10分と経たず、ミトを伴ってナウシカが駆けてきた。
「リーベ、ご苦労さま」
《ナウシカ様、私の視線を追ってください。そろそろ、人間の眼でも見える筈です》
言われるままに機械鳥の視線を辿ると…
「あそこ! ほら、また!」
分厚い雲越しだが、確かに何か光る物が見えた。
「船だわ」
「何故このような辺境に船が…」
そうしていると、騒ぎを聞き付けたのか誰かに呼ばれたのか、ユパもやって来た。
「何事かね」
「ユパ様、船です」
「船?」
「来るわ、大きい」
やがて低い音が聞こえてきて、それまでは距離もあってぼんやりとした光でしか無かったものが、窓や哨戒灯の光によって全体像と輪郭が見えてくる。
「あれはトルメキアの大型船だ」
「飛び方がおかしい」
ナウシカの指摘通り、船は左右に大きく揺れ、高度を維持出来ずに、時折船体から火花まで飛び散っている。
《飛行状態、不安定》
「不時着しようとしている。ゴル、上げて」
ナウシカは係留しているメーヴェに飛び乗った。
「姫様、無茶じゃ」
「海岸に誘導する」
その時、キツネリスのテトが駆けてくると、ナウシカの肩に飛び乗った。
「ええい、行きますぞ」
巨大なパチンコの要領で、メーヴェが上空に打ち上げられる。そのまま風を掴むとエンジンを始動させ、高空へと飛び上がった。
リーベもまた、左右12メートル近くにもなる翼を大きく広げて、浮上した。
《随行します》
「お願い!」
二機は白み始めた空へ飛び立った。
接近してみれば、船の状態が更に酷い事が分かった。
外板のあちこちが破損していて、機首の部分に何かが貼り付いている。しかも貼り付いているの物は蠢いていた。生きている。
「あっ…蟲……!」
ナウシカが息を呑んだ。
何十、いやそれ以上の数の蟲が窓から船内に入ろうと群がっていて、窓のような壊れやすそうな所から侵入しようとしている。船員達はどうにかそうはさせまいと、船内から銃撃を行なっているようだ。なるほど内部がそんな状況では、酔っ払ったような飛び方も納得である。
「腐海に降りたんだわ」
《外壁に複数の生物反応。損傷痕及び体液付着を確認》
「蟲を殺したのよ! それで仲間に襲われたんだわ!」
《ナウシカ様、前方をご覧ください》
「あっ!!」
船がこのコースで進めば、海岸にせり出す形になった崖の岩壁に左翼が思い切り衝突する。
「舵を引けーっ、ぶつかるぞぉーっ! 舵を引けーっ! 舵をーっ!」
ナウシカがあらん限りの声を張り上げるが、船の針路は変わらない。
聞こえていないのか、あるいは聞こえていたとしてもそれどころではないのか。
一瞬、船の窓越しに身分卑しからぬ服装をした少女の姿が見えた。
ナウシカがそれに気を取られていたのは一瞬。闇の中に、谷を囲む岩壁が迫る。
《現進路を維持した場合、衝突まで十九秒》
リーベの電子頭脳は既に幾度もの演算を繰り返し、シミュレーションを何百回と行なっている。
質量、速度、慣性、機体強度、予測される破断箇所、内部の人間、最も損傷の少ない方法…様々な要素を計測して総合判定した結果の結論は…実行可能。
《これより、強制的な進路変更に入ります》
両翼を広げ、輸送船の上方へ回り込む。
両脚を前へ、まるで猛禽類が獲物に襲い掛かる時のように、急降下しながら距離を詰める。ただし人間よりはずっと大きいとは言え、尾を含めても9メートル程度の大きさしかないリーベは、大型船との対比ではいかにも頼りなさそうに見えた。
鋭い爪が船体へ接触した。思わず耳を塞ぎたくなるような、甲高い音が響き渡る。手を離してメーヴェから放り出されたくないので、ナウシカは歯を食い縛って必死にその不快感に耐えた。
《機体の把持を完了、次のシークエンスに移ります》
全体を立たせ、広げた翼をまるで空気のブレーキのようにしたリーベは、思い切り両脚を引き上げるように動かした。
船体全体が軋み…そして巨大な輸送船の軌道が、目に見えて曲がった。
「そんな……!」
ナウシカは目を見張った。
大きさで言えば何百倍もあるであろう巨体が、リーベ一騎に引っ張られ、横滑りするように進路を変えている。
崖まで残り僅か。翼端が岩壁を掠めて、火花が夜空へ散る。
それでも、どうにか直撃は免れた。
《海岸方向への進路変更完了》
「そのまま下ろして!」
ゆっくりと高度が下がる。
船腹が砂地へ触れた。
地響きのような振動と激しい砂煙を上げて、船は地面を削りながら何百メートルも滑っていく。
その間もリーベは船体を支え、横転しないよう姿勢を制御し、補正している。
やがて、轟音と共に巨大船は停止した。
「リーベ!」
メーヴェを降りたナウシカが、駆け寄ってくる。
リーベは既に船体から爪を離し、少し離れた所に着地していた。
「よくやったわ! すごい力ね」
《当機の設計段階における最高出力は1312万4400馬力です。この程度であれば問題ありません》
「……」
凄い数字なのは分かる。しかしどれくらい凄いのかは、ナウシカには不明だった。
「と、とにかく中の人達を助けないと」
ナウシカが船へ向かおうとする。
しかし、リーベがその動きを阻むように前に出た。現在の彼女は頭を低くして、警戒するように墜落した船を睨んでいる。
《……》
「リーベ?」
額のギミックが動いて多重走査アイが顔を出す。船体内部へ向け、複数の走査波が照射された。
《むううっ》
「どうしたの?」
まだ出会って数週間だが、殆ど四六時中共に居るナウシカが今まで聞いた事の無い声だった。
《ナウシカ様。救助へ向かわれるのであれば、二点注意事項がございます》
「二つ?」
《第一点》
リーベの視線が船体中央部へ向いている。
《船内には多数の生命反応があります。人間、及び先程確認した蟲類のもの》
「生きてる人がいるのね」
《はい。ただし――》
微妙に、一拍を置いた。
《その中に、一個体だけ異常に巨大な生体反応があります》
「巨大?」
《概算質量の算定を実行……》
この距離から拾えるだけの情報を分析した結果、異常値が弾き出される。
「何なの?」
《現在の走査結果から推定されるその生体の質量は、この規模の航空船の積載可能重量を大幅に超過します》
「え?」
ナウシカは信じられないという表情で船を見た。
「王蟲でも乗せているの?」
《否定します》
リーベは即答した。
《少なくとも昨日接触した王蟲よりも、遙かに巨大なものです。既知の通常貨物として扱うべき対象ではありません》
「じゃあ、それを積んでたせいで船が?」
《墜落原因の一つである可能性は高いかと。重量超過状態で腐海へ進入し、更に蟲による損傷を受けたのであれば、飛行能力低下との整合性があります》
ナウシカの表情が険しくなる。
「もう一つは?」
《第二点は…》
リーベの視線が船の右翼へと動いた。
《蟲の一部が、既に推進機関内部へ侵入しています》
「それって……」
伝えたい内容を察して、ナウシカの顔色がさあっと蒼くなった。
《燃料系統及び高温部への到達を…》
言い終わるより早かった。
一帯が昼間のように明るくなる。
エンジンが爆発し、誘爆によって船体の一部が内側から吹き飛び、無数の金属片が四方八方へ飛散した。
熱風、炎、破片、爆圧。
それら全てがナウシカへ襲い掛かる。
だが、それらは彼女の髪の一本を焦がす事も、服に一筋の破れを生じさせる事も無かった。
リーベの翼が庇うようにナウシカを包み込む。
《ガードシステム展開》
リーベの機体に沿うようにして発生した不可視の力場によって、爆風も、炎も、熱も。全て完全に遮断されていた。彼女の翼の内側はまるで凪の海のようだ。温度すら快適に保たれている。
「リーベ!」
《当機に損傷はありません》
「違う、船! 火を消して! 中にまだ人がいる!」
《承知しました》
再び、リーベが翼を大きく広げた。
そうして一度、羽ばたく。行なった動作は、ただそれだけだった。
だが一瞬にして、火災が消し止められる。
炎を吹き飛ばしたと言うよりも、本当に文字通り火を消した。消滅させたようにナウシカには見えた。
「…消えた。一体どうやったの?」
《極短時間・限定範囲に気圧0、真空地帯を発生させました》
羽ばたきによって一瞬だけ、燃焼区域を包み込むように局所的な低圧領域を形成。
酸素の供給を断つ。
炎とは、燃える物だけでは存在出来ない。
燃焼の三要素、燃料・熱・酸素。
その一つが奪われた事で、現象としての燃焼が継続出来なくなって火が消えたのだ。
ゴウッ!!
一瞬だけ外界に弾き出されていた空気が、急激に戻っていく。人間の生命活動へ深刻な影響が生じる前に、周辺気圧は正常化していた。
ナウシカは既に走り出していた。
《ナウシカ様、内部構造が不安定です》
「生きてる人がいるんでしょう!」
《肯定します》
「なら行く!」
《……承知しました》
リーベも随行した。
止めても無駄なのは、既に学習済みだった。
壊れた船体の隙間、折れ曲がった金属、焦げ臭い煙、呻き声…
「誰か! 誰か生きてる!?」
ナウシカが瓦礫を掻き分けていく。
《右前方、11メートルに生存者を確認》
「案内して!」
《こちらです》
瓦礫に押し潰されるようにして、一人の少女が倒れていた。ナウシカは瓦礫を押し退けて、少女の体を引きずり出す。
装飾の施された服を着ていてまだ若い。ナウシカより少し年下だろうか。先程窓から見えた少女だ。両手が虜囚のように、鎖に繋がれている。
「しっかりして!」
ナウシカが少女を抱き起こす。少女は苦しそうに目を開いた。
「……ここは……」
「風の谷よ。もう大丈夫」
《重度の外傷を確認》
「リーベ!」
《治療を開始します》
具体的な指示を待たず羽根の先端から細いワイヤーが伸びて、少女の体へ触れた。ワイヤーは生体を治療する為の器具であると同時にリーベの触覚でもあり、治療と診断が並行して行なわれていく。
《肋骨複数骨折。腹腔内出血。右肺損傷。全身に打撲及び裂傷》
「助けられる?」
《お任せください》
少女は薄く目を開き、視界を埋め尽くすような巨大な紅い機械鳥を見た。
「……何……それ……」
「この子はリーベ。私の……」
ナウシカは一瞬言葉に詰まった。
護衛?
機械?
友達?
どれも正しくはあるのだろうが、どうもしっくり来ない。
「……仲間よ」
ひとまずはそれが最も正確な表現に思えた。
《……》
リーベの眼が、僅かにナウシカへ向いた。しかし今は治療が優先である。
《処置を継続します》
効果はあったのだろう。少女の呼吸が、少しずつ安定していく。
「名前は?」
ナウシカが問い掛ける。
「……ラステル……」
「ラステル?」
「ペジテの……ラステル……」
その時だった。
少し離れた場所、崩れた船体の奥深くから「ドクン」と何かが脈打つ、心臓の鼓動音のような響きが聞こえた。微かであった為、人間の聴覚では拾えなかったものだろう。何千倍も発達した五感を持つリーベだからこそ捉えられたものだ。
《……》
機械鳥の頭が上がる。
先程検出した、異常に巨大な生命反応。
もう一度、ドクンという鼓動が確認された。
紅い機械神獣は、船の残骸の陰を睨んだ。
《生体反応、継続》
その声はナウシカがこれまで聞いた中で、最も警戒に満ちていた。