朝。
双葉幼稚園の門が開くより少し早く、出久は母・引子と手をつないで歩いていた。
「ふふっ。」
「どうしたの?」
引子が優しく尋ねる。
出久は弾むように答えた。
「きょうね!」
「ダンゴムシさんのつづき、みるの!」
引子は思わず笑みをこぼす。
「そうなんだ。」
「昨日、お約束したの?」
「うん!」
出久は大きくうなずく。
「かっちゃんがね!」
「『ダンゴムシのつづき見るぞ』って!」
その嬉しそうな表情を見て、引子は胸をなで下ろした。
この数日で、娘はずいぶんよく笑うようになった。
「楽しみだね。」
「うん!」
園門の前まで来ると、出久は引子の手をぎゅっと握った。
「いってきます!」
「いってらっしゃい。」
元気よく手を振って園庭へ駆けていく。
引子は、その小さな背中が見えなくなるまで見送っていた。
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園庭へ入った出久は、真っ先に辺りを見回した。
「……。」
まだいない。
少しだけ肩が下がる。
昨日と同じ場所へ向かう。
ダンゴムシがいた植え込みのそば。
しゃがみ込み、そっと葉っぱをめくる。
「いない……。」
少しだけ寂しくなった、そのときだった。
「何してんだ。」
後ろから聞き慣れた声がする。
ぱっと振り向く。
「かっちゃん!」
勝己は両手をポケットに入れたまま立っていた。
「もう探したのか。」
「うん!」
「でもいなかった……。」
勝己は植え込みを一度見ると、小さく首を振った。
「こっちじゃねぇ。」
「え?」
「昨日の帰りに見てた。」
そう言って園庭の反対側へ歩き出す。
「こっちの木の下。」
出久は目を丸くした。
「覚えてたの?」
勝己は振り返らない。
「約束しただろ。」
それだけ言って歩き続ける。
出久は一瞬立ち尽くした。
胸の奥が、ぽっと温かくなる。
「うん!」
嬉しそうに返事をすると、小さな足で勝己を追いかけた。
木陰に着くと、勝己はしゃがみ込む。
「このへん。」
二人でそっと落ち葉をめくる。
「いた!」
最初に見つけたのは出久だった。
小さなダンゴムシが、ゆっくりと丸まり、また少しずつ歩き始める。
「ほんとだ。」
勝己も少しだけ嬉しそうに笑った。
「昨日のやつかな?」
出久が尋ねる。
勝己は少し考える。
「分かんねぇ。」
「でも。」
「また会えたなら、それでいいだろ。」
出久はその言葉に、小さく笑った。
「うん。」
また会えた。
その言葉だけで、十分嬉しかった。
春の風が、木々を優しく揺らす。
二人は並んでしゃがみ込み、小さな命を飽きることなく見つめ続けていた。
「ほんとに、ころころするね。」
出久は両手を膝につきながら、小さなダンゴムシを夢中で見つめていた。
勝己も隣でしゃがみ込む。
「つつくと丸くなる。」
そう言いながら、小枝ではなく、人差し指でそっと地面を軽くたたく。
驚いたダンゴムシは、小さく丸まった。
「わぁ!」
出久の瞳が輝く。
「すごい!」
「でも。」
勝己は続ける。
「すぐ戻る。」
しばらくすると、ダンゴムシはゆっくり体を伸ばし、また歩き始めた。
「ほんとだ……。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑う。
そのとき。
「何してるんだ?」
近くを通りかかった園児が、二人の足元をのぞき込んだ。
「ダンゴムシ!」
出久が嬉しそうに答える。
「うわ、気持ちわる!」
園児は近くに落ちていた枝を拾い上げた。
「つついてみよ!」
枝がダンゴムシへ伸びる。
その瞬間だった。
「やめろ。」
勝己の声が響く。
園児は驚いて手を止めた。
「なんで?」
「かわいそうだろ。」
勝己は短く言う。
「遊ぶなら他ので遊べ。」
園児は少し不満そうな顔をしたが、
「……つまんない。」
と言い残して、友達のところへ走っていった。
静けさが戻る。
出久はダンゴムシを見つめたまま、小さくつぶやく。
「よかったぁ……。」
勝己は鼻を鳴らす。
「当たり前だ。」
「約束したし。」
出久は勝己を見る。
「約束?」
「昨日。」
「続きを見るって言っただろ。」
「見る前にいなくなったら、意味ねぇ。」
その言葉に、出久は思わず笑った。
「うん!」
「守れたね!」
勝己は照れくさそうに目をそらす。
「まぁな。」
それだけだった。
でも、その返事が嬉しかった。
午後になり、子どもたちは教室へ戻る。
出久はお絵描き帳を開くと、今日見たダンゴムシを一生懸命描き始めた。
丸い体。
小さな足。
その隣には、もう一人。
少しだけツンとした髪の男の子。
保育士がのぞき込む。
「お友達?」
出久はにっこり笑った。
「うん!」
「かっちゃん!」
その返事は、昨日よりずっと自然だった。
帰る時間。
園庭の門で二人はまた並ぶ。
「じゃあ。」
勝己が歩き出そうとすると、
出久が小さく呼び止めた。
「かっちゃん。」
「ん?」
「また明日。」
勝己は少しだけ笑う。
「あぁ。」
「また明日。」
春風が吹き抜ける。
桜の花びらが二人の間をゆっくり舞った。
約束は、大きなものじゃなかった。
指切りをしたわけでもない。
紙に書いたわけでもない。
ただ、
「明日も一緒に見よう。」
そう言っただけ。
それでも、その約束は二人の心に残った。
明日も会える。
明日も笑える。
幼い二人にとって約束とは、
未来を信じる、小さな勇気だった。