ペジテのブリックから飛び出したリーベは、ナウシカを乗せて風の谷へと向かっていた。
「は、速い!!」
振動も無いし風圧も重圧も感じないのに、ナウシカは思わず玉座の肘掛けを掴んだ。視覚から入る情報だけで、心が遙か彼方に吹き飛びそうだ。
メーヴェに乗って風を切る事には慣れている。風をよく読んで飛ぶ風使いである事には自信もあった。
しかしながら、これは話が違う。
雲が流れているのではない。置き去りになっている。
地上の景色など、瞬く間に視界の後ろへと消えていく。ナウシカが知る如何なる船も蟲も、こんな速度で飛ぶ事は出来なかった。自分の感覚が速度に追い付いていないのが理解出来る。それほど速い。
「これが、あなたの本当の力なのね!」
《現在速度は12000。更に増速中、10秒後には19800に達します。風の谷まで1000キロ、およそ二分で到着します》
「19800……!」
圧倒されるように、ナウシカは目を丸くした。風の谷が誇るガンシップが、エンジンを爆発の恐れがある危険域まで回転させて出せる速度がやっと300そこそこという所である。文字通り桁違い、しかも二つも離れている。
そして不思議な事に、これだけの超高速で飛行しているにも拘らず、玉座の周囲は凪のように穏やかだった。
風は吹かず、寒くも暑くもなく、湿度も快適そのものに保たれている。
風の谷で墜落した大型船が爆発した時にも作動したガードシステムが、空気の流れから慣性力まで制御して、玉座を中心とした空間を外界から隔離された絶対安全圏に変えていた。
風切り音も振動も、殆ど感じられない。
まるで風が落ち着いた穏やかな日に、城の庭に置かれた椅子へ腰掛けて日なたぼっこしているようだった。
無論、周囲へ衝撃波を撒き散らすような事も無い。これもガードシステムの作用なのだろう。そうでなければ翼長12メートル弱・全長9メートル・全高4メートル以上もあるリーベの巨体が飛び回るだけで、地上には甚大な被害が発生する。
「ありがとう、リーベ。これなら確実に間に合うわ!」
《礼など言っている場合ですか》
「えっ?」
《それよりナウシカ様、谷に到着したとして、どうされるおつもりですか?》
「それは勿論、みんなに危険を知らせて避難を……」
《避難、ですか》
リーベは僅かに首を傾げた。
《避難とは、住民に根こそぎ生活を捨てさせる事です。軽々に考えられてはなりません……そう、先日、私が皆様へお見せした映画で言っていたのをご記憶ですか?》
「ああ……最初は頼りなさそうなおじさまだと思ったわ」
雨の日に、子供達と一緒に見た映画をナウシカは思い出した。
「でも、王蟲の群れが押し寄せてきたら、谷は……」
《承知しております。無論、人命が最優先です。しかし、避難は最後の手段と考えるべきでしょう》
「……」
《人間は生命を維持するだけでは生きられません。衣食住・仕事・人間関係・故郷・文化……それらが失われれば、生存していたとしても、その後の生活は極めて困難になります。今日を生き延びても、明日から生きていけなければ意味がありません。時間が許す限り、生命と生活の両方を守る手段を探すべきです》
「……そうね」
ナウシカは静かに頷いた。この機械の従者の言葉が正しいだろう。
谷の人々を救いたい。
それは単に、死なせずに済ませたいというだけではない。命だけ助かっても、救ったとは言えない。
あの谷で、今まで通り笑って暮らしていて欲しいのだ。
「でも、どうやって王蟲の群れを止めるの? 方法は?」
《考えがあります》
リーベの声からは、自信が感じられた。
《ペジテの者達は、風の谷を王蟲に『襲わせる』と言ったのですね?》
「ええ」
《ならば、何らかの手段で群れを誘導している筈です》
「あっ……!」
そうだ。
王蟲が勝手に谷へ向かっている訳ではない。
ペジテの人々が自らの市に王蟲の群れを突っ込ませたように、今度は風の谷を駐留しているトルメキア軍ごと襲わせようとしているのなら、そこには必ず何らかの作為がある。
「リーベ、高度を下げて!」
《承知しました》
リーベは速度を落としつつ、首を下げて降下を開始した。
白い雲海を突き抜けると、眼下に広大な大地が現れる。そして…
「あれは……!」
ナウシカは息を呑んだ。
赤い。
大地が、無数の赤い光で埋め尽くされている。
地平線の向こう側まで続く数え切れないほどの王蟲の群れが、一塊になって移動しているのだ。
幾百千の王蟲の全ての眼が、怒りを示す真紅の攻撃色に染まっていた。要塞のように巨大な体が大地を揺らし、砂煙を巻き上げながら進んでいる。
「こんなに……!」
ナウシカの顔からは血の気が引いた。
この群れが谷へ到達すればどうなるか、考えるまでもない。口の中がカラカラになって、呑み込んだ唾は固くて苦く思えた。
《群れの進路を解析します》
リーベのカメラアイが動いた。
群れ全体の配置、進行速度、方向。個体ごとの挙動を分析し、群れの進路を弾き出す。
探すべきは、王蟲の群れが目指す先ではない。
彼等が何を追っているのか、何に導かれているのか? その対象である。
《進路前方を走査……》
リーベの両眼は数百キロメートル先の物体さえ見逃さない、遠方監視能力に優れた高性能な光学センサーである。まして群れが向かう方角を絞り込めば、探索範囲は著しく小さくなる。程なくしてターゲットは見付かった。
《むううっ》
「何? 何か見付けたの?」
《……》
「リーベ?」
《…私が言葉で説明するよりも、ご自身でご覧になった方が早いでしょう》
カシャンという機械音がして、リーベの首の付け根・人間で言えば盆の窪に当たる部分の装甲がせり上がり、背中の玉座に腰掛けるナウシカからはちょうど正面となるように、内部から一枚のモニターが現れた。
《こちらの映像は、私の視覚と同期しています。つまり私の見ているものがリアルタイムでこのモニターに表示されます》
画面に明かりが灯る。
最初は遠くの景色だった。次に小さな黒い点が拡大される。
そして更に拡大、更に画像の補正・鮮明化が繰り返されて、次第次第に全体の特徴が分かるようになっていく。
「これは……飛行ガメ?」
丸みを帯びた、壺のような形のポッド。ペジテで使用されている二人乗りの小型航空機だった。
問題はその機体それそのものではない。機体の下部からは何本ものワイヤーが伸びていた。そして…
「……!」
ナウシカは思わず玉座から腰を浮かせ、体を乗り出してモニターに食い入った。
「王蟲の子供!!」
ワイヤーに吊り下げられているのは、まだ小さな王蟲の幼体だった。
体には無数の傷があり、全身に杭が打ち込まれ体液が滴り落ちている。
小さな王蟲は苦痛にもがき、その度に自重によって杭が体に深く食い込んでいった。。
「なんて酷い事を…あの子を囮にして、群れを呼び寄せているんだ」
《原因を特定しました》
リーベの声が低くなった。
《あの幼体が発信している救援信号を、群れが追跡していると推定します》
「助けなきゃ!」
《承知しました。突入します》
「えっ?」
返事を聞くより早く、リーベは進路を変えた。速度が上がって見る見る飛行ガメが肉眼でも見えるようになり、空間の中の小さな点だったものが大きくなっていく。それほどのスピードで接近しているのだ。
「待って、リーベ! 王蟲の子を殺したら群れの暴走は――」
ナウシカは最後まで言えなかった。
飛行ガメの乗員もリーベに気付いたようだったが、遅かった。加速を始めたリーベは、数キロを1秒という速度で接近するのである。彼女に気付いて機銃を手に取り照準するよりも、リーベが肉迫して銃座の死角に入る方が早かった。
リーベはそのまま飛行ガメの真下を、矢のように通過する。そのまま、翼がワイヤーの張られた空間を薙いだ。
当然、次の瞬間、
ブツンッ!!
幼体を吊り下げていたワイヤーが、まとめて切断された。
「ああっ!!」
必然、幼体の体が宙へ投げ出される。更に必然、重力に引かれてそのまま地上へ真っ逆さま。
高度はそれほど高くない。そしてこれもまた必然、このままでは間違いなく地面へ叩き付けられる。
「リーベ!!」
ナウシカは悲壮な声を上げて従者を咎めた。
《問題ありません》
「何が…」
何がどう問題無いというのか、ナウシカがそう叫びかけた瞬間だった。
リーベの巨体が、ぐるりと空中で反転した。
宙返りして進行方向を百八十度変更。一瞬、ナウシカの視界が上下反転し、すぐに180度回って戻った。
リーベはそこから更に翼を畳み、体を捻り、落下する幼体の真下へ潜り込む。
黄金色の両眼が、幼体の動きを捕捉する。
落下速度・位置・質量・姿勢・高度…全ての要素を瞬時に演算して未来位置を予測。更に自身も降下しながら相対速度を合わせて限りなく静止状態に近付ける。そして地面へ激突する寸前、リーベの両脚が幼体の体を受け止めた。
傷を広げないよう爪が直接食い込まない位置を選び、力加減も絶妙に調整している。
幼体を保持したリーベは、そのまま翼を広げて再び上昇した。
地表ギリギリでこのマニューバが行なわれた為に、爆発が起きたように砂埃が舞い上がる。
飛行ガメの乗員達は、殆ど何が起こったのか理解する暇さえ無かった。
視界の端に紅い機械鳥の姿を捉えてから、吊り下げていた王蟲の幼体が切り落とされ、落下する幼体を鳥が掴んで飛び去るまでの全行程が5秒ほど。
あまりの速さに、追跡など出来る筈も無かった。機銃をリーベが向かってきた方向へ向けようとした時には、リーベは再びターンして既に反対方向の風の谷へ向けて飛び去っていた。
「……」
リーベの背中の玉座で、ナウシカは暫く呆然としていた。
それから、力が抜けたように背もたれに体を預ける。
「……無茶するわね」
《ナウシカ様の悪いクセが移ったのです》
「私のせい?」
《他に誰がいると?》
「……」
反論するには思い当たる節が多過ぎた。ナウシカは肩を竦めて苦笑したが、すぐに表情を引き締めた。
「それより、その子の治療をお願い!」
《既に開始しています》
「えっ?」
見ればリーベの翼端からは何本もの細いワイヤーが伸びており、それらは幼体の傷口や甲殻の隙間へと接続されていた。
医療用マニピュレーター。過日、ジルや谷の人々の治療にも使用された装置だった。
《体液の喪失が著しいですね。外傷多数、複数の器官に損傷……》
分析を進めていた所で、不意にリーベの声が途切れた。
《むう……? これは……》
「どうしたの?」
演算・再走査・照合…電子頭脳はすぐに違和感の正体を突き止めた。
《データベースとの不一致を確認》
「えっ?」
《私が持っている王蟲の生体構造データと、現在の個体との間に相当の差異が認められます》
王蟲の発生から千年もの時が流れており、生体は環境に適応して進化・変異し、ましてや個体差も存在する。リーベの中にあるデータが、現在の王蟲にそのまま適用出来るとは限らなかった。ましてや王蟲の体は人間より遥かに大きく高密度で、複雑である。
体内を満たす液体・多層構造の甲殻・独特な神経系・複数の器官が相互に補完し合う生命維持機構。どれもリーベの医療データベースに、完全に対応する情報は無かった。
《対象の生体構造を解析しつつ、外傷の修復及び生命維持を並行して実施します》
「お願い!」
《お任せください、ナウシカ様》
翼端から、更に多数のワイヤーが伸びて王蟲の幼体の体に繋がっていく。
止血・損傷器官の保護・体液組成の分析・感染防止・痛覚反応の抑制・生体組織の修復…リーベが持つ医療機能が、一斉に稼働を始める。
だが、その直後だった。
ガクンッ!!
「きゃっ!」
リーベの機体が大きく揺れた。今まで揺り籠のように安定していた飛行が、突然乱れたのだ。
思わず、ナウシカは玉座の肘掛けにしがみついた。
「リーベ、どうしたの!?」
《申し訳ありません、ナウシカ様》
彼女にしては珍しく、切迫した声だった。
《未知の生体構造の解析と修復を同時に進行させている為、演算資源の大部分が医療処理へ割り当てられています。その影響により、高度な飛行制御との並列処理が困難になっています》
大気の流れ・機体の姿勢・推進力場の出力・幼体を保持する力場の制御、それらに加えて更に未知の生物に対する精密な外科治療。いかにリーベの電子頭脳が高性能であっても、無制限に演算出来る訳ではない。
通常の飛行ならば問題無かった。
だが今は、今まで一度も治療した事の無い巨大生物の体を調べながらその生命を維持し、傷を修復し続けているのだ。これは例えるなら荒れ地で全速力で走る車がひっくり返らないように操りながら、助手席に座る相手へ高度な外科手術を行なっているようなもの。しかも解剖学の教科書を広げて参考にしつつ、実物との差異を調べながらである。
《一度着陸し、治療を優先する事を提案します》
「駄目よ、このまま飛んで」
ナウシカは即答した。
《しかし、飛行が不安定になればナウシカ様の安全の保証が……》
「今は一秒でも惜しいの! 私達が無事でも、群れが谷へ着いてしまったら何にもならないわ!」
《……》
「それに」
ナウシカは僅かに笑って、リーベの背中を撫でた。
「あなた、私に似てきたんでしょう?」
《……》
「だったら、もう少しくらい無茶してくれてもいいじゃない」
《……はぁ》
機械鳥の声帯から、溜息にも似た音が漏れた。
《分かりました》
「ありがとう!」
《ただし、お願いがあります》
「お願い?」
《私はこの幼体の治療に、演算資源を集中させます。その間、ナウシカ様には私の飛行制御を担当していただきます》
「……えっ?」
カシャッ
玉座の両側・肘掛け部分の装甲が開き、内部から二本のレバーがせり上がってきた。ちょうどナウシカの手の位置にぴったりと合う。
「これは?」
《緊急時用の手動操縦装置です》
「……手動?」
少しずつリーベの言葉の意味が、彼女が何を望んでいるかが分かり掛けてきた。
《はい。主操縦系の制御権限をナウシカ様へ移譲します》
「待って。ええと…つまり…私に、あなたを飛ばさせるということ?」
《そうです、そうする事で飛行制御に使う分のリソースを、私は幼体の生体解析と治療に割り当てられます》
「でも…私はあなたを操ったことなんか無いわよ? 乗るのだってこれが初めてなのに」
《メーヴェも当機も、三次元移動には変わりありません》
「それはそうだけど……」
無茶な理論だが、説得力はあった。
《低次の姿勢安定化及び生命保護処理は、専用制御装置で引き続き継続します。ナウシカ様には進行方向・姿勢・推進出力の統合制御をお願いします》
モニターの表示が切り替わった。
リーベの全体図、翼や尾、そこに幾つもの矢印や数値、図形が表示される。
《ナウシカ様の飛行技術と操縦センスに期待します》
「……」
ナウシカはレバーを見て、思わず唾を呑んだ。
メーヴェとは全く違う。
大きさも重量も翼の数も、飛行原理さえ。
《出来ますか?》
質問の体を取ってはいるが、言外にリーベはこう言っている。《無理なら命令に背いてでも一時着陸して、治療に専念する》と。
ナウシカは両手を伸ばした。
二本のレバーを握る。
「出来なくても、やるしかないでしょ」
《承知しました。操縦権限を移譲します》
再び、画面の表示が変わる。
『AUTO PILOT』の文字が消えて『MANUAL CONTROL』の表示が取って代わった。
瞬間、
グラッ!!
「きゃあっ!?」
リーベの機体がいきなり左に傾いて、ほとんど九十度近くまで横倒しになった。
ナウシカが反射的にレバーを右に入れると、今度は機体が右に傾いて飛び始めた。
「ちょ、ちょっと!!」
《落ち着いて。レバーはもっとソフトに操ってください》
「そう言う事は先に言って!!」
《申し上げた筈ですが?》
「聞いてないわよ!!」
必死にナウシカがレバーを動かすと、連動して左右の翼が不規則に動く。
機軸が不安定になってジグザグ飛行するようになり、高度が下がる。
眼下には砂漠が広がっていた。
《当機は左右の主翼だけで飛ぶのではありません。三本の尾もスタビライザーとして、姿勢制御に役立ててください》
「尾!?」
《画面に現在の制御配分を表示しています》
メチャクチャに揺れる視界の中で苦労してモニターに目を向けるナウシカ。
そこにはリーベの全体図の中で左右の翼と、三本の長い尾が点滅発光して表示されている。
何本もの矢印や出力を示す数字、理解出来ない古い時代の文字と複雑な曲線。
「……」
ナウシカは眉を寄せた。
何だ、これは。
メーヴェの操縦に、こんなものは必要ない。風を読み、風を受けて飛ぶ。
しかしリーベは風の中を飛ぶ言うより、自分自身の力で空間を押し分けて進んでいる。
リーベは軽く同じ三次元運動などと言ったが何かが違う。何もかも違うのかも知れない。以前に練習したガンシップの操縦が比較的近い気もするが、それとも何かが違う。
そう考えている間にも、機体はぐらぐらと揺れ続けていた。
《高度低下中。姿勢回復を推奨します》
「分かってる!」
《現在の操縦入力では回復しません》
「それも分かってるわよ!」
更に高度が下がっていき、視界一杯に砂漠が広がってきた。
右の翼端が地面を擦った。
ザザザザッ!!
砂煙が舞い上がり、砂漠に一本の線が引かれていった。
翼そのものはガードシステムに守られているので損傷しない。衝撃も殆ど制御・中和されている。
しかし、これ以上姿勢を崩せば墜落するのが直感で分かった。
「こんなジャジャ馬は初めてよ!! あなたからは私がここまで過激に見えてたの!?」
《操縦系のレスポンスがシャープ過ぎるのかも知れません、少し落とします。これでどうですか?》
「んっ…確かに、急に素直になったわ」
今までは1倒したら10反応するようなピーキーさだったのか、5か6ほどになったようだった。しかしながら、それでも根本的な解決にはならない。地面すれすれを横倒しになったまま、リーベは飛んでいく。
「くっ…」
ナウシカは歯を食い縛った。
モニター、レバー、翼、尾…それらを何度も見比べる。
何かが足りない。自分がメーヴェを操る感覚と比べて今の飛び方は、何か決定的なものが欠けている。
それは何か? 頭脳をフル回転させるばかりか、全身の細胞からいつも飛ぶ時の感覚を呼び起こし…そして気付いた。
「……リーベ!」
《はっ》
「ガードシステムを解きなさい!」
《……?》
一瞬、返事が遅れた。これは電子頭脳が主の正気を疑った為に生じた間であった。
《し、しかしナウシカ様…現在の飛行状態で防護を解除すれば……》
「あなたのバリアに守られていたら、風を感じられないの!」
《ですが……》
「風が分からなければ風を読めない、風が読めなければ、風に乗れないの。解きなさい」
電子頭脳が即座に、あらゆる要素を再検証した。
現在速度・高度・気温・気圧・相対風速・搭乗者の耐久限界・許容可能な負荷…そして結論する。
《……承知しました。速度は375まで落とします。それがナウシカ様の肉体が耐えられるギリギリのラインです》
ただし完全に保護を取り払った訳ではない。玉座の固定装置と最低限の生命保護だけを残して、搭乗者周辺の防風制御を中心として各種シールドを解除したのだ。
次の瞬間。
ブワッ!!
「くっ……!」
ナウシカの全身を、突如として空気の壁が叩いた。
衣服が激しくはためき、髪が後ろへ流れる。今まで静かだった世界が、風の音で満たされた。吹き付ける風によって体感温度が一気に下がり、それは涼しい・寒いという領域を通り越して、痛みに近い感覚だった。
だが。
「……っ!」
ナウシカの表情が変わった。
風だ。
右から来ている。いや、単純な横風ではない。
機体が横へ傾いた事で、翼の上下を流れる風の向きが変わっている。
確かにメーヴェとは違う。だが、さっきまでよりずっと分かり易くなった。
「……そういう事」
ナウシカはモニターを見た。
リーベの主翼を構成しているのは、左右合わせて十二対・二十四枚の羽根。それらが組み合わさって一つの翼になっている。そして羽根の一枚一枚が、独立した力場発生装置を兼ねていて、最適な方向へと独自に動いてエネルギーを放射し、安定性の高い飛行を実現する。
通常の鳥の翼のように、羽ばたきで空気を打って風を受ける事で揚力を生んでいる訳ではない。
24枚の羽根から発振されるエネルギーが機体の周囲の場へ作用し、推進と姿勢制御を行なっている。
メーヴェは胴体のエンジンで推進力を得て、翼で空気を受けて飛ぶ。リーベは翼そのものが推進装置なのだ。
そして長い三本の尾の動きの組み合わせによって機体のバランス制御を行ない、自在な飛行姿勢を取る。
同じではない。
だが、ナウシカは少しずつ理解し始めていた。
「なるほど……」
レバーを、ほんの僅かに倒す。
右翼が動いた。
今度は反対側、左翼が反応した。
姿勢制御テールを連動させると、その度に、風の流れが変化した。
何度か操作を繰り返したり、組み合わせたりした。
少しずつ、慎重に。丁寧に、注意深く。
その度に機体が揺れる。しかしそれに合わせて、レバーを動かす。
もう一度。またしても機体が揺れたが、これは予想していたのと同じ揺れ方だったから備えることが出来て、あまり違和感を覚えなかった。
「……分かった!」
《……?》
「分かったわ、リーベ!」
ナウシカは二本のレバーを操作した。
左右の翼が動き、それぞれ羽根から発振される力場が変化する。三本の尾も、機体の姿勢に合わせて位置を変えた。
傾いていた機体が、少しずつ水平へ戻っていく。
風の流れが揃い、姿勢が安定する。
《……飛行姿勢、正常範囲へ復帰》
「ふふっ」
ナウシカは笑った。
そして、
「いい? 上げるわよ!」
二本のレバーを引いた。
リーベの翼が大きく広がる。
二十四枚の羽根から発振される力場の位相が揃い、三本の尾が空中姿勢を安定させる。
紅い巨体が、力強く空へ駆け上がった。
地面が遠ざかり、視界は砂に代わって日が暮れ始めてオレンジ色になりつつある空の色が占めていく。
翼が風を切り、機体は滑らかに水平飛行へ移った。
《飛行状態、安定。手動制御による正常飛行を確認しました》
「どう? これなら、あなたも治療に専念出来るでしょう?」
《はい。お見事です、ナウシカ様》
「ありがとう!」
ナウシカは楽しそうに笑っていた。
つい先程までの焦りや不安に取って代わったのは、新しい風を知った時の喜び、未知の空を飛ぶ楽しさ。
いつもメーヴェに乗っている時と同じ顔。胸を占めるのは初めてメーヴェに乗れた時の歓びが、蘇ったようだった。非常時には変わりない。しかしながら未知なるものと出会う事に歓びを感じるのは、いつの時代も変わらない人の性なのであろう。
《……》
リーベはそんな主の状態を、玉座の生体監視装置を通して確認していた。
心拍数・呼吸・神経活動・筋緊張…他の要素も全て正常。
それどころか先程までに比べ、精神状態は著しく安定している。
ただし、これは本来の設計思想からすれば奇妙な光景だった。彼女の玉座は、主人が危険な操縦を行なう為の場所ではない。寧ろその逆、主人が何もしなくても安全かつ快適に移動出来るように造られた場所である。
言うなれば、主人を危険から遠ざける為の装置だった。
ところが今、その主人は自分から風の中へ身を晒し、両手で操縦桿を握っている。
安全性だけを評価するなら、通常の自動飛行より劣る。
両翼根の重力子核にて重力子の生産・コントロールを行ない、24枚の羽根から重力子を発振する広帯域重力子ウイングは、天候・風速に依らず非常に安定した飛行特性を保証する物だ。
今はガードシステムを解き、翼や機体全体が受ける風に乗り、それで得られる揚力と組み合わせて飛んでいる。効率性でも比較にならなかった。
しかし、ナウシカは笑っている。
《……》
電子頭脳は、その事実をメモリーに保存した。
そして改めて、両脚と力場で保持している王蟲の幼体へと、医療機能を集中させる。
体液の喪失は止まりつつあり、損傷した器官にも、修復の兆候が現れ始めている。バイタルサインも安定に向かっていた。
だが、問題はまだ残っている。
王蟲の群れは、今も風の谷へ向かっているのだ。
《ナウシカ様》
「なに?」
《治療は継続出来ます。しかし、この個体を救助しただけで、群れが停止する保証はありません》
「……そうね」
ナウシカは背後を振り返った。
遥か彼方、リーベの快速によって振り切ったが、僅かに地平線が動いているように思える。大地を埋め尽くす赤い光の群れが、今も進み続けている。
「でも、この子を助ける事が出来たのよ」
レバーを握り直す。
「きっと、まだ出来る事があるわ。なんとか群れに帰す事が出来れば…」
《……》
リーベのカメラアイが、眼下の幼体へと向けられた。
人間には分からないだろうが、今も何らかの信号が発せられているのを各種観測機器及び、接触部の感覚センサーが把握している。
そしてリーベの玉座には、ナウシカの身体と神経活動を常時監視する為の装置がある。
異なる二つの生命、異なる二つの意思。
リーベはその双方を、今も同時に観測している。
《……確かにそうですね、ナウシカ様》
「え?」
電子頭脳の中で、一つの仮説が組み上がり始めていた。
《出来る事…試みる価値のあるオプションを提案します》