「釈放だと?」
谷の外れにある船の残骸。その一室の中に拘束されたクシャナは訪れたユパ達の言葉を、子供が出された問題に見当外れの答えを返した時の親のような口調で鸚鵡返しした。
「巨神兵を酸の湖深く沈め、本国へ帰ってくれぬか。谷に残る兵は少ない…今戦うのは容易いが、これ以上の犠牲は無意味だ」
クシャナは甘い睦言を聞いたように、首を振った。
「奴には火も水も効かぬ。自ら歩き出すまでは最早動かす事も叶わん。分からぬか? 既に私もお前達も、後戻りは出来ぬのだ。あの鳥、リーベであっても破壊は不可能だと言われたろう?」
答えは無かったが、谷の男達の表情や視線の動きが雄弁に語っていた。
実際に、リーベに巨神兵を破壊出来るのかと問うた時、彼女は即答した。《それは不可能です》と、続けてこうも言った。《そもそも私は戦う為のマシンではありません》と。
「強大な力を他国が持つ事への恐怖故に、私は本国からペジテ攻略を命令された。奴と、そしてリーベの存在が知れた以上、列強諸国は次々とこの地に大軍を送り込むであろう。お前達に残された道は一つしかない。巨神兵を復活させ、列強の干渉をはね除けて奴と共に生きる事だ」
クシャナの言葉は厳しいが、どこか全てを悟り諦めたように穏やかな表情でもあった。
「見ろ」
甲冑の手甲部を外す。
手首から先は、何も無い。義手だったのだ。
「おおっ…」
「蟲にやられたか…」
「我が夫となる者は、更におぞましきものを見るだろう。腐海を焼き、蟲を殺し、人間の世界を取り戻すのに何を躊躇う?」
僅かに語気が強くなって、それからまた穏やかに戻った。
「我が軍がペジテから奪ったように、今度はお前達が我が軍から奴を奪うがいい」
撃つからには撃たれること、奪うからには奪われることを受け入れる。それがクシャナの矜恃であるのかも知れなかった。
「…巨神兵は復活させぬ…」
高空を、紅い機械神獣が飛び続けていた。この飛行の出発点であり中心は、ナウシカのフードを発見した地点。そこから少しずつ旋回半径を広げ、巨大な螺旋を描いていく。
一周して反応無し。ならば更に外側へ。二周目、反応無し。
《捜索範囲を拡大》
数百キロ先の目標も逃さない光学カメラである両眼、赤外線、電磁波、音響、大気成分、生体反応…
人間一人を探すには、あまりにも広大な腐海。その内部にナウシカの姿は見付からなかったので、捜索範囲は更に拡大され広大な砂漠にまでリーベは飛び出していた。
しかし彼女は焦りこそ覚えていても、途方に暮れるという事は無い。
見付からないのであれば、見付かるまで範囲を広げ捜索し続ける。非常に単純な結論であり、それ以外は無い。
《むっ》
その時、胸部に内蔵された二機のフェーズドアレイレーダーが、遠方に一つの反応を捉えた。
《航空機を確認》
距離、高度、速度、進行方向、機影…登録されている航空機情報と照合して分析。データベースは僅かな時間で該当する機種を検索し終えた。
《トルメキアのコルベットか》
進路を僅かに変更し、接近する。
無視する理由は無かった。コルベットは風の谷とペジテを結ぶ直線軌道を移動している。
ナウシカが乗っている可能性が、零とは言い切れない。
数十秒後、視覚による識別が可能な距離まで近付いた事で、より詳細な全体像が見えてくる。
《風の谷へ侵攻して来た艦隊の一隻だな》
ペジテのガンシップの攻撃から逃れ、谷に帰還した生き残りの船だ。それが何故ここにいるのか。
電子頭脳が予測される解をすぐに弾き出す。
ペジテによる襲撃でトルメキア艦隊は大損害を被り、風の谷の駐留軍からすれば拘束されているクシャナは生死不明。そしてナウシカ捜索の為にリーベまで谷を離れた。
ならば残っている戦力を動かす好機である。
命令を下したのは恐らくクロトワ。
ペジテ残党の掃討、あるいは残存部隊の再編を目的として動かしたのだろう。
尤も、そんな事情はリーベにとって、どうでも良い事ですらない。
《ナウシカ様の生命反応……無し》
ゼロに近かった可能性が完全に消えた今、用は無い。
進路を戻そうとするが…その瞬間だった。
コルベットの船腹に据え付けられた機銃が火を噴いた。
人間が受ければ跡形も残らない恐ろしい破壊力を秘めた金属の雨が横殴りに降り注ぐ。リーベの電脳は一応ながら「回避」を選択肢として提示するが…
《面倒だ》
リーベはそれを却下した。弾丸の雨はリーベの周囲に張り巡らされた不可視の障壁へ降り注ぎ…潰れ、弾かれ、逸らされ、掠り傷一つ付けられないどころかそもそも相対速度を合わせて静止しているも同然の相手に、触れる事すら出来なかった。
第二射、第三射、それで駄目なら主砲による砲撃に移行するものの結果は同じ。
普段のリーベならば、警告や攻撃停止の要求、相手側の事情の分析や必要とあれば非殺傷手段を選択するなどしたであろう。
だが今は主人が行方不明であり、一秒も早く捜索へ戻らなければならない。
黄金色の眼が不機嫌に細められたようだった。
《バカめ、そんな攻撃がこの私に通用するか!!》
おもむろに嘴が開き、口腔内に光が集束していく。
《サンダーキャノン、出力制限》
一閃。
吐き出された青白い光が空を貫いた。
出力を制限されたとは言え、荷電粒子ビームの直撃を受けてコルベットの左舷側機銃座が吹き飛んだ。
二射目がエンジンの一基を貫いて火を噴かせる。
三射目は反対側のエンジンを薄紙に焼け火箸を触れさせたように何の抵抗感も無く貫いて爆発させた。
飛行能力を失ったコルベットが大きく傾く。
《撃墜を確認》
完全に破壊した訳ではない。
最低限、乗員が不時着を試みられるだけの姿勢制御能力は残した。それ以上面倒を見る理由も無い。重要なのはこれで彼等がもう、自分の任務の邪魔を出来なくなるという一点のみであった。
リーベは即座に旋回した。
《捜索を再開します》
墜落していくコルベットを振り返る事すらしなかった。
一方、腐海から遠く離れた上空、ペジテの大型飛行船――ブリックの内部。
「開けて!!」
ドン!
ナウシカが扉を叩く。
「お願い、開けて!」
返事は無い。
もう一度、力いっぱい叩く。
ドン!!
当然ながら、びくともしない。
現在彼女が閉じ込められているのは食料庫。
扉は頑丈な造りになっていて、外から鍵まで掛けられている。よしんばこの扉を開けられた所で、すぐそこには見張りも立っているだろう。客観的な見方をすると脱出は甚だ困難であると言わざるを得ない。
しかしそんな事は関係無かった。
「お願いだから聞いて! 風の谷のみんなが危ないの!」
声を張り上げる。
しかし、返ってくるのは沈黙だけ。
「……」
ナウシカは唇を噛んだ。
ここへ来るまでの出来事を思い出す。
腐海へ墜落したペジテのガンシップ、その乗り手の少年アスベル。風の谷に墜落したトルメキアの大型船に囚われていたラステルの双子の兄。
メーヴェに乗って腐海を脱出し、彼と共に訪れた工業都市ペジテ。
しかし、そこにかつての繁栄の姿は無かった。
砂漠に、まるで道筋のように並んでいた蟲の死骸。
建物は破壊されて、生きている者は誰も居なかった。人も蟲も、全て息絶えていた。占領していたトルメキア軍は蟲に襲われて全滅しており、それを行なった蟲もまた飢餓と腐海の外に長く居すぎた為であろう、死に絶えていた。
市内には王蟲が突っ込んで居て、センタードームまで破壊されていた。
ここまで破壊されていては最早修復は不可能であろう。これでは子供一人、鳥の一羽も養えない。
そして知った。
あれは偶然ではない。
ペジテの人々が蟲を自分達の街へと誘導したのだ。
都市を占領したトルメキア軍を追い出す為に、自分達の故郷ごと蟲に襲わせたのだ。
「どうして……」
彼等にも言い分はあった。
巨神兵をトルメキアから取り戻すこと。
そして、巨神兵の力で腐海を焼き払い、人間の住める世界を取り戻す。
巨神兵さえ手に入れれば、街が腐海に呑まれてもすぐ焼き払って取り戻せると見ているから、自分達の街を蟲に襲わせるなどという暴挙が出来たのだ。
彼等は言った。
自分達はトルメキアとは違う。
巨神兵を、ただ破壊する為の道具にはしない、世界を救う為に使うのだと。
「……嘘よ」
ナウシカには、その言葉がどうしても理解出来なかった。
世界を救う、人の世界を取り戻す。
美しく、耳に心地よく響く言葉である。だがその為に彼等は、自分達の街を敵ごと蟲に呑ませた。
そして今度は、風の谷を…
「それじゃ結局、トルメキアと同じじゃない……」
誰を救い、何を守るのか。
未来と世界のみんなを救う為なら、今ここに生きている一部の人達は、いくら犠牲にしても構わないのか。じゃあ世界を救う為に必要な犠牲とは、一体何人なのか。
谷には、子供達がいる。
大ババ様も、ミト達も居る。
病人だって居るし、畑があり家畜がいて、風車がある。
人々が何世代にも渡って築いてきた暮らしがある。
その全てを、彼等は「世界を救う」という言葉の中へ押し込めて、失っても構わない物として扱おうとしている。
「そんなの……」
拳を握る。
「そんなの、絶対に間違ってる!」
扉へ体当たりした。
ゴンッ!!
「痛っ……!」
肩を押さえる。
扉は相変わらず、少しも動いていない。
当然だった。
ナウシカは強いが、同時に普通の人間である。
飛行船の隔壁を身一つで壊せるようには出来ていない。
「どうしよう……」
メーヴェは取り上げられ、武器も無い。ここから出る手段も、谷のみんなに危険を知らせる術も、何も無い。
今や砂時計から落ちる一粒が宝石よりもかけがえのないものとなった時間だけが、無為に過ぎて消費されていく。
今こうしている間にも、蟲の群れは風の谷へ向かっているかも知れない。
…と、言うより向かっているに決まっているのだ。ペジテの人々が襲わせる為に仕向けているのだから。
「リーベ……」
思わず、その名前が口から漏れた。
「……」
だが、彼女は谷へ残した。
他ならぬ自分自身が命令したのだ。
谷のみんなを守って、と。
今更、こんな遠くまで、しかもこんなタイミングで都合良く助けに来てくれなんて、都合の良い願いだろう。
「……馬鹿ね」
ナウシカは自嘲するように、小さく笑った。
「何考えてるの、私……」
しかし、それで気持ちが慰められたのはほんの数秒に過ぎなかった。
すぐに、苛立ちと無力感が取って代わる。
「くそぉっ!!」
握り締めた拳を思い切りドアに叩き付けたその瞬間、
ガガガガガッ…!!
ブリックが、空中では有り得ない地震のように揺れた。
「えっ…」
ナウシカは戸惑ったように、たった今扉に叩き付けた拳を見る。
「……」
今度は、扉を思い切り蹴飛ばしてみた。
ガガガガッ…!!
再び、ブリックが揺れる。
「…………」
何が起こっているのか、段々と分かり掛けてきた。
ナウシカはせめてもの気休めになるのか、狭い食料庫の中で数歩ばかり後退して、扉と反対側の壁に背中をピタリと付けた。
遡る事数分。
リーベが描く螺旋は、更にその径を大きくしていた。
《捜索範囲、拡大》
上空を飛行中の船も地上を移動するトリウマも、候補になり得る物を、一つずつ確認していく。
その時、センサーが再び反応を捉えた。
《むっ》
航空機反応、数は一。
先程のコルベットとは違う。大型で、速度は遅い。進路は、風の谷へ向かっている。
《機種照合》
登録情報に完全一致する機体は無い。
だが外形・推進方式・構造等はミトから聞かされていたペジテ系航空機との共通点が多い。
《むうっ》
ペジテの船。
ナウシカが助けに向かった相手もペジテの人間という事だった。
電子頭脳の解答は、調査価値あり。
リーベは高度を上げて当該船へ接近。
まだブリックの乗員からは、紅い点にしか見えていない。
窓の傍に居た乗員が「紅い鳥…?」と、そう呟いた。
リーベは船の死角を縫うように移動し、上方百メートルの位置を取るとほぼゼロになるように相対速度を合わせる。
額の多重走査アイが開いた。スキャン開始。
《船内に多数の人間反応》
軍人の他に、女子供も相当数居るようだ。全部で百人近い。
発信されたX線や電子風が隔壁を透過して、得られた情報をリーベへと伝えていく。
心拍・体温・身長・骨格・呼吸・生体電位・身体寸法…あらゆる情報を一人ずつ、あらゆる角度から照合していく。
UNMATCH
《次》
UNMATCH
《次》
UNMATCH
《次》
だがある時一つの反応で、演算が止まった。
正確には、一瞬で照合項目が数百へ増えた。
骨格比率・心拍波形・呼吸特性・体表温度分布・生体電位・毛髪・衣服、他にもあらん限りの要素が照会され、そして弾き出された結果は…
PRIMARY PROTECTION TARGET
《うっ》
自己診断プログラムを走らせる。誤認率算定…限りなくゼロ。
黄金色の両眼がギラリと光り、明確にブリックを睨み据えた。
《ナウシカ様を発見》
捜索任務は終了、同時に次の任務へ移行する。
《そこに居られましたか、今助けに行きます》
ペジテの船内。
「な、なんだこいつは!!」
「撃てっ、撃てっ!!」
食料庫の外から、兵士達の怒号が聞こえる。それに機銃の発砲音も、連続で聞こえてくる。
ナウシカが油断無く入り口から距離を取って、背中をぴったりと壁にくっつけた直後、薄い木の板をぶち破るようにしてこれまで彼女がいくら暴れてもビクともしなかった入り口の扉が、木っ端微塵に吹き飛んだ。
舞い散る破片の中から姿を現したのは、黄金の両眼を輝かせた紅い鳥。
《ナウシカ様!!》
「リーベ!」
ナウシカは両腕を広げて駆け寄ると、リーベの首を掻き抱いた。
《ご無事で!》
「来てくれたのね。でも、どうしてここが!?」
《説明は後ほど!》
随分と人間らしい返事だった。
ナウシカは思わず笑いそうになったが、しかしすぐに表情を引き締める。
「リーベ、大変なの!」
《承知しております。船内及び周辺情報の収集を継続中です》
廊下から兵士達が走ってきた。
「いたぞ!」
「撃て!」
銃口が向けられる。リーベが翼を広げて、ナウシカへの射線を完全に遮った。
《銃を下ろしなさい。発砲した場合、反撃します》
有無を言わさぬ口調だった。
「こいつは…旧世界の機械か…」
リーベの迫力に威圧されたのか、進むに進めないペジテ兵を押し退けるようにして、年配の男が出て来た。蟲の襲撃やペジテの方針を決定していたであろう指導者だ。
「巨神兵を使おうとする我々を非難しておきながら、自分達は同じ旧世界の技術の恩恵に与る、それが風の谷のやり方か」
見下げ果てたような言い方だった。
「違う、私は…」
《お黙りなさい》
銃を向けた兵士を威圧するよりも、今のリーベの方が強い口調だった。しかし声は、どこまでも静かで落ち着いている。
《確かに私も巨神兵も同じ喪われた技術で創られたもの。だがナウシカ様は私の力を怪我人や病人の治療の為に使われ、自分の意思を他人に強制する為に使われた事は一度も無い。然るにお前達は、巨神兵を使う使わない以前にその所有権を巡る段階で他人の意思も命も踏みにじっている。そこに天地の隔たりがあるのだ》
「……」
ぐっと、男は押し黙った。
《ラステルは生きている。谷を蟲に襲わせたら、お前達は同胞殺しの業も背負う事になるな》
皮肉っぽく、リーベはそう言い放った。
「リーベ、今議論している暇は無いわ」
背中越しに、ナウシカが声を掛ける。その声や表情からは、僅かな時間だけ浮かんでいた迷いや悩みが消えていた。
《はい》
「谷に向かって」
《承知しました》
すっと、リーベが座って背中を向けてくる。
今、ナウシカの目の前にあるのはリーベの背中、そしてそこに据えられた豪奢な玉座。今まで何度勧められても座らなかった場所だった。
自分にはメーヴェがある。それに風に乗って飛ぶのが好きだから。
何より、たった一人の人間だけを特別扱いする為に造られたようなその椅子が、どうしても好きになれなかった。
だが今は、そんな事を言っている場合ではない。
風の谷、子供達、大ババ様、ユパ様、ミト達、畑、風車…あの場所にある全てを守る為ならば。
ナウシカは躊躇わなかった。
初めてリーベの背中へ登る。
そして玉座へ腰を下ろした。
《……》
リーベが僅かに首を動かす。
まるで。
何かを確認するように。
その時、兵士達を掻き分けて一人の少年が姿を見せた。
「ナウシカ、行ってくれ!! 僕達の為にも。妹を…ラステルを頼む!!」
「アスベル…行こう、リーベ!」
《はっ》
ナウシカは前を見る。
「谷のみんなを救うために!」
千年以上の間、唯一人の者を世界の頂点へ座らせる為に存在し続けた虚栄の玉座が今初めて、誰かを支配する為ではなく。
誰かを救う為に使われる。
《承知しました》
リーベは翼を広げ、隔壁を紙製のように突き破ると船外へ飛び出した。
そして今まで一度として、ナウシカの前では見せた事の無い速さで、風の谷へ向かって加速を始めた。