慌てて視線を対岸からこちら側に戻せば、そこには濡れてふやけながらも小川を渡り切ったゴーレムが一体、手を振りぬいた格好で立っていた。
だれかの叫びが響く。言葉の意味は考えるまでもない。「にげろ」だ。
吹き飛ばされてうずくまった人を見る。かろうじて意識はあるようで、痛みにうめいているので意識はあるようだが、自力で歩ける状態とは思えない。どう考えても補助が必要だ。このままおいていけばあの人は……。迷っている暇はない。身がすくむような恐怖の感情を無理やり抑え込んで、私はけが人の方に走り出した。ぐったりとした男の人。何とか彼を抱えて歩き出そうとするが重くて持てない。
すると一人、大柄な男性がこちらに気づいて近づいてきてくれた。彼は一言二言しゃべった後、私に先に行くように促してけが人を抱えた。正直助かる。私はゴーレムに追いつかれないように走り出す。方向は公園の中へ。こいつらがどこから来たか知らないが、隠れるとしたら周囲を生垣等に囲まれた劇場の中がいい。同じ思考に至ったか、それともただ距離を離すためかはわからないが、ほかの人たちも同じ方向に走り出していた。
走る。手を振って、足元の凸凹に躓かない範囲の最高速度を意識する。逃げるべきだ。私は足手まといなんだから。誰かを抱えることもできないし、たいして足が速いわけでもない。私は自分が逃げるのだけで精いっぱいだ。だから、振り向いちゃだめだ。そう。振り向いたらきっと一人分重い体重を引きずる彼が、追いつかれるのが見える。見えてしまう。そうしたら私の足は止まってしまうから。
――ふざけるな。
その感情がどこから来たのか、私は知らない。きっとそれはただの自己嫌悪だった。英雄願望でも、正義感でも何でもない。自分だけが助かろうと、そう考えてしまったことに対する罪悪感。私はどこまでも一般人で、小心者で。だからこそ、そこで立ち止まった。自分が背負うことになる罪にこらえきれなくて、そして、逆向きに歩き出したのだ。
目の前に、ゴーレム。その少し手前、ゴーレムの腕の届くぎりぎりに、けが人とそれを背負った彼。その彼の、驚きに見開かれた瞳。何かを振り切るみたいに私は走り出して、そして武器になりそうなものを探す。――あった。鉄柵の一部、地面の隆起に巻き込まれたか、地面から抜けてばらばらになっている。その一本が、槍として使そうに見えた。折れた柵の一部、長さは1メートルもないくらい。勢いを殺さないまま無理やりしゃがんでそれを手に取ると、そのままゴーレムめがけて突き出した。
一つ、イメージがある。とてもじゃないが誰にも聞かせられない、ばかばかしいイメージだ。――それは、魔石を貫くイメージ。公式の設定資料集でみた、ゴーレムの体内図。胸の中心、心臓の位置。厚さ約50センチのあの胸部の、ちょうど真ん中。そこに存在する赤く輝く魔石のイメージ。私はそこに、渾身の力で槍を叩き込んだ。
焦りを帯びた男の声。
私の突撃に獲物が増えて混乱したゴーレムの一瞬の停滞。
そして直観。――浅いッ!!
私の突き立てた槍は、その先がとがっていないためか、私の筋力不足か、それともゴーレムが思ったよりも堅かったからか。穂先と呼ぶべき部分が埋まったところで、それ以上進めずに止まっていた。一拍遅れて、ゴーレムが標的を私に定める。その腕が大きく振りかぶるのを、スローモーションになった視界で私は眺めていた。
「あ、死ぬ。」
その、感情ですらないただの感想が、確からしい未来予測だけがあって。その呆然、としか呼べない私を、しかし横合いから飛んできた声が揺り起こす。それは、一人の男が勇気を振り絞る怒号の声だ。
ど、と鈍い音がして、視界の端に滑り込んできたのは、けが人を運んでいたはずの彼だった。彼は横から抱き着くようにしてタックルをすると、その衝撃でゴーレムと一緒にバランスを崩す。振りかぶったゴーレムの腕は私から逸れて、もつれあうように転がっていく。鉄がアスファルトをたたく音がして、そのままめり込んだ槍がゴーレムを貫通する。とたん、土が制御を失ったように崩れ、そのまま沈黙した。
……た、倒した。
二番目に迫ってくるゴーレムはまだ遠い。これなら劇場のある場所まで逃げ切れるかもしれない。そう思って土にまみれた彼を起こそうと近づいた私が見たのは、ゴーレムだった土くれに覆いかぶさる男。ゴーレムを貫いた鉄柵に同じように貫かれたその姿だった。
――白。すべての思考が、感情が、あまりにも強い白い光にかき消されて、何も見えなくなった。脳が、体が、私のすべてが目の前の現状を理解することを拒んでいた。震える唇がかすかに開いて、
「わたしの、せいだ。」
とつぶやく。誰にも聞こえない声は風にさらわれていった。
わかっている。こうやって呆然としている間にもゴーレムは迫ってきている。このまま動かなければ私も同じように死んでしまう。だけれど思考が、後悔が、加速していく。どうすればよかった。あの鉄柵を武器にしたのが間違いだった?単純に体当たりでもしてひるませて逃げればよかった?それともそもそも私は足手まといにしかなれなくて、最初から逃げていればよかったのだろうか。
「いけ、に……げろ。」
肺がうまく機能していないのがありありとわかるような狭い声。そのゆっくりとした口調は、皮肉なことに聞き取りを簡単にしていて。彼がただ、私のことを心配していることが分かった。――おいて、いけない。
そう思って駆けだそうとした私の手を、誰かがつかんで引き留めた。そうしてそのまま後ろに強く引かれる。気づけば先に逃げていた人たちが数人戻ってきて、最初に吹き飛ばされたけが人と私を抱えてまた逃げ出そうとしていた。私はその手から外れようともがくが、離してくれない。
「やめて、離してッ!あの人は私のために……ッ!私のせいで!!」
叫んでも叫んでも、私の言葉が届くことはなかった。きっと彼らも私が何を言いたいのか察したうえで、それでも私を助けようとしてくれている。抱えあげられた状態で、目線が後ろに向く。そこには体を貫かれてなお、私に微笑みかけようとする男がいた。