私たちの目の前に、緑に飲み込まれた建物がある。生い茂った木々に覆われて一寸先も暗い、都市だった森。そこに足を踏み出すことを決めてから、一週間が経っていた。すでに森は公園のそばまで迫り、猶予はない。魔物の領域。いつ死んでもおかしくない危険地帯。ゲームで何度も攻略した場所。それでも、何かが違うかもしれない。私が見落とした罠があって、あっけなく死ぬかもしれない。止まらなくなった不安を、無理やりに振り払ってフリーダと目を合わせる。
「ねえ、私でいい?」
死ぬかもしれない冒険の相棒。最後に見る人間かもしれない。最後に言葉を交わす人間かもしれない。思わず私の口をついて出たのは、そんな言葉だった。フリーダとはうまくやれていると思う。私は友達だと思ってるし、彼女もきっとそう思ってくれてる。たぶん。だけど、それでも出会って1か月も経っていないのだ。
「なにそれ。シアン以外いないでしょ。」
フリーダは私の真意を把握して、その言葉を返したわけじゃないと思う。それでも私はその返事でいいことにした。空を飛ぶカラスが、私の不安など何も知らずに森の方へ飛んで行った。それに続くように一歩、私たちも森に足を踏み入れた。
・ ・ ・
「目標は二つある。」
ジャクリーンはその碧の瞳を細めた。
「まず一つ目はこの拠点の防衛。何か森の拡大を防ぐ手段を見つけ出して持ち帰ること。そして二つ目は、」
世界樹の朝露。エリクシアの素材だ。
「その通り。一応最優先は一つ目の拠点防衛。だけど同じくらい大事なのがエリクシアの素材の入手。もちろんそのほかの素材も欲しいけどそれはついでに持って帰れる分だけでいい。どちらにせよ、攻略の上で採取はしないといけないから後回しにはできないけどね。」
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「まず素材採取だねー。でも探すって言っても、ここ世界樹の森だから普通の植物の方が少なかったりして。」
森の中に入れば木々に太陽が遮られて暗い。夏の暑さも植物の密度に負けて、森の中は涼しかった。灼熱の紫外線と同じとは思えないほどに柔らかな木漏れ日を背に、私たちは森を見回した。
フリーダの予想は半分当たっている。周りには大量のゲーム由来の植物が生息しており、公園の比じゃない多様性を誇っている。一方でこの地にもともと生えていたであろう樹や草も同じくらいの比率であった。これも、一つの森にあるとは思えないほどに多様性に富んでいる。竹があったかと思えばオークの木が生えていて、ふと見つけた湖には水連が咲いていた。
湖を見つけたということはずいぶんとロンドンから離れたのだろうか。それとももはや森の中としか思えないこの土地も、一か月前は多数の人が行き来する大都市の一部だったのだろうか。だとしたら、ここの水を飲むのは慎重になった方がいい。いや、そうじゃなくても慎重になれよという指摘は甘んじて受け入れるけども。
「ここ、拠点にしよ。」
「いいと思う!水も飲めそうだしね!」
私はフリーダが背負っている箱に手をかけて、開けるね、と声を掛ける。フリーダが頷くのを待って、私は中から一つのガラス細工を取り出した。くるりと一周回して手の中で確かめる。良かった割れてない。
これはケンジーが私たちのために用意してくれた蒸留器だ。彼はパーティーから脱退すると宣言したが、こういったサポートを惜しむことはなかった。ついに代わりのメンバーが見つからないままこんなところに来てしまったが、私たちはしっかりと支えられている。
「使ってみるの?」
「うん、ちょうどこの湖の水質浄化で試してみようと思って。」
蒸留とは液体の沸点の差を利用して、混合物を純物質にする過程のことを言う。例えばアルコールと水が混ざった液体を、それぞれアルコールだけの液体と水だけの液体に分離したいときは、アルコールが蒸発して水が蒸発しない80~100度の間を保って熱することで、それができる。
……だいたいこんな感じのことが教科書に書いてありました。それ以上のことを聞かれても私は答えられません。私が今からやるのは、とりあえず沸騰させて蒸気にしてもう一回集めたらきれいになってるんじゃね?くらいの適当蒸留だ。直火を当てるのに温度管理もくそもない。いずれ蒸留水が必要な調合レシピも出てくるので、逃げ切れないのはわかっているが、そのときは拠点にいる私より頭のいい人に任せればいい。
ということでそこらへんに落ちている枝を拾い、フリーダに炎を出してもらって焚火を作る。ちなみにやろうと思えば私も魔法が使える。フリーダほどじゃないがある程度の大きさの水球もつくれたし、火魔法もできるはずだ。だけどそばに本職がいるなら任せてしまいたい。エリクシアシリーズにMPのステータスはない――というかイチャの実の数がMPみたいなもの――だが、魔法を使うたびに集中力は持っていかれる。要するに疲れるのだ。当のフリーダはケロッとしているので、職業補正でもかかっているのかもしれない。
ともかく原始人が見たら発狂するようなスピードで火起こしが終わり、薪から赤い炎と煙が上がる。鉄の三脚みたいな台の上に水の入った蒸留器を乗せて、火の上に設置した。ガラスの器には穴が開いていて、そこから水を入れた後にコルクでふたができるようになっている。また、それとは別に熱された蒸気の通り道が作ってあって、その先に別の器を用意することで蒸気を集めるようにできている。蒸気の通り道をなるべく細長くすることで周りの空気によって冷やされるように作ったが、まだまだ改良の余地があるとのこと。インターネットも見ることができないなか、勘だけを頼りに造ったのだから上出来だと思う。
しばらく待てばガラスの底面が黒くすすけ、水がブクブクと泡立ち始める。蒸留器は事前の実験の通りに機能して、管の先の器にぽたぽたと水を垂らした。
飲み水は持ってきているが有限。調合用に水が欲しいときはこれを使うことができる。ゲーム的に蒸留水扱いになっているかもだし。
「うまくいったみたいだね。そろそろ周辺の探索始めよう。」
私はフリーダにそう声を掛けて振り返る。そこにフリーダの姿がない。
え、なにが起きた?
こんな危険な場所で少し目を離した隙にいなくなるなんてそんな、いくらフリーダでも不自然。そう思って見渡してみても、そこにあるのは木々と草花の生い茂るただの森――いや、違う。景色に違和感がある。白。それはフリーダの来ていた服の色だ。そこから逆算するように輪郭を把握してはじめて、私はそれがいることを知覚した。
フリーダを口にくわえて引きずっていこうとしているのはラプトルと呼ばれる小型で爬虫類然とした二足歩行の恐竜。ただしその姿は完全に周囲の景色と同化して、目前にいてなおも認知するのに時間がかかるほどだった。
「うえ、ちょっと寝てたかも、……って、エ!?ナニコレッなにこの状況わたしどうなってんの!?浮いてる!?ちょっ、ま、離して!!」
フリーダが暴れ始めるのに合わせて、それは突如走り出した。……カメレオンラプトル。この世界樹の森の初見殺しその一。私の脳裏にエリクシア攻略掲示板のとある投稿がよみがえる。曰く、『いつの間にか捕まって、かわいいラプトルの子供たちのところへ連れて行ってくれるハッピーなイベントです!なお、彼らはとてもおなかがすいている模様。』