春の風が、新緑の並木道を優しく揺らしていた。
中学校へ入学してから、一か月ほどが過ぎた。
新しい教室にも。
新しい授業にも。
二人は少しずつ慣れ始めていた。
放課後。
「じゃあ、また後で。」
校門を出たところで、出久が笑顔を向ける。
勝己は短く答えた。
「ああ。」
向かう先は違う。
けれど、目指している場所は同じだった。
市立図書館。
静かな館内で、出久は一冊の本を開いていた。
『災害時の避難誘導』
『応急処置入門』
『救助活動の基本』
机の上には何冊もの本が積まれている。
ノートには、小さな文字がびっしりと並んでいた。
『慌てている人には、短く分かりやすく声をかける。』
『救助するときは、自分の安全も確認する。』
『ヒーローは戦うだけじゃない。』
出久はその一文を、丁寧にノートへ書き写した。
「戦うだけじゃない……。」
小さくつぶやく。
その言葉を胸の中でゆっくりと繰り返す。
(いつか、この知識も、誰かを助ける力になる。)
そう信じながら、出久は静かに次のページをめくった。
新しいことを知るたび、瞳が輝いていた。
幼い頃から変わらない表情だった。
その頃。
河川敷。
乾いた爆発音が青空へ響く。
「ッ!」
ドンッ!!
勝己は地面を蹴り、爆発の反動で一気に前へ飛ぶ。
着地。
すぐに向きを変える。
もう一度。
ドンッ!!
額から汗が流れ落ちる。
何度も。
何度も。
同じ動きを繰り返す。
「……まだだ。」
誰に言われたわけでもない。
自分自身が、一番厳しい。
爆風の向き。
踏み込み。
着地。
ほんの少しのずれも見逃さない。
再び飛び出した、その瞬間。
「チッ。」
着地がわずかに流れた。
勝己はその場で足を止める。
「違う。」
短くつぶやき、自分の足元を見つめる。
踏み込みの位置を確かめる。
掌を見つめる。
そして、もう一度だけ静かに息を吐いた。
「もう一回。」
再び爆発音が河川敷へ響いた。
夕方。
図書館を出た出久は、小走りで河川敷へ向かっていた。
遠くから聞こえる爆発音。
「あっ。」
少し先で、勝己の姿を見つける。
「まだやってたんだ。」
勝己は息を整えながら振り返る。
「終わってねぇ。」
出久は笑う。
「今日も頑張ってるね。」
「当たり前だ。」
その返事に、出久は少しだけ照れくさそうに笑った。
「わたしも頑張らなきゃ。」
勝己は出久の持っているノートへ目を向ける。
「今日も図書館か。」
「うん。」
「いっぱい勉強してきた。」
そう言って、ノートを少しだけ開いて見せる。
勝己は一瞬だけ目を通す。
「……細けぇ。」
「えへへ。」
「忘れちゃうから。」
勝己は鼻を鳴らした。
「それ、お前らしいな。」
その一言が、出久には嬉しかった。
勝己はポケットからストップウォッチを取り出した。
少し考えてから、それを出久へ放る。
「測れ。」
「え?」
「タイム。」
出久は慌てて受け取る。
「わ、分かった!」
勝己はスタート位置へ向かう。
「いいか?」
「うん!」
出久はストップウォッチを構えた。
「よーい……スタート!」
その瞬間。
ドンッ!!
爆発と同時に勝己が飛び出す。
一直線に駆け抜ける。
爆風を利用した加速。
着地。
方向転換。
再加速。
「ストップ!」
勝己が戻ってくる。
「どうだ。」
出久は数字を見つめた。
「三十七秒四!」
勝己は腕を組む。
「遅ぇ。」
出久は少し笑う。
「でも。」
「最後の着地、前よりぶれなかったよ。」
勝己が眉を上げる。
「本当か。」
「うん。」
出久は思い出すように身振りを交えながら話す。
「二回目の着地だけ、少し左に流れてた。」
「爆風が少しだけ横へ逃げたのかもしれない。」
「でも、その後は真っすぐ走れてたから、そこだけ直したらもっと速くなると思う。」
勝己は黙って聞いている。
少しの沈黙。
やがて向きを変えた。
「もう一本。」
「え?」
「今の試す。」
「うん!」
出久は嬉しそうにうなずく。
もう一度。
スタート。
爆発。
加速。
着地。
今度は身体がほとんどぶれない。
「ストップ!」
勝己が戻ってくる。
「三十六秒八!」
出久は目を輝かせた。
「速くなってる!」
勝己は数字を見つめ、小さく息を吐く。
「……なるほど。」
その一言だけだった。
けれど、それは出久の分析を認めた言葉だった。
帰り道。
夕焼けが二人の影を長く伸ばしている。
「分析。」
勝己が前を向いたまま言う。
「役に立つな。」
出久は少し驚いて振り向く。
「え?」
「続けろ。」
短い言葉。
それだけだった。
でも、出久は嬉しそうに笑った。
「うん!」
「もっと勉強する!」
勝己も少しだけ口元を緩める。
「俺も。」
「もっと鍛える。」
二人は顔を見合わせて笑った。
努力の形は違う。
けれど。
目指す未来は同じだった。
その夜。
出久は机に向かい、ヒーローノートを開く。
今日学んだことを、一つひとつ書き留めていく。
『避難誘導』
『応急処置』
『救助活動』
ページの端には、小さく書き添えた。
『勝己 着地が前より安定していた。』
そして最後に、一行。
『知ることは、人を助ける力になる。』
書き終えると、出久は静かにノートを閉じる。
知ること。
考えること。
積み重ねること。
そのすべてが、誰かを助ける力になる。
そう信じながら、出久は明日もまた前へ進んでいく。