深夜の美浦寮。シンと静まり返った廊下を歩いていた寮長・ヒシアマゾンは、厨房の方から聞こえてくる異音に足を止めた。
カコーン!カンッ、シャコシャコシャコ!
―――シュゴォォォォォォ!!
「……なんだい、この音は。誰か鉄鍋でも持ち込んでるのかい? 消灯時間過ぎてるってのに誰だい……」
不審に思い、足音を忍ばせて厨房を覗き込んだ彼女は、そこで信じられない光景を目にした。
薄暗い厨房の中、轟々と燃え盛るコンロの炎に照らされながら、真紅のジャージを着たウマ娘が、凄まじい形相で中華鍋を振るっていたのだ。
本日のフェブラリーステークスで圧倒的1番人気を背負いながら、他者を助けるために己の勝利を捨てた、あのアーチャーである。
(アーチャー……!)
ヒシアマゾンは息を呑んだ。
なぜならば、アーチャーの目が異常な輝きを湛えていたからだ。彼女の目は、鍋の中を舞う米粒の一つ一つを射抜くように鋭く、その背中からは鬼気迫るオーラが放たれている。まるで、親の仇でも討つかのように、彼女は無心で鍋を振り続けていた。
ヒシアマゾンの胸が、ギュッと締め付けられた。
(そうだよな。悔しくないはずがない)
誰よりも速く走り、誰よりも勝利に近かったのだ。他者を助けたとはいえ、G1のタイトルを逃したのだ。そのやり場のない怒りと悲しみを、彼女は今、こうして一人で料理にぶつけることで昇華しようとしているのだ。
(なんて不器用で、強い子なんだい……っ。一人で抱え込んで、涙の代わりに鍋を振るなんて……!)
ヒシアマゾンの目から、ホロリと熱いものがこぼれ落ちる。彼女は決意を込めて、厨房へと足を踏み入れた。
■
(――『投影(トレース)』、開始(オン)。対象の構造を解析。材質、黒皮鉄板。形状、北京鍋。付加概念『老舗中華料理店の三十年モノ』)
脳内の魔術回路がショート寸前の熱を帯びる。俺は今、究極のチャーハンを作るために全神経を集中させていた。エミヤとしての、アーチャーとしての心象風景は道具すらも憑依経験させるとはいえ、流石にキツイところはある。
……いやね、今日のレース、ダート(砂)だったもんで、思いのほかカロリーを消費したんですよ。現場仕事の後の炭水化物は必須。安全管理の観点からも、空腹による睡眠の質の低下は、翌日のトレーニングにおける怪我(ヒヤリハット)に直結する。
つまり、これから作る深夜のチャーハンは『義務』なのである。
「シッ……!」
呼気と共に、魔力による『強化』を施した右腕で中華鍋を煽る。
ふむ、我ながら完璧だ。投影した中華包丁で均等な3ミリ角に切り揃えた自家製チャーシューとネギ。そこへ、溶き卵を投入した直後に白米をダイブさせる。
ここからは時間との勝負だ。家庭用のコンロの火力では、本来パラパラのチャーハンは作れない。だが、ここはトレセン学園の寮のキッチン。小腹と言う名の大腹をすかせたウマ娘達の腹を満たすように、でっけぇガスコンロが鎮座している。そして、魔力でもって局所的に火力を底上げしている今の俺に死角はない。
(米粒一つ一つの表面を、卵のコーティングで包み込む……!構造把握(ストラクチャー・スキャン)、完了! 今だッ!)
カンッ!
―――カコココンッ!
リズミカルに鍋を振り、空中に舞い上がる米粒に均等に熱を通していく。
あぁ、最高だ。この鍋肌で醤油が焦げる匂い。たまらん。前世では医者に塩分を止められていたから、ウマ娘の頑強な肉体に転生して一番嬉しいのは、こういうジャンクな夜食を罪悪感なく食えることかもしれない。
「――アーチャー」
「おわぁっ!?」
完璧なフィニッシュを決めようとした瞬間、背後から唐突にドスの効いた声で呼ばれ、俺は危うく鍋をひっくり返しそうになった。振り返ると、美浦寮の寮長であるヒシアマゾンが、なぜか腕を組み、目を真っ赤に潤ませて立っていた。
「りょ、寮長。お疲れ様ッス……って、どうしたんですかその目。花粉症?」
「誤魔化さなくていい」
ヒシアマゾンは、ズカズカと歩み寄ってくると、俺の肩にポンと力強く手を置いた。
「辛かったら、泣いてもいいんだよ」
「はい?」
「……お前の気持ち、アタシには痛いほどわかるよ。昼間のレース、誰よりも速かった。誰よりも、一番似合ってた。それなのに……」
ヒシアマゾンは言葉を詰まらせ、グッと唇を噛み締めた。え、何? 何の話? もしかして、夜中に勝手に厨房使ってガス代無駄にしてるの怒られてる?
「あー、いや、その。すんません。ちょっと小腹が空きまして」
「わかってる! 言わなくていい!」
ビシッ! と指を突きつけられる。
「言葉にできないその悔しさ、鍋にぶつけてたんだろ!? アタシが見たアンタの背中、泣いてたよ……。一人で全部背負い込んで、バカ野郎……!」
「えぇ……(困惑)」
いやいや違う違う。俺はただ、米粒のコーティング具合を極限まで見極めようと目を血走らせていただけだ。背中が泣いていたのは、換気扇の吸い込みが弱くてネギの匂いが目に染みたからである。
「よし! アタシも手伝う! 二人で最高のチャーハンを作って、今日の悔しさを全部食っちまおうじゃないか!」
「お、おう……。じゃあ、そっちの皿に盛り付けてもらっていいスか?」
なんかよくわからんが、現場監督時代、こういう「熱血タイプの若手」の扱いは慣れている。とりあえず話を合わせて作業(タスク)を振っておくのが一番丸く収まるのだ。
■
深夜の食堂。二つの皿にこんもりと盛られた、黄金色に輝くチャーハン。立ち昇る湯気からは、食欲を暴力的に刺激するラードと焦がし醤油の香りが漂っている。
「「いただきます」」
ヒシアマゾンはレンゲで一口掬い、口に運んだ。
――瞬間、彼女の全身に衝撃が走った。
(なんだ……これは!?)
パラパラでありながら、米の一粒一粒がふっくらとしている。チャーシューの旨味、ネギの香ばしさ、それらを卵が見事にまとめ上げている。ただの寮の余り物で作ったとは到底思えない、まるで長年鍋を振り続けた老舗の料理人が作ったような、完璧な味。
「……しょっぱいな」
ヒシアマゾンは、ポツリとこぼした。味付けが濃いのではない。彼女の頬を伝った涙が、チャーハンに落ちたのだ。
「こんな……こんなに優しい味のチャーハンを作るヤツが、勝負に負けていいはずがないじゃないか……っ」
「ん? あぁ、ちょっと塩コショウ強すぎましたかね? 俺、現場上がり……いや、汗かいた後は味濃いめが好きでして」
「ちがう! お前の『心』が……優しすぎるんだよ! だからあんなところで、自分の勝利を捨てて人助けなんかしちまうんだ!」
ヒシアマゾンは、レンゲを持つ手を震わせながら、目の前でモグモグとチャーハンを頬張るアーチャーを睨みつけた。
「……悔しくないのかい? アタシは悔しいよ。お前が勝つところ、見たかった」
その真っ直ぐな言葉に、アーチャーはレンゲを止め、少しだけ困ったように眉を下げた。
「悔しい、ですか。……そうですね」
アーチャーは視線を落とし、空になった自分の中華鍋を見つめた。
「最後に、(アマさんに声をかけられて)少し焦ったんですわ。あそこでもう少し(中華鍋を)引きつけていれば、もっと完璧に(チャーハンが)仕上がったはずなんやけど。……まだまだ、私も(料理と魔術の腕が)未熟やね」
(あぁ……!)
ヒシアマゾンは悟った。アーチャーは、レース最終盤での自身の判断――人助けを選んだが故にロスしたタイムのことを言っているのだ、と。
彼女は決して、自分の決断を後悔してはいない。だが、それでも「もっと上手くやれたのではないか」「勝利と人助け、両方を掴めたのではないか」と、己の未熟さを責めているのだ。
なんて気高く、悲しいウマ娘なのだろうか。
「……次は、勝とうな。アタシも、全力でお前をサポートする。だから、もう一人で抱え込むな」
「へ? あ、はい。次はもっと完璧に(チャーハンを)仕上げますさかいに。その時はまた味見頼みますわ」
「っ……ああ! もちろんだ! 納得行くまで練習に何度でも付き合ってやるさ!」
ヒシアマゾンは豪快に笑い、涙混じりのチャーハンを一気にかき込んだ。
一方のアーチャー(おっちゃん)は、麦茶をズズッとすすりながら、内心で首を傾げていた。
(なんでこの人、チャーハン食いながらこんなに泣いてるんやろ……。まあええか、美味いみたいやし。ご安全に、ご安全に)
深夜の美浦寮。
二人の心は全く違う場所にあったが、チャーハンが美味かったことだけは、唯一の共通の真実であった。