十三戦。
十三引き分け。
神――零勝。
人類――零勝。
勝者は、一人もいない。
敗者も、一人もいない。
そして。
消滅した者も、一人もいない。
ラグナロクが始まった時。
誰が、こんな結末を予想しただろう。
◇ ◇ ◇
「…………」
会議室には、重苦しい沈黙が流れていた。
ゼウス。
オーディン。
シヴァ。
ヘルメス。
アレス。
そしてゲル。
神々も。
ワルキューレも。
誰一人として答えを持っていない。
十三試合は、すべて終わった。
だが。
ラグナロクそのものが終わったのかどうかすら分からない。
「……第二回」
アレスが、小さく呟いた。
全員の視線が向く。
「本当に、やるのですか?」
「…………」
ゼウスは答えなかった。
少し前なら、迷わず答えていただろう。
十三戦で足りなければ、もう十三戦。
それでも足りなければ、さらに十三戦。
どちらかが七勝するまで続ければいい。
そう言った。
だが。
十三回。
一度として勝敗はつかなかった。
十三回。
異常が起きた。
十三回。
それなのに、神々は何一つ痕跡を見つけられなかった。
「……まずは」
ヘルメスが静かに口を開く。
「ブリュンヒルデの調査結果を待ちましょう」
「そうだな」
シヴァも頷いた。
「今度こそ、何か分かりゃいいが……」
再び。
沈黙が落ちる。
その時だった。
――ガチャ。
扉が開いた。
「!」
ゲルが振り返る。
「お姉様!」
ブリュンヒルデだった。
だが。
「…………?」
ゲルの表情が変わる。
おかしい。
ブリュンヒルデは何も言わない。
俯いたまま、ゆっくりと部屋へ入ってくる。
その手には。
一枚の紙。
「お姉様?」
「…………」
「どうしたんスか?」
返事がない。
「……お姉様?」
ゲルが近づく。
そして。
気づいた。
「…………え?」
一滴。
ブリュンヒルデの頬を伝ったものが、床へ落ちる。
また一滴。
「お姉……様?」
ブリュンヒルデが顔を上げた。
「…………」
泣いていた。
「……!」
ゲルが息を呑む。
アレスも。
シヴァも。
ヘルメスも。
言葉を失った。
あのブリュンヒルデが。
どれほど追い詰められても強気な態度を崩さなかった彼女が。
人前で涙を隠すことすらできずに泣いている。
「……これを」
震える声で。
ブリュンヒルデは、一枚の紙を差し出した。
「読んで……ください」
「…………」
ゼウスの表情から、わずかに残っていた余裕が消えた。
「何が書いてある?」
「…………」
ブリュンヒルデは答えない。
いや。
答えられない。
「読めば……」
唇が震える。
「全部……分かります」
◇ ◇ ◇
紙そのものは、何の変哲もないものに見えた。
ただ文字が記されているだけ。
ヘルメスが慎重に確認する。
「……神力を感じません」
「何?」
アレスが聞き返した。
「術式もありません。呪いも、何も」
「では誰が書いた?」
「分かりません」
ゼウスがブリュンヒルデを見る。
「どこで見つけた?」
「……あったんです」
「何?」
「調査記録を最初から見直していました」
ブリュンヒルデは涙を拭おうともせず答える。
「気づいたら、机の上に」
「…………」
「誰かが入ってきた気配はありませんでした。ただ……置いてあったんです」
部屋が静まり返る。
やがてゼウスが手を伸ばした。
「貸せ」
紙を受け取る。
最初の一文を読む。
そして。
その目がわずかに見開かれた。
◇ ◇ ◇
――今回発生した十三試合連続の引き分けについて、その理由を記す。
「…………」
誰も口を挟まない。
ゼウスは続きを読む。
――十三試合において発生した事象は、偶然ではない。
――外部からの干渉によるものである。
「やはり……」
アレスが呟いた。
「誰かが……」
だが。
次の文章。
――干渉を行った存在について。
――本世界には、神々及び人類より上位に位置し、世界そのものを管理する存在がある。
「…………」
ゼウスの目が止まる。
「……何?」
アレスが聞き返した。
「どういう意味です?」
ゼウスは答えなかった。
ただ、次の一文を読む。
――その存在を、便宜上『始祖』と呼称する。
「…………」
今度こそ。
誰も声を出せなかった。
「始祖……?」
シヴァが低く呟く。
「世界を管理するって……俺たちより上に?」
「…………」
オーディンの目が鋭くなる。
ゼウスも笑わない。
これまで神々は、自分たちこそが世界の頂点に立つ存在だと考えていた。
だが。
違った。
自分たちすら知らない。
世界そのものを管理する存在。
それがいる。
「……続けます」
ヘルメスが紙を受け取り、読み上げる。
――今回、ラグナロクへ干渉し、十三試合すべてを引き分けへ変更したのは始祖である。
「…………」
アレスの顔から血の気が引く。
十三回。
どれだけ調べても、一度として痕跡を発見できなかった。
当然だったのかもしれない。
神々よりも上に位置する。
世界そのものを管理する存在が行ったことなら。
「でも……」
ゲルが小さく声を上げた。
「なんで……?」
それこそが。
一番の疑問だった。
なぜ。
そんな存在が。
ラグナロクへ介入したのか。
ヘルメスは続きを見る。
「…………」
そして。
その表情が変わった。
「ヘルメス?」
「…………」
「どうした?」
彼は少しだけ息を整え。
読み上げた。
――始祖がラグナロクへ干渉した理由。
――それは、十三名からの願いを受理したためである。
「十三名……?」
アレスが呟く。
十三試合。
十三名。
まだ。
その意味は分からない。
「誰なんスか?」
ゲルが尋ねる。
「その十三人って……」
「…………」
ヘルメスは次の文章を見る。
そして。
一瞬。
声を失った。
「ヘルメス?」
「…………五歳」
小さな声だった。
「え?」
ゲルが聞き返す。
「今、何て……」
「十三名は」
ヘルメスがゆっくりと読む。
「いずれも……死亡時の年齢、五歳」
「…………」
会議室から。
音が消えた。
「……五歳?」
ゲルの声だけが。
静かに残った。
◇ ◇ ◇
紙には。
十三人のことが記されていた。
名前はない。
顔もない。
ただ。
十三人。
全員、五歳。
そして全員。
すでに死亡していた。
死に至った理由は一つではない。
病。
事故。
遺棄。
虐待。
飢え。
それぞれが。
違う理由で。
あまりにも幼くして命を終えていた。
だが。
一つだけ。
共通していることがあった。
――十三名はいずれも、生前、周囲から疎まれていた。
――親から。
――周囲の人間から。
――そして、自らが生きていた世界から。
「…………」
ゲルの表情が歪む。
ヘルメスは読み続けた。
――十三名のうち、自らが愛されていると認識したまま死亡した者は、一名も存在しない。
「…………」
誰も何も言えなかった。
五歳。
たった五歳。
それなのに。
誰にも愛されなかった。
誰にも必要とされなかった。
自分がこの世界にいていいのだと。
一度も、そう思えないまま。
死んだ。
「……なんで」
ゲルが小さく呟く。
「なんでそんな子たちが……」
ラグナロクと。
何の関係があるのか。
その答えは。
すぐ次に書かれていた。
◇ ◇ ◇
――十三名は死亡後、始祖の管理領域へ到達した。
――そこで、ラグナロクの存在を知った。
神と人。
十三人ずつの代表者が戦い。
互いの存亡を決める。
そして。
敗者は。
ただ死ぬのではない。
魂そのものを砕かれ。
完全に消滅する。
輪廻にも戻れない。
二度と。
誰にも会えない。
どこにも存在できない。
それを十三人の子供たちは知った。
そして紙には。
その時。
彼らが口にした言葉まで記されていた。
――『負けた人は、どうなるの?』
――『もう、いなくなっちゃうの?』
――『ずっと?』
始祖は答えた。
そうだ、と。
敗者は完全に消える。
すると。
子供たちは。
たった一言。
こう言った。
――『かわいそう』
「…………」
ゲルが口元を押さえた。
涙が溢れる。
「……それだけ?」
誰に尋ねるでもなく。
呟いた。
「それだけの……理由で……?」
そう。
それだけだった。
神々が正しいのか。
人類が正しいのか。
そんなこと。
五歳の子供たちには分からない。
ラグナロクがなぜ始まったのかも。
よく分からない。
ただ。
負けた人が。
永遠にいなくなる。
それを聞いて。
かわいそうだと思った。
だから。
願った。
――『引き分けにできないの?』
◇ ◇ ◇
「…………」
ヘルメスの手が、わずかに震え始めていた。
それでも続きを読む。
――始祖は十三名へ説明した。
――ラグナロクは、神々と人類双方の存亡に関わる重大な事象である。
――その結果へ直接干渉することは可能。
――ただし。
――結果そのものを改変するためには、相応の代価を必要とする。
「……代価?」
アレスが掠れた声で呟く。
ヘルメスが続ける。
――一試合につき、一名。
――願いを行った者自身の、完全消滅。
「…………」
誰も。
すぐには言葉の意味を受け入れられなかった。
「……どういう」
アレスの声が震える。
「どういう意味だ……?」
だが。
意味は明白だった。
一試合を引き分けへ変えるたび。
一人。
願った子供自身が。
完全に消える。
転生もない。
来世もない。
何も残らない。
そして。
願った者は。
十三人。
「まさか……」
シヴァの表情が変わる。
「十三試合……」
「…………」
「十三人……?」
ヘルメスは。
ゆっくり頷いた。
「そういう……ことです」
◇ ◇ ◇
始祖は、子供たちへ何度も確認した。
本当にいいのか。
自分が消える。
生まれ変わることもない。
天国も。
来世も。
何もない。
完全に。
いなくなる。
お前たちは生前。
すでに十分すぎるほど苦しんだ。
他者のために。
そこまでする必要などない。
それでも。
一人の子供が。
小さな手を挙げた。
――『じゃあ、ぼくのでいいよ』
「…………」
次に。
別の子が。
――『わたしも』
――『だって、負けた人も消えちゃうんでしょ?』
――『それは、かわいそうだよ』
「…………」
ゲルはもう、声を殺して泣いていた。
十三人。
一人。
また一人。
手を挙げた。
――『ぼくも』
――『わたしも』
――『みんな引き分けなら、誰もいなくならないんでしょ?』
そして。
十三人全員が。
自分自身の存在を。
差し出した。
◇ ◇ ◇
第一回戦。
一人。
第二回戦。
一人。
第三回戦。
一人。
第四回戦。
一人。
第五回戦。
一人。
第六回戦。
一人。
第七回戦。
一人。
そこまで読んだところで。
「…………」
ヘルメスが突然、言葉を止めた。
「……待ってください」
声が。
僅かに震えている。
「何じゃ?」
ゼウスが見る。
ヘルメスは紙を見る。
戦績を見る。
そして。
もう一度。
紙へ視線を落とした。
「…………」
顔色が変わっていく。
「ヘルメス?」
アレスが不安そうに尋ねる。
「どうした?」
「……七」
「何?」
「第七回戦終了時点で」
ヘルメスはゆっくりと言った。
「消滅していたのは……七名」
「…………」
まだ。
誰も反応できない。
だが。
一人。
ゲルが。
「…………あ」
小さな声を漏らした。
顔が青ざめる。
「残り……」
唇が震える。
「六人……」
「…………」
ブリュンヒルデの肩が大きく震えた。
ゼウスの目も見開かれる。
「第七回戦で」
ヘルメスは。
言いたくないことを。
それでも言葉にする。
「ラグナロクを終わらせていれば……」
「…………」
「第八回戦は存在しなかった」
「第九回戦も」
「第十回戦も」
「…………」
「新たな敗者は、生まれなかった」
「…………」
そして。
「なら」
声が掠れる。
「残る六名は」
「…………」
「消える必要が……なかった」
◇ ◇ ◇
――十三戦で足りぬなら。
――もう十三戦やればよい。
「…………」
ゼウスの脳裏に。
自分自身の声が蘇る。
――第二回でも決まらぬなら第三回。
――必要なら、その先も。
そして。
ブリュンヒルデにも。
自分の言葉が返ってくる。
――そこまで私たちの勝敗を消したいのなら。
――どちらが先に折れるか。
――付き合ってあげます。
「…………」
ブリュンヒルデの膝から力が抜けた。
「お姉様!」
ゲルが慌てて身体を支える。
「……六人」
「…………」
「六人……」
涙が止まらない。
「私たちが……」
「お姉様……」
「私たちが」
声が震える。
「続けたから……」
「…………」
ゼウスも。
何も言えなかった。
あの時。
止められた。
第七回戦。
七引き分け。
勝利条件は達成不可能となった。
なら。
そこで終わらせることもできた。
それなのに。
意地。
好奇心。
正体不明の存在への対抗心。
それらを理由に。
続けた。
六試合。
そして。
六人。
◇ ◇ ◇
「……続きがあります」
ヘルメスが紙を見た。
「…………」
誰も。
もう読みたくはなかった。
だが。
読まなければならない。
――第七試合終了後。
――始祖は、残る六名へ願いを撤回する機会を与えた。
「…………」
ブリュンヒルデが顔を上げる。
――すでに七名が代価を支払った。
――これ以上、お前たちが消える必要はない。
――願いを撤回してもよい。
始祖は。
そう伝えた。
六人の答え。
――『でも、まだやるんでしょ?』
「…………」
――『また戦うんでしょ?』
――『だったら』
――『また負けた人が、いなくなっちゃうんでしょ?』
「…………」
――『じゃあ、やめない』
――『ぼくも』
――『わたしも』
――『約束したから』
ゲルが堪えきれず、声を上げて泣いた。
「なんで……」
涙を拭うこともできない。
「なんで……!」
誰も答えられない。
「なんでそんなに……」
最後まで言葉にならなかった。
自分たちは。
愛されなかった。
世界から優しくされなかった。
それなのに。
どうして。
他人には。
そこまで優しくできるのか。
◇ ◇ ◇
第八回戦。
一人。
第九回戦。
一人。
第十回戦。
一人。
第十一回戦。
一人。
第十二回戦。
一人。
そして。
第十三回戦。
最後の一人。
始祖は、その子にも問いかけた。
本当にいいのか。
これで。
お前も完全に消える。
すると。
最後の子供は。
笑った。
――『うん』
そして。
――『これで、みんな消えないんでしょ?』
「…………」
ヘルメスの読み上げる声が震える。
――十三名。
――全員。
――願いの履行を後悔せず。
――消滅の瞬間まで。
――笑っていた。
「…………」
誰も。
何も言えなかった。
◇ ◇ ◇
しかし。
紙はまだ終わっていなかった。
「…………」
ヘルメスが次の文章を見る。
そして。
再び表情を変えた。
「……まだ何かあるのか?」
シヴァが低く尋ねる。
「……あります」
ヘルメスは一度、息を整えた。
――以下。
――ラグナロク開催に対する、始祖の裁定を記す。
「裁定……?」
アレスが呟く。
――ラグナロクは、本来、認可されるべき事象ではない。
――世界に存在する生命の存亡を、一部の神々及び人類による闘争によって決定する行為。
――そして。
――敗者の完全消滅を伴う戦いを。
――歓声を上げ。
――興奮し。
――あたかも娯楽であるかのように扱ったこと。
「…………」
神々も。
人類側も。
何一つ言い返せなかった。
思い出す。
歓声。
興奮。
笑い。
勝て。
倒せ。
殺せ。
戦士が敗れれば。
その魂は永遠に消える。
それを知りながら。
自分たちは。
熱狂していた。
ヘルメスは読む。
――自らの生存を望むこと。
――それ自体を、罪とはしない。
――しかし。
――他者の完全消滅を伴う闘争を見世物とし、その結果へ熱狂する行為を、私は容認しない。
「…………」
そして。
次の文章。
その場にいる全員にとって。
さらに重いものだった。
――さらに。
――第七試合終了時点において。
――当該闘争は終了する機会を得ていた。
「…………」
ゼウスが拳を握る。
――七勝という勝利条件は達成不能となった。
――以後の戦闘を継続する必要性は消失していた。
――にもかかわらず。
――双方は、闘争の継続を選択した。
「…………」
ブリュンヒルデが俯く。
――その理由は、生存のためだけではない。
――勝敗への執着。
――意地。
――好奇心。
――そして、自らに干渉する存在への対抗心。
誰も。
否定できない。
その通りだった。
――その判断により。
――さらに六名が代価を支払うこととなった。
「っ……」
ブリュンヒルデの顔が歪む。
そして。
次の一文。
ヘルメスは。
読むことを一瞬躊躇した。
「……続けろ」
ゼウスが言った。
「…………」
「最後まで読むんじゃ」
「……はい」
そして。
読み上げる。
――この時点をもって。
――私は、神々及び人類双方に対する評価を終了した。
「…………」
罵倒ではない。
怒鳴り声でもない。
ただ。
それだけの文章。
なのに。
その場にいる神々には分かった。
怒られたのではない。
もっと悪い。
見限られたのだ。
世界そのものを管理する存在に。
完全に。
◇ ◇ ◇
ヘルメスは続ける。
――自らの存在を救うために戦うことは理解できる。
――しかし。
――他者の消滅を伴う闘争を娯楽として扱い。
――終了可能となった後もなお、意地と対抗心によって継続した。
――以上をもって。
――双方の世界に、存続の意思なしと判断する。
「…………」
アレスの顔から血の気が引く。
そして。
次。
――よって。
――ラグナロク終了後。
――神々の世界。
――人類の世界。
――双方を消去する予定であった。
「…………」
誰も動かなかった。
「……は?」
アレスが。
ようやく声を出した。
「消去……?」
シヴァも険しい顔になる。
「俺たちも……か?」
「…………」
ゼウスは。
そこで初めて。
本当の意味を理解した。
自分たちは。
人類を滅ぼすか。
存続させるか。
その決定権を持っているつもりだった。
だが。
違う。
さらに上に。
自分たちを。
神々ごと。
世界ごと。
消し去ることのできる存在がいる。
そして。
その始祖は。
すでに。
神々も人類も。
存続させる価値なしと判断していた。
◇ ◇ ◇
「じゃあ……」
ゲルが震える声で言った。
「私たち……」
「みんな……消える……?」
「……いいえ」
ヘルメスが紙を見る。
「まだ続きがあります」
読む。
――ただし。
「…………」
全員の視線が集まる。
――当該処分は撤回する。
「…………」
すぐには。
意味が理解できなかった。
「……撤回?」
アレスが呟く。
「なぜ?」
答えは。
次にあった。
――理由。
――十三名。
「…………」
ゲルが息を呑む。
――十三名は。
――自らが消滅する直前まで。
――神々及び人類双方の存続を望んだ。
――自らを愛さなかった世界を。
――自らを必要としなかった世界を。
――それでも彼らは。
――消えてほしいとは願わなかった。
「…………」
ブリュンヒルデの頬を、また涙が伝う。
――私個人の判断として。
――双方の世界を存続させる理由はない。
そこには。
今なお。
神々と人類への厳しい拒絶があった。
だが。
続く。
――しかし。
――十三名の犠牲によって守られた世界を。
――私自身の判断によって消去することは。
――彼らの願い。
――彼らの選択。
――彼らの最期。
――そのすべてを否定する行為となる。
――それを、私は望まない。
「…………」
そして。
裁定の最後。
――よって。
――今回に限り。
――神々及び人類双方に対する処分を撤回する。
――以後。
――同様の行為が繰り返されぬことを望む。
「…………」
ヘルメスはゆっくりと紙を下ろした。
「……終わり?」
ゲルが涙声で尋ねる。
「…………」
ヘルメスは首を振った。
「いいえ」
「最後に」
一度。
声を整える。
「十三人から」
「言葉が残されています」
「…………」
ブリュンヒルデが目を閉じる。
ゲルは。
もう泣いていた。
「……読め」
ゼウスが小さく言う。
「はい」
◇ ◇ ◇
紙の一番最後。
そこだけは。
それまでの文章とは違っていた。
難しい言葉はない。
裁定も。
説明もない。
ただ。
幼い言葉。
十三人の子供たちが。
最後に残した願い。
――『けんかしないでね』
「…………」
――『かみさまも』
――『にんげんも』
――『もう、けんかしないで』
「…………」
――『みんな』
――『なかよくしてね』
「…………」
そして。
最後。
――『みんな、しあわせになってね』
「…………」
ヘルメスは。
それ以上。
何も言えなかった。
紙を下ろす。
誰も話さない。
長い。
本当に長い沈黙が。
部屋を満たした。
◇ ◇ ◇
「……どうして」
ゲルが泣きながら呟いた。
「どうして……」
誰にも答えられない。
「あの子たちは……」
愛されなかった。
なのに。
誰かを思いやった。
世界から優しくされなかった。
なのに。
最後まで世界に優しかった。
誰にも必要とされなかった。
なのに。
最後には。
神も。
人も。
二つの世界すべてを救った。
「…………」
ゼウスは俯いていた。
その顔に笑みはない。
シヴァは強く拳を握っている。
アレスの頬には涙が流れていた。
ヘルメスは何も言わず、一枚の紙を見つめている。
オーディンも静かに目を閉じていた。
そして。
ブリュンヒルデは。
ただ。
泣いていた。
◇ ◇ ◇
「……もう」
ブリュンヒルデが。
小さな声で言った。
「いないんです」
「…………」
ゲルが姉を見る。
「十三人とも」
「…………」
「もう……」
言葉が震える。
「どこにも、いないんです」
「…………」
その事実だけは。
誰にも変えられない。
会いに行くこともできない。
礼を言うこともできない。
謝ることもできない。
抱きしめることもできない。
名前すら知らない。
顔すら知らない。
墓すらない。
魂すら。
もう。
どこにもない。
完全に消えた。
十三人。
ただ。
一つだけ。
彼らについて分かっている。
五歳だった。
誰にも愛されなかった。
それでも。
最後まで。
誰かが消えることを悲しんだ。
そして。
神と人類。
二つの世界を救った。
その代わりに。
自分たちは。
もう。
どこにもいない。
残ったものは。
一枚の紙と。
最後の願い。
それだけ。
――けんかしないでね。
――みんな、なかよくしてね。
――みんな、しあわせになってね。
その日。
神々と人類は。
自分たちが生きている理由を。
初めて知った。
それは。
勝ったからではない。
正しかったからでもない。
許されたからですらない。
ただ。
誰にも愛されなかった十三人の子供たちが。
最後の最後まで。
自分たちよりも、誰かが消えることを悲しんでくれたからだった。