一夜明け、風の谷では艦隊の出発準備をする人々の声とエンジン音が響いていた。
谷のオンボロバージへ食料や水が積み込まれ、ガンシップにも燃料が補充されてコルベットに積み込まれる。
コルベットに乗り込むのはナウシカと、ミト達谷の男五人。
目的地は工房都市ペジテ。
もっとも、ナウシカ達からすれば旅に出る訳ではない。事実上の人質である。
「姫ねえさま!」
コルベットに乗り込もうとしていたナウシカの元へ、子供達が駆け寄った。小さな包みを差し出す。
「これ、みんなで集めたの」
「チコの実」
「姫ねえさまにあげます」
「みんな…こんなに沢山、大変だったろうに…ありがとう」
ナウシカは笑って受け取ると、子供達を抱き寄せた。
「ウエーン!」
「姫ねえさま、かわいそう」
「ありがとう、大事に食べるからね」
努めて、ナウシカの声は穏やかだった。
だが子供達との別れすら、十分には行なわせてくれないようだった。
「搭乗急げ、出発だ!!」
兵士がエンジン音に負けじと大声で叫んだ。
「さぁみんな、もう泣かないで。大丈夫よ、私はすぐに帰ってくるわ」
「本当に?」
「あら、私が嘘ついた事あった?」
「ない…けど…」
「ね?」
「うん…ホントだよね?」
「うん、ホントのホントよ」
そう言って、ナウシカは視線を上げた。子供達のすぐ後ろには、リーベが立っている。
普段より明らかに口数が少なかった。機械であるリーベに表情は無いが、これが不満の所作だという事を見抜くのに大した推理力を必要とはしなかった。少しだけ、ナウシカは苦笑する。
「リーベ」
《はい》
「私が帰って来るまで、谷をお願い」
《ナウシカ様、私の同行を強く推奨します》
「駄目よ」
即答だった。
《何故でしょう》
「あなたまで来たら、谷を守る人がいなくなるもの」
《……》
「昨日みたいな事が、また起こるかも知れないでしょう?」
《その可能性は否定出来ません…が…》
「だからお願い」
ナウシカは背伸びすると、リーベの嘴を撫でた。
「みんなを守って」
《ナウシカ様の生命兆候を直接監視出来なくなります》
「大丈夫」
《……》
またその言葉だった。
「ミト達も一緒よ。それに、すぐ戻ってくるわ」
《……承知しました》
不承不承。
人間であれば、そう表現するのが最も近かった。リーベが人間だったのならきっと今は百の苦虫を噛み潰したような渋面を浮かべているのだろう。先程の所作からして、リーベは内心を外に出ないよう包み隠すのは、あまり上手いとは言えないようだった。
《風の谷及び住民の保護を継続します》
「ありがとう」
ナウシカは振り返ると、コルベットへと乗り込んでいった。滑走を始めた飛行船を、谷の人々が追い掛けていく。
「姫様を頼むぞー!」
「姫ねえさまー!」
「気を付けてー!」
「早く帰ってきてねー!」
子供達が手を振る。
ナウシカも大きく手を振り返した。
やがてコルベットは大地から離れ、高度を上げていく。
人々の姿が小さくなる。
ナウシカは最後まで手を振っていた。
リーベは機影が空の彼方へ消えるまで、じっと見送っていた。
トルメキアの占領下に置かれた風の谷にあって、リーベだけはほぼ完全に自由だった。
正確には、誰にも拘束する方法が無かった。
武装解除しようにも、武器は機体内部へ組み込まれている。
移動を制限しようにも鎖程度では意味が無い、鋼鉄製の鎖も彼女は藁で造られているかのように引き千切ってしまうだろう。
監視しようにも空を飛ぶ。命令しようにもナウシカ以外には従わない。
無理に力尽くで従わせようとすれば昨日本人が宣言した通り、風の谷に展開している全軍が五分足らずで壊滅する可能性がある。少なくとも自己申告によれば失うものを恐れなければ、それが出来る。
結局トルメキア軍が下した結論は、簡単なものだった。
暴れない限り放置する。極めて賢明で単純で、そして消極的であり軍事大国の精鋭としては惨めな結論だった。
リーベも、彼等を積極的に敵視する理由は無かった。
ナウシカからは谷を守るよう命じられている。ならば、その命令を遂行するだけである。
《胞子反応無し》
墜落船の周辺から農地、水路、家屋、風車、森…人間では見落としかねない場所を、一つずつ虱潰しに走査していく。
腐海の胞子を一粒でも見逃せば、後々瘴気を出して谷全体が危険に晒される可能性がある。
地味ではあるが、しかし非常に重要な仕事だった。
その夜も、リーベは一人、谷の上空を飛び続けた。
翌日の夕刻、リーベの胸部に内蔵されている二機のフェーズドアレイレーダーが、接近する機影を捉えた。
《むっ》
谷の外縁に待機していた彼女の頭が上がった。
《航空機接近》
数は一…いや二機。
エンジン音のパターンや機影から機種を識別。
先頭を飛ぶのは風の谷のガンシップ。そして、後部にバージを牽引している。
《友軍機の帰還を確認》
リーベは飛行するとガンシップの前に出て、迎えを兼ねて着陸地点までの誘導を行なおうとした。
《うっ?》
しかし接近するにつれて、演算結果に異常が生じた。
《……》
バージにはナウシカの生命反応が無い。さりとてガンシップにも無い。
光学カメラによる確認、赤外線・X線、音響、電子風による生体走査…どんな手段で何度調べても、ナウシカが居ない。
ガンシップが高度を低くすると、リーベは上昇し、その後すぐ脇に降り立った。
着陸したガンシップのハッチが開く。
「おい、急げ!」
「クシャナを降ろせ!」
最初に姿を見せたのはミトだった。
《ミト様》
「リーベ!」
続いて谷の男達、そして拘束されたクシャナ。
降りてきたのはそれだけ。先程のスキャン結果とも一致する。一致するが…
リーベの頭が動いてガンシップとバージをもう一度、全てを走査した。結果は同じだった。
《ナウシカ様は?》
ミトの表情が固まった。
「……」
《ナウシカ様はどこですか?》
「リーベ、聞いてくれ」
《質問に回答してください》
いつもの丁寧な口調だが、今は微妙な圧迫感がそこにあった。
「途中で……襲われた」
《誰に?》
「ペジテのガンシップだ」
リーベのカメラアイが、細かく動く。
《詳細を》
「ペジテに移動中に、トルメキアの艦隊が攻撃された。コルベット一隻を残して、殆どやられた」
クシャナが苦々しい顔を浮かべるのが視界の端に入った。
「俺達もガンシップで脱出したが、腐海へ降りるしかなかった」
《その時点では、ナウシカ様は生存していましたか?》
「ああ」
即答だった。
《負傷は?》
「…してなかった」
《…?》
ミトの言葉には妙な間があったようだが…表情や視線、心拍数や発汗から嘘は言っていないと電子頭脳は判定したので、この僅かな疑問はリーベは無視する事にした。今はナウシカの安否を確認するのが最優先だ。
《続けてください》
「ペジテのガンシップも落ちたんだ」
ミトの拳が握られた。
「……」
「蟲達の動きから、パイロットはまだ生きているらしかった。彼を助けると言って、姫様はメーヴェで飛び出して行った」
《単独で?》
バカなと続けそうな声色だったが、辛うじてリーベはそれをしなかった。代わりに《続けてください》と言った。
「一時間経って戻らなければ、俺達だけで谷へ帰れと言い残してな」
《…一時間》
「…ああ」
普段ならいざ知らず、船やガンシップが落下した直後であれば蟲達は極めて興奮状態にあったと想像に難くない。そんな腐海では、長すぎる時間だ。
「二時間待った」
別の城オジが言う。
「腐海の上空を旋回しながら、ずっと待ったんじゃ」
「だが蟲はどんどん増えてくる。燃料も保たない。このままじゃ全員帰れなくなる」
ミトが唇を噛んだ。
「……だから、引き返すしかなかったんだ」
《……》
リーベは何も言わなかった。
ナウシカからの命令は風の谷を守ること。
対して現在の状況はどうか。
主人の所在が不明、最終確認地点は腐海、単独行動中、敵対勢力が存在、大型蟲が多数存在、生死不明。
優先順位を比較する必要すら無かった。
《ナウシカ様の捜索及び安否確認を最優先します》
「リーベ?」
《谷の防衛については、私が帰還するまで可能な限り現在の人員で維持してください》
「待て、お前どこへ――」
リーベの、翼長12メートルに迫ろうという翼が広がった。
それを見た瞬間、クシャナの顔色が変わる。
「全員伏せろ!」
《周辺への衝撃は遮断します》
次の瞬間、紅い機械神獣の姿が消えた。
「……は?」
消えた。
誰の目にも、そうとしか見えなかった。
「あそこだ!!」
誰かが声を上げて、上空を指差した。
ほんの一瞬前まで目の前にいた巨体が、既に空の彼方へ移動している。
そこからまるで、否、まさに流星、一筋の光の軌跡となって空の彼方、ペジテの方角へと飛び去った。
遅れて雲の一部だけが、真っ直ぐ裂ける。
爆音は無く、衝撃波も来ない。
地面の砂すら舞っていなかった。
「……」
クシャナは空を見上げたまま黙っていた。
クロトワならばあれを見て、さぞ苦い笑いを浮かべた事だろう。
自分達は奴を距離によって隔離出来ると思っていたが、それは過ちであったと。
リーベは空を切り裂くように進んでいた。谷の人間達が知る彼女の速度とは、比較にもならない。艦隊が襲撃を受けて墜落したと思しき座標まで風の谷からおよそ1500キロあったが、3分あまりで到着した。
ただし腐海へ入る直前からは、大幅に減速した。
ここからはただ速ければ良いというものではない。
樹冠、胞子、無数の蟲など様々な不確定要素が存在している。
そして何より、捜索対象を高速で通り過ぎて見逃しては意味が無い。
《周辺に生体反応、多数》
腐海の空を、巨大な羽虫が飛んでいる。これは大王ヤンマと呼ばれる蟲で森の見張り役、異変があればすぐに他の蟲に知らせるだろう。
普段なら森に侵入する者があれば何匹かは警戒し、近付いてくる。
だが今日は違った。
リーベの喉部から、人間の可聴域を超えた聞こえない音が放たれていた。
先日、風の谷へ墜落したウシアブが仲間を呼ぼうとして発した音を、リーベは詳細に記録していた。
ただし同じ音を再生している訳ではない。
あの時の救援信号には、種を識別する為の基本的な周波数構成と、危険を知らせる変調成分が重なっていた。後者まで再現すれば、逆に蟲を呼び寄せてしまう。
リーベが使用しているのは前者のみ。
そこへ、ナウシカが使用する蟲笛の音響特性から得た情報も組み合わせて再現した音が、声帯を兼ねる超音波増幅装置から発信されていた。
この音の意味するところを人間の言葉に訳すならば《敵ではない》、これが最も適切だったろう。
無論、腐海に生息する全ての蟲に同じ信号が通用する保証は無い。
それでも実際に、近付いて来た羽虫の群れは一度触角を動かすと進路を変えた。
完全なものではなかったろうが、人間で言えば同じ言葉が地方や部族によるなまりや方言に近い程度の違いであったのだろう。
《有効性を確認》
リーベは更に奥へ進んだ。目指す場所は決まっている。
ガンシップとバージが不時着し、ミト達がナウシカと別れた王蟲の巣である湖だ。
確かに飛んでいると、いつの間にか下は地面ではなく水面になっていた。やがて木々がまばらになり、ガンシップが着水するのにも十分であったろう広さの空間に出た。
《位置確認》
リーベは高度を落とす。
湖面、周辺の樹木、岩を見渡し、センサーをフル動員して走査する。
生命反応は多数、だが人間のものは無い。
メーヴェも、その残骸も見当たらない。
少なくともこの近くには居ない。
そこからミトの証言に従い、ペジテのガンシップが墜落してナウシカが飛び去った方向へと進む。
十秒と掛からなかった。
《航空機の残骸を確認》
腐海の植物へ突っ込むようにして、バラバラになった機体が横たわっていた。
形状の識別と、損傷状態の確認…話にあったペジテのガンシップと一致する。
リーベは着地した。センサーは残骸の中に生命反応を捉えない。
《生存者無し》
いや違う。より正確には人間の死体そのものが無い。蟲に喰われたにしても、血痕や骨も残っていなかった。まだそれほど時間が経過していない筈なのに。
機体の周辺をスキャンする。
《……》
何匹もの蟲が死んでいた。
機体からやや離れた場所に数匹、更にその先にも死骸が点在している。
規則性がある。死骸には穴が穿たれていた。銃創だ。この蟲達は銃で撃ち殺されている。
《火器による損傷、弾の口径からして使用されたのは、携行火器によるものと断定》
つまりガンシップから脱出した何者かが、襲って来る蟲を撃ちながら逃げたのだ。まず蟲達がそれを察知して、その蟲達の動きからナウシカがこの事実を知ったのだ。
死骸が、そのまま道標になっている。
リーベは道を辿った。一つ、また一つ、次、またその次へと。
だがその道は、途中で途切れた。
《……》
再び周囲を走査する。
足跡の一つ、血痕の一滴、布片の一片、金属の欠片、人体由来有機物の1グラムも見逃さないとセンサーの感度を上げる。
しかし、該当無し。ここから探すべき方向が分からない。
《再走査》
結果は同じだった。
《むうう~っ》
行き詰まって、苛立ちと分析出来る感情を抱きつつあったリーベの電子頭脳に、一つの記録が呼び出された。
――これ!
――みんなで集めたの
――姫ねえさまにあげる
《そうか!》
ナウシカは出発前、チコの実を子供達から受け取っている。
リーベの感覚器官が切り替わった。
人間の何千倍も発達した嗅覚が空気中へ漂う揮発性有機化合物を、一種類ずつ分離。
腐海の植物、胞子、水、蟲の体液、腐敗物、土などなど…数え切れないほどの匂いが混ざっている。
その中から、探すべき匂いを選り分ける。
《……検出》
極めて微量。だが確かに反応があった。
チコの実に含まれる芳香成分。しかも、谷で採取されていた実の分析データと一致率が高い。
《方向解析》
横ではない。
下だ。
地面の下から漂ってくる。
《……》
リーベが視線を落とす。
眼下には流砂があった。
普通ならばそこで終わりだ。人間が踏み込めば、そのまま飲み込まれて二次遭難するだけのこと。
だがリーベには関係無い。
《突入します》
一度上昇して勢いを付けると、翼を折りたたんで鏃のようになり、頭から。一気に流砂へ飛び込んだ。
砂、朽ちた植物の根、腐敗した有機物、地下水、周囲の全てをガードシステムで押し退けながら、リーベは垂直に降下していく。
潜行すること数十メートル。
その更に下で突然、全ての抵抗が消えた。
広大な空洞、腐海の底の空間。
リーベは空中で姿勢を立て直した。
地上とは全く違う景色だった。枯れた木が天井を支え、石なった木が砕けて降り積もっている。
静かだった。
そして。
《大気成分を分析…有害物質濃度、低》
地上の腐海とは逆に空気が澄んでいる。まだ完全な除染には至らないものの、この程度であればマスク無しでもナウシカ達は生存出来るレベルであろう。
しかし今はそれ自体は重要な事ではない。大切なのはこれでナウシカの生存の可能性が少し上がった事だった。
《ナウシカ様!!》
周囲へ呼び掛けるも、返事は無かった。
《ナウシカ様!!》
もう一度呼び掛けると共に、音の反響による定位・エコーロケーションも並行して行なう。
視覚と音の反響が描き出す像をシンクロさせるが、望む姿は得られない。
生命反応を探す。
センサーが捕捉する反応は多数。
小動物、菌類、植物など。
人間は…
――無し
《むううっ》
焦りを覚えつつ、リーベが移動する。
そしてふと視界を下げた、その時だった。
地面の上に、青い物が落ちているのを見付けた。
《むっ!!》
急降下して着地、それを拾い上げる。
青い布。間違いない、ナウシカが使用していたフードだった。
《所有者照合》
付着している皮脂、汗、毛髪、微量の血液、DNA。
全ての検査結果が「MATCH」「PRIMARY PROTECTION TARGET」の結果を示す。
《ナウシカ様の装備品と確認》
ナウシカはここに居た。
少なくとも、ここまでは来た。
すぐに周囲を走査する。
死体…無し。大量の血液…無し。骨…無し。衣服…無し。人体組織…無し。メーヴェの残骸…無し。
《これは…》
死亡を示す痕跡が無い。ならば、生存している可能性が高い。
皮肉なものである。今までは散々センサーの反応を求めて腐海を飛び回っていたのに、今は反応が無い事に胸を撫で下ろすなど。
しかし感傷に浸っていたのもそこまでだった。電子頭脳は生身の脳と違って、長い時間無駄をするようには造られていない。
《ナウシカ様は、この地点から移動した》
問題はどちらへ行ったのかだが…
足跡は残っていない。恐らくメーヴェで飛んでいったのだろう。
それに地下水、風、砂、巨大な植物の根…地形そのものが痕跡を消している。
チコの実の匂いも、ここで途切れていた。
リーベは暫く静止した。
カメラアイが周囲を見回す。数百キロ先の敵影も見逃さない光学的な「目」も、望む姿を捉える事は出来なかった。
どちらへ行ったのか…分からない。
《むう》
ならば、答えは簡単だった。
《全域を捜索します》
リーベは飛翔した。
まずフードを発見した地点を中心として、円を描く。
一周…反応無し。
旋回半径を拡大。
再び一周…反応無し。
旋回半径を更に拡大。
描く軌道は蚊取り線香を、中心から外側へ辿るような螺旋。
光学、赤外線、X線、音響、生体電位、呼吸、心拍、人体形状、衣服、メーヴェ、ナウシカの身体的特徴等、ありとあらゆる条件を重ねていく。
高速で飛べば、その分一度に調べられる時間は短くなる。
故に高度と速度を調整し、広い場所は高高度から。複雑な地形は低空で。反応を拾えば、その地点だけ精密走査、何も無ければ次。
一周、更に外側へもう一周。
人間ならば、どちらへ行ったか分からなければ、途方に暮れるしかなかっただろう。
リーベは違った。任務の放棄、諦めるという選択肢を選べるほど、電子頭脳は優秀ではない。
方向が分からないのであれば、方向を決める必要など無い。全て探せば良い。
北も南も東も西も。全て。
《捜索を継続します》
紅い機械神獣は、腐海の底から巨大な螺旋を描き始めた。
主人を見付けるまで、その軌道が止まる理由は無かった。