【推しの子】―晴れた夜に星を見つけて― 作:horizontal line
完全に蛇足回なので読み飛ばしても一向に問題ございません…が、オリ主くんの学生生活がどんなものかはわかると思います。
陽東高校芸能科一年の教室には、ここ数日、ひとつだけ妙に目につく空席があった。
窓際から二列目、後ろから三番目。机も椅子も毎朝そこにあり、担任が出席を取れば月城晴星の名前も当然のように呼ばれる。ただし返事はなく、出席簿には欠席を示す印がつく。それだけなら、この教室ではさほど珍しいことではなかった。芸能科という場所柄、連続ドラマの撮影で一週間近く姿を見せない者もいれば、地方公演へ出たまま帰ってこない者もいる。午前中だけ授業を受けて現場へ向かう生徒も、昼過ぎになって制服姿のまま駆け込んでくる生徒もいるのだから、全員が朝から放課後まで揃っている日の方がむしろ珍しい。
それでも晴星の席だけは、誰かが仕事で休んでいるときとは少し違って見えた。
理由を、日本中が知っているからだ。
事件が報道されてから数日間、学校にも取材の申し込みが相次いだ。学校側がすべて断り、生徒たちにも個人的な発言を控えるよう念を押したため、少なくとも校内へ記者が入り込んでくることはなかったが、校門を一歩出れば話は別だった。テレビをつければ友人の名前が流れ、スマートフォンを開けば見慣れた顔の写真が出てくる。B小町の絶対的センター・アイを救った天才俳優、命懸けの救出、奇跡の生還――並べられた見出しはどれも大袈裟に見えて、起きたことを考えれば完全な間違いとも言い切れない。
けれど、クラスメートたちが知っている月城晴星は、そんな大層な言葉だけで説明できる奴ではなかった。
昼休みになれば普通に腹を減らすし、購買で狙っていたパンを取られれば露骨に残念そうな顔をする。芝居の話を振れば休み時間が終わっても喋っているくせに、興味のない流行には驚くほど疎い。仕事が遅くまで続いた翌日は机へ突っ伏して眠っていることもあるし、誰かが台本を持ってくれば嫌な顔ひとつせず付き合うくせに、宿題を見せてくれと言われれば「それは自分でやりなよ」と笑って断る。教室にいる晴星は、そういう十六歳だった。
だからテレビの中で語られている「英雄」と、自分たちの隣にいた晴星が、どうにも上手く重ならない。手術は成功したらしい。一般病棟へ移り、少しずつ歩けるようにもなっている。学校へ伝えられている範囲では経過も順調で、少なくとも命の危険を心配し続ける段階はもう過ぎた。それでも、誰もが胸のどこかに残しているものまでは消えなかった。画面越しに「順調」と聞くのと、本人の顔を見て確かめるのは違う。
そんな空気がクラスに残っていたからこそ、その日のホームルームで担任が何気なく口にした連絡事項は、彼が想像していた以上の騒ぎを引き起こすことになった。
「月城の見舞いなんだが、学校と病院で話して、一度に五人までなら行っていいことになった。体調もあるから長居はするなよ。それと――」
「先生」
担任が次の連絡事項へ移ろうとしたところで、後ろの席から手が挙がった。
「ん?」
「五人って、どうやって決めるんですか?」
質問した男子の顔を見て、担任は一瞬だけ考えたものの、特に難しい問題だとは思わなかったらしい。このクラスには三十人近い生徒がいるが、希望者同士で日程を調整すれば済む話だと考えたのだろう。
「お前らで相談すればいいだろ」
後になって振り返れば、担任にとって最大の失敗はこの一言だった。
「じゃあ俺行く」
真っ先に名乗りを上げたのは、質問した本人だった。俳優としてすでに何本ものドラマや映画へ出演し、この春にも大きな作品への出演が決まっている。普段から何事にも真っ直ぐで、芝居となればその真っ直ぐさがさらに加速する男だが、今回は芝居ですらない。それでも本人の中では、どうやら迷う余地のない話だったらしい。
「なんで?」
別の席からすぐに声が飛ぶと、男子は当然のように胸を張った。
「俺、晴星と同じ中学だから」
「それ関係ある!?」
「あるだろ!」
「何の優先権なのよ、それ!」
「お前らより付き合い長い!」
「だったら小学校一緒だった人がいたら負けるじゃん」
「いねえだろ!」
「そういう問題じゃないでしょ!」
担任が口を挟む暇もなく、わずか十秒ほどで相談は口論へ変わった。しかも騒いでいるのは一部だけではない。最初は成り行きを眺めていた生徒たちまで、自分も行くつもりだった、五人しか駄目なのか、別の日ならいいのではないかと口々に話し始め、クラス全体がじわじわと一つの議題へ飲み込まれていく。
その騒ぎの中で、中央の席に座っていた女子が静かに手を挙げた。
「私、晴星くんとの共演三回」
一瞬、周囲の声が弱くなった。
若手女優として何本もの作品へ出演している彼女は、普段から大声で自分を押し通すタイプではない。むしろ誰かが騒いでいるときほど一歩引いて見ていることが多い。その彼女が、極めて冷静な顔で自分と晴星との共演回数を持ち出したものだから、余計に反応が遅れた。
「……それ、今出す?」
「関係性の深さで決めるなら、客観的な指標が必要かなって」
「静かに図々しいな、お前!?」
怒鳴られても女優は気にした様子もなく、むしろ少し楽しそうに笑った。
「じゃあ、何で決めるの?」
「演技」
俳優の男子が即答した。
「は?」
「オーディションすりゃいいだろ。五人なんだから、上位五人」
その提案に、教室の空気が一瞬だけ妙な方向へ傾いた。
俳優の男子のように幼い頃から芸能界にいる者ばかりではない。自分から望んで事務所の門を叩き、何度も審査を受けて所属を勝ち取った者もいる。中学時代に街でスカウトされ、それをきっかけにこの世界へ入った者だって、所属しただけで仕事が降ってくるわけではなく、役や出演枠を得るために何度もオーディションへ足を運んできた。歌、芝居、モデル、声の仕事――進んだ道は違っても、限られた枠を欲しがる人間が複数いるなら、審査をして勝ち取るという仕組みそのものは、この教室の誰にとっても嫌というほど馴染みがある。
だからこそ、「オーディション」という言葉だけを聞けば、何人かが反射的に納得しかけてしまった。
ただし、今回は役でも仕事でもない。
友人の見舞いである。
「不公平でしょ!」
真っ先に異議を唱えたのは、現役のアイドルだった。
椅子から勢いよく立ち上がった彼女は、普段から自分の実力にも人気にも強い自信を持っている。実際、すでに大きなステージへ立ち、自分の名前で客を呼べるだけの結果も出しているのだから、その自信を単なる強がりだと思っている者はクラスにもほとんどいない。
「なんで晴星のお見舞いに行くために演技審査受けなきゃいけないの!? 私、女優じゃなくてアイドルなんだけど!」
「じゃあ歌も入れるか?」
「それなら私が有利になるだけでしょ! そういう話じゃないの!」
珍しく正論である。
「じゃあ、どうすんだよ」
「どうせ審査にするなら演技審査じゃなくて水着審査にしてよ!」
今度は別の女子が堂々と言い放った。
雑誌の表紙を何度も飾っているグラビアモデルである。普段ならこういう騒ぎを収める側に回ることが多いのだが、自分だけ明らかに不利な土俵へ上げられそうになったことで、どうやら公平性の意味を一時的に見失ったらしい。
「お前はここでミスコンでも始めるつもりか!?」
「演技で決めるより私には公平でしょ!」
「男子どうすんだよ!」
「知らないわよ!」
「公平どこ行った!?」
「ふっ……」
近くから小さな音が漏れた。
見ると、一人の女子が口元を押さえている。声優としてすでにいくつもの作品で主要な役を演じている彼女は、柔らかな雰囲気とは裏腹に笑いの沸点が低い。最初は真面目に議論を聞いていたはずなのに、水着審査という言葉が出た辺りからどうにも駄目だったらしい。
「私、別にみんなの水着姿なんて見たくない」
「審査員目線で断るのやめてくれる!?」
「だって……男子もやるんでしょ?」
「やらねえよ!」
俳優の男子が即座に否定したせいで、声優はとうとう机へ顔を伏せた。肩が震え、笑い声を押し殺そうとするほど余計に止まらなくなっている。
「だから水着審査はなし!」
「最初から候補に入ってねえ!」
「じゃあ私が決める!」
先ほど演技審査へ異議を唱えたアイドルが、再び胸を張った。
「こういうのは華がある人が行くべきなのよ。つまり私」
「何で?」
「私がナンバーワンアイドルなんだから!」
「B小町のアイ」
誰が言ったのか分からなかった。
けれど、その名前が教室のどこかから飛んできた瞬間、それまで堂々と胸を張っていたアイドルの姿勢が目に見えて固まった。
「…………」
周囲も事情を知っているからこそ、誰もすぐには追撃しなかった。彼女が普段どれほど自信満々に自分が一番だと言っていても、B小町のライブ映像だけは真剣な顔で見ていることも、特にセンターであるアイのパフォーマンスを何度も研究していることも、クラスメートなら知っている。
「ナンバーワンは?」
それでも誰かが聞いた。
「……アイさんは、今はちょっとだけ別」
「声ちっさ!?」
「だってアイさんよ!? B小町のセンターよ!? 私だってライブ見て勉強してるもん!」
「ナンバーワンは?」
「……今日は休み」
先ほどようやく顔を上げかけていた声優が、再び机へ沈んだ。
もう声を出す余裕もないらしく、肩を震わせながら机を叩く手だけが動いている。それを見た周囲からも笑いが広がり、さっきまで一応は「どうやって五人を決めるか」という話だったはずの教室は、完全に収拾のつかない状態へ向かい始めた。
「ちょっと! 笑いすぎ!」
「ご、ごめ……今日、休み……っ」
「繰り返さないで!」
「はい、そこまで!」
ようやく担任が割って入ったが、すでに遅かった。
教室のあちこちから、自分も行きたいという声が上がっている。晴星と同じ委員会だった、昼飯を何度も一緒に食べた、以前ノートを貸した、仕事で助けてもらった、席が近い、誕生日を知っている――最初のうちはまだ友人関係の深さを主張していたはずが、最後の方になると何が見舞いへ行く資格になるのか誰にも分からなくなっていた。
俳優の男子はいつの間にか黒板の前へ立ち、希望者を書き出そうとしている。女優はその横で、どうせ決めるなら審査員を誰にするべきかと真面目な顔で考え始めた。グラビアモデルは水着審査を完全に却下されたあとも「じゃあ写真審査」と食い下がり、アイドルは演技だけは絶対に認めないと主張している。声優に至っては、ようやく笑いが収まったと思ったところでアイドルと目が合い、また「今日は休み」を思い出して俯いた。
担任は教卓の前で、しばらくその光景を眺めていた。
芸能科の担任をしていれば、普通科ではまず経験しない問題に遭遇することがある。撮影のための欠席届、オーディションと試験の日程調整、生徒が突然全国的に有名になったときの対応。学校の廊下で人気俳優同士が鉢合わせた結果、外にいたファンが騒ぎ始めたことだってある。それでも、同級生の見舞いへ行く五人を決めるために、本気でオーディションを開催しようとする生徒たちを止めた経験はなかった。
担任は深く息を吸った。
「もういい! 俺が決める! 五人選ぶから全員座れ!」
当然のように不満の声が上がった。
「先生、それ公平!?」
「俺の独断だ! お前らに任せてたらホームルームが終わらないだろうが!」
反論の余地があるようで、少なくとも後半については誰も否定できなかった。
その日、陽東高校芸能科一年のホームルームは、月城晴星の見舞いへ行くというただそれだけのために、予定より十五分延びた。
◇
そして数日後。
東都大学病院の廊下を歩いているのは、あの騒動の末に担任の独断で選ばれた、選ばれし存在――少なくとも本人たちはそう呼んでいる――である五人だった。
先頭は、晴星と同じ中学だったことを最後まで優先権として主張し続けた俳優の男子。その後ろを、共演回数三回という妙に具体的な実績を持ち出した女優が歩き、さらにナンバーワンアイドルを自称しながらB小町のアイの名前ひとつで敗北したアイドル、水着審査という新競技を生み出しかけたグラビアモデル、そしてその一連の騒動のかなりの時間を笑って過ごした声優が続いている。
学校を出るまでは、五人ともいつも通りだった。誰が晴星のベッドに一番近い場所へ座るのか、見舞いの品は重複していないか、そもそも病院へ五人で押しかける時点で十分うるさいのだから絶対に騒ぐな――そんな話をしながら来たはずだった。
けれど病棟へ入り、行き交う看護師や患者の姿を見て、廊下に並ぶ病室の番号を一つずつ通り過ぎていくうちに、自然と会話は少なくなった。
晴星が元気になっていることは聞いている。明るい声で話せることも、リハビリで歩いていることも、退院が近いらしいことも学校には伝わっていた。それでも、扉一枚向こうにいるのは、刃物で腹を刺されて緊急手術を受けた友人だった。
事件直後、テレビでは「重傷」という言葉が繰り返された。一時は予断を許さない状態だったとも報じられた。芸能界で仕事をしていれば、報道された情報がその人間のすべてではないことくらい全員知っている。だからこそ、「順調に回復している」という言葉だけを聞いて、もう何も心配する必要はないと簡単に切り替えることもできなかった。
病室の前まで来たところで、先頭を歩いていた俳優の男子の足が止まった。
ここまで来る間、彼が一番うるさかった。見舞いに選ばれたことを誰より喜び、晴星の顔を見たら最初に何を言ってやるかまで考えていた。心配させやがってと怒鳴って、それから入院中に自分が見た晴星の出演作について、また芝居の話をするつもりだった。けれど、いざ扉の前へ立つと手がすぐには動かなかった。
この向こうに晴星がいる。
そう考えた途端、ニュースで聞いた「重傷」という言葉が急に現実味を持った。もし想像していたよりずっと弱っていたら。もし自分たちが知っている晴星とはまるで違う顔をしていたら。元気だと聞かされているのに、扉を開けるまではどうしても消えてくれない考えがある。怖いのだ、と認めるには、少しだけ時間が要った。
後ろの四人も急かさなかった。女優は黙って扉を見つめ、アイドルは見舞いの袋を持つ手に少し力を入れている。グラビアモデルもいつものように「早くして」とは言わず、声優の顔からもさっきまでの笑みが消えていた。程度も形も違うだけで、四人ともたぶん似たようなことを考えている。
だから、誰も「どうした」とは言わなかった。
俳優の男子は一度だけ息を吐き、それから扉を叩いた。
「どうぞ」
中から返ってきたのは、五人が毎日のように聞いていた声だった。少し小さいようにも感じたが、少なくとも苦しそうではない。そのたった二文字だけで、それまで誰も口にしなかった不安が、ほんの少し軽くなった。
扉を開けると、午後の光が差し込む病室で晴星はベッドの上にいた。
制服でもなければ撮影用の衣装でもない。病院着を着て、いつもより少し痩せたように見える。顔色も完全に元通りとは言えず、ベッド脇には病院で使うものがいくつも置かれていた。
事件が本当にあったのだと、五人はそこで初めて実感した。テレビで見たマンションの映像でも、ネットの記事でもなく、いつも同じ教室にいた人間の姿として。
けれど晴星は、扉の前に固まっている五人を見ると、いつも学校でそうするように少し眉を上げた。
「あ、来た。……どうしたの?」
五人は誰もすぐには答えなかった。晴星の方が不思議そうな顔をしている。その表情まで普段と変わらないことが、逆におかしかった。
「お前」
俳優の男子が最初に口を開いた。普段なら教室の端から端まで届く声が、今日は少しだけ低い。
「本当に、大丈夫なんだな?」
晴星は、五人が自分の顔を確かめるように見ていることに気づいた。
「うん。まだちょっと疲れやすいけど、だいぶ元気になったよ」
「……そっか」
男子がそれ以上言わなかったのは、言うことがなかったからではない。むしろ逆だったのだろう。普段なら思ったことをそのまま口にする男が、今だけは短い返事で済ませ、その代わりに肩から目に見えて力を抜いた。
女優も黙って晴星を見ていた。人の表情や声の温度を拾うことに長けている彼女は、顔色だけでなく、話すときの呼吸や身体の置き方まで確かめている。アイドルも持ってきた袋を胸の前で抱えたまま、いつものように自分から話題の中心へ出ようとはしなかった。グラビアモデルは五人で押しかけて本当に大丈夫だったのかと病室を見回し、晴星が疲れたらすぐ帰れるよう、人数分の椅子を勝手にベッドへ近づけすぎない位置へ動かしている。
そんな中で、声優だけが少し違うところを見ていた。
「まだ声、ちょっと弱いね」
「分かる?」
「分かるよ。いつもより息が浅い感じする」
晴星が感心したように「へえ」と返す。声優はそこでようやくいつもの柔らかな笑顔を見せた。
「でも、思ってたより元気。……よかった」
「ありがとう」
晴星も笑った。その一言で、五人の間に残っていた最後の緊張がほどけた。
そして緊張というものは、なくなってしまえば、普段そこを占領しているものへ席を返す。この五人の場合、それは遠慮でも静けさでもなかった。
「晴星!」
俳優の男子が突然いつもの声量へ戻った。
「うわ、びっくりした」
「俺はお前が嫌いだ!」
「見舞いに来て最初に言うこと、それ?」
「クッソ腹立つんだよ! 人がテレビつけたらどこもお前ばっかりで!」
「それ俺に言われても困るんだけど」
「しかもB小町のアイ庇って刺されたって何なんだよ! また訳分かんねえところで目立ちやがって!」
言葉だけを拾えば、入院している友人へ掛けるものとしては相当に酷い。ただ、その男子が晴星の顔を見てから一度も視線を大きく逸らしていないことも、声が元へ戻ったのは晴星が本当に大丈夫だと確かめてからだったことも、同じ時間を過ごしてきた人間には分かる。
「心配してくれた?」
「したに決まってんだろ!」
「じゃあ最初からそう言えばいいのに」
「それと腹立つのは別だ!」
「両立するんだ」
「する!」
晴星が吹き出しかけ、途中で腹へ力が入らないよう妙に小さな笑いへ切り替えた。それを見ていた女優が、少しだけ首を傾げる。
「相変わらず器用なことしてるね」
「入院して身につけた」
「役に立つ?」
「今は凄く」
「じゃあ退院したら忘れていいね」
「たぶんね」
そう言いながら女優は持ってきた鞄を膝へ置き、ファスナーを開けた。
晴星はその動きを見ただけで、何が出てくるのか大体分かった。この女子が学校で自分の席へやって来るときも、よく同じ顔をする。何か聞きたいことがあるとき、役について自分とは違う考え方を知りたいとき、彼女は晴星の机へ台本を置く。晴星も答えを教えるつもりで読むわけではない。自分ならどう考えるかを話し、彼女が違うと思えばそこからまた二人で考える。それを何度も繰り返しているうちに、今では台本を差し出されるだけで用件が分かるようになっていた。案の定、一冊の台本が出てくる。
「晴星くん。暇でしょ?」
「お前は何しに来たんだよ!?」
晴星より先に俳優の男子が反応した。
「お見舞い」
「その台本は!?」
「ついで」
「絶対そっちが本命だろ!」
「失礼だなあ。ちゃんと心配してたよ」
「だったら病人に仕事させんな!」
「読むだけだよ?」
「同じだ!」
二人が言い合っている間にも、晴星は差し出された台本へ普通に手を伸ばした。
「いいよ」
「晴星も受け取るな!」
俳優の男子が突っ込む。その時だ。控えめなノックとほぼ同時に扉が開き、看護師が顔を覗かせた。怒っているわけではない。ただ、病室の外まで十分聞こえていたのだろう。五人を順番に見たあと、少し困ったように笑った。
「すみません。もう少し静かにお願いします。他の患者さんもいらっしゃるので……」
「「「「「スイマセン!」」」」」
五人の声が、今までで一番綺麗に揃った。そして一番大きかった。
看護師が一瞬だけ目を丸くしたので、今度は五人とも本当に黙った。
「……はい。お願いしますね」
扉が閉まる。病室に妙な沈黙が落ちた。晴星は口元を押さえる。
「……何で晴星が笑うんだよ」
俳優の男子が今度はかなり小さな声で言う。
「いや、だって五人とも綺麗に揃うから」
「晴星くんも静かにね」
「俺?」
「今笑ったでしょ」
「笑うのもダメなの?」
「お腹痛くなるんでしょう?」
「……それはそう」
さすがに看護師から直接注意された以上、五人も同じ失敗を繰り返すほど子供ではない。それからは声量だけは意識して落とした。もっとも、静かになったのは音量だけだった。
俳優の男子は小声になっても晴星へ噛みつくし、女優はその隙に台本を押しつけようとする。グラビアモデルは二人を止めながら自分も口を挟み、アイドルは話題の中心を取ろうとし、声優は笑い声を漏らさないよう口元を押さえている。騒がしさとは、必ずしも大声のことだけを指すわけではないらしい。
そのうち、晴星が何気なく「明日退院だから、台本は学校で返せると思うよ」と言ったところで、今度は五人が声を出さずに固まった。グラビアモデルが最初に我に返り、声を潜める。
「……明日?」
「うん」
「退院?」
「うん」
五人は顔を見合わせた。晴星は不思議そうにその様子を見る。
「言ってなかったっけ?」
「聞いてねえよ……!」
俳優の男子は叫びそうになったところで、途中から囁き声へ切り替えた。
「じゃあ、次の五人どうするのよ……」
「次の五人?」
「第二陣」
「何それ」
五人はまた顔を見合わせた。晴星本人は、自分の見舞いへ行く人間を決めるためだけにホームルームが十五分延長されたことも、今日ここに来られなかった連中がすでに次の面会枠を狙っていることも知らない。数秒の無言の押し付け合いの末、俳優の男子が小声で口を開いた。
「俺たちは選ばれし存在なんだ」
「何に?」
「お前の見舞いに来る五人に」
「先生が選んだんでしょ?」
「そこは今どうでもいい」
「よくないと思うけど」
「昨日、壮絶な戦いがあったんだよ」
「何の?」
「だから、お前の見舞いに来る権利を巡って」
晴星はしばらく五人を見た。どうやら冗談ではないらしい。
「……普通に交代で来ればよかったんじゃない?」
五人の口が同時に開いた。けれど、さっきの看護師の顔が全員の脳裏をよぎったのだろう。
「「「「「それを言うな(わないで)……!」」」」」
今度は見事な小声で揃った。晴星が笑い、声優もつられて吹き出す。するとその笑い声が可笑しくて晴星がもう一度笑い、腹へ響かせないよう途中で妙な息の抜き方をしたものだから、声優の方が完全に耐えられなくなった。グラビアモデルが「ちょっと、笑わせすぎないで」と小声で止める横で、俳優の男子はなぜか「だから病人に台本読ませるなって言ったんだ」と女優へ話を戻し、女優から「今それ関係なくない?」と冷静に返されている。
病室は先ほどよりずっと静かだ。なのに、雰囲気だけなら学校にいるときとほとんど変わらなかった。
事件以来、晴星の病室にはたくさんの人が来た。家族が来て、仕事仲間が来て、幼い頃から自分を知る人間も来た。誰もがそれぞれのやり方で心配し、それぞれの距離から晴星が生きていることを確かめて帰っていった。この五人も、やっていることは同じだったのだろう。
病室の扉を開けたとき、五人は初めて、報道の中にあった「重傷」という言葉を友人の姿として目の前にした。いつもより痩せ、病院着を着てベッドにいる晴星を見て、本当に大丈夫なのかと怖くなった。それでも声を聞き、顔を見て、話してみれば、そこにいたのは自分たちの知っている晴星だった。
ならば、いつまでも「刺された月城晴星」として遠巻きに扱う必要はない。心配していたことまでなかったことにするのではなく、心配したからこそ無事を確かめ、そのうえで普段と同じ距離へ戻る。晴星にとっても、その方がありがたかった。
それからしばらくは、何をしに病院へ来たのか分からないほど普通の話をした。晴星が休んでいる間にあった授業のこと、教師が出した課題のこと、仕事先から妙な土産を持ってきた生徒が翌日の昼休みにクラス中へ配ったこと。俳優の男子は先日の撮影で自分が納得できなかった芝居について話し始め、女優はそれを聞きながら、ちゃっかり自分の台本を晴星の手元へ寄せた。アイドルは次の歌番組のリハーサルで絶対に一番目立ってみせると宣言し、グラビアモデルは先日撮った雑誌の写真について、光の当たり方が想像していたものと違ったと話した。声優は収録現場でディレクターから求められた声の出し方を真似してみせ、晴星が「それ、どうやってるの?」と食いついた途端、二人だけで呼吸と声の置き方について話し始めた。
誰かが仕事の話をすれば、別の誰かが口を挟む。失敗した話なら笑われ、上手くいった話なら悔しがられ、それでも最後にはどこが良かったのかを本気で聞かれる。
陽東高校芸能科では、それが特別なことではなかった。昨日テレビに出ていた人間が、翌朝には眠そうな顔で隣の席に座っている。雑誌の表紙を飾った人間が昼休みに購買のパンを取り合い、映画で大きな役を演じた人間が小テストの点数に頭を抱える。仕事ではそれぞれが自分の名前を背負い、現場へ行けばプロとして扱われる。それでも制服を着て同じ場所へ戻れば、互いの仕事を羨み、悔しがり、面白がり、ときには教えてもらう。
晴星もその中にいた。世間から天才俳優と呼ばれ、同年代の役者からすれば一つの基準にされることも多い。それでも学校では、誰も晴星を遠くから眺めるだけでは終わらない。俳優の男子は本気で追い抜こうとし、女優は分からないことがあれば当然のように台本を持ってくる。声優は晴星にない技術を持っていて、晴星もそれを面白がって聞く。畑の違う二人だって、自分の仕事に関しては晴星より知っていることがいくらでもある。
「そういえば」
アイドルが、話の切れ目で顔を上げた。
「さっき廊下の向こうでB小町の曲流れてなかった?」
「売店の方かな」
晴星が答えると、アイドルは少しだけ表情を和らげた。
「アイさん、元気かな……」
「元気だよ」
「そっかぁ……よかった」
「この前も来てくれたし」
アイドルの表情が固まる。
「…………誰が?」
「ん?」
「今、誰が来たって言った?」
「アイちゃん」
今度は病室そのものが静かになった。アイドルがゆっくりと晴星へ顔を向ける。学校でB小町のアイの名前を出されただけでナンバーワンを一時休業した人間と同一人物とは思えないほど、目が据わっていた。
「今、なんて呼んだ?」
「アイちゃん」
「……腹立つ」
叫ばなかった。成長したが逆に声のトーンが落ちていて怖い。
「なんで?」
「私だってアイさんとお話ししたことほとんどないのに!」
「そこ?」
「そこよ!」
「晴星くん、昔から知ってるんだっけ?」
女優が面白そうに聞く。
「うん。ララライでちょっとね」
「ララライ!?」
アイドルは反射的に声を上げ、直後に自分で口を押さえた。
全員が扉を見る。看護師は来ない――五人は揃って安堵した。
「……何それ、聞いてない」
今度はちゃんと小声だった。
「言ってないからね」
「なんで言わないのよ」
「聞かれてないし」
「腹立つ……」
「今日それ何回目?」
声優がまた肩を震わせ始めた。グラビアモデルは笑いながらもアイドルの肩を掴み、「ほら、声」と念を押す。その隙に女優は一度取り上げられていた台本を晴星の荷物へ紛れ込ませようとし、目ざとく気づいた俳優の男子と無言の取り合いになっていた。晴星はその全部を眺めながら、結局また笑った。
こうしていると、本当に学校にいるようだった。病院着を着ていることも、ベッドの上にいることも、腹にまだ治りきっていない傷があることも変わらない。それでも五人が持ち込んできた話題も、笑い声も、くだらない張り合いも、事件が起きる前から晴星の周囲にあったものだった。面会時間が終わる頃には、五人が病室へ入ってきたときにまとっていた緊張は、もうどこにも残っていなかった。
「じゃあ次、学校でな」
帰り支度をしながら俳優の男子が言った。
「うん」
「無理して来んなよ」
「どっち?」
「早く来てほしいけど、無理はすんなって意味だ」
「最初からそう言えばいいのに」
「……うるせえ」
声を張れないせいで、普段より妙に素直な会話になっている。その横では、女優が例の台本を晴星の荷物へ入れることにとうとう成功していた。俳優の男子が気づいて取り出そうとすると、彼女は鞄を肩へ掛けながら「もう入れたから私の勝ち」と平然と言い、今度は小声で「何の勝負だよ」と返されている。
「晴星くん」
アイドルが呼んだ。
「学校戻ってきたら、アイさんの話聞かせて」
「いいけど」
「絶対ね」
「うん」
「あとアイちゃんって呼ぶのやめて」
「なんでそこまで?」
「腹立つから」
声量が落ちても、そこだけは譲らないらしい。グラビアモデルはそんな三人を病室の外へ追い出しながら、最後に晴星へ振り返った。
「本当に無理しないでね。学校は逃げないから」
「ありがとう」
「こいつらは逃げるどころか迎えに来そうだけど」
廊下から俳優の男子が何か言い返そうとしたらしい。けれど途中で看護師の姿でも見えたのか、何も聞こえてこなかった。
「学習したね」
晴星が感心すると、グラビアモデルは「遅いけどね」と笑って病室を出た。残った声優も扉へ向かったが、そのまま出ていくと思ったところで一度だけ足を止めた。
「晴星くん」
「ん?」
彼女はいつものように笑っていなかった。
「また教室でね」
ほんの少し前まで笑いすぎて涙まで浮かべていた人間が、最後だけ真っ直ぐ晴星を見ている。晴星も、その言葉を冗談にはしなかった。
「うん。また教室で」
声優はそれを聞いて、今度こそ柔らかく笑って病室を出た。
扉が閉まる。廊下から聞こえる声は、来たときよりずっと小さかった。どうやら看護師の注意は、少なくとも病院を出るまでは有効らしい。
晴星はベッドの上で小さく笑った。明日には退院する。その先には自宅があり、ララライがあり、仕事場があり、そして学校がある。教室へ戻れば、今日の続きが始まるのだろう。俳優とはまた芝居のことで張り合い、女優からは何事もなかったように次の台本を渡される。アイドルは自分が一番だと言い張り、グラビアモデルは呆れながら面倒を見て、声優はその横で笑っている。晴星だって彼らの仕事を見て、知らないことがあれば聞き、面白いと思えば真似してみる。
誰か一人だけが特別なのではなく、それぞれが自分の場所で仕事をして、同じ学校へ帰ってくる。それが晴星の日常だった。事件が起きる前からそこにあって、病院を出れば、少しずつまた戻っていける日常の一つだった。
◇
少しだけ時間を遡る。
五人が東都大学病院へ向けて学校を出たあとの放課後、陽東高校芸能科一年の教室には、まだ多くの生徒が残っていた。
昨日と違って、ホームルームはとっくに終わっている。担任もすでに教室を出ており、今度は誰にも迷惑をかけない時間を使っているあたり、彼らなりに昨日の騒動から学んではいるらしい。
「で、次の五人どうする?」
議題はもちろん、第二陣だった。第一陣を担任の独断で決められた以上、今度こそ自分たちで公平に選びたい。そこまでは全員の意見が一致しているのだが、肝心の「公平とは何か」で早くも躓いていた。
「普通にくじでよくない?」
「でもそれだと月城とほとんど話したことない奴が当たるかもしれないだろ」
「それの何が悪いんだよ。同じクラスだぞ」
「だったら仲いい順?」
「誰が決めんの?」
「自己申告?」
「それ昨日やっただろ」
黒板にはいつの間にか「第二陣候補」と書かれ、その下に名前が増え始めていた。さすがにオーディション案は早々に却下され、水着審査を提案した本人も現在は病院にいるため、少なくとも昨日とまったく同じ騒ぎにはなっていない。
ただし、彼らは一つだけ知らなかった。今まさに第一陣の五人が、病室で本人から聞かされていることを。
月城晴星は、明日退院する。
昨日はホームルームを十五分使い、今日はわざわざ放課後に残って、誰にも迷惑をかけず真面目に第二陣を決めようとしている。その努力がすべて無駄になることを除けば、実に立派な話し合いだった。
翌日、その事実を知らされたクラスメートたちが何を言うのか。そして登校を再開した晴星が、見舞いへ行けなかった彼らから何を言われることになるのか。それは、もう少し先の話である。