ラグナロク第一回戦。
神側代表――雷神トール。
人類側代表――呂布奉先。
結果は、引き分け。
神と人類、どちらかが七勝するまで続くはずの十三番勝負。その最初の一戦で、誰一人として想定していなかった結果が刻まれた。
もっとも、この時点では誰も深刻には考えていなかった。
神々も。
人類も。
そして、ラグナロクを提案したブリュンヒルデでさえも。
互いの力が、たまたま拮抗していた。
その結果、偶然にも相打ちになった。
ただ、それだけ。
誰もがそう思っていた。
◇ ◇ ◇
「さあああああああああッ!!」
第一回戦の興奮が冷めやらぬヴァルハラ闘技場に、再びヘイムダルの声が響き渡る。
「まさかまさかの引き分けに終わった第一回戦!! だが、ラグナロクはまだ始まったばかりだァァァァァ!!」
観客席から大歓声が上がった。
第一回戦。
人類は勝てなかった。
だが――負けもしなかった。
その事実は、人類にとって想像以上に大きな意味を持っていた。
神は絶対ではない。
人間でも戦える。
ほんのわずかではあるが、人類の間に確かな希望が生まれ始めている。
一方、神々の受け止め方は違った。
「まあ、事故だろ」
「トール様の相手が思った以上に強かっただけだ」
「次はこうはいかん」
大半の神々は、まだ余裕を失っていない。
引き分け。
確かに珍しい。
だが、それだけだ。
「それではァァァ!!」
ヘイムダルが神側の入場口を指し示す。
「第二回戦!! 神側代表は――!!」
その瞬間。
会場がざわめいた。
ゆっくりと、一人の老人が歩いてくる。
小柄な身体。
細い手足。
長く伸びた白髭。
第一回戦のトールとは似ても似つかない。
「え?」
ゲルが目を瞬かせた。
「あれ?」
「…………」
「お姉様」
「何です?」
「あのお爺ちゃん、誰っスか?」
「…………」
ブリュンヒルデの表情が険しくなる。
「……ゼウスです」
「へ?」
「全宇宙の父にして、神々の頂点に立つ存在。ギリシャ神話最高神――ゼウス」
「…………」
ゲルは、もう一度老人を見る。
腰の曲がった小柄な身体。
長い白髭。
どう見ても老人である。
「…………」
そして。
「えええええええええええええ!?」
絶叫した。
「ゼウスぅぅぅぅぅ!? お爺ちゃんじゃないっスか!?」
「見た目で判断しないでください!」
「だってお爺ちゃんっスよ!?」
二人が騒いでいる間にも、ヘイムダルの口上は続く。
「神々を束ねる最高神!!」
「全宇宙の父!!」
「神側第二回戦代表――!!」
「ゼウウウウウウウウウスッ!!」
神々の歓声を浴びながら、ゼウスは楽しげに闘技場中央へ向かっていく。
「ほっほっほ」
その姿は、これから命懸けの戦いへ赴くというより、面白い遊びでも見つけた子供のようだった。
「まずい……」
ブリュンヒルデが呟く。
「え?」
「本来、ゼウスの出番はもっと後の予定だったはずです」
「じゃ、じゃあ、どうして……」
「第一回戦を見て――」
ブリュンヒルデは小さく歯を食いしばった。
「我慢できなくなったのでしょうね」
◇ ◇ ◇
「さあ!!」
ヘイムダルが今度は人類側の入場口へ向き直る。
「対する人類!! 神々の頂点へ挑むのは――!!」
扉が開いた。
一人の男が歩いてくる。
武器はない。
鎧もない。
神々の頂点へ挑むというのに、あまりにも無防備な姿だった。
「…………え?」
ゲルが固まる。
「お姉様?」
「はい」
「武器は?」
「ありません」
「鎧は?」
「ありません」
「…………」
少しの沈黙。
「大丈夫なんスか!?」
そんなゲルの心配など知らず、男は穏やかな表情で歩いてくる。
見た目だけなら、どこにでもいそうな青年。
だが。
その姿を見た人類の観客たちが、一人、また一人と立ち上がっていく。
「人類、その始まり!!」
「すべての人間の祖!!」
「人類の父!!」
ヘイムダルが大きく息を吸う。
「その名は――!!」
「アァァァァァダムッ!!」
人類側から、地鳴りのような歓声が巻き起こった。
◇ ◇ ◇
ゼウスとアダム。
二人が闘技場中央で向かい合う。
「ほっほ」
ゼウスが笑った。
「お主がアダムか」
「…………」
アダムは何も答えない。
「一つ聞いてもよいか?」
ゼウスが首を傾げる。
「神に恨みでもあるのか? それとも、神々へ復讐したいのか?」
アダムは少しだけ考えた。
「別に」
「ほ?」
「そんなの、どうでもいいよ」
その言葉に、人類側だけでなく神々の間にも小さなどよめきが走った。
「では、なぜ戦う?」
「…………」
アダムは答える代わりに、人類側の観客席を見上げた。
そこには無数の人間たちがいる。
男。
女。
老人。
若者。
そして。
子供たち。
そのすべてを見渡して。
アダムは穏やかに笑った。
「理由なんているのかい?」
「…………」
「自分の子供たちを守るのに」
一瞬。
会場が静まり返った。
そして。
「うおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
人類側の感情が爆発した。
泣く者。
叫ぶ者。
拳を握る者。
「父さん!」
「アダム!」
「頑張れ!」
ゲルもまた、目に涙を浮かべていた。
「アダムさん……」
「…………」
ブリュンヒルデは何も言わない。
ただ、人類すべてを背負って立つその背中を見つめていた。
◇ ◇ ◇
「それでは!!」
ヘイムダルが角笛を掲げる。
「ラグナロク第二回戦――開始ィィィィィィィ!!」
その瞬間。
ゼウスが消えた。
「――!」
拳がアダムの顔面へ迫る。
だが、アダムは紙一重でかわした。
「ほ?」
ゼウスが笑う。
続けてもう一発。
かわす。
三発。
五発。
十発。
速度を上げても、すべてかわされる。
「な……」
アレスが目を見開いた。
「何だ、あの人間は!?」
そして次の瞬間。
アダムの拳がゼウスの顔面を捉えた。
「ぶっ!?」
最高神の身体が吹き飛ぶ。
「…………」
会場が静まり返った。
「ゼ……」
ゲルが震える。
「ゼウスを……殴り飛ばした……?」
対照的に、ブリュンヒルデの口元には笑みが浮かんでいた。
「神虚視」
「え?」
「一度見た神の技を完全に模倣し、それを神自身へ返す」
ブリュンヒルデは、アダムを見つめる。
「それが、アダムの力です」
◇ ◇ ◇
戦いは、神々の想像を遥かに超えていった。
ゼウスが殴る。
アダムがかわす。
そして、まったく同じ技を返す。
ゼウスが吹き飛ぶ。
「ほっほっほ!」
それでもゼウスは笑っていた。
「よい! 実によいぞ!」
攻撃の速度がさらに上がる。
それでもアダムはかわし、返す。
神の技を。
神自身を上回る精度で。
「す、すごいっス!」
ゲルが興奮して身を乗り出した。
「これ、本当に勝てるんじゃないっスか!?」
「…………」
ブリュンヒルデは答えない。
まだだ。
ゼウスは。
まだ本気ではない。
そして、その時はすぐに訪れた。
◇ ◇ ◇
「ぬぅぅぅぅぅ……」
ゼウスの身体が変形していく。
膨張していた筋肉が、逆に極限まで圧縮される。
異様な肉体。
異様な威圧感。
それまでとは比較にならないほど濃密な力が、老人の身体へ凝縮されていく。
「お、お姉様……」
ゲルの声が震えた。
「あれ……何なんスか……?」
「阿陀磨須」
ブリュンヒルデの表情が険しくなる。
「ゼウスの最終形態です」
アダムは目の前の怪物を見る。
それでも。
一歩も退かなかった。
「行くぞ」
ゼウスが消えた。
拳。
アダムがかわす。
返す。
また拳。
かわす。
返す。
拳。
拳。
拳。
拳。
神と人。
互いの拳が、もはや観客の目では追えない速度で交差する。
◇ ◇ ◇
どれほど殴り合ったのか。
もう、誰にも分からなかった。
ゼウスは血まみれ。
アダムも血まみれ。
それでも、二人の拳は止まらない。
「父さん!!」
「アダム!!」
「もういい!」
「頑張れ!!」
人類の叫びが飛ぶ。
アダムの目から血が流れ始めていた。
神虚視の限界。
身体も、とうに悲鳴を上げている。
それでも。
拳を止めない。
自分の子供たちを守るために。
父は、立ち続ける。
「ぬおおおおおおおおおおおお!!」
ゼウスの拳。
アダムが返す。
殴る。
殴られる。
それでも殴る。
そして――
「…………」
不意に。
アダムの拳が止まった。
「…………?」
ゲルが目を見開く。
「アダム……さん?」
アダムは立っている。
だが。
動かない。
瞳も、もうゼウスを捉えてはいなかった。
「…………」
ブリュンヒルデの表情から、すべての感情が消える。
「まさか……」
ゼウスも拳を止めた。
荒い呼吸。
全身は傷だらけ。
それでも、彼は立っている。
対するアダムは。
もう動かない。
「……見事じゃった」
ゼウスが静かに呟いた。
「人間」
そして。
「いや――人類の父よ」
人類側から声が消える。
「そんな……」
ゲルの目から涙がこぼれた。
「アダムさん……」
ヘイムダルもまた、震える手で角笛を持ち上げる。
「け……決着――!!」
神々が歓声を上げようとする。
「ラグナロク第二回戦!!」
そして。
「勝者――ゼウ――」
その時だった。
「…………?」
ゼウスの身体が揺れた。
「……ぬ?」
誰よりも驚いたのは、ゼウス本人だった。
突然。
膝から力が抜ける。
「…………」
何が起きたのか理解する間もなく。
最高神の身体が地面へ倒れた。
轟音。
「…………」
ヘイムダルは、口を開いたまま固まった。
神々も。
人類も。
何も言えない。
ゲルが一度瞬きする。
もう一度。
「…………え?」
ヘイムダルはゆっくりと倒れたゼウスを見る。
続いて、立ったまま動かないアダムを見る。
そして。
もう一度ゼウスを見る。
「…………」
嫌な記憶が蘇った。
「……また?」
◇ ◇ ◇
救護班が一斉に飛び込んできた。
「ゼウス様!」
「ゼウス様!!」
「アダム!」
「状態を確認しろ!」
第一回戦でも見た光景。
だが。
今回は明らかに違う。
「ゼウス様、生存!」
「意識なし!」
「戦闘続行不能です!」
神側がざわめく。
そして。
人類側。
「…………」
確認に時間がかかっていた。
ゲルは両手を胸の前で握り締める。
「お願い……」
やがて。
救護担当者が顔を上げた。
「アダム――生存しています!」
「……!」
ブリュンヒルデが目を見開く。
「生きて……」
ゲルの目から、今度は安堵の涙が溢れた。
「生きてるんスか!?」
「はい! ただし重傷! 意識もありません!」
「こちらも戦闘続行不能です!」
「…………」
会場が静まり返る。
第一回戦。
トールと呂布。
双方生存。
双方戦闘不能。
そして。
第二回戦。
ゼウスとアダム。
双方生存。
双方戦闘不能。
「…………」
ヘイムダルの頬が引きつった。
「えー……」
誰も何も言わない。
「ラグナロク第二回戦……」
角笛を持ち上げる。
「勝者……」
いない。
どちらも戦えない。
「……なし」
ヘイムダルは一度目を閉じた。
そして、半ばやけくそのように叫んだ。
「第二回戦も――引き分けぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
◇ ◇ ◇
戦績が更新される。
神――零勝。
人類――零勝。
引き分け――二。
「…………」
ゲルは表示を見上げた。
「また……」
そして、少し嬉しそうに笑う。
「また引き分けっスね!」
「…………」
「お姉様?」
ブリュンヒルデは笑っていなかった。
ただ、表示された数字をじっと見つめている。
「……ええ」
「どうしたんスか?」
「…………」
第一回戦。
トールと呂布。
互いの最大の一撃が激突し、ほぼ同時に倒れた。
完全な相打ち。
それなら、まだ分かる。
だが。
第二回戦は違った。
アダムが先に止まった。
ゼウスは立っていた。
ヘイムダルも勝敗が決したと判断し、勝者の名を告げようとした。
あと一秒。
いや。
ほんの一瞬。
ゼウスが立っていれば、神側の勝利だった。
なのに。
その瞬間。
ゼウスまで倒れた。
「…………」
ブリュンヒルデの眉が、わずかに寄る。
「偶然……?」
◇ ◇ ◇
同じ頃。
神側の治療室。
「…………」
ゼウスがゆっくりと目を開けた。
「ゼウス様!」
「お気づきになられましたか!」
「…………」
天井を見つめる。
「ワシは……」
記憶を辿る。
アダムは止まった。
自分は立っていた。
勝った。
確かに、そう思った。
なのに。
「……なぜじゃ?」
なぜ、自分まで倒れた?
身体が限界に近かったことは分かっている。
あと数秒。
いや。
あと一秒でよかった。
それだけ立っていれば、勝利は確定していた。
だというのに。
あの瞬間だけ。
まるで。
これ以上立っていることを許されなかったかのように。
身体から力が消えた。
「…………」
ゼウスはゆっくりと視線を動かす。
近くに表示された戦績。
神――零勝。
人類――零勝。
引き分け――二。
第一回戦では。
笑っていた。
珍しいこともあるものだと。
だが。
今度は。
「…………」
ゼウスは笑わなかった。
「二度目……か」
◇ ◇ ◇
その頃。
ブリュンヒルデもまた、同じ数字を見つめていた。
「二度目……」
第一回戦は、偶然。
第二回戦も、偶然。
そう考えればいい。
考えられないことではない。
だが。
「…………」
胸の奥に。
小さな棘のようなものが残っていた。
「お姉様ー!」
先を歩いていたゲルが振り返る。
「次の準備するっスよー!」
「……ええ」
ブリュンヒルデは戦績から視線を外し、歩き出した。
まだ、何も分からない。
証拠もない。
理由もない。
そもそも。
何かが起きているという確証すらない。
一度なら、偶然。
二度なら――
まだ。
偶然と呼べる。
そう。
誰もが、自分にそう言い聞かせた。
神々も。
人類も。
まだ知らない。
次の戦いでも。
同じ文字が刻まれることを。
引き分け。
それはまだ。
十三分の二に過ぎなかった。