数日が過ぎた。
双葉幼稚園の園庭は、いつもより少しだけ賑やかだった。
「見て見て!」
一人の男の子が両手を前へ伸ばす。
すると、足元に落ちていた一枚の葉っぱが、ふわりと宙へ浮かんだ。
「浮いた!」
「すごーい!」
周りの子どもたちが歓声を上げる。
先生も驚きながら微笑んだ。
「無理しないでね。」
「みんな、順番に見せてね。」
教室でも園庭でも。
子どもたちの話題は、いつの間にか個性のことばかりになっていた。
「ぼくも出た!」
「あたしも!」
「先生、見て!」
幼稚園中が笑顔に包まれていた。
出久も、その輪の中で嬉しそうに笑う。
みんなが少しずつ、自分だけの力を見つけていく。
それは、とても素敵なことだった。
「かっちゃんは?」
誰かが尋ねる。
勝己は少し得意そうに手を開いた。
「見てろ。」
その瞬間。
ぱんっ。
小さな音が園庭へ響く。
勝己の手のひらで、小さな爆発が弾けた。
園庭が一瞬静まり返る。
そして次の瞬間。
「すごーい!」
「爆発した!」
「勝己くん、かっこいい!」
子どもたちが一斉に集まる。
先生も驚いたように目を見開いた。
「勝己くん。」
「今のが個性なのね。」
勝己は自分の手のひらを見つめる。
少し驚いて。
それから、にやりと笑った。
「出た。」
「俺の個性。」
出久はぱっと顔を輝かせる。
「かっちゃん!」
「すごい!」
心からそう思った。
強くて。
かっこよくて。
ヒーローみたいだった。
勝己は照れくさそうに鼻を鳴らす。
「当たり前だ。」
「俺だぞ。」
出久は何度もうなずいた。
「うん!」
「すごい!」
その日、勝己はずっとみんなに囲まれていた。
「もう一回!」
「見せて!」
勝己は照れくさそうに笑いながら、もう一度手を開く。
ぱんっ。
小さな爆発。
子どもたちは大喜びだった。
少し離れた場所で、出久はその様子を見つめていた。
胸がぽかぽかする。
かっちゃんが褒められている。
それは、本当に嬉しかった。
でも。
胸の奥が、少しだけ苦しい。
「……?」
出久は自分の胸へ手を当てる。
どうしてだろう。
嬉しいはずなのに。
少しだけ痛い。
その理由は、まだ分からなかった。
---
帰り道。
出久は引子と手をつないで歩いていた。
いつもより少し静かだった。
「出久?」
引子が心配そうに顔をのぞき込む。
「どうしたの?」
出久は少しだけ考える。
そして、小さな声で尋ねた。
「お母さん。」
「むこせいって、なぁに?」
引子の足が止まった。
春風が、二人の間を静かに吹き抜ける。
引子はゆっくりとしゃがみ込み、出久と目を合わせた。
その顔は、とても優しかった。
でも、少しだけ悲しそうだった。
「無個性っていうのはね。」
震えないように、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「個性が出ない子のことなの。」
出久は首をかしげる。
「出ない?」
「うん。」
引子は小さくうなずいた。
「みんなみたいな個性が……出ないかもしれないの。」
出久はしばらく黙っていた。
個性が出ない。
みんなみたいに。
かっちゃんみたいに。
今日見た、小さな爆発が頭に浮かぶ。
みんなが笑っていた。
「すごいね。」
そう言っていた。
そして、教室で描いた画用紙も思い出した。
「ヒーローになりたい。」
「一緒になろうね。」
そう笑った自分。
出久は小さく口を開く。
「じゃあ……。」
声が震える。
「わたし……。」
「ヒーローになれないの?」
引子は息をのんだ。
すぐには答えられなかった。
その沈黙だけで、幼い出久にも少しずつ分かってしまう。
胸の奥が、ぎゅっと痛くなる。
「……。」
出久の目に涙が浮かんだ。
ぽろり。
一粒、頬を伝う。
「やだ……。」
小さな声だった。
「わたし……。」
「かっちゃんと、一緒にヒーローになりたい……。」
その続きは、涙で言えなかった。
ぽろぽろと涙があふれ続ける。
引子はたまらず、出久を抱きしめた。
「ごめんね……。」
「ごめんね、出久……。」
母の声も震えていた。
でも、出久には返事ができなかった。
小さな体を震わせながら、
初めて、
夢が遠くなる悲しさを知った。
翌朝。
目を覚ました出久は、布団の中で小さく丸くなる。
昨日まで楽しみだった幼稚園。
今日は、どうしても行く気持ちになれなかった。
「……お母さん。」
「今日は、お休みしたい。」
その日。
出久は、初めて幼稚園を休んだ。
――――――
数日が過ぎた。
出久は、あの日から幼稚園を休み続けていた。
朝になっても、幼稚園の制服へ着替えようとはしない。
お気に入りだったヒーローの絵本も。
毎週楽しみにしていたヒーローのテレビも。
以前のように笑って見ることはなくなっていた。
引子はそんな娘の姿を見つめながら、何もしてあげられない自分を責めていた。
その日の昼過ぎ。
静かな家へ、チャイムの音が響く。
ピンポーン。
「はい。」
引子が玄関を開ける。
そこには、小さな男の子が立っていた。
「勝己くん。」
勝己は少し照れくさそうに頭をかいた。
「……いずく。」
「ずっと幼稚園、来ねぇから。」
その一言だけだった。
引子は思わず目を細める。
「来てくれてありがとう。」
「出久、お部屋にいるよ。」
「上がっていって。」
「……おう。」
勝己は少し緊張した様子で靴を脱ぎ、出久の部屋へ向かった。
---
部屋の中では、小さくテレビが流れていた。
画面には、街の人を助けるヒーローの姿が映っている。
けれど。
出久は楽しそうには見ていなかった。
ぼんやりと画面を見つめているだけだった。
「いずく。」
その声に、出久がゆっくり振り向く。
「……かっちゃん。」
少し驚いたように目を丸くする。
勝己は部屋へ入り、何も言わずに隣へ座った。
しばらく、二人はテレビを見つめる。
ヒーローが笑顔で人を助けている。
画面の中では、みんなが笑っていた。
「幼稚園。」
勝己がぽつりと口を開く。
「みんな、お前のこと待ってる。」
出久は小さくうつむいた。
「……行けない。」
「なんで。」
「だって。」
出久はテレビを見つめたまま、小さくつぶやく。
「わたし。」
「無個性だから。」
部屋が静かになる。
勝己はその言葉を初めて聞いた。
「先生も。」
「お母さんも。」
「個性が出ないって……。」
「ヒーローになれないって……。」
その瞬間。
ぽろり、と涙がこぼれた。
「かっちゃんと。」
「一緒にヒーローになりたかった……。」
涙は止まらなかった。
勝己は何も言わない。
どう声をかければいいのか分からなかった。
ただ。
泣いている出久を見ているのが、とても苦しかった。
しばらく黙っていた勝己は、ゆっくりと立ち上がる。
そして。
そっと出久の前へ歩いた。
小さな両腕を広げる。
ぎゅっ。
出久を優しく抱きしめた。
「……。」
言葉はない。
幼い勝己には、難しいことは分からない。
どう励ませばいいのかも分からない。
それでも。
泣いている出久には、一人でいてほしくなかった。
出久は少し驚いたあと、勝己の服をぎゅっと握る。
「かっちゃん……。」
また涙があふれる。
でも、その涙は少しだけ温かかった。
勝己は照れくさそうに、小さく言う。
「また。」
「秘密基地、行こうぜ。」
その一言だった。
テントウムシ。
ダンゴムシ。
一緒に見つけた大きな木。
楽しかった毎日が、少しだけ心に浮かぶ。
出久は涙をぬぐいながら、小さく笑った。
「……うん。」
「行きたい。」
その笑顔は、まだ少し寂しかった。
でも。
昨日までより、ほんの少しだけ前を向いていた。
---
部屋の外。
少しだけ開いた扉の向こうで、引子は二人の様子を見守っていた。
勝己の小さな背中。
泣きながら笑う出久。
その姿を見た瞬間。
引子の目からも、一筋の涙がこぼれる。
「ありがとう……。」
誰に聞こえるでもなく、小さくつぶやいた。
春風が窓から優しく吹き込む。
夢はまだ遠い。
現実は、まだ変わらない。
それでも。
大切な友達が隣にいてくれる。
その温もりだけで、人は少しだけ前を向けることがある。
翌朝。
出久は制服を胸へ抱きしめながら、小さくつぶやいた。
「お母さん。」
「今日……幼稚園、行ってみる。」
引子は何も言わず、優しくうなずいた。
その笑顔は、数日ぶりに見た、娘らしい笑顔だった。