終末のワルキューレ 勝者はいなかった   作:ぶるぶるメタボ

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第6話 十三人の願い

十三戦。

 

 十三引き分け。

 

 神――零勝。

 

 人類――零勝。

 

 勝者は、一人もいない。

 

 敗者も、一人もいない。

 

 そして。

 

 消滅した者も、一人もいない。

 

 ラグナロクが始まった時。

 

 誰が、こんな結末を予想しただろう。

 

     ◇ ◇ ◇

 

「…………」

 

 会議室には、重苦しい沈黙が流れていた。

 

 ゼウス。

 

 オーディン。

 

 シヴァ。

 

 ヘルメス。

 

 アレス。

 

 そしてゲル。

 

 神々も。

 

 ワルキューレも。

 

 誰一人として答えを持っていない。

 

 十三試合は、すべて終わった。

 

 だが。

 

 ラグナロクそのものが終わったのかどうかすら分からない。

 

「……第二回」

 

 アレスが、小さく呟いた。

 

 全員の視線が向く。

 

「本当に、やるのですか?」

 

「…………」

 

 ゼウスは答えなかった。

 

 少し前なら、迷わず答えていただろう。

 

 十三戦で足りなければ、もう十三戦。

 

 それでも足りなければ、さらに十三戦。

 

 どちらかが七勝するまで続ければいい。

 

 そう言った。

 

 だが。

 

 十三回。

 

 一度として勝敗はつかなかった。

 

 十三回。

 

 異常が起きた。

 

 十三回。

 

 それなのに、神々は何一つ痕跡を見つけられなかった。

 

「……まずは」

 

 ヘルメスが静かに口を開く。

 

「ブリュンヒルデの調査結果を待ちましょう」

 

「そうだな」

 

 シヴァも頷いた。

 

「今度こそ、何か分かりゃいいが……」

 

 再び。

 

 沈黙が落ちる。

 

 その時だった。

 

 ――ガチャ。

 

 扉が開いた。

 

「!」

 

 ゲルが振り返る。

 

「お姉様!」

 

 ブリュンヒルデだった。

 

 だが。

 

「…………?」

 

 ゲルの表情が変わる。

 

 おかしい。

 

 ブリュンヒルデは何も言わない。

 

 俯いたまま、ゆっくりと部屋へ入ってくる。

 

 その手には。

 

 一枚の紙。

 

「お姉様?」

 

「…………」

 

「どうしたんスか?」

 

 返事がない。

 

「……お姉様?」

 

 ゲルが近づく。

 

 そして。

 

 気づいた。

 

「…………え?」

 

 一滴。

 

 ブリュンヒルデの頬を伝ったものが、床へ落ちる。

 

 また一滴。

 

「お姉……様?」

 

 ブリュンヒルデが顔を上げた。

 

「…………」

 

 泣いていた。

 

「……!」

 

 ゲルが息を呑む。

 

 アレスも。

 

 シヴァも。

 

 ヘルメスも。

 

 言葉を失った。

 

 あのブリュンヒルデが。

 

 どれほど追い詰められても強気な態度を崩さなかった彼女が。

 

 人前で涙を隠すことすらできずに泣いている。

 

「……これを」

 

 震える声で。

 

 ブリュンヒルデは、一枚の紙を差し出した。

 

「読んで……ください」

 

「…………」

 

 ゼウスの表情から、わずかに残っていた余裕が消えた。

 

「何が書いてある?」

 

「…………」

 

 ブリュンヒルデは答えない。

 

 いや。

 

 答えられない。

 

「読めば……」

 

 唇が震える。

 

「全部……分かります」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 紙そのものは、何の変哲もないものに見えた。

 

 ただ文字が記されているだけ。

 

 ヘルメスが慎重に確認する。

 

「……神力を感じません」

 

「何?」

 

 アレスが聞き返した。

 

「術式もありません。呪いも、何も」

 

「では誰が書いた?」

 

「分かりません」

 

 ゼウスがブリュンヒルデを見る。

 

「どこで見つけた?」

 

「……あったんです」

 

「何?」

 

「調査記録を最初から見直していました」

 

 ブリュンヒルデは涙を拭おうともせず答える。

 

「気づいたら、机の上に」

 

「…………」

 

「誰かが入ってきた気配はありませんでした。ただ……置いてあったんです」

 

 部屋が静まり返る。

 

 やがてゼウスが手を伸ばした。

 

「貸せ」

 

 紙を受け取る。

 

 最初の一文を読む。

 

 そして。

 

 その目がわずかに見開かれた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 ――今回発生した十三試合連続の引き分けについて、その理由を記す。

 

「…………」

 

 誰も口を挟まない。

 

 ゼウスは続きを読む。

 

 ――十三試合において発生した事象は、偶然ではない。

 

 ――外部からの干渉によるものである。

 

「やはり……」

 

 アレスが呟いた。

 

「誰かが……」

 

 だが。

 

 次の文章。

 

 ――干渉を行った存在について。

 

 ――本世界には、神々及び人類より上位に位置し、世界そのものを管理する存在がある。

 

「…………」

 

 ゼウスの目が止まる。

 

「……何?」

 

 アレスが聞き返した。

 

「どういう意味です?」

 

 ゼウスは答えなかった。

 

 ただ、次の一文を読む。

 

 ――その存在を、便宜上『始祖』と呼称する。

 

「…………」

 

 今度こそ。

 

 誰も声を出せなかった。

 

「始祖……?」

 

 シヴァが低く呟く。

 

「世界を管理するって……俺たちより上に?」

 

「…………」

 

 オーディンの目が鋭くなる。

 

 ゼウスも笑わない。

 

 これまで神々は、自分たちこそが世界の頂点に立つ存在だと考えていた。

 

 だが。

 

 違った。

 

 自分たちすら知らない。

 

 世界そのものを管理する存在。

 

 それがいる。

 

「……続けます」

 

 ヘルメスが紙を受け取り、読み上げる。

 

 ――今回、ラグナロクへ干渉し、十三試合すべてを引き分けへ変更したのは始祖である。

 

「…………」

 

 アレスの顔から血の気が引く。

 

 十三回。

 

 どれだけ調べても、一度として痕跡を発見できなかった。

 

 当然だったのかもしれない。

 

 神々よりも上に位置する。

 

 世界そのものを管理する存在が行ったことなら。

 

「でも……」

 

 ゲルが小さく声を上げた。

 

「なんで……?」

 

 それこそが。

 

 一番の疑問だった。

 

 なぜ。

 

 そんな存在が。

 

 ラグナロクへ介入したのか。

 

 ヘルメスは続きを見る。

 

「…………」

 

 そして。

 

 その表情が変わった。

 

「ヘルメス?」

 

「…………」

 

「どうした?」

 

 彼は少しだけ息を整え。

 

 読み上げた。

 

 ――始祖がラグナロクへ干渉した理由。

 

 ――それは、十三名からの願いを受理したためである。

 

「十三名……?」

 

 アレスが呟く。

 

 十三試合。

 

 十三名。

 

 まだ。

 

 その意味は分からない。

 

「誰なんスか?」

 

 ゲルが尋ねる。

 

「その十三人って……」

 

「…………」

 

 ヘルメスは次の文章を見る。

 

 そして。

 

 一瞬。

 

 声を失った。

 

「ヘルメス?」

 

「…………五歳」

 

 小さな声だった。

 

「え?」

 

 ゲルが聞き返す。

 

「今、何て……」

 

「十三名は」

 

 ヘルメスがゆっくりと読む。

 

「いずれも……死亡時の年齢、五歳」

 

「…………」

 

 会議室から。

 

 音が消えた。

 

「……五歳?」

 

 ゲルの声だけが。

 

 静かに残った。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 紙には。

 

 十三人のことが記されていた。

 

 名前はない。

 

 顔もない。

 

 ただ。

 

 十三人。

 

 全員、五歳。

 

 そして全員。

 

 すでに死亡していた。

 

 死に至った理由は一つではない。

 

 病。

 

 事故。

 

 遺棄。

 

 虐待。

 

 飢え。

 

 それぞれが。

 

 違う理由で。

 

 あまりにも幼くして命を終えていた。

 

 だが。

 

 一つだけ。

 

 共通していることがあった。

 

 ――十三名はいずれも、生前、周囲から疎まれていた。

 

 ――親から。

 

 ――周囲の人間から。

 

 ――そして、自らが生きていた世界から。

 

「…………」

 

 ゲルの表情が歪む。

 

 ヘルメスは読み続けた。

 

 ――十三名のうち、自らが愛されていると認識したまま死亡した者は、一名も存在しない。

 

「…………」

 

 誰も何も言えなかった。

 

 五歳。

 

 たった五歳。

 

 それなのに。

 

 誰にも愛されなかった。

 

 誰にも必要とされなかった。

 

 自分がこの世界にいていいのだと。

 

 一度も、そう思えないまま。

 

 死んだ。

 

「……なんで」

 

 ゲルが小さく呟く。

 

「なんでそんな子たちが……」

 

 ラグナロクと。

 

 何の関係があるのか。

 

 その答えは。

 

 すぐ次に書かれていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 ――十三名は死亡後、始祖の管理領域へ到達した。

 

 ――そこで、ラグナロクの存在を知った。

 

 神と人。

 

 十三人ずつの代表者が戦い。

 

 互いの存亡を決める。

 

 そして。

 

 敗者は。

 

 ただ死ぬのではない。

 

 魂そのものを砕かれ。

 

 完全に消滅する。

 

 輪廻にも戻れない。

 

 二度と。

 

 誰にも会えない。

 

 どこにも存在できない。

 

 それを十三人の子供たちは知った。

 

 そして紙には。

 

 その時。

 

 彼らが口にした言葉まで記されていた。

 

 ――『負けた人は、どうなるの?』

 

 ――『もう、いなくなっちゃうの?』

 

 ――『ずっと?』

 

 始祖は答えた。

 

 そうだ、と。

 

 敗者は完全に消える。

 

 すると。

 

 子供たちは。

 

 たった一言。

 

 こう言った。

 

 ――『かわいそう』

 

「…………」

 

 ゲルが口元を押さえた。

 

 涙が溢れる。

 

「……それだけ?」

 

 誰に尋ねるでもなく。

 

 呟いた。

 

「それだけの……理由で……?」

 

 そう。

 

 それだけだった。

 

 神々が正しいのか。

 

 人類が正しいのか。

 

 そんなこと。

 

 五歳の子供たちには分からない。

 

 ラグナロクがなぜ始まったのかも。

 

 よく分からない。

 

 ただ。

 

 負けた人が。

 

 永遠にいなくなる。

 

 それを聞いて。

 

 かわいそうだと思った。

 

 だから。

 

 願った。

 

 ――『引き分けにできないの?』

 

     ◇ ◇ ◇

 

「…………」

 

 ヘルメスの手が、わずかに震え始めていた。

 

 それでも続きを読む。

 

 ――始祖は十三名へ説明した。

 

 ――ラグナロクは、神々と人類双方の存亡に関わる重大な事象である。

 

 ――その結果へ直接干渉することは可能。

 

 ――ただし。

 

 ――結果そのものを改変するためには、相応の代価を必要とする。

 

「……代価?」

 

 アレスが掠れた声で呟く。

 

 ヘルメスが続ける。

 

 ――一試合につき、一名。

 

 ――願いを行った者自身の、完全消滅。

 

「…………」

 

 誰も。

 

 すぐには言葉の意味を受け入れられなかった。

 

「……どういう」

 

 アレスの声が震える。

 

「どういう意味だ……?」

 

 だが。

 

 意味は明白だった。

 

 一試合を引き分けへ変えるたび。

 

 一人。

 

 願った子供自身が。

 

 完全に消える。

 

 転生もない。

 

 来世もない。

 

 何も残らない。

 

 そして。

 

 願った者は。

 

 十三人。

 

「まさか……」

 

 シヴァの表情が変わる。

 

「十三試合……」

 

「…………」

 

「十三人……?」

 

 ヘルメスは。

 

 ゆっくり頷いた。

 

「そういう……ことです」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 始祖は、子供たちへ何度も確認した。

 

 本当にいいのか。

 

 自分が消える。

 

 生まれ変わることもない。

 

 天国も。

 

 来世も。

 

 何もない。

 

 完全に。

 

 いなくなる。

 

 お前たちは生前。

 

 すでに十分すぎるほど苦しんだ。

 

 他者のために。

 

 そこまでする必要などない。

 

 それでも。

 

 一人の子供が。

 

 小さな手を挙げた。

 

 ――『じゃあ、ぼくのでいいよ』

 

「…………」

 

 次に。

 

 別の子が。

 

 ――『わたしも』

 

 ――『だって、負けた人も消えちゃうんでしょ?』

 

 ――『それは、かわいそうだよ』

 

「…………」

 

 ゲルはもう、声を殺して泣いていた。

 

 十三人。

 

 一人。

 

 また一人。

 

 手を挙げた。

 

 ――『ぼくも』

 

 ――『わたしも』

 

 ――『みんな引き分けなら、誰もいなくならないんでしょ?』

 

 そして。

 

 十三人全員が。

 

 自分自身の存在を。

 

 差し出した。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 第一回戦。

 

 一人。

 

 第二回戦。

 

 一人。

 

 第三回戦。

 

 一人。

 

 第四回戦。

 

 一人。

 

 第五回戦。

 

 一人。

 

 第六回戦。

 

 一人。

 

 第七回戦。

 

 一人。

 

 そこまで読んだところで。

 

「…………」

 

 ヘルメスが突然、言葉を止めた。

 

「……待ってください」

 

 声が。

 

 僅かに震えている。

 

「何じゃ?」

 

 ゼウスが見る。

 

 ヘルメスは紙を見る。

 

 戦績を見る。

 

 そして。

 

 もう一度。

 

 紙へ視線を落とした。

 

「…………」

 

 顔色が変わっていく。

 

「ヘルメス?」

 

 アレスが不安そうに尋ねる。

 

「どうした?」

 

「……七」

 

「何?」

 

「第七回戦終了時点で」

 

 ヘルメスはゆっくりと言った。

 

「消滅していたのは……七名」

 

「…………」

 

 まだ。

 

 誰も反応できない。

 

 だが。

 

 一人。

 

 ゲルが。

 

「…………あ」

 

 小さな声を漏らした。

 

 顔が青ざめる。

 

「残り……」

 

 唇が震える。

 

「六人……」

 

「…………」

 

 ブリュンヒルデの肩が大きく震えた。

 

 ゼウスの目も見開かれる。

 

「第七回戦で」

 

 ヘルメスは。

 

 言いたくないことを。

 

 それでも言葉にする。

 

「ラグナロクを終わらせていれば……」

 

「…………」

 

「第八回戦は存在しなかった」

 

「第九回戦も」

 

「第十回戦も」

 

「…………」

 

「新たな敗者は、生まれなかった」

 

「…………」

 

 そして。

 

「なら」

 

 声が掠れる。

 

「残る六名は」

 

「…………」

 

「消える必要が……なかった」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 ――十三戦で足りぬなら。

 

 ――もう十三戦やればよい。

 

「…………」

 

 ゼウスの脳裏に。

 

 自分自身の声が蘇る。

 

 ――第二回でも決まらぬなら第三回。

 

 ――必要なら、その先も。

 

 そして。

 

 ブリュンヒルデにも。

 

 自分の言葉が返ってくる。

 

 ――そこまで私たちの勝敗を消したいのなら。

 

 ――どちらが先に折れるか。

 

 ――付き合ってあげます。

 

「…………」

 

 ブリュンヒルデの膝から力が抜けた。

 

「お姉様!」

 

 ゲルが慌てて身体を支える。

 

「……六人」

 

「…………」

 

「六人……」

 

 涙が止まらない。

 

「私たちが……」

 

「お姉様……」

 

「私たちが」

 

 声が震える。

 

「続けたから……」

 

「…………」

 

 ゼウスも。

 

 何も言えなかった。

 

 あの時。

 

 止められた。

 

 第七回戦。

 

 七引き分け。

 

 勝利条件は達成不可能となった。

 

 なら。

 

 そこで終わらせることもできた。

 

 それなのに。

 

 意地。

 

 好奇心。

 

 正体不明の存在への対抗心。

 

 それらを理由に。

 

 続けた。

 

 六試合。

 

 そして。

 

 六人。

 

     ◇ ◇ ◇

 

「……続きがあります」

 

 ヘルメスが紙を見た。

 

「…………」

 

 誰も。

 

 もう読みたくはなかった。

 

 だが。

 

 読まなければならない。

 

 ――第七試合終了後。

 

 ――始祖は、残る六名へ願いを撤回する機会を与えた。

 

「…………」

 

 ブリュンヒルデが顔を上げる。

 

 ――すでに七名が代価を支払った。

 

 ――これ以上、お前たちが消える必要はない。

 

 ――願いを撤回してもよい。

 

 始祖は。

 

 そう伝えた。

 

 六人の答え。

 

 ――『でも、まだやるんでしょ?』

 

「…………」

 

 ――『また戦うんでしょ?』

 

 ――『だったら』

 

 ――『また負けた人が、いなくなっちゃうんでしょ?』

 

「…………」

 

 ――『じゃあ、やめない』

 

 ――『ぼくも』

 

 ――『わたしも』

 

 ――『約束したから』

 

 ゲルが堪えきれず、声を上げて泣いた。

 

「なんで……」

 

 涙を拭うこともできない。

 

「なんで……!」

 

 誰も答えられない。

 

「なんでそんなに……」

 

 最後まで言葉にならなかった。

 

 自分たちは。

 

 愛されなかった。

 

 世界から優しくされなかった。

 

 それなのに。

 

 どうして。

 

 他人には。

 

 そこまで優しくできるのか。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 第八回戦。

 

 一人。

 

 第九回戦。

 

 一人。

 

 第十回戦。

 

 一人。

 

 第十一回戦。

 

 一人。

 

 第十二回戦。

 

 一人。

 

 そして。

 

 第十三回戦。

 

 最後の一人。

 

 始祖は、その子にも問いかけた。

 

 本当にいいのか。

 

 これで。

 

 お前も完全に消える。

 

 すると。

 

 最後の子供は。

 

 笑った。

 

 ――『うん』

 

 そして。

 

 ――『これで、みんな消えないんでしょ?』

 

「…………」

 

 ヘルメスの読み上げる声が震える。

 

 ――十三名。

 

 ――全員。

 

 ――願いの履行を後悔せず。

 

 ――消滅の瞬間まで。

 

 ――笑っていた。

 

「…………」

 

 誰も。

 

 何も言えなかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 しかし。

 

 紙はまだ終わっていなかった。

 

「…………」

 

 ヘルメスが次の文章を見る。

 

 そして。

 

 再び表情を変えた。

 

「……まだ何かあるのか?」

 

 シヴァが低く尋ねる。

 

「……あります」

 

 ヘルメスは一度、息を整えた。

 

 ――以下。

 

 ――ラグナロク開催に対する、始祖の裁定を記す。

 

「裁定……?」

 

 アレスが呟く。

 

 ――ラグナロクは、本来、認可されるべき事象ではない。

 

 ――世界に存在する生命の存亡を、一部の神々及び人類による闘争によって決定する行為。

 

 ――そして。

 

 ――敗者の完全消滅を伴う戦いを。

 

 ――歓声を上げ。

 

 ――興奮し。

 

 ――あたかも娯楽であるかのように扱ったこと。

 

「…………」

 

 神々も。

 

 人類側も。

 

 何一つ言い返せなかった。

 

 思い出す。

 

 歓声。

 

 興奮。

 

 笑い。

 

 勝て。

 

 倒せ。

 

 殺せ。

 

 戦士が敗れれば。

 

 その魂は永遠に消える。

 

 それを知りながら。

 

 自分たちは。

 

 熱狂していた。

 

 ヘルメスは読む。

 

 ――自らの生存を望むこと。

 

 ――それ自体を、罪とはしない。

 

 ――しかし。

 

 ――他者の完全消滅を伴う闘争を見世物とし、その結果へ熱狂する行為を、私は容認しない。

 

「…………」

 

 そして。

 

 次の文章。

 

 その場にいる全員にとって。

 

 さらに重いものだった。

 

 ――さらに。

 

 ――第七試合終了時点において。

 

 ――当該闘争は終了する機会を得ていた。

 

「…………」

 

 ゼウスが拳を握る。

 

 ――七勝という勝利条件は達成不能となった。

 

 ――以後の戦闘を継続する必要性は消失していた。

 

 ――にもかかわらず。

 

 ――双方は、闘争の継続を選択した。

 

「…………」

 

 ブリュンヒルデが俯く。

 

 ――その理由は、生存のためだけではない。

 

 ――勝敗への執着。

 

 ――意地。

 

 ――好奇心。

 

 ――そして、自らに干渉する存在への対抗心。

 

 誰も。

 

 否定できない。

 

 その通りだった。

 

 ――その判断により。

 

 ――さらに六名が代価を支払うこととなった。

 

「っ……」

 

 ブリュンヒルデの顔が歪む。

 

 そして。

 

 次の一文。

 

 ヘルメスは。

 

 読むことを一瞬躊躇した。

 

「……続けろ」

 

 ゼウスが言った。

 

「…………」

 

「最後まで読むんじゃ」

 

「……はい」

 

 そして。

 

 読み上げる。

 

 ――この時点をもって。

 

 ――私は、神々及び人類双方に対する評価を終了した。

 

「…………」

 

 罵倒ではない。

 

 怒鳴り声でもない。

 

 ただ。

 

 それだけの文章。

 

 なのに。

 

 その場にいる神々には分かった。

 

 怒られたのではない。

 

 もっと悪い。

 

 見限られたのだ。

 

 世界そのものを管理する存在に。

 

 完全に。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 ヘルメスは続ける。

 

 ――自らの存在を救うために戦うことは理解できる。

 

 ――しかし。

 

 ――他者の消滅を伴う闘争を娯楽として扱い。

 

 ――終了可能となった後もなお、意地と対抗心によって継続した。

 

 ――以上をもって。

 

 ――双方の世界に、存続の意思なしと判断する。

 

「…………」

 

 アレスの顔から血の気が引く。

 

 そして。

 

 次。

 

 ――よって。

 

 ――ラグナロク終了後。

 

 ――神々の世界。

 

 ――人類の世界。

 

 ――双方を消去する予定であった。

 

「…………」

 

 誰も動かなかった。

 

「……は?」

 

 アレスが。

 

 ようやく声を出した。

 

「消去……?」

 

 シヴァも険しい顔になる。

 

「俺たちも……か?」

 

「…………」

 

 ゼウスは。

 

 そこで初めて。

 

 本当の意味を理解した。

 

 自分たちは。

 

 人類を滅ぼすか。

 

 存続させるか。

 

 その決定権を持っているつもりだった。

 

 だが。

 

 違う。

 

 さらに上に。

 

 自分たちを。

 

 神々ごと。

 

 世界ごと。

 

 消し去ることのできる存在がいる。

 

 そして。

 

 その始祖は。

 

 すでに。

 

 神々も人類も。

 

 存続させる価値なしと判断していた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

「じゃあ……」

 

 ゲルが震える声で言った。

 

「私たち……」

 

「みんな……消える……?」

 

「……いいえ」

 

 ヘルメスが紙を見る。

 

「まだ続きがあります」

 

 読む。

 

 ――ただし。

 

「…………」

 

 全員の視線が集まる。

 

 ――当該処分は撤回する。

 

「…………」

 

 すぐには。

 

 意味が理解できなかった。

 

「……撤回?」

 

 アレスが呟く。

 

「なぜ?」

 

 答えは。

 

 次にあった。

 

 ――理由。

 

 ――十三名。

 

「…………」

 

 ゲルが息を呑む。

 

 ――十三名は。

 

 ――自らが消滅する直前まで。

 

 ――神々及び人類双方の存続を望んだ。

 

 ――自らを愛さなかった世界を。

 

 ――自らを必要としなかった世界を。

 

 ――それでも彼らは。

 

 ――消えてほしいとは願わなかった。

 

「…………」

 

 ブリュンヒルデの頬を、また涙が伝う。

 

 ――私個人の判断として。

 

 ――双方の世界を存続させる理由はない。

 

 そこには。

 

 今なお。

 

 神々と人類への厳しい拒絶があった。

 

 だが。

 

 続く。

 

 ――しかし。

 

 ――十三名の犠牲によって守られた世界を。

 

 ――私自身の判断によって消去することは。

 

 ――彼らの願い。

 

 ――彼らの選択。

 

 ――彼らの最期。

 

 ――そのすべてを否定する行為となる。

 

 ――それを、私は望まない。

 

「…………」

 

 そして。

 

 裁定の最後。

 

 ――よって。

 

 ――今回に限り。

 

 ――神々及び人類双方に対する処分を撤回する。

 

 ――以後。

 

 ――同様の行為が繰り返されぬことを望む。

 

「…………」

 

 ヘルメスはゆっくりと紙を下ろした。

 

「……終わり?」

 

 ゲルが涙声で尋ねる。

 

「…………」

 

 ヘルメスは首を振った。

 

「いいえ」

 

「最後に」

 

 一度。

 

 声を整える。

 

「十三人から」

 

「言葉が残されています」

 

「…………」

 

 ブリュンヒルデが目を閉じる。

 

 ゲルは。

 

 もう泣いていた。

 

「……読め」

 

 ゼウスが小さく言う。

 

「はい」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 紙の一番最後。

 

 そこだけは。

 

 それまでの文章とは違っていた。

 

 難しい言葉はない。

 

 裁定も。

 

 説明もない。

 

 ただ。

 

 幼い言葉。

 

 十三人の子供たちが。

 

 最後に残した願い。

 

 ――『けんかしないでね』

 

「…………」

 

 ――『かみさまも』

 

 ――『にんげんも』

 

 ――『もう、けんかしないで』

 

「…………」

 

 ――『みんな』

 

 ――『なかよくしてね』

 

「…………」

 

 そして。

 

 最後。

 

 ――『みんな、しあわせになってね』

 

「…………」

 

 ヘルメスは。

 

 それ以上。

 

 何も言えなかった。

 

 紙を下ろす。

 

 誰も話さない。

 

 長い。

 

 本当に長い沈黙が。

 

 部屋を満たした。

 

     ◇ ◇ ◇

 

「……どうして」

 

 ゲルが泣きながら呟いた。

 

「どうして……」

 

 誰にも答えられない。

 

「あの子たちは……」

 

 愛されなかった。

 

 なのに。

 

 誰かを思いやった。

 

 世界から優しくされなかった。

 

 なのに。

 

 最後まで世界に優しかった。

 

 誰にも必要とされなかった。

 

 なのに。

 

 最後には。

 

 神も。

 

 人も。

 

 二つの世界すべてを救った。

 

「…………」

 

 ゼウスは俯いていた。

 

 その顔に笑みはない。

 

 シヴァは強く拳を握っている。

 

 アレスの頬には涙が流れていた。

 

 ヘルメスは何も言わず、一枚の紙を見つめている。

 

 オーディンも静かに目を閉じていた。

 

 そして。

 

 ブリュンヒルデは。

 

 ただ。

 

 泣いていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

「……もう」

 

 ブリュンヒルデが。

 

 小さな声で言った。

 

「いないんです」

 

「…………」

 

 ゲルが姉を見る。

 

「十三人とも」

 

「…………」

 

「もう……」

 

 言葉が震える。

 

「どこにも、いないんです」

 

「…………」

 

 その事実だけは。

 

 誰にも変えられない。

 

 会いに行くこともできない。

 

 礼を言うこともできない。

 

 謝ることもできない。

 

 抱きしめることもできない。

 

 名前すら知らない。

 

 顔すら知らない。

 

 墓すらない。

 

 魂すら。

 

 もう。

 

 どこにもない。

 

 完全に消えた。

 

 十三人。

 

 ただ。

 

 一つだけ。

 

 彼らについて分かっている。

 

 五歳だった。

 

 誰にも愛されなかった。

 

 それでも。

 

 最後まで。

 

 誰かが消えることを悲しんだ。

 

 そして。

 

 神と人類。

 

 二つの世界を救った。

 

 その代わりに。

 

 自分たちは。

 

 もう。

 

 どこにもいない。

 

 残ったものは。

 

 一枚の紙と。

 

 最後の願い。

 

 それだけ。

 

 ――けんかしないでね。

 

 ――みんな、なかよくしてね。

 

 ――みんな、しあわせになってね。

 

 その日。

 

 神々と人類は。

 

 自分たちが生きている理由を。

 

 初めて知った。

 

 それは。

 

 勝ったからではない。

 

 正しかったからでもない。

 

 許されたからですらない。

 

 ただ。

 

 誰にも愛されなかった十三人の子供たちが。

 

 最後の最後まで。

 

 自分たちよりも、誰かが消えることを悲しんでくれたからだった。

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