午後の陽光が、石畳の街路を白く焼き付けていた。
活気ある市場の喧騒から少し離れた、古物商が軒を連ねる裏通り。そこには、埃っぽさと古い紙の匂いが混じり合った、独特の停滞した空気が流れていた。
「……ふぅ、重いな」
レニーは額に浮いた汗を拭い、愛用の荷車を引く腕に力を込めた。無造作に跳ねた茶髪が、額に張り付いて鬱陶しい。実用性を重視した革製の軽装アーマーは、この作業のせいで汗を吸って重くなっていた。
彼が引いているのは、古物商の店から預かった、ひどく古びた木製の棺だ。
表面には見たこともない幾何学的な紋様が彫り込まれており、長い年月を経て黒ずんでいる。店主は「中にはミイラでも入っているんだろうが、処分に困っているんだ。運び出してくれれば報酬は弾む」と、面倒そうに言っていた。
本来、冒険者であるレニーにとって、こうした荷運びは本業とは程遠い。しかし、彼の本質は「古代遺跡研究家」としての探究心に突き動かされるオタク気質な男だった。
(ただのミイラだとしても、この彫刻の様式は……既存のどの文明の文献にも見当たらない。もし未知の遺物だとしたら、これ以上のチャンスはないはずだ)
そう自分に言い聞かせ、レニーは高鳴る鼓動を抑えながら、荷車を引いて歩き続けた。
街の外れへと続く、緩やかな坂道。
陽射しはさらに強まり、レニーの意識を朦朧とさせ始めていた。その時だった。
「――ッ!?」
ガタガタと、荷車の車輪が石の凹みに大きく跳ねた。
不運なことに、道は整備されておらず、大きな轍がいくつも残っている。レニーはバランスを崩してよろめき、荷車を支えようと必死に手を伸ばしたが、時すでに遅かった。
衝撃が、棺に伝わった。
古い木材が悲鳴を上げ、緩んでいた蓋の留め具が、弾けるような音を立てて外れた。
「おい、しまれ! 待てっ!」
レニーは叫びながら、開いていく蓋を抑えようと手を伸ばした。しかし、蓋は重力に従って勢いよく開き、中身を露わにした。
そこにいたのは、レニーが予想していたような、乾燥しきったミイラではなかった。
「……え?」
レニーは、思わず息を呑んだ。
棺の中に横たわっていたのは、一人の少女だった。
ふんわりとした淡い紫色の髪。透き通るような、白い肌。
彼女は、古びた装飾が施されたメイド服風のドレスを身に纏っていた。その肌は、まるで最高級の磁器のように滑らかで、陽光を浴びて微かに白く輝いていた。
あまりにも人間らしく、あまりにも美しい。
「少女……? いや、まさか、ミイラじゃないなんて……」
レニーは震える手で、棺の縁を掴んだ。
彼女は動かなかった。ただ、静かに、まるで深い眠りについているかのように横たわっているだけだった。
しかし、レニーの探究心は、直感的に告げていた。彼女は人間ではなかった。
彼女の関節の継ぎ目や、衣服の隙間から見える肌の質感には、どこか人工的な完璧さが漂っていた。しかし、これまでの文献に登場する「自動人形(オートマタ)」とは、明らかに構造が違っていた。もっと機械的で、もっと無機質なはずのものが、彼女からは全く感じられなかったのだ。
(これは……未知の技術だ。これまでの常識を覆す、古代文明の遺物……!)
レニーの瞳に、好奇心の炎が灯った。
もし彼女がただの置物ではなく、意志を持つ機構を備えた存在だとしたら、これは歴史を塗り替える発見になる。
周囲を見渡したが、この時間にこの通りを通りかかる者はほとんどいなかった。このまま放置すれば、誰かに持ち去られるか、あるいはただの「奇妙な死体」として片付けられてしまうだろう。
「……決めた」
レニーは、荷車を力強く引き寄せた。
蓋が閉まり、再び棺が覆われた。中身が何であれ、彼女をこの場所に置いておくことはできなかった。
彼は、自分の家に彼女を連れ帰ることを決意した。
それが、後に彼の人生を、そしてこの世界の常識を大きく変えていくことになるとは、この時のレニーはまだ知る由もなかった。
窓から差し込む朝陽が、古びた作業台に横たわる少女の肌を白く照らしていた。
レニーは、昨夜から一睡もせずに彼女――その未知の自動人形を見つめ続けていた。古代遺跡から掘り出されたその造形は、あまりにも精巧だった。肌の質感、髪の毛の一本一本に至るまで、まるで生きている人間を見ているかのような錯覚を覚えた。
「……一体、どんな仕組みなんだ」
レニーは、彼女の背中に回した指先に、奇妙な感触を覚えた。
服の隙間から見えたのは、銀色に輝く小さな、しかし複雑な形状をした突起だった。それはまるで、精緻な細工が施されたゼンマイの鍵のようだった。
好奇心が、理性を上回る。レニーは吸い寄せられるように、その小さな機構に指をかけた。
慎重に、ゆっくりと、その鍵を回した。
――カチ、カチ、カチ。
静かな部屋に、硬質な金属音が響いた。レニーの心臓の鼓動が、その音と同期して速まっていく。
最後の最後、鍵が止まった瞬間。
少女の瞼が、震えるようにして持ち上がった。
「……ア、アア……エ……ル……」
口から漏れたのは、聞いたこともない、けれどどこか音楽的な響きを持つ古代語だった。
青い宝石のような瞳が、虚空を見つめていた。レニーは息を呑み、思わず身を乗り出した。
「君は、目覚めたのか?」
問いかけても、返ってくるのは意味をなさない音の羅列だけだ。しかし、少女の瞳は、レニーの言葉を聞くたびに、まるで何かに反応するように怪しく明滅した。彼女の瞳の奥で、目に見えない歯車が高速で回転しているような、そんな錯覚さえ覚える。
やがて、少女の視線がレニーに固定された。
彼女は、周囲の音――窓の外の鳥のさえずり、風の音、そしてレニーの荒い呼吸――を、まるで吸い込むようにして聞き取っていった。
「……ご、しゅ……じん……さま?」
たどたどしい、けれど確かな言語。
レニーは目を見開いた。彼女は、周囲の言葉をその場で「学習」しているのか?
「ああ、そうだ。俺が君を見つけたんだ」
「ご主人様……」
彼女は、自分の名前すら覚えていなかった。記憶の断片は霧に包まれたように欠落しており、ただ、目の前の男に対してだけ、強烈な帰属意識を示していた。
レニーは、彼女の瞳の美しさに抗えず、ふと思いついた名前を口にした。
「フェリエ。それが君の名前だ」
「フェリエ……。はい、ご主人様!」
少女は、満面の笑みを浮かべてレニーの腕に抱きついた。その体温は驚くほど人間らしく、レニーの頬を赤らめさせた。
それからの生活は、激変した。
フェリエは、レニーを「ご主人様」と呼び、文字通り甲斐甲斐しく世話を焼くようになった。朝は起こされ、食事は用意され、家の中は常に彼女の明るい声で満たされた。
しかし、彼女には致命的な欠点があった。
――あまりにも、ドジすぎるのだ。
「あわわっ! またやってしまいましたぁ!」
数日後。レニーは冒険者ギルドの喧騒の中にいた。
フェリエが、ギルドの給仕を手伝うために働き始めたからだ。家計を助けたいという彼女の申し出を、レニーは断りきれずに受け入れたのだ。
ガシャーン! という派手な音と共に、フェリエが持っていたトレイが宙を舞った。
床には、飲みかけのエールと、砕け散った陶器の破片が散乱している。
「ちょっとフェリエ! 何度言ったらわかるのよ!」
怒鳴り声を上げたのは、ギルド長のベアトリスだった。燃えるような赤髪をポニーテールに結んだ彼女は、がっしりとした体格で、まるで戦士のような威圧感を放っている。
「すみません、ベアトリス様! つい、足が滑ってしまって……!」
フェリエは涙目で謝罪しながらも、どこか楽しげに、頬を赤らめている。その様子は、反省しているというよりは、まるで愛嬌を振りまいているようだった。
「謝って済む問題じゃないわよ! あんた、掃除をしに来たのか、それともギルドの備品を壊しに来たのか、どっちなの!?」
ベアトリスの怒声がギルド中に響き渡る。周囲の冒険者たちも、苦笑いしながらその様子を見守っていた。
しかし、フェリエはめげなかった。彼女は、散らばった破片を拾い上げながら、胸を張ってこう言い放ったのである。
「ふふん、ご主人様も仰っていました。ドジっ子メイドは、古代文明ではむしろ美徳なのですから!」
「はあぁ!? そんな歴史、聞いたことないわよ!」
ベアトリスのツッコミが飛ぶが、フェリエは「えへへ」と笑いながら、また別の皿を割る準備をしていた。
レニーは、頭を抱えながらも、どこか嬉しそうに笑う彼女の姿を、遠巻きに見つめていた。
彼女との生活は、まだ始まったばかりだ。
冒険者ギルドの喧騒は、今日も今日とて凄まじかった。
酒場の笑い声、武器の手入れをする音、そして依頼を求める冒険者たちの怒号。その喧騒の真ん中で、フェリエは誰よりも熱心に、そして誰よりも危なっかしく働いていた。
「あわわっ!? すみません、またやってしまいましたぁ!」
ガシャン、という派手な音とともに、フェリエが運んでいたトレイからグラスが滑り落ちる。
ベアトリスが「こらーっ! フェリエ! 何度言ったらわかるんだ!」と、燃えるような赤髪を揺らして怒鳴りつけるが、フェリエは申し訳なさそうに縮こまりながらも、視線だけは常にギルドの隅の席に座るレニーへと向けられていた。
「レニー様……! レニー様、お怪我はありませんか? お飲み物、すぐに作り直してまいりますね!」
ドジを踏んで怒られている最中だというのに、彼女の瞳はレニーを見つけるなり、宝石のような青い輝きを増してデレデレと蕩けてしまう。レニーが困ったように苦笑いしながら「大丈夫だよ、フェリエ」と声をかけると、彼女は「はいっ、ありがとうございますぅ!」と、まるで世界で一番幸せな少女のような笑顔を見せた。
しかし、その甘い空気はすぐに別の方向から乱される。
ギルドに訪れた一人の女性魔法使いが、レニーの机に身を乗り出して熱心に古代文字の解読について問いかけた時だ。
「……あの、レニー様。この碑文の読み方なんですが……」
「ああ、これはこういう意味で――」
レニーが穏やかな口調で解説を始めようとした瞬間、背後から凄まじい殺気が漂った。
振り返ると、そこには頬を膨らませ、瞳を鋭く光らせたフェリエが立っていた。
「……レニー様に、あまり近づかないでくださいっ!」
「えっ、フェリエ?」
「その……その女の人、レニー様を独り占めしようとしてます! ダメです、絶対に渡しませんからねっ!」
魔法使いも、フェリエにとってはすべて「レニー様を奪いに来る恋のライバル」なのだ。彼女の独占欲は、時としてギルドの業務を忘れるほどに爆発した。
そんな騒がしい日々の中、ある日の仕事終わり、フェリエはレニーのもとへ駆け寄ってきた。その手には、大切そうに包まれた小さな包みがある。
「レニー様! これ、これを受け取ってください!」
「え、僕に? どうしたんだい、そんなに顔を赤くして」
「初めてのお給金で、買ってきたんです! レニー様のために……ずっと、ずっと大切にしてほしくて……っ」
差し出されたのは、古びた、けれど丁寧に磨かれた小さな石のチャームだった。
レニーは驚きながらも、彼女の純粋な想いに胸を打たれる。
「ありがとう、フェリエ。大切にするよ」
そう言って微笑むと、フェリエは嬉しさのあまり、その場にへなへなと座り込んでしまった。
それから数日後。
天候に恵まれた晴天の午後、二人は街の外にある緩やかな丘へとピクニックに出かけることになった。
「見てください、レニー様! サンドイッチ、一生懸命作ったんですよ! 具材もレニー様がお好きそうなものを選びました!」
フェリエは、少し形が崩れたサンドイッチを誇らしげに差し出した。彼女の作る料理は、見た目こそ少し不格好だが、不思議と温かみのある味がした。
丘の上、吹き抜ける風は心地よく、レニーは目の前で幸せそうに頬張るフェリエを見つめていた。
「……フェリエは、本当に楽しそうだね」
「はいっ! レニー様と一緒にいられるなら、私、何でも幸せです!」
フェリエは、透き通るような紫色の髪を風になびかせ、真っ直ぐにレニーを見つめる。その瞳には、迷いのない愛情が宿っていた。
レニーもまた、彼女のあまりに純粋な献身に、自分の中に芽生えつつある感情を自覚し始めていた。沈む夕日に染まり始めた丘の上、二人の間に流れる空気は、どこまでも甘く、穏やかで――。
その静寂を切り裂いたのは、遠くの街の方角から響いてきた、地響きのような轟音だった。
「――っ!? 今の音は……」
レニーが立ち上がると、街の方角から黒い煙が立ち上っているのが見えた。
続いて、悲鳴と、金属がぶつかり合う音が風に乗って運ばれてくる。
「レニー様……? どうしたんですか、そんなに怖い顔をして……」
フェリエの言葉が終わる前に、空の色が急激に淀んだ。
平和だった日常を塗りつぶすように、魔王軍の侵攻が、音を立てて街へと迫っていた。
丘の上で、レニーとフェリエが分かち合おうとしていた甘い時間は、無慈悲な咆哮によって打ち砕かれた。
遠くの街の方角から立ち上る黒煙が、青い空を汚していく。地平線の向こうから押し寄せるのは、魔王軍の侵攻だ。平和な空気は一瞬にして、焦燥と悲鳴に満ちた戦場へと変貌した。
「レニー、逃げましょう! 危ないですから!」
フェリエがレニーの腕を強く掴む。その瞳には、いつものドジで愛らしい少女の面影はなく、ただ純粋な恐怖が宿っていた。
「ああ、わかっている。だが、街が……みんなが……」
レニーは唇を噛み締め、視線の先にある戦場を見つめた。
街の防衛線では、白銀の鎧を纏ったアルヴィスが、猛攻を仕掛けてくる魔物たちを相手に剣を振るっていた。
「下がれ! ここから先は、このアルヴィスが通させはしない!」
その声は凛々しく、高潔な勇者としての威厳に満ちている。周囲の住民や、共に戦うベアトリスら冒険者たちにとって、彼は希望の象徴だった。ベアトリスもまた、燃えるような赤髪を揺らしながら、重い斧を振るって魔物の群れを薙ぎ払っていく。
「アルヴィス、無理はするなよ! あんたが倒れたら、この街の終わりだ!」
ベアトリスの叫びが戦場に響く。しかし、事態はそれほど単純なものではなかった。
魔王軍が放った「それ」が現れた瞬間、戦場の空気は凍りついた。
それは、従来の魔物とは明らかに異質だった。石造りのゴーレムとも、金属の騎士とも違う。鈍い銀色の光沢を放ち、関節部からは微かな蒸気が漏れ出している。人間よりも数倍は巨大な、無機質な質量を持った「兵器」だ。
「なんだ、あの化け物は……!?」
アルヴィスが叫ぶ。彼は聖剣を構え、その巨大な影に向かって突進した。
しかし、ゴーレムは魔法でも、剣技でもない、ただ圧倒的な「質量」と「出力」をもってアルヴィスを迎え撃った。
ガァァァン! と、鼓膜を突き刺すような金属音が響き渡る。
アルヴィスの放った渾身の一撃は、ゴーレムの装甲に触れた瞬間に弾かれた。逆に、ゴーレムの無機質な拳がアルヴィスの腹部を捉える。
「がはっ……!?」
白銀の鎧がひしゃげ、勇者は地面を転がった。街の守護者が、たった一撃で無様に打ち倒される。その光景に、戦場は絶望的な沈黙に包まれた。
「アルヴィス様!」
ベアトリスが駆け寄ろうとするが、ゴーレムの放つ威圧感に足がすくむ。
レニーもまた、呆然と立ち尽くしていた。目の前で繰り広げられているのは、ファンタジーの範疇を超えた、何か別の理(ことわり)による蹂躙だった。
その時だった。
レニーの隣で、フェリエが小さく、震えるような声を漏らした。
「……あ、……あ……」
「フェリエ? 大丈夫か、怪我は――」
レニーが彼女の肩を掴もうとした時、フェリエの様子が豹変した。
宝石のように輝いていた青い瞳が、激しく明滅する。まるで、内部で膨大なデータが奔流となって駆け巡っているかのように。彼女の表情から感情が消え、代わりに冷徹なまでの「機能性」が宿っていく。
「……記憶ストレージ、修復完了。セクター4326、エラーありません。」
フェリエの口から漏れたのは、いつもの甘えん坊な声ではなく、どこか無機質で、それでいて透き通った、機械的な響きを含んだ言葉だった。
「フェリエ……? 何を言っているんだ?」
レニーの問いかけに、彼女は答えない。彼女の視線は、ただ一点――戦場の中央に立つ、あの銀色のゴーレムだけを捉えていた。
「見つけました……。紛失していた、捜索ユニットを」
フェリエの瞳に、深い、深い哀しみと、それ以上に強い決意が宿る。
「フェリエ、あのゴーレムのことか?」
レニーが問いかけると、彼女は静かに、しかし断固とした口調で告げた。
「はい、レニー様。あのゴーレムは……この西暦4326年に、地上にあってはいけないものです。本来であれば、衛星軌道上に配備されているべき、高度自律型防衛機構の一部なのですから」
西暦4326年。衛星軌道。
中世的な魔法の世界に生きるレニーたちにとって、それは理解を拒むような、あまりに突飛な概念だった。
しかし、フェリエの瞳に宿る情報の輝きは、それが紛れもない真実であることを物語っていた。
「あれを、本来の場所へ帰さなければなりません」
フェリエは、レニーの手を強く握りしめた。その手は、先ほどまでの震えが嘘のように、力強く、確かな熱を持っていた。
「あのゴーレムを、空へ……本来あるべき場所へ」
彼女の宣言は、戦火に包まれた戦場において、あまりに異質で、あまりに孤独な響きを持っていた。
戦場に吹き荒れる熱風と、焦げた土の匂いが鼻を突く。
目の前で、街の守護者であるアルヴィスが膝をついていた。白銀の聖騎士の鎧は無残にへこみ、その誇り高い金髪も煤に汚れている。彼が守ろうとした人々、そして彼自身が敗北したという事実が、重苦しい絶望となって場を支配していた。
「……フェリエ、何を言っているんだ?」
レニーは、震える声で問いかけた。目の前に立つ少女――フェリエは、いつものドジで愛らしい彼女ではなかった。透き通るような紫色の髪が戦火に揺れ、宝石のような青い瞳には、人間には持ち得ないほど冷徹で、それでいて深い哀愁を湛えた光が宿っている。
「月面基地……? 衛星軌道……? 君の言っていることは、今の僕たちの常識では到底理解できない! 魔法でも、古代の遺物でもないというのか!?」
レニーは必死に言葉を紡いだ。古代遺跡研究家としての知識を総動員しても、彼女が口にする「西暦4326年」や「衛星」という概念は、あまりに異質だった。
しかし、フェリエは静かに首を振った。彼女はレニーを見つめ、どこか幼い子供のような、それでいて全てを悟った聖女のような、矛盾した微笑を浮かべる。
「……はい。理解できなくて当然です、レニー様。私は、あなたたちが生きるこの時代に属していないのですから」
その声は、いつものように甘えん坊な響きを含んでいながら、決意に満ちていた。
「短い間でしたが、とても楽しかったです。レニー様と一緒に過ごせた時間は、私の記憶ストレージの中で、最も美しいデータとして記録されました」
「フェリエ……待ってくれ、どこへ行くつもりだ!?」
「行かなければならないのです。このゴーレムを、本来あるべき場所へ。……ゴーレムとともに、月面基地へ帰らねばなりません」
フェリエはそう告げると、ふわりと、まるで重力から解き放たれたかのように地面を蹴った。
魔王軍の前衛部隊が彼女の背後から襲いかかる。巨大な魔物が咆哮を上げ、その爪が彼女を捉えようとした瞬間だった。
――パァン!
乾いた、しかしあまりに力強い衝撃音が響いた。
フェリエの周囲に、目に見えるほどの高密度のエネルギー障壁が展開される。襲いかかった魔物たちは、まるで硬い壁に衝突したかのように、一瞬で肉塊へと変わり、吹き飛んでいった。
彼女の動きは、もはや人間や妖精のそれではない。無駄が一切排除された、最適化された演算に基づく「戦闘」だった。剣も魔法も使わず、ただエネルギーの奔流を放つだけで、戦場を埋め尽くしていた魔物たちが次々と塵へと変わっていく。
「な、なんだ……あの力は……」
ベアトリスが、鍛え上げられた体躯を震わせながら呟いた。ギルド長として数々の修羅場を潜り抜けてきた彼女でさえ、目の前の光景には言葉を失っていた。
フェリエは、戦場の中央に鎮座する巨大なゴーレムへと歩み寄った。魔王軍の秘密兵器。その圧倒的な質量を前にしても、彼女は臆することなく、その冷たい金属の腕を抱え込んだ。
驚くべきことに、彼女はその巨体を軽々と、まるで羽毛でも扱うかのように担ぎ上げたのである。
「……エーテルドライブ、点火」
フェリエが呟いた瞬間、彼女の背後から、凄まじい轟音が響き渡った。
――ドォォォォォォォォン!!
彼女のドレスの裾から、あるいは小さな背中から、青白い光の噴煙が噴き出す。それは魔法の輝きというよりは、地獄の業火を思わせるほどの、圧倒的な質量を持ったエネルギーの塊だった。
凄まじい推進力が、ゴーレムと彼女の小さな体を空へと押し上げる。
「あ……ああっ……!」
レニーは、空へと駆け上がっていくその姿を見上げ、ただ言葉を失った。
彼女の周囲には、まるで巨大な光の剣のような、白く長い噴煙の尾が引かれていた。それは、この中世的な世界の人々が、これまでの歴史の中で一度も目にしたことのない、未知の理(ことわり)の象徴だった。
フェリエの体は、猛烈な加速とともに、青い光の筋となって空へと昇っていく。
魔王軍の兵士たちも、戦いに熱中していた住民たちも、そして傷ついた英雄たちも、皆がその場に釘付けになり、ただ一点――空へと消えゆく、眩いばかりの光の尾を見上げていた。
空が、裂けていく。
彼女が残した巨大な噴煙の跡は、まるで天に刻まれた傷跡のように、どこまでも高く、どこまでも青い空へと伸びていった。
空は、あまりに澄み渡っていた。
数日前、戦場を焼き尽くさんばかりに吹き荒れた炎も、大地を揺らした轟音も、今はもう遠い記憶のようだ。魔王軍は、あの一体の大いなる力――少女が連れ去っていった巨大なゴーレムを失ったことで、戦意を喪失し、音もなく撤退していった。
戦いは終わった。世界は救われ、平和が戻るはずだった。
しかし、街に流れる空気は、どこか重苦しく、沈んでいた。
冒険者ギルドの喧騒は影を潜め、いつもは豪快な笑い声を響かせるベアトリスも、今はどこか遠い目をして、カウンターの布を黙々と拭いている。街の守護者として、勝利の象徴となるべきアルヴィスでさえ、白銀の鎧を纏ったまま、英雄としての輝きを失い、どこか所在なげに窓の外を見つめていた。
そして、レニーは。
彼は、馴染みのある研究室の窓辺に座り、ただ一点、どこまでも高い青空を見つめていた。
「……どこへ行ってしまったんだ、君は」
掠れた声が、唇から零れ落ちる。
理知的な彼は、自分の中に渦巻くこの感情を、論理的に説明しようと試みていた。彼女は自動人形(オートマタ)だ。高度な技術で作られた、意思を持つ機械。彼女には帰るべき場所があり、任務がある。それを理解しているはずなのに、胸の奥に空いた巨大な穴は、どんな知識を詰め込んでも埋まることはなかった。
あの日、空へと昇っていった、光の柱のような推進エネルギーの噴煙。
光の中に消えていった、透き通るような紫色の髪。
最後に見た彼女の表情は、悲しげで、それでいてどこか慈しむような、人間以上に人間らしいものだった。
レニーの瞳から、熱いものが溢れ出すのを止められなかった。
考古学者として、数々の古代遺物を見てきた。それらはどれも、持ち主を失い、静かに時を刻むだけの無機質なものだった。だが、フェリエだけは違った。彼女は、レニーの生活に、思考に、そして心に、あまりに鮮烈な色彩を刻み込んでしまったのだ。
涙が頬を伝い、机の上に落ちる。
彼女がいなくなった世界は、色が抜けてしまったかのように、ひどく退屈で、空虚だった。
その時だった。
「――ただいま戻りました、ご主人様!」
静寂を切り裂くような、明るく、どこかドジを踏んだ時のような、聞き慣れた声が響いた。
レニーは弾かれたように顔を上げた。
目には涙が溜まったまま、彼は呆然と入り口を見つめる。
「……え?」
そこに立っていたのは、フェリエだった。
透き通るような紫色の髪を少し乱し、宝石のような青い瞳を輝かせている。古びたメイド服風のドレスは、どこか埃っぽいが、その表情はまるで、近所の村へ買い物にでも行ってきたかのように、屈託がなく、愛らしかった。
レニーは、声も出せずに立ち上がった。
幻覚か、それとも、あまりの喪失感が生み出した精神の防衛本能か。彼は震える手で、自分の目元を押さえた。
「フェリエ……なのか? 本当に、君なのか……?」
「はい! フェリエ、ただいま帰りました!」
彼女は嬉しそうに、ふんわりと微笑んだ。そのあまりに自然な振る舞いに、レニーは混乱する。彼女は、あの空の彼方へ、月へと旅立ったはずではないのか。
「どうして……どうして戻ってこれたんだ? 月基地へ、戻らなければならなかったんだろう? 君の任務は……」
言葉を紡ぐレニーの問いに対し、フェリエは少しだけ首を傾げ、困ったように眉を下げた。まるで、何か単純な間違いを指摘されたかのような、そんな態度だった。
「それが、困ったことになりまして。指示を仰ぐべき月基地に帰還したのですが、なんだか、誰もいなかったのです」
「……誰も、いない?」
「はい。ガランとしていて、とっても寂しい場所でした。ですので、あそこにゴーレムを置いてきたところで、これ以上いても仕方がないと思いまして。ご主人様に会いに戻ってきました!」
フェリエは、まるで「雨が降っていたから傘を差しました」と言うかのような、あまりに拍子抜けなトーンで報告した。
「やっぱり帰還に2000年ほど遅刻したのがいけなかったのでしょうか?」
レニーは、言葉を失った。
2000年遅刻? 月面基地が無人?
そして、彼女は、あの巨大なゴーレムを、ただ「置いてきた」というのか?
あまりに理不尽で、あまりに非論理的で、そしてあまりに彼女らしい報告。
レニーは、呆然と立ち尽くしたまま、思わず吹き出しそうになる自分と、再び涙が溢れてくる自分との間で、激しく揺れ動いていた。
窓の外では、相変わらず青空が広がっている。
けれど、レニーの目の前には、確かに、世界で一番愛おしい「色彩」が、そこに存在していた。